囲炉裏夜話過去ログ (602〜812)


荒川不動ノ滝(滝神:瀬織津姫)

602 瀬織津姫の墓? 風琳堂主人 2002/10/05 15:21

 古墳誰時さん、「瀬織津姫は、西暦紀元前70年(生)−紀元前後(没)くらいの実在者として、具足塚の考古学的な正しい実年が符合すれば瀬織津姫の墓の可能性が大きい」との見解、および、セオリツ→グソクという音韻変化説について──。
 まず、とても基本的な認識の問題として、「具足塚」は正式には「具足塚古墳」といわれる「古墳」です。この古墳の年代を正確に確定することはできていないようですけど、具足塚古墳における、その副葬出土品のなかには「須恵器」が大量に含まれていることが公表されていて、ここは、須恵器がつくられる時代以降の古墳であるといえます。
 須恵器の年代、その始まりは、まさに「古墳」時代に該当し、しかも古墳時代後期の5世紀以降のものです。これは、考古学的な「常識」かとおもいます。
 瀬織津姫実在説はホツマ研究の総体見解として受け止めた上で書きますけど、瀬織津姫の「西暦紀元前70年(生)−紀元前後(没)」に、この具足塚古墳が該当するというのは、上記、須恵器の出土事実からも成立しません。
 瀬織津姫が、廣田神社のあたりに葬られたというのは、ホツマのどこの部分に記載されているのかということもありますが、少なくとも、5世紀以降の具足塚古墳と紀元前後とされる瀬織津姫実在説→塚説は、年代的に大きく異なります。また、具足=「グソク」へと「セオリツ」から音韻変化をたどるのは、あまりに恣意的なもので、これは具足塚=瀬織津姫塚という先験的な思い込みがなしたものでしょうが、これも説得的ではありません。
 ほかの掲示板は知りませんけど、囲炉裏夜話はあくまで「公開の場」と認識して運営していますから、こういった恣意的な、あるいは我田引水的な見解・問答はこれ限りにしたくおもいます。これ以上のホツマ執着論を展開されるなら、ご自分のところのHPで、しかも「公開」の場を設けてお願いします。必要なら、そこへ、わたしの方から出向きますので。

 と、ここまで書いて、そちらの「公開の場」=「はい討論」の「規約」が眼にとまりました。引用させてもらいます。

■フォーラム『はい討論』の利用規約 2000.10.20改定版
今回改定個所:「ホケノ山古墳210年以降築造説」を【投稿不可の説】に追加。
【投稿不可の説(学術的内容での制限)】
 フォーラム『はい討論』を設置する主旨はいうまでもなく古代史の実像についての有意な討論をすることにあります。主催者の考え(邪馬台国大和説、三角縁神獣鏡魏鏡説、秀真伝重視など)はホームページに示してありますが、なるべくならば同様の考えに沿った討論をしていただきたいものと希望するところです。
 限られた資源・時間の有効活用をと考えました結果、以下に掲げる各説につきましてはこのフォーラムでの討論対象外と決めました。もしこれらの説を主張されますと、利用規約中の「トピックの主旨に沿わない投稿」と同類であると見做して削除対象にします。どうしてもこれらの説を主張されたいのならば他所にてお願いします。
(邪馬台国九州説・東遷説、三角縁神獣鏡国産説・4世紀最盛説、平原遺跡1号墓2世紀以降説、秀真伝偽作説、崇神天皇4世紀説、騎馬民族征服説、王朝交代説、九州王朝説、多元史観、古代天皇1代10年説、反皇国史観、皇国史観、東日流外三郡誌偽作説、天皇制反対説、豊受神紀元後説、物部論議即神道説、個性の強い政治・宗教団体の説、ホケノ山古墳210年以降築造説、等)
〔中略〕
ご質問・お問い合わせは管理人(古墳誰時)まで

 とても専横的な制限規約でびっくりしています。
 囲炉裏夜話は自由な「説」が語られる場ですが、それは恣意的な根拠による自説執着を「自由」に語ってよいことを言っているわけではありません。囲炉裏夜話は、そちらのHPがうたっている「投稿不可の説」を最初から決めるものではありませんし、「学術的内容での制限」もあらかじめ設けていません。囲炉裏夜話への投稿で唯一「条件」があるとすれば、瀬織津姫を明かすための確定的な主情報および副情報と分析、および出版論に関するものです(出版論は、これまであまり直接的に語られることなくきていますけど)。
 ともかく、「学術的内容」が読者にとって貴重ならば、それはそれで「自由」に語られるべきものと考えています。そちらが最初から「削除対象」とする諸説に対して、囲炉裏夜話は門戸を閉ざすことはしていません。この一点を取り上げただけでも、そちらの「はい討論」と「囲炉裏夜話」は、決定的に異なる認識をもっていることがわかります。たとえば、今回の件にしても、わたしがそちらへ書き込もうとしても、この規約を読むかぎりでは、「トピックの主旨に沿わない投稿」→「削除対象」の可能性が大となりましょう。
 フェア=対等に、自由意見・異見、異説が交換できる場を設けていただくならば、少なくとも、瀬織津姫に関する、こちらの全見解を出させていただいてもかまいません。最終判断は、そちらの読者に委ねるということです。ただ、この規約を読みますと、今回の「具足塚古墳5世紀以降築造説」なども「投稿不可の説」→「削除対象」となりそうです。
 どうやら、そちらの制限規約の言葉を、そのままお返しするしかなさそうです。「どうしてもこれらの説(=ホツマ信奉説)を主張されたいのならば他所にてお願いします」──と。以降、わたしのほうも、その見解の恣意性が露骨で、他者への啓蒙臭いもの(投稿)は「削除対象」とさせていただきます。
 古墳誰時さん、誤解のないように再度書いておきますけど、わたしはホツマおよびホツマ研究を全否定しているのではありません。認めるところは認めています。
 また、これまでの諸学説については、不備はあるにしても、だからといって、最初から無視したり、排除してはならないとも考えています。それらは、必要に応じて、新しい仮説へ踏み出すための検証の対象とみなせということです。具体的には、ホツマを含む、いかなる古史古伝も、記紀と同じように、バイブル=聖書=正書とするなということです。わたしは、学説論争を、いつのまにか宗教論争に置き換えることは、言葉の詐偽とみなしています。古代史の真相をほんとうに知りたいとおもっている人間にとっては、宗教論争を学説論争のごとくに装うのは似て非なる「論争」で、不決着の不毛感を呼び込んでくることはまちがいありません。
 今回の投稿ですが、最初から「削除」しようかとおもいもしましたが、「よい機会」ですので、風琳堂の掲示板の基本的な考え方を再度書かせてもらいました。
 以降の問答が必要ならば、わたしの方からそちらへ出向きますので、よろしく制限事項を撤廃しておいてください。

603 赤司八幡宮の豊比 九州の龍 2002/10/05 22:49

福岡県三井郡北野町大字赤司にある、赤司八幡宮に行ってきました。主祭神:豊比刀iとよひめ) 旧豊比盗_社

(境内の案内碑)
赤司八幡宮は、平安時代の延長2年(924年)に御井郡惣廟として創建されたといわれます。神社の『止誉比盗_社本跡縁記』によると、はじめ『筑紫中津宮』とよばれていましたが、その後、延喜式内社の『豊比盗_社』(高良の神と並んで名神大社とされる)になったと伝えています。戦国時代に八幡宮と社号を変え、現在に至っています。(2002年3月 北野町教育委員会)

(境内の赤司の歴史案内板)
赤司の歴史は古く、2500年前にはじまります。良積遺跡や定格遺跡から、その時代の遺物や遺構がみつかりました。2000年前になると、多くの人々が赤司周辺に住みはじめます。良積遺跡がより大きな村となり、まわりに餅田遺跡や赤司一区公民館遺跡など新しい村ができはじめます。9世紀後半、この地で筑後国司御酉が暗殺されるという事件が起こったと伝わっています。その墓として、良積石が残っていますが、詳しいことはわかっていません。この頃、赤司の中心となる赤司八幡宮が創建されます。縁起によれば、最初に出てくる年号は924年ですが、神社のはじまりはもっと古いと考えられます。

(町村誌より)
赤司八幡宮は醍醐天皇延喜二年(902)豊比盗_社に八幡大神を合祀したことが、止誉比悼暑Nに述べられている。豊比盗_社について、延喜式神名帳には高良玉垂命神社と並び立つ名神大社であったことが述べられている。平安時代には、豊比盗_社は官社に列する名神となり、中央からもたびたび勅使の差遣がなされていた。延喜式神名帳の頭註には『豊姫一名淀姫は八幡宗廟(応神天皇)の叔母、神功皇后の妹也』といい、現在の豊比盗_社は村民の手によって再建されたもの。

境内には、恵比須像と猿田彦大神の石碑が並んでいました。境内の右手から社殿の後方に境内社がいくつかあります。天満神社、大三輪神社、『水神社』、少彦名神社、祇園社。

『筑紫中津宮』→『豊比盗_社』→『赤司八幡宮』と社号が変わっており、初めの社号から『宗像神』との関係を感じます。筑後地方には、豊比盗_社がたくさんあり、他の神社にも足を運んでみようと思います。

604 瀬織津姫の墓? 古墳誰時 2002/10/06 03:32

風琳堂主人さん
要点のみ申し上げます。

1.具足塚古墳が該当しないことは分かりました。弥生墳墓が近くにでもあればという程度のことですね。

2.規約の引用を許可した覚えはありません。当然ながら無断引用はダメです。

3.規約撤回などとはとんでもないことです。規約フリーの「よろずボード」があります。

4.ここは、もっとマシな場所かと勘違いしていました。お付き合いが煩わしいので、自分の投稿は全削除です。

605 具足塚 さかな 2002/10/06 09:06

クミコさん、はじめまして。
横レスしてすみません。
たぶん、「具足」の語源ということならば、『おもろさうし』にでている「ぐすく」が近いのではないかと思います。

【ぐすく】
「城」の漢字を当てて使われるが、語源は未詳。聖所、拝所の意もあると考えられる。

城になにか関係があるのでしょうか?

風琳堂主人さん
こんにちは。
ちょっと、質問をしてもいいでしょうか?

『八幡愚童訓 乙』
○御躰事
 ―― 略 ――豊城(ホウセイ)の剣は光をさす。

この「豊城」は、「ホウキ」と読めると思うのですが、豊城といいますと、豊城入彦がいますよね。
御諸山に登って槍と刀を八回つく夢を見たので、東国を治めよ、と崇神に言われるのですが(弟が垂仁)、その、御諸山の神の御霊を鎮める役割を担わされたのが、妹の豊鋤入姫です。
これと同じことが、景行のときにもありますよね。
五十瓊敷入彦は「弓矢が欲しい」と言ったので、弟の景行が天皇になり、妹の倭姫が豊鋤入姫の後を受け継ぐ、となります。
ここででてくる五十瓊敷入彦は、石上に刀などを納めた功により、神宝を掌らされた、とありますが、石上を管轄していたと見ていいのでしょうか。
この五十瓊敷入彦と豊城入彦の話の内容がほぼ一緒なので、重ねて同じ解釈をしてもいい、ととりますと、豊城入彦も石上を管轄していた、となると思います。
そうしますと、豊城入彦の「豊城」が「剣」と記載されているのが納得できると思うのですが、どうでしょうか?

「ハハカ」とは、どうも「木」だけの意味というのではなく、言葉に良くありがちな「同音異語」も考えられる、と思うのですが、同じところで使うものなら(鉄を鋳る)、それもありえるのではないか、と感じました。

あ、それとご報告が遅れましたが、掲示板を作りました。
ここでいろいろと考えを練ってから、こちらにUPさせていただけるといいな、と思っています。
HPは今年中にできたらいいです。その時は、リンクをさせてください。m(__)m

606 筑紫中津宮と宗像神 風琳堂主人 2002/10/07 00:32

 九州の龍さん、こんばんは。
 現在の「赤司八幡宮」の前は「豊比盗_社」で、その前は「筑紫中津宮」とのこと、この社名変遷の元が「筑紫中津宮」からはじまることで、たしかに宗像の匂いがしますね。
 筑前+筑後=筑紫において、三社構成をもっているのは、やはり、沖津宮・中津宮・辺津宮とされる宗像神社が浮かびます。また、男系の海神をまつる、志賀海神社も同様に三社構成をもっています。「中津宮」で祭神を女神とするという条件で絞っていけば、どうしても宗像の可能性が高くなるとみるしかありません。ちなみに、現在の宗像中津宮の主祭神は湍津姫神。
 ところで、天山神社から弁天の分霊を分けた先に、厳島、竹生島、江ノ島のほかに「志賀島」がありました。この志賀島の弁天は、いったいどこにまつられているのかがいまひとつはっきりしません。志賀海神社の三神構成には、それぞれの神に「配祀」された神がいますので、それをみておきます。

■志賀海神社の祭神構成
@中殿……底津綿津見神、【配祀】玉依姫命
A右殿……中津綿津見神、【配祀】神功皇后
B左殿……表津綿津見神、【配祀】応神天皇

 志賀海神社の配祀神は、八幡神の三神とみられます。
 社殿構成において、真ん中の社殿にくる神が中心の神というふうにみられるとしますと、そこに八幡比売神ともされる玉依姫が配されていることがわかります。八幡比売神は宗像神でもあり、この玉依姫は宗像神の異称とみてよいでしょうから、天山神社から分祭された弁財天は、この玉依姫を意味しているのかもしれません。神社側の詳しい伝承がわかれば、もう少し確定的なことがいえるとはおもいますが。
 なお、宗像神が三神化されたように、海神(住吉神)も三神化されたというのは、おそらく、記紀編纂者にとっては、この男女神はセット神、対神として考えられていたゆえと想像されます。宗像の消えた男神=海神は、難波では住吉神となりますが(宗像女神は廣田神となる)、筑紫では志賀島海神であることが考えられます。志賀海神社の「中津宮」の神はどんな名になっているのでしょうね。

 さかなさん、こんばんは。
 崇神条に記載される「豊鍬入姫[とよすきいりびめ]命」がまつるのは「御諸山の神」ではなく、「天照大神」と記載されているかとおもいます(結果としては同神ですけど)。豊城[とよき]入彦(崇神の子、垂仁の兄)と五十瓊敷[いにしき]入彦(景行の兄)の皇太子位離脱あるいは譲渡の話はたしかに似てはいます。また、少なくとも、五十瓊敷入彦は刀剣千本を石上神宮に収め管理したとされますが、豊城入彦も石上神宮の管理者だったかどうかはわかりません。「豊城[ほうき]の剣は光をさす」の「豊城」と連想可能なことはわかりますけど。
 石上神宮は武器庫の役割を荷っていますが、元々は布留川の水神(桃尾の滝神・布留御魂)をまつる社であったと考えています。同神は刀剣・神宝の守護神としてみられていたのかもしれませんが、石上神宮の祭神は「布都御魂大神」という刀剣神(元は雷神)にいつのまにか置き換わることになります。これは、物部氏本流の没落、大和における同氏本流の消滅と関わっているだろうとおもわれます(まだよく調べきれていませんが)。
 ところで、物部氏の系は、水沼[みぬま]君=水間君を媒介しますと、筑紫・宗像へとたどることができます(宗像神をまつる水沼君[日本書紀]/物部阿遅古は水間君等の祖[先代旧事本紀])。物部氏による宗像神祭祀の可能性はとても高いようです。これは伊勢の元神にも関わりますし、また、あとで中臣祭祀に取って代わられることになりますけど、東の鹿島神とも深く関わってきます。
 なお、八女津媛という神の存在を景行に奏上するのも「水沼県主猿大海」でしたし(日本書紀)、肥前国へ流浪してきた「荒ぶる神」=宗像女神をなだめまつるのは「筑前国宗像郡の人珂是古」とされていました(肥前国風土記)。この珂是古なる人物は、物部阿遅古と同一人物の可能性があります。さらにいえば、高良玉垂神という水神を大祝[おおほうり]として代々まつってきたのも物部氏とされます(谷川健一『白鳥伝説』)。筑紫から火国にかけて、物部氏族の広範囲な統治分布の様がうかがえます。
 ハハカは多義を含んだ語だというのはわたしもそうおもいます。この「ハハカ」に関する鉄あるいは刀に絡む類音で、金の祖=「鎺」=「はばき」という語もあり、気になるところです。これは刀身を固定する小さな金具のことですが、「金の祖」という字体構成を考えますと、もっと深い、あるいは大きな意味が隠れているのかもしれません。さかなさんの手元の辞書で調べてみてください。
 年内にHPが立ち上がるとのこと──、一冊の本でもそうですが、なにを明かしたいのか、テーマはこれだよといった「柱」が見えるようにつくっていただくと、第三者あるいは読者は入りやすいかなとおもいます。楽しみにしています。

 古墳誰時さん、ホツマは記紀に対する批評文学とみるととても有意義な一書ですし、楽しい書だとおもいます。わたしは、瀬織津姫実在説はとりませんけど、この超一級の水神・滝神を物語化・人格化したものとして、ホツマは愛読したい本の一つです。

607 愚弄されています 古墳誰時 2002/10/07 07:27

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> 古墳誰時さん、ホツマは記紀に対する批評文学とみるととても有意義な一書ですし、楽しい書だとおもいます。わたしは、瀬織津姫実在説はとりませんけど、この超一級の水神・滝神を物語化・人格化したものとして、ホツマは愛読したい本の一つです。
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608 弥都波能売神と桜姫 小島 恭子 2002/10/08 01:41

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> 恋の水神社には「美都波能売神」の神像がまさに天女だなとおもえるように描かれた掛軸が奉納してあって、この水神への思いを強くする人たちがいることがわかります。この掛軸の女神は、同社の伝承に基づくものでしょう、龍を供としていた図像だった記憶があります。
>神はとても小さな姿をとって出現する──その象徴のような神がスクナヒコナ=少彦名ですが、この小さな神の病の体をなぜ、霊水を飲ませて快癒させたのが「美都波能売神」とされます。
> 小さな神=スクナヒコナということで、神が海から小蛇の姿でやってくるという「佐太の龍陀」も、イメージとしては一緒だなとおもわれます。この出雲の小蛇については、伊勢にも同じ伝承があり、また、小蛇は、三輪山の神(=大物主)がモモソヒメのところへ通ったときの「本姿」でもありました。
> オオナムチによる国づくりを手助けするスクナヒコナ神話ですが、スクナヒコナは、海を照らしてやってきた神(=海照神)=大年神出現の前に姿を消すことを考えますと、大年神=アマテル神の幼年の姿を比喩した神だったのかもしれません。
> さて、恋の水神社の「美都波能売神」ですが、この名称は古事記の「弥都波能売神」からきたものであることは明らかです。ただし、「弥」を「美」に置き換えて表示していることから、前述の「天女」観も投影した「置き換え」とみられます(これは、伊雑宮の氏子の人たちが、その奥宮あるいは聖地ともいうべき「天の岩戸」の鍾乳洞の滝神を「美都波の女神」と親称していることと通じるようです)。
> 古事記においては、この水の美神は「弥都波能売神」と表記されていたのですが、日本書紀においては、同じ読みで「罔象女神」と表記されることになります。
> 弥都波=ミツハ(ミヅハ)は、「水走[みづは]」からきたもので、水を湧出し走らせる意味という理解が主流のようです(岩波・古事記注および『島根の神々』)。「水走」の神から伊豆の「走湯」の神を連想することもできますが、書紀は、この「水走」の意を伏せるように、この神の表記を「罔象女神」としたのでした。中国の古文献『淮南子』などは、「罔象」は水に住む怪物だとしていますから、書紀は明らかに古事記の(「水走」→)弥都波を貶める意向で表記変更しています。本居宣長や岩波の注などは、瀬織津姫の「瀬織」を「瀬に降りる」と理解していますが、これはミズハ=水端の神という解釈によるものかとみられます。わたしは、「瀬織」は瀬を織りなす水の流れ、つまり「滝」そのものを表すというように考えますけど、ともかく、書紀は、かなり意図的に貶めの表記をしたことはまちがいありません。
> 恋の水神社は、自社の神を、書紀ではなく古事記に準拠し、さらに「美」神であるという意を付加して祭神表示をしたようです。そこに「桜姫」の伝承があるとのこと──。
> 水神の化身としての桜、あるいは桜神としての瀬織津姫といった話に、また「桜姫」の話題です。
> この桜姫の父とされる桜町中納言=藤原成範ですが、この人物がまた「桜愛」を実践したようです。トカゲさんの「囲炉裏夜話」の話の補足として、小川和佑『桜と日本人』(新潮選書)から関係箇所を引用しておきます。
>
>■『平家物語』の桜
> 文学の中に取り上げられる八重桜は、王朝の女流歌人伊勢大輔が歌に詠んだナラヤエザクラが最も古いが、摂関時代に貴族たちに愛された八重咲きの桜は、『平家物語』の桜町中納言(藤原成範)の桜愛の物語に描かれる。
> 平治の乱の主役で、院の寵愛を集めた信西はあえなく討たれ、その子成範は不遇の身となる。わが身を嘆く中納言成範は、わが屋敷を桜山に変え、ひたすら桜愛に生きるのだが、花のいのちの短いことを惜しみ、中国泰山の神・泰山府君(延慶本『平家物語』)に祈り、神の加護によって花のいのちを三七、二十一日延ばしたと語られる。
> この桜がタイザンフクン(泰山府君)である。
> ヤマザクラと、おそらく奈良時代に遣唐使が持ち帰ったであろうカラミザクラ(唐実桜)の自然交配種である。『平家物語』の「花も心もありければ、二十日の齢を保ちけり」とあるように開花期間は長く二十日を数える。
> 花は親木のようにごく淡い白に近い中輪、花弁は四十枚から百枚。緑の若葉が開いてから花をつける。遅咲きで、四月中旬から五月初旬まで。オオシマザクラ系の大輪の八重桜と違って、その花姿は気品と寂しさを感じさせる。
> 鎌倉時代に成立した平家琵琶の語りによって、この桜は人びとに知られていった。
> 桜町中納言の桜の挿話を劇化したのは、室町初期の能楽者世阿弥であった。
> 足利幕府による武家式楽である能楽によって、タイザンフクンの名は不動のものとなった。世阿弥は南北朝争乱後、覇者となった地方武士層に、このあわれ深い王朝の桜愛をドラマ空間に形象化して見せた。
>
> 尾張知多の「恋の水神社」の「桜姫」の伝承はなにをものがたるのか──。「義朝の鎮魂」がからんでいたとしますと、これは伊豆の頼朝が台頭する前夜の話となります。
>義朝の子である頼朝にとって、伊豆権現は、彼の守護神であり、かつ北条政子との「縁結びの神」でもありました。
>鶴岡八幡宮の創建は、源頼義が、前九年の役(1051〜1062年)に勝利したあと、源氏の氏神として由比ヶ浜にまつったものを、頼朝が鎌倉に遷し、「鎌倉幕府の宗社」「関東総鎮守」とされます。八幡大元神の宇佐八幡の比売神が、伊豆権現=走湯神(=熊野神)と同神であることも考えられ、奇しき綾糸は結ばれているのかもしれません。それと、頼朝に挙兵を勧めた文覚の存在もあります。熊野那智における文覚の壮絶な修行と、那智の滝神によって、彼が死の淵から救われる話なども想い出されます。
> 恋の水神社に桜が植わっていたかどうかは記憶にありませんけど、桜姫の恋人の病を治すために、はるばる京都から知多まで同社の霊水を汲みにやってきて、桜姫はここで亡くなるというのは、尋常の伝承ではありません。その亡くなり方が、ここには「霊水」はなくて、その場所は「今まで来たくらい東の方」にある──、そこまではとても行けないということで、桜姫は落胆のあまり亡くなるわけです。
> この話には、霊水の本源地が「東」へ移動したことが語られているのかもしれません。「今まで来たくらい」の距離を「東」にとりますと、それは駿河の半ばあたりでしょうか。富士山あるいは伊豆は、すぐ先です。
>

609 彗星 さかな 2002/10/08 08:34

風琳堂主人さん
>崇神条に記載される「豊鍬入姫[とよすきいりびめ]命」がまつるのは「御諸山の神」ではなく、「天照大神」と記載されているかとおもいます(結果としては同神ですけど)。

そうでした。間違えてしまいました!
御諸山の神を鎮めるのにつれてこられたのは太田田根子でした。

>豊城[とよき]入彦(崇神の子、垂仁の兄)と五十瓊敷[いにしき]入彦(景行の兄)の皇太子位離脱あるいは譲渡の話はたしかに似てはいます。また、少なくとも、五十瓊敷入彦は刀剣千本を石上神宮に収め管理したとされますが、豊城入彦も石上神宮の管理者だったかどうかはわかりません。「豊城[ほうき]の剣は光をさす」の「豊城」と連想可能なことはわかりますけど。

豊城を石上につなげるには無理があるでしょうか・・・。
豊城の吉弥氏がちょっと気になっています。

>石上神宮は武器庫の役割を荷っていますが、元々は布留川の水神(桃尾の滝神・布留御魂)をまつる社であったと考えています。同神は刀剣・神宝の守護神としてみられていたのかもしれませんが、石上神宮の祭神は「布都御魂大神」という刀剣神(元は雷神)にいつのまにか置き換わることになります。これは、物部氏本流の没落、大和における同氏本流の消滅と関わっているだろうとおもわれます(まだよく調べきれていませんが)。

物部(もののべ)の語源は武(もののふ)に通じるもので、武器に関係があると何方かの本を読んだことがありますし、「もののけ→祭祀」などに通じるという説も本で読んだ記憶があるのですが、私にはよくわからないです・・・。

>さらにいえば、高良玉垂神という水神を大祝[おおほうり]として代々まつってきたのも物部氏とされます(谷川健一『白鳥伝説』)。筑紫から火国にかけて、物部氏族の広範囲な統治分布の様がうかがえます。

この、高良神は『八幡愚童訓 甲』では「月天子」とされ、「藤大臣」と名を改め、安曇磯良から借りうけた干満の宝珠を駆使する存在なのですが、武内宿弥を奉る宇部神社は代々伊福部氏が奉仕していますので、物部と強く関わっている、ということでしょうか?
「藤=月」というのは、漢和辞典の字解から見つけたのですが、『八幡愚童訓 甲』に載っているのは知りませんでした。

>ハハカは多義を含んだ語だというのはわたしもそうおもいます。この「ハハカ」に関する鉄あるいは刀に絡む類音で、金の祖=「鎺」=「はばき」という語もあり、気になるところです。これは刀身を固定する小さな金具のことですが、「金の祖」という字体構成を考えますと、もっと深い、あるいは大きな意味が隠れているのかもしれません。さかなさんの手元の辞書で調べてみてください。

ヒッタイトの話で恐縮ですが、確か昔は鉄を採取するのに隕石からしか取れないと思っていたようなので、非常に貴重なもので、砂鉄などから鉄を採取し鋳る技術を持ったヒッタイトが大帝国に発展した背景は、そこに秘密があるというような文を本で読んだことがありますが、この隕石は流れ星(ホウキ星)と呼ばれるので、「ハハカ」というのは「星」のことでもあるのかな、と鉄の話を思い出し「鎺」という字を考えたりしました。

>年内にHPが立ち上がるとのこと──、一冊の本でもそうですが、なにを明かしたいのか、テーマはこれだよといった「柱」が見えるようにつくっていただくと、第三者あるいは読者は入りやすいかなとおもいます。楽しみにしています。

ありがとうございます。
トカゲさんにもアドバイスをいただいたのですが、歴史の自説の考証のHPではなく、日本を含めた世界の類似神話等(龍宮・浦嶋太郎など)とかを中心にUPしたいと思っています。どちらかというと神話などの興味のあるものをやりたいな、と。
歴史はノート程度の、思いつき発想を書くぐらいで、知識の浅い若輩者ですので論証はできないです。
ゴミな思いつきでもなんかの役に立てたらうれしいなと、性懲りもなく、こうして書き込んでいる次第なのです。すみません・・・。

古墳誰時さん
はじめまして。
文のやりとりは、ときに大きな誤解を呼んでしまいますので・・・。
愚弄というより、フォローされて書かれた文に見えます。(^-^)

610 大麻止乃豆乃天神社 サクラ 2002/10/09 07:01

府中の大國魂神社近くに大麻止乃豆乃天神社が在ります。
ここの祭神の大麻止乃豆乃神がどんな神様なのかがわかりません。
ご主人、なにかご存知でしたらお教えください。

611 宗像神と物部氏 風琳堂主人 2002/10/09 08:53

 さくらさん、おはようございます。「府中の大國魂神社近く」の「大麻止乃豆乃天神社」「祭神の大麻止乃豆乃神」については、わたしも今はまったくわかりません。
 この「大麻止乃豆乃神」もそうですが、やたら長い神名だったりして、一見してもわけのわからない名をもっている神は、そのネーミングには、当時の祭祀権力者の作為が働いている可能性があり、これは、とても重要な神だということが逆にいえることがよくあります。
 たとえば、出雲の「赤衾伊農意保須美比古佐和気能命」や、書紀記載の「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」がよい例でした。神様の名になじみのない人間がはじめてこれらの名を見たら、まちがいなく「なんじゃ?」という神名ですよね。しかし、前者の神は天甕津姫命(=向津媛=日向神=瀬織津姫)の夫神でしたし、後者の神は瀬織津姫そのものでした。わかってみれば、なるほどという話になります。
 こういった、一見「わけのわからない」名の神については、当地に伝わる祭祀経緯や神の性格・関係伝承を収集し、また、同系の神名にまつわる他地の伝承があればそれを重ねて、総合して、想像してみるしかなさそうです。

 さかなさん、こんばんは。主人の不徳のフォロウをありがとうございました。掲示板新設、メモ帳のようにおもったことを書き残していくうちに、ひょんな展開の基礎ができていることもありますから、HPまでは、自分あての「私書箱」として活用してみるのも一法ですね。
そちらの質問の全部にお答えできませんけど、今回は、産鉄と物部氏に絞って、少しメモさせてもらいます。
 物部[もののべ]の語源は、さかなさん指摘分を含めて、少なくとも次の三説があるようです。

■物部の「モノ」の由来
@ モノノフ……武士の意
A モノノグ……物具、武器の意
B モノノケ……精霊、鬼神の意

 これは、真弓常忠『古代の鉄と神々』に記されているものです。わたしは、「鉄」の話で頭の中が「ぐるぐる巻き」になると、この本に戻って整理する習慣があります。
 宇部神社の祭祀に伊福部氏が関わっていたとのこと(丹波の出石・伊福部神社なども同)、この伊福部氏も物部氏族の系であることはよくいわれることです。

■伊福部氏は物部氏族
伊福部宿禰 尾張連と同祖 火明命の後なり(『新撰姓氏録』)

 人類が鉄の存在を隕石から知ったというのはオリエントなどでよくいわれていることのようです。「隕鉄」ですね。ハハカ=ホウキとしますと、出雲の東隣の伯耆国の「伯耆」も関連がありそうです。スサノヲの大蛇退治で知られる斐伊川ですが、この川の源流山が鳥上山(現在の船通山)は、伯耆国の日野川の源流山でもあり、両川は砂鉄川でもあります。
 真弓さんの『古代の鉄と神々』によりますと、列島の産鉄史の流れとしては、スズ・サナギと呼ばれる、湖沼の葦の根などに褐鉄鉱の塊が生成したものを最古とし(三河の「高師小僧」が有名)、そのあと、磁鉄鉱の砂鉄による鉄づくりへ、そして、鉄鉱石による産鉄へと移行するようです。
「真金吹く吉備の中山」で知られる美作国の中山神社ですが、真弓さんは、物部氏は、ニギハヤヒばかりでなく大己貴=大穴持もまつる氏族であったことを指摘していて、とても大事な疑問点として、次のように書き留めています。

■オオナムチをまつる物部氏
(美作の)中山神が現われる以前、オオナムチの神は物部氏によってまつられていたのであり、物部肩野連はオオナムチの神を奉じて製鉄の部民を支配していたのである。物部氏は祖神をニギハヤヒノミコトとするにもかかわらず、オオナムチの神を奉じていたことになる。この点をどのように考えればよいのか、という問題がある。

 真弓さんは、吉備・美作国において、物部氏が「この地の製鉄の部民を支配」していたのは「6世紀代」とみているようですが、わたしの関心をひいたのは、物部氏がオオナムチを奉祭しているという指摘・疑問点の提示です。また、別の箇所では、三輪山の大物主の祭祀にも物部氏が関わっていたことを、次のように書いてもいました。

■三輪山祭祀に関わる物部氏
 崇神天皇七年の条には大物主神(オオナムチの神)の祭祀は大田田根子をもって行わしめられたが、物部氏の祖である伊香我色雄[いかがしこを]に命じて、物部の八十平瓮をもって、神祭りの物としたことがみえる。つまり大物主神の祭祀に物部氏が関与しているのである。さきに物部氏がオオナムチの神の祭祀に関与していることを述べたが、ここでもそのことがうかがわれる。物部の“モノ”は、大物主神の“モノ”から生じた名であるという説もある。“モノ”とは本来いかなる意であったのであろうか。

 真弓さんは、引用の二箇所において、とても大事な疑問点を提示していることがわかります。後半の引用においては、大物主=オオナムチという、既成の等号式を踏襲していて問題の所在がいささかぼけてしまったキライがありますが、物部氏が、まずオオナムチを祭祀対象の神としていた点は、とても大事な指摘であったとおもいます。
 現行の表示では、那智の滝神は大己貴命とされていることをおもいださないわけにいきませんし、そのことと深く関わるはずですが、筑紫においては、物部氏が奉祭する神は宗像神でもありました。
 那智の滝神、および宗像女神=八幡比売神に隠された神はなにかといえば、これまでにもいくつかの事例検証を試みてきましたが、それは瀬織津姫となります。三輪山の祭神としては、現在、記紀の作為によって男系の日神(大物主神)のみが表に出ていますけど、ここには、かつて「神座日向神社」とよばれた(延喜式神名帳)、現在の高宮神社が厚いヴェールにつつまれてまつられています。この謎の日向神かつ甕神こそ、宗像女神であることが考えられます。
 また、産鉄と水神が深く関わることについては、真弓さんは同書で次のように述べてもいました。

■鉱山跡にまつられた弁財天
蛇の名のあるところは、鉱山に関係の深いところであり、たとえば、奈良時代の文献には、近江国高島・浅井両郡下に鉄穴[かんな]があって、当時の権力者にその鉄穴を与えたとある。これは最近、考古学者によって高島郡牧野町の大谷川にカナクソなどがたくさん出るところがあると報ぜられたが、そこは「蛇ヶ峰」というところで、褐鉄鉱、磁鉄鉱の産地である。こうした一致はここだけのことではなく、古い鉱山のところには蛇の名があり、弁財天がよく祀られている。江の島、厳島、琵琶湖の竹生島の弁財天などもみなこうした蛇を祀ったところは、古い鉱山跡に出来た明神大社なのである。

 琵琶湖の浅井郡は、物部郷(現在の高月町には「物部」の地名が残る)でした。宗像神が弁天化されたことと、鉱山あとに弁財天がまつられたこと──、これらは無縁の事象ではないでしょう。正確にいえば、弁財天が鉱山跡にまつられる前は、そこには宗像女神=水神(と日神…鉱山神化したものが「火明」か)が奉祭されていたことが考えられ、宗像神(=瀬織津姫)祭祀の全国的分布は、おそらく、小野氏など物部系氏族の分布と重なる可能性がとても高いとみられます。その宗像神=瀬織津姫祭祀を、弁天によって隠した者こそ、のちに記紀の編纂者となる中臣=藤原氏、および、その祭祀思想の同調者たちだったことはいうまでもありません。

612 掲示板管理人殿 古墳誰時 2002/10/09 16:16

無断引用を含む記事(602)の削除を要求しているのですがお解りになりませんか。

613 宗像神と大己貴神 九州の龍 2002/10/09 21:02

風淋堂ご主人、こんばんは

宗像大社(辺津宮)に行ってまいりました。
御祭神:市杵島姫神 鎮座地:宗像郡玄海町田島
境内末社が75末社、108神を祀っており、その数に驚かされました。気になったのが、境外末社で、『松尾神社』と『蛭子神社』が並んで建っていました。松尾神社には、庚申と書かれた石碑があり、なにやら猿田彦大神の影を感じます。『蛭子神社』これは前から気になる神社名で、大川市の風浪神社で見かけたことがあり、蛭子の名が、なぜか頭に焼き付いていました。なにか『ぐにゃっ』としたイメージですね。ちなみに、そこにも高良玉垂命が祀られています。

ところで、宗像神は、別名『道主貴(みちぬしのむち)』と言われています。『貴(むち)』は、神に対する最も尊い呼び名。宗像神は、最高の道の神であるといわれています。貴(むち)と聞いて、私はすぐにある神を思い浮かべました。そう、『大己貴神』です。以前、風淋堂ご主人の仮説として、『大己貴神・女神説』を説かれたことを記憶しています。私も今、そのことをいろいろと考えているところであり、近々大己貴神ゆかりの神社に足を運ぶつもりです。

614 著作権の「引用」について 風琳堂主人 2002/10/10 02:24

 九州の龍さん、こんばんは。
 宗像神社(大社)辺津宮には境内社が「75末社、108神」ですか。まつる人がいなくなって預かった社も含まれているでしょうが、それらがあるにしても、すさまじい神社合祀の嵐の痕跡なのかもしれませんね。
「〜貴[むち]」と記紀に名が出てくるのは、オオヒルメ(ノ)ムチとオオナムチ、それと道主貴=(ミ)チヌシムチの三神くらいでしょうか。
 筑紫(筑前)で「大己貴神」をまつる神社としては、その名も「大己貴神社」(朝倉郡三輪町)が真っ先に浮かんできます。ここは大己貴が、目配山の「水の神様」として伝承される珍しい神社ですが、その実態がどうなっているのかという小さな疑問を思い出しました(目配山=水分[みくまり]山かなと想像しています)。
 龍さんのコースにこの神社が重なっているのかどうかわかりませんけど、大己貴が那智の滝神と表示されていることは、出雲大社や三輪山などとも関わりますけど、やはり大きな示唆を与えてくれている気がしています。「大己貴神ゆかりの神社」で、なにかみえてきたらまた教えてください。

 古墳誰時さん、わたしはあなたがおっしゃるような「無断引用」はしておりません。「引用」と「転載」を混乱してお考えのようですが、「引用」は著作権法32条1項で保障し、認めているものです。なにも法解釈をここで繰り返す必要はないかともおもいましたが、「よい機会」ですので、ざっとおさらいしておきます。

■著作権法32条1項
 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。(HP「著作権法」赤松健作品総合研究所)

 法的表現の常で、「公正な慣行に合致」の内容など、いまひとつわかりにくい文面ですが、具体的な法解釈の例として、ある「事件」の判決文を次に「引用」します。

■判決理由の要旨(東京地方裁判所 平成11年8月31日判決例)
 著作権法32条1項は一定の場合に公表された著作物の引用を認めているが、同項にいう引用とは、報道、批評、研究等の目的で他人の著作物の全部又は一部を自己の著作物中に採録するものであって、引用している著作物と引用されている著作物を明瞭に区別して認識することができ、かつ、引用している著作物が「主」、引用されている著作物が「従」の関係にあるものをいうと解するのが相当である。〔後略〕(同上)

 わたしの囲炉裏夜話の「引用」は、上記内容を逸脱したことはなく、これは、あなたの「公表された著作物」に対しても同様です。したがって、お申し出の自己削除はいたしません。
「引用」は無断転載とちがって、著作権法上保障されていることで、この「引用」があってこそ、批評・学問・研究は、次世代へと発展的に継承されていくわけです。
お互いに、「公表された著作物」をインターネット上に掲載してきています。他者が出典も明らかにせずに、引用=転載することを除き、どのように自らの「著作物」が他者に「引用」され、しかもそれが批判・批評・検証の対象とされようとも、それはすべて了解済みの上でのこと(公表)です。他者から引用されて困るものならば、最初から「公表」しないことです。公表の「公」ということを、自己本位に考えてはいけないということです。
 なお、あなたのところのHPでは、ホツマ訳文を「転載」し、巻末における断り書きとして、「非営利・学術目的のため、また古文献の著作権者不明のため無断で掲載しています」と書かれています。「古文献の著作権者不明」はともかくとしても、「ホツマ」の訳者がいますから、厳密にいいますと、これは、訳者の「著作権」および出版社の「出版権」に抵触する可能性があります。インターネット上で無断に垂れ流されることで、著作権者および出版権者は「損害」を受けていると判断されるおそれがあります。わたし自身、「引用」外の著作権について詳しく調べたわけではありませんけど、「非営利」「学術目的」だからといって、公的な空間へコピー公開すること、つまり「無断掲載」を肯定する理由にはならないとおもいます。これは、元の訳書が「非営利」に該当する著作物かどうかをいっているのであって、複製者あるいはコピー提供者が「非営利」かどうかということではないという記憶があります。まちがっていたらあやまりますが、よくお調べになってください。

615 話の拡大は無礼です 古墳誰時 2002/10/10 12:01

>  古墳誰時さん、わたしはあなたがおっしゃるような「無断引用」はしておりません

屁理屈をこねてもダメです。

私は602の引用をお断りします。

616 日比生豊比盗_社 九州の龍 2002/10/11 00:14

風淋堂ご主人、こんばんは
この神社に足を運ぶのは、2回目になります。この地も含めまして、高良山の周辺には、豊比唐ノ関する伝承がとても多いようです。この前お知らせしましたように、宗像神の匂いはするのですが、まだまだ宗像神の姿がはっきりとは見えてきません。さらに調査してみたいと思っています。

御祭神:豊比
鎮座地:福岡県三井郡北野町大字大城字日比生1115

(北野町史誌)
日比生の銅鉾は、日比生豊比盗_社境内から発掘された。中世に至り、神社も衰微の運命を辿った。一説によると、御井郡上津荒木村に小祠あり『乙姫社』という。これ豊比唐ネり。また、御井郡塚島村に大石の大塚あり。『止誉比搭{』と呼んだ。大城村の蛭尾に大石2個あり。『豊比唐フ神』という。延喜二年(902)高良山僧正寂源により、高良山内に豊比盗_社再興の請願が藩に提出されたとのこと。

617 風琳堂のご主人 サクラ 2002/10/11 01:53

大麻止乃豆乃天神社 
少ない、情報なのにレスありがとうございます。

あは!調べるのってとっても楽しいです。
もう少しわかったら、また書きますね。(^^)

>古墳誰時さま
私には、ご主人は理屈をおっしゃっているように思います。
古墳誰時さま、
どうぞおひきとりくださいますようにお願い申し上げます。古墳誰時さまには掲示板荒しをなさる意図はないのではとも考えますが、このままではそうなりかねません。

618 風琳堂主人(2002/10/05 15:21)文解析 古墳誰時 2002/10/11 17:15

以下のようになりませんでしょうか。

・コメント1行のみでは正しい引用とは言えませんね。
・また学術的・批評的目的の引用でもありませんね。

なお私は、はい討論利用規約を完成するまでにざっと30年費やしています。
また、この利用規約に則ってアイディアを掲示板に書いてゆき、その後ホームページのコンテンツに纏めるようにしています。
例:秀真伝による古代史解明図2001.11.7版
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/ety6kcu/kodaisi3.gif


>古墳誰時さん、〜瀬織津姫云々〜

> ほかの掲示板は知りませんけど、囲炉裏夜話はあくまで「公開の場」と認識して運営していますから、こういった恣意的な、あるいは我田引水的な見解・問答はこれ限りにしたくおもいます。〜

> と、ここまで書いて、そちらの「公開の場」=「はい討論」の「規約」が眼にとまりました。引用させてもらいます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
はい討論利用規約の中略を含む全文の無断転載。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

> とても専横的な制限事項でびっくりしています。
(コメントはこの1行のみ)

> 囲炉裏夜話は〜





>〜風琳堂の掲示板の基本的な考え方を再度書かせてもらいました。

> 以降の問答が必要ならば、わたしの方からそちらへ出向きますので、よろしく制限事項を撤廃しておいてください。

619 豊比唐祀る本山天満宮 九州の龍 2002/10/11 21:45

御祭神:菅原道真・豊姫
鎮座地:福岡県久留米市上津町字本山2077
境内社:北原神社・豊姫神社  由緒不詳
天満宮は、小高い丘にありました。一の鳥居の横に小さな石祠があり、『水神社』と書かれた木板が入っていた。近くに川がないのになぜ水神社なのか?と思いましたが、丘を登ると、わりと大きな池がありました。二の鳥居をくぐると、嘉永四年そして『猿田彦大神』と刻まれた石碑があります。境内に入ると左手に境内社『北原神社』、本殿の後方奥に『豊姫宮』の鳥居が見え、私は本殿には目もくれずに、豊姫宮に向かいました。
そこには、初めて見る2m以上ある石祠や普通の大きさの石祠がずらりと並んでいました。それは、言葉には表せない迫力でした。中心の豊姫宮は、3m以上はあるでしょう。 祠のなかには、豊姫らしき人形がありました。他の末社は、若宮八幡宮・天神社・月読神社(石碑)・淡島神社・水天宮・毘沙門天(えびす像あり)・国津御魂神社・観世音・玉垂神社と水神社

620 高良玉垂神と宗像神 風琳堂主人 2002/10/12 14:27

 九州の龍さん、「高良山の周辺には、豊比唐ノ関する伝承がとても多い」とのこと──これは高良玉垂神を考える上で、大きなヒントなのかもしれません。
 豊比唐ニいう名になるまでの変遷過程を整理しておきますと、もともと肥前国に流れてきた「荒ぶる神」が世田姫となり、これが与止姫=淀姫となり、さらに豊姫=豊比唐ニもなるということだったかとおもいます(肥前国風土記および逸文)。
 また、肥前国一ノ宮とされる与止日女神社=川上神社から神様をいただいてきたとする、熊野の川上神社の祭神に瀬織津姫の名があり、瀬織津姫はもともと水神・水源神・滝神ですから、そのまま川上神とみることができます。つまり、熊野・川上神社の「本社」にあたる肥前・川上神社=与止日女神社の祭神は瀬織津姫であるとみることができます。このことは、与止日女=淀姫=豊姫=豊比唐ニいった異称同神の諸名の背後に、記紀がひたすら表に出さないようにしてきた、瀬織津姫という神が隠れている可能性が、とても高いとみるしかありません。
 このことに加え、宇佐八幡の大元神は「比売神」とされるも(これは宗像神でもありますが)、この比売神の背後にも、瀬織津姫が隠祭されていました。
 宇佐大元神=比売神と高良山の神=水神は、龍さんの「高良山の周辺には、豊比唐ノ関する伝承がとても多い」ということからも、無縁であるとは考えにくいです。
 筑後国一ノ宮とされる高良玉垂神社の「高良」ですが、延喜式においては、「こうら」ではなく「かわら」と読ませていたようです(神奈備HP「延喜式神名帳」)。これが事実としますと、「かわら」の音から容易に「香春」を連想できますから、ここで、宇佐大元神=宗像神との関係が透けてみえてくるようです。
 香春神社の祭神の一神には、「豊比売命」の名があり(ほかの二神は、辛国息長大姫大目命、忍骨命)、本来の香春神は、三神化されて読み取りにくいですけど、この豊比売が本来の香春神とみれば、高良神=香春神となり、また、高良山周辺の豊比涛`承の多さとも符合・合点がいくことになります。
 高良玉垂神は香春玉垂神でもある──。「玉垂」というのは「水の珠」のイメージを表すと考えてよいかとおもいますが、これは特別の水神への、あるいは、その水神がつかさどる神水への讃意を表象した言葉、美称でしょう。こういった美称をはずしてみますと、高良玉垂神は、高良神(高良山の神=水神)といった原像がみえてきます。事実、高良玉垂神社=高良大社の奥宮は「水分神社」と呼称されていますし、高良山には「朝妻の泉」と呼ばれる神水の湧出も認められます。一方、香春神としての豊比売は、香春岳の川(金辺川)の川上神でもあります(香春神については、囲炉裏夜話592「宇佐神宮の元宮U」参照)。肥前国における川上神もまた、香春神=豊比唐フ異称である与止日女=淀姫でした。
 また、祭祀者という「人間」の話をさらに重ねますと、宗像神および高良神の祭祀に共通して関わっていたのが物部氏でもありました。物部系氏族の枝別れ、同系氏族の分布は、全国的に途方もない拡がりをもっていますが、少なくとも、筑紫および肥前国における宗像神と高良神の祭祀に物部氏は深く関わっていました。香春神=豊比売の祭祀にも、当初、つまり、藤原不比等によって香春神社(最初の社名は不明ですが、風土記を参考にすれば「清河原の社」だったかも)が「辛国息長大姫大目命社」(延喜時代の社名ですが)と変更もしくは決定される709年=和銅二年の前まで、あるいは709年以前のある時期、ここの祭祀に物部(系)氏族が関わっていたことが明かされれば、香春神=高良神=宗像神の等号関係はより確かなものとみなすことが可能となります。
 各神社の祭祀氏族は時代時代において、中央との、あるいはその土地土地における支配関係によって変遷おびただしいことは事実です。しかし、いくつか例外があるにしても、各地各社の祭神変更がなされるのは、伊勢神宮の改竄創祀以降(7世紀末以降)、あるいは記紀成立以降(8世紀以降)とみることが妥当ですから、7世紀における祭祀氏族が確定できれば、各神社の神はおおよそ推定することは可能でしょう。その後における、つまり記紀時代から明治〜昭和時代初頭にまでわたる祭神・由緒変更がどのようになされようとも、です。

 サクラさん、ネット上で少し調べてみましたけど、大麻止乃豆乃天神社は、武蔵国における水神(多摩川の水神)の没落・変遷・神の異名化をたどる上で、とても重要な神社だということがみえてきました。この神社の式内社論社のひとつは、多摩川中上流の武蔵御嶽神社ですが、御岳山は武蔵国における修験のメッカのような山で、地図帳をみますと、さもありなんですが、ここは七代の滝や綾広の滝など名瀑の霊地です。ここに行基が聖武時代(736年=天平八年)、役小角が念出したとされる吉野の(金剛)蔵王権現を勧請し、御岳山の神と習合させた伝承があることからも、大麻止乃豆乃天神の背後には瀬織津姫の存在ありといった匂いがプンプンとしてきます。同地も、物部系氏族の分布エリアに属するのではないでしょうか。なにかみえてきたら、また教えてください。

■投稿削除の意志表示
ここは、もっとマシな場所かと勘違いしていました。お付き合いが煩わしいので、自分の投稿は全削除です。(古墳誰時「囲炉裏夜話」604)

 607、612、615、618の「自分の投稿」も「全削除」要です。

621 これ以上駄々をこねても駄目です ピンクのトカゲ 2002/10/12 16:10

風琳堂主人は、著作権法で認められている引用だと理解しているわけです。
おそらく、この掲示板を見ている人のほとんどがそう理解していると思います。
ですから、削除以来をこれ以上やっても平行線をたどるだけです。
あとは、第三者機関(裁判所)に求める以外手はないでしょう。
根拠のない書き込みで被害を受けた獣医師が2チャンネルを相手取り削除を求める訴えを提起したことはご存知かと思います。
風琳堂さんは、ちゃんと住所・氏名を公表していますから訴状は、簡単に作れるでしょう。
ただ、この掲示板を見ている人の多くが、著作権法で認められた引用と理解しているのと同様に、裁判官も同様に理解するかと思いますが

622 双方とも削除ならば同意します 古墳誰時 2002/10/12 21:26

引用における主従関係の争いに帰着するのではないでしょうか。『■投稿削除の意志表示』の文面は、双方とも削除というような解釈ができますが、それならばOKです。この件に関する風琳堂主人の投稿1件と、当方の投稿全件の削除をお願いします。

第三者のかたに御迷惑をお掛けしたとしたらお詫びします。

623 古墳誰時さま クミコ 2002/10/12 22:20

>第三者のかたに御迷惑をお掛けしたとしたらお詫びします。

ならば
どうぞおひきとり下さいますようお願い申し上げます。
熱心にご研究なさっているのにとても悲しいです。

624 具足から愚測へ 風琳堂主人 2002/10/14 12:22

■投稿削除の意志表示
ここは、もっとマシな場所かと勘違いしていました。お付き合いが煩わしいので、自分の投稿は全削除です。(古墳誰時「囲炉裏夜話」604)

 これも「引用」です。だれの「公表された著作物」からの引用かがわかるように、出典(古墳誰時「囲炉裏夜話」604)と明記してありますし、引用であることが「明瞭に区別」(東京地方裁判所 平成11年8月31日判決例の言葉)されてもいるはずです。
 それを、古墳誰時はどう読解・理解・解釈したか──。

■古墳誰時の理解
引用における主従関係の争いに帰着するのではないでしょうか。『■投稿削除の意志表示』の文面は、双方とも削除というような解釈ができますが、それならばOKです。この件に関する風琳堂主人の投稿1件と、当方の投稿全件の削除をお願いします。(古墳誰時「囲炉裏夜話」622)

 超唖然とする文面です。「双方とも削除というような解釈ができます」?──交換条件を提示した覚えはありません。遠野では自分勝手のことを「えてかたり」といいますが、こういったえてかたりな「解釈」は、あなたの仲間内・同類以外の、この世のだれにも通じません。
 これは、穏当にいえば、あなたの希望的「解釈」ですが、厳しくいえば、あなたの具足塚考(すでにあなた自身の手によって削除)とも通ずる、我田引水的「解釈」です。具足塚考が、あまりの「えてかたり」な解釈でしたので、そのよってきたる根拠を指摘する「目的」で「引用」したものが、あなたのところ(「古墳誰時のホームページ」)の「はい討論」の「利用規約」です。
 わずらわしいですけど、再度「引用」します。

■フォーラム『はい討論』の利用規約 2000.10.20改定版
今回改定個所:「ホケノ山古墳210年以降築造説」を【投稿不可の説】に追加。
【投稿不可の説(学術的内容での制限)】
 フォーラム『はい討論』を設置する主旨はいうまでもなく古代史の実像についての有意な討論をすることにあります。主催者の考え(邪馬台国大和説、三角縁神獣鏡魏鏡説、秀真伝重視など)はホームページに示してありますが、なるべくならば同様の考えに沿った討論をしていただきたいものと希望するところです。
 限られた資源・時間の有効活用をと考えました結果、以下に掲げる各説につきましてはこのフォーラムでの討論対象外と決めました。もしこれらの説を主張されますと、利用規約中の「トピックの主旨に沿わない投稿」と同類であると見做して削除対象にします。どうしてもこれらの説を主張されたいのならば他所にてお願いします。
(邪馬台国九州説・東遷説、三角縁神獣鏡国産説・4世紀最盛説、平原遺跡1号墓2世紀以降説、秀真伝偽作説、崇神天皇4世紀説、騎馬民族征服説、王朝交代説、九州王朝説、多元史観、古代天皇1代10年説、反皇国史観、皇国史観、東日流外三郡誌偽作説、天皇制反対説、豊受神紀元後説、物部論議即神道説、個性の強い政治・宗教団体の説、ホケノ山古墳210年以降築造説、等)
〔中略〕
ご質問・お問い合わせは管理人(古墳誰時)まで

 これに対して、わたしは次のような「コメント」をしたのでした。

■風琳堂主人のコメント
 とても専横的な制限規約でびっくりしています。
囲炉裏夜話は自由な「説」が語られる場ですが、それは恣意的な根拠による自説執着を「自由」に語ってよいことを言っているわけではありません。囲炉裏夜話は、そちらのHPがうたっている「投稿不可の説」を最初から決めるものではありませんし、「学術的内容での制限」もあらかじめ設けていません。囲炉裏夜話への投稿で唯一「条件」があるとすれば、瀬織津姫を明かすための確定的な主情報および副情報と分析、および出版論に関するものです(出版論は、これまであまり直接的に語られることなくきていますけど)。
ともかく、「学術的内容」が読者にとって貴重ならば、それはそれで「自由」に語られるべきものと考えています。そちらが最初から「削除対象」とする諸説に対して、囲炉裏夜話は門戸を閉ざすことはしていません。この一点を取り上げただけでも、そちらの「はい討論」と「囲炉裏夜話」は、決定的に異なる認識をもっていることがわかります。(風琳堂主人「囲炉裏夜話」602)

 ここまでが、「引用」に対する「コメント」の主部分です。したがって、「引用における主従関係の争いに帰着する」(古墳誰時「囲炉裏夜話」622)もクソもないのです。あなたのところの「はい討論」と、あなたが「もっとマシな場所かと勘違い」(古墳誰時「囲炉裏夜話」604)した「囲炉裏夜話」の考え方の異質性を明らかにする文が「主」で、制限規約の引用は「従」です。
 あなたの具足塚考に端的に表れていましたが、それに輪をかけるような、具足ならぬ「愚測」が最近のあなたの「投稿」です。
「第三者のかたに御迷惑をお掛けしたとしたらお詫びします」(古墳誰時「囲炉裏夜話」622)──まったく「迷惑」だらけです。日本語を正確に読み取れないのは致命的です。
 あなたの「愚測」とのおつきあいは今回限りとします(なにか意見・異見がまだあるようでしたら、以降はメールにしてください。掲示板への投稿は迷惑です)。
 どんな顔をして、こういった珍解釈・愚考を臆面もなくしているのか──。くりかえしますが、囲炉裏夜話620において、交換条件を提示した覚えはまったくありませんので、どうぞ、訴状を用意するか、下記コメント(再録・引用を含む)を熟読して、よきに対処してください。

■(古墳誰時による)投稿削除の意志表示
ここは、もっとマシな場所かと勘違いしていました。お付き合いが煩わしいので、自分の投稿は全削除です。(古墳誰時「囲炉裏夜話」604)

 607、612、615、618、622の「自分の投稿」も(前にあなたが自分の手で削除したように)「全削除」要です。あなたの「えてかたり」のお尻を、わたしが拭くのはごめんです。

625 鷲林寺 クミコ 2002/10/15 21:52

風琳堂御主人 こんばんは
昨日、鷲林寺に行ってきました。
由緒書きを頂いてきましたので一部ですが書いておきす。

 當山は、天長10年(833)人皇53代淳和天皇の勅願にて弘法大師により開創された。大師は観音霊場を建立せんと地を求めて広田神社で夜を通して拝んでおられた。すると化人が現れ「ここを去って西山に入るべし。汝の所期を満たすであろう。」と言われた。大師は早朝西山に向かうと途中大鷲が現れ口から火を吹き大師の入山を妨げた。大師は傍らの枝を切り湧き出る清水を注ぎ加持し大鷲を桜の霊木に封じ込めた。化人が再現し、「観音示現の地、汝の求める霊域はこの処なり。汝暫く礼拝せよ。」と言われた。大師五体を地に投じて礼拝すると不思議に観音が現れ、その姿を写し大鷲を封じ込めた桜の木にて十一面観音を刻み鷲林寺と名付けられた。その後八幡高奈などの社を再建し新たに白山権現、栂尾明神などを祭り、さらに八面臂の荒神を祭らせた。先の十一面観音を本尊とし、脇立に薬師如来、鷲不動明王、毘沙門天とされた。

鷲不動明王
伝弘法大師作。十一面観音と同じく、伝弘法大師作。桜の霊木で彫られた仏像。護摩堂本尊として祭られる。昭和13年、山津波が當寺を直撃したが、その際、戦国の兵火から免れ為瓶に入れ地下に埋められていたものが再びこの世に出現しその後護摩堂を建立し祭った。普通の不動明王とは違い火炎の中に鷲を飛ばす。これより「鷲不動明王」といわれる。

とあります。

ご主人、裏山の観音山にひっそりと、すてきな滝がありました「旭滝」というそうです。
しばし、磐座と湖に囲まれた甲山周辺、お楽しみ下さい。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~jurinji/sawayaka%20haikimgu.html

http://www.ne.jp/asahi/tanba/kirinosato/HANSINgorogorodake-docu.htm#kabuto

http://www5b.biglobe.ne.jp/~jurinji/jurinji%20imamukashi.html

http://village.infoweb.ne.jp/~hiratsu/mysteryspot/kabuto01.htm

帰りには居酒屋さくらにお寄り下さい
灘のお酒用意しておきます。

626 ご無沙汰しております。 杜 かじか 2002/10/16 03:33

 風琳堂御主人、こんばんわ。
ご無沙汰をしておりました。
私どもが企画しているアテルイのシンポジウムがなんとかかたがつきそうになったので、
よーし囲炉裏夜話で神様の勉強するぞーっ とルンルンでお邪魔したら...
なんか どえらいことになっていたんですね...
どうぞお気を落とさずに。 本当にご苦労様です。
自分も掲示板を運営しておりますが、背筋が凍りつきました。

まあ、それは横においておいて。
風琳堂御主人にお伺いいたします。
以前、お聞きして、二度手間になってしまうので、申し訳ないのですが、「かぐや姫と瀬織津姫の関わり」について書かれた説はどこで分かるのでしょうか?
「もしかしたら掲示板かな?」ておもったのですが、過去ログが膨大で検索しきれませんでした。

突然お邪魔しておいて しっかり質問。
あつかましいかしら。 ごめんなさい。

627 無節操ですね 古墳誰時 2002/10/16 11:31

主に風琳堂主人(2002/10/14 12:22)に関して。

再びですが無断転載は迷惑至極なので早急に削除して下さい。

無断転載の削除希望を無視して再度無断転載。
普通は相手の立場を考えて疑わしい記事をいったん削除後に再投稿でしょう。

その理由が無節操です。
何かと具足塚考に結び付けますが、そんな記事どこにもありませんよ。つまり単独では著作権遵守を証明できない投稿なのです。具足塚考は年代の条件付で古墳は対象外であることが明らかです。つまり具足塚考はそこまでというのが節操ある人です。「年代の条件付」を忘れてああでもないこうでもないというのが唯一の無断転載理由(正当な引用と言い張る理由)です。「年代の条件付」を忘れているので理由として失格ですけども。

双方の記事削除提案については良いことだと思いますが、どんなことがあっても削除はしないということでしょうか。

これで終わりと思ったので第三者御迷惑云々としたのですが、当事者がこれではどうにもなりませんね。

迷惑しているのはこちら側であることを忘れています。「以後はメールにしてくれ云々」は身勝手ではありませんか。

「恣意的」とか何か悪意でもあるかのような用語が多いような気がしますが。

628 鷲林寺と瀬織津姫 風琳堂主人 2002/10/16 15:39

 クミコさん、昨夜は居酒屋さくらで、クミコさん特製の「生一本」でほろ酔いでした。お礼申し上げます。
 紹介いただいた「鷲林寺ホームページ」はいいですね。同寺住職の仏徒としてのセンスも好感がもてます。
 瀬織津姫と鷲林寺の関係も、どうやら根深いようです。まず、直観(感)的にいっても、桜・十一面観音・滝と、これでは、瀬織津姫を語るときの、まるで「三点セット」がそろっていることになります。それに、廣田神社と空海がらみです(鷲林寺は「西の高野山」ともいわれる)。鷲林寺のHPは、このことを考える上で、いくつもヒントを提供してくれています。
 鷲林寺は、東の神呪寺、さらに東の東光寺と三寺一体といいますか、両寺の奥の院的な存在だったようです。嵯峨天皇の「厄除け祈願」として、空海が「厄神明王を三体刻まれそのうちの一体を東光寺に祭った」という東光寺の寺伝に、この三寺一体の創建意図が表れているとみることができます。東光寺の異称は「門戸厄神」ですから、まさに「厄神明王」です。
 この「厄神明王」が、奥の院の鷲林寺の寺伝においては、空海によって桜に封じ込められた「大鷲」とされ、また、この桜木から、鷲林寺の本尊の十一面観音が、空海の手によってつくられたとされます。この寺伝が述べているのは、空海の手によって、厄神明王=大鷲は十一面観音に生まれ変わった、変化[へんげ]したということでしょう。
 では、その大元の「厄神明王」(神呪寺の寺伝においては「ソラン神」=「悪い心を持った神」)とはどんな神だったのか──。これが、各寺伝が直接に語らない部分です。
 しかし、鷲林寺を「開創」したとする空海が、その前に「観音霊場を建立せんと地を求めて広田神社で夜を通して拝んで」いたといった伝承は大きな意味があります。また、鷲林寺から旭滝に向かう途中には若宮社があり、ここの社は「広田神社の分かれ」とされています。つまり、廣田神が鷲林寺の寺域にまつられているわけです。
 瀬織津姫の神威は、まつる側の「心」によっては、日本書紀が明記していたように、最高の祟り神とみなされてきました。これが廣田神となるわけですが、その祟り神=廣田神こそが、厄神明王=大鷲に隠された神かとおもいます。
 しかし、瀬織津姫の神威は、まつる側の「心」によっては、いいかえれば、支配・為政の側とは対極をなすところで生きる人々にとっては、祟り神どころか、最高の守護神となります。
 空海は、当時の祭政者、つまり中臣=藤原の祭政=為政思想によってつくられた、瀬織津姫=祟り神という認識をよく了解していましたから、(王権側にとって)「悪い心を持った神」つまり「祟り神」としての性格を無化するようにして「十一面観音」に変身させたことが想像されます。ここにも、王権派仏徒としての空海の暗部、あるいは側面がみられるというべきでしょうか。
 そもそも、水神=瀬織津姫が「祟り神」とみなされるようになる大元の理由は、伊勢の地で、その対神の日神=太陽神との関係を歴史の闇に閉ざされ、あるいはその対関係から分離されたことにはじまります。この封印・分離によって、伊勢は皇祖神をまつる神社=伊勢神宮として確定されていくわけですが、伊勢神宮の創立の代償として瀬織津姫(たち)を封じたことは、その後、日本の神まつりに底知れない翳りをもたらすことになります。当時の王権派の仏徒たちは、この翳り(「悪い心を持った神」)を「仏」に転生させて、その祟りが王権の上層に向かないようにした──これが神仏習合のはじまりの姿・意向ではなかったかとおもわれます。
 ところで、鷲林寺の本堂の真下には、伊勢において消された日神の化身である「八大龍王」がまつられています。そして同寺域には、若宮社の「廣田神」=瀬織津姫です。両神は一対神=夫婦神ですから、この寺は、伊勢の改竄創祀=夫婦神離散による「祟り」を消去する、まさに鎮魂寺というのが、その創建の遠因かつ真意とみることもできます。
 鷲林寺町の路上中央には、「夫婦岩」があって、道路拡張のときにこの岩を爆破しようとした工事主任が、つづけて二人も謎の急死をしているとのこと──。これはまさに「祟り」と受感されたことでしょう。その結果、道路は夫婦岩を真ん中にして両側を迂回するようにつくられ、現在もそのままというのも、亡くなった人には気の毒ではありますが、しかし、この夫婦岩の存在を不動としたことにおいて、いい話だなとおもいました。また、鷲林寺への参道脇には、この夫婦岩のほかに、夫婦池と夫婦橋もあるそうですが、瀬織津姫(たち)は、その名を消されてはいますが、「夫婦円満」の祈願神として、現在も生きているということなのでしょう。
 同じ桜木から彫られたとされる「鷲不動明王」──。まさに十一面観音と一体とみるべきです。不動明王は修験の人間の守護神とされますが、その前に、瀬織津姫という滝神の守護神こそが不動明王なのかもしれません。鷲林寺の滝=旭滝の正面に、「石不動明王」が鎮座しているのも、なるほどというところでしょうか。
 鷲林寺では「鷲不動明王」でしたが、奥三河では「天照不動明王」と命名されていました。お不動さんの背後の火炎──これは、封じられた水神と日神の関係が、まさに炎のように燃えているイメージだなとおもえてきました。

 かじかさん、アテルイのシンポジウムはうまくいきそうですか。
 かぐや姫と瀬織津姫については、「かぐや姫の前提へ」(囲炉裏夜話91)でふれています。記紀によって月神が男神とされる前は、水神=月神=女神だったと考えられ、記紀から消された月の女神を物語化したものが「竹取物語」です。この物語は、記紀の背後の藤原思想への強烈な揶揄の文学と読むこともできます。なお、かぐや姫は、丹波から京都・「鴨」神社二社や、富士山などへと広く関わっていく魅力的な女神です。
 また、かぐや姫が養蚕神ともなる話は、トカゲさんのHP「穂国幻史考」の第一話拾遺5「香具夜姫と蚕影神社」でふれられています。なお、養蚕神としての瀬織津姫については、「駒形神社の秘神」(囲炉裏夜話423・424)でもふれています。

629 お返事ありがとう 杜 かじか 2002/10/17 02:46

 風琳堂御主人、こんばんわ。
早速お返事ありがとうございました。
ちゃーんとメモをとりましたよ。
これから、また日本の神様の勉強をさせていただきますね。
またお邪魔します。

630 Re:具足から愚測へ 古墳誰時 2002/10/17 10:10

風琳堂主人、ご自身に相応しいのでは。

具足の語をみて2000年前からの変化を考えようとしますが、あなたは具足からは愚測ということしか思いつかない。

古代史研究において、こちらと当方のホームページでは、目的、方法、掲示板利用規約の考え方、他どれをとっても殆ど共通点がありません。邪馬台国論争(畿内説と九州説)でもそうでしたが、現時点では不干渉が鉄則でしょうね。問題にしている記事を早く削除してください。

631 はじめまして 日光菩薩 2002/10/17 13:02

風琳堂ご主人様
はじめまして
いつも楽しみに「囲炉裏夜話」拝見しておりました。
今回、古墳誰時さんのあまりにもあつかましい書き込みをみて、一言古墳誰時さんに申し上げたく、書かせていただきました。
古墳誰時さん
無礼なのはあなたの方ですよ。
それに、書いておいて、都合が悪くなれば削除する。
この方が、よほど無節操だと思います。
これ以上の書き込みは、私たち読者にとっても迷惑です。
また、あなたの書き込みで、他のホツマ研究者も迷惑すると思いますよ。
これ以上の書き込みは恥の上塗りになるだけです。
どうぞお引き取りくださいませ。

632 いいかげんにしろよ古墳誰時 救世主 2002/10/17 14:26

古墳誰時殿
著作権がどうのとか、掲示板運営がどうのとか、何が不服か知りませんが、こちらの掲示板はあくまでも、風琳堂の善意と意欲で運営されているはずです。
あなたが、とやかく意見を言う場所ではないはずです。
掲示板は皆が情報交換して楽しみながら前向きに勉強していくところかと思います。
あなたのように自分の意見を管理人に押し付けたり、自分の書込みがどうのとか、その返事が気に入らないとか、あたなは発言する立場にありません。記事削除は自分でやるのが原則です。自分の記事は削除キーで消せるでしょうし、風琳堂の記事はあなたには関係ないはずです。余計なお世話です。
 ここが気に入らないなら、来なきゃいいじゃないですか。
あなたと風琳堂のやり取りを楽しんでいる人は誰も居ません。
 もう来ないでくださいよ。うんさんくさい。
個人が運営する掲示板でとやかくいわないでください。周りが一番不愉快なんですよ。
 そんなことも解らない人は研究者も何もありません。いい加減にしてください。
私はあなたのような人とはかかわり合いを持ちたくありませんので、こちらの情報は出しません。あしからず。
この掲示板を見ている皆が「出ていけ」と言っているのに、まだわかりませんか。
早く退去してください。

633 まだ居ったん? 不動明王 2002/10/18 00:11

 私もペンネームかえて参上します。
古墳誰時、まだ居たんですか?
そういうのって、業界用語で「掲示板荒らし」っていうの知っていた?
 うっとうしいから、どっかいって。
風琳堂御主人、もし、裁判するときは必ず参戦するからね!!!

634 元通りに ZOU 2002/10/18 00:26

今回の出来事の奥には、「ほつまつたゑ」や「セオリツヒメ」に対する価値観の違いがあると思いますが、風琳堂さんがフォローの発言をされた時点で、古墳誰時さんが紳士的な態度をお見せ下さっていれば、その後もこの掲示板において、価値観の相違をこえて有意義な意見交換ができたでしょう。もはや遅いとは思いますが。
古墳誰時さんは、愚弄されているとおっしゃいましたが、どう見てもフォローされているようにしか見えません。

この場所は建設的な意見の交換をする場所であると思います。ですが古墳誰時さんの発言には、建設的どころか見苦しいものが多く含まれているとの印象を受けます。ご自身では「荒らし」との意識は持たれていないと思いますが、そのようにマイナスのイメージで受け取られても仕方がないでしょう。

古墳誰時さんへ、他のみなさんと同じく、私の方からもお引き取りくださいますようお願いいたします。

★風琳堂さんへ
私もあえて書き込ませていただきましたが、個人攻撃の意味が強い私の発言は、この掲示板にふさわしくない内容であることをお詫びいたします。この種の書き込みは、おそらく風琳堂さんのご本意ではないでしょう。また、

風琳堂さん624>以降はメールにしてください。

とのコメントは、他の方々に迷惑が及ばないようにとの配慮として理解できます。この場所が、元通りの知的探求の場に戻ることを願うものです。

635 さきほどは 不動明王 2002/10/18 01:04

先ほどは ZOUさんの言う、個人バッシングの強い書き込みをしてしまったことを深く反省しております。
ですが、正直いって、このようなやり取りをこの楽しい学習の場で行われていることに とても憤りを感じています。
古墳誰時さん、もし、貴方の「はい討論」がみんなのつどう掲示板だったとして、そこで このようなやり取りをされることを望みますか?
私を含め、何人の方がペンネームを替えたのは、自分の掲示板やeメールを守るためですよ。
ご自分がなさっているのがどういうことかわかっていらっしゃるのですか?
「自分がして欲しくないことは他人にしない」
社会の基本的なルールです。
どうか お引取りください。
再度お願いいたします。
どうかお願いです。

636 読者の皆様へ 風琳堂主人 2002/10/18 06:52

 日頃から囲炉裏夜話をお読みいただき、あらためてお礼申し上げます。
 主人の不徳が呼び寄せたこととはいえ、このような小さな掲示板でも、切れば血の出る「言葉」の問題が如実にみえてきたようです。
 古墳誰時さんと不肖の主人のやりとりの背景には、ZOUさんが指摘されたように、ホツマ観、あるいは、瀬織津姫観の違いがたしかにあります。わたしは、ホツマという書に対しては、瀬織津姫を明かす上で大きなきっかけを与えてくれた書として敬意をもっていますが、ホツマ研究の総体がもっている、まったく気づかれていないといいますか、自己矛盾の問題を、古墳誰時さんの「制限規約」は象徴的に提示しているとみています。
 これは、いつかホツマ論をするときにふれるつもりでいたものですが、要点だけを述べれば、ホツマが表象した、男神=天照大神、女神=瀬織津姫という二神の関係をきちんとみていきますと、「制限規約」があらかじめ排除していた、たとえば「反皇国史観」にいきつかざるをえないということがあります。これは、先験的な皇国史観や、反皇国史観の感情的な立場から言っているわけではありません。そうではなく、ホツマが表した、天照大神=男神、その対神としての瀬織津姫の関係を掘り下げていくと、必然的に、皇祖神をまつるとされる伊勢神宮の創立動機が崩れる場所へいきます。
 そういった可能性を、厳然と秘めているのがホツマなる書ですが、こういった認識を保留・先送りとする「研究」態度は、ほかの、つまり、これまでのアカデミックな学者たちによる神々や歴史の「研究」などと同様に、この国の神(まつり)の自然な姿や、歴史の暗部に光をあてることからは遠いものだろうと考えています。伊勢神宮側が主張する、たとえば2000年の歴史がある社だといった自己主張が崩れるということは、既成の皇国史観の根拠=幻想の一角が無化されることでもありますから、その意味で「反皇国史観」を呼び込むことは必然です。ただし、瀬織津姫を明かすことは、1300年にわたる皇国史観が半ば意図的に混乱させ、かつ排除してきた、一般庶民の心の「本音」の部分を明かすことと重なるだろうというのが、囲炉裏夜話の、強いていえば思想的立場です。神と歴史の要の問題から眼をそむけないこと──これは、瀬織津姫を見失わないことと一緒だろうと考えています。
 ホツマは、瀬織津姫とは明らかに異なる「人物」として、いわゆる「宗像三女神」を文学的に登場させていますが、では、その三女神の一神である「湍津姫命」が瀬織津姫に置き換えられて具体的にまつられている事実について、おそらく、ホツマのみを「研究」している場所からは、とうてい説明も解明も不可能なはずです。これは、記紀がどのような編集思想によってつくられたのかといった観点・視点を考慮しないと、まったくみえてこないことです。この宗像神の問題一点を取り上げてみても、ホツマが記紀以前の作だというのを容認するのはむずかしいとおもいます。
 ホツマは、なぜ大物主と大田田根子の作とされるのか──。三輪氏は、記紀が創作されるとき、あるいは、伊勢神宮が立ち上がるとき、どのような立場にあった氏族なのか──。わたしは、記紀以降に、伊勢あるいは三輪山のほんとうの神を伝えてきた人が存在したことを考えないと、ホツマ成立の動機はみえてこないという気がしています。ホツマの作者は、日本あるいは伊勢の神まつりの虚妄部分に気づいていた人物だろうとおもいます。また、ホツマの歴史観をみますと、そうとうなインテリの作であることもわかります。
 伊勢神宮がもっとも警戒した神社が伊雑宮(現在、内宮の別宮扱い)でしたが、同宮の祭神(の一神)を瀬織津姫として認識していたのは、伊雑宮の「神人」でもあった西岡氏という「御師」でした(西岡家文書)。伊雑宮が伊勢の本宮とする主張は、伊勢神宮と幕府によってつぶされてしまいますが、ホツマ成立の背景には、伊雑宮と伊勢神宮との、江戸期における、この激烈な対峙事件が投影されている可能性があるとわたしはみています。
 古墳誰時さんが排除した「学術内容」の一つにホツマ偽作説がありますが、ホツマが「偽作」ならば記紀も明らかに「偽作」となります。それぞれがそれぞれの立場=編集的立場から一冊の書をつくりだすわけで、その意味で、この世に「偽作」はない、あるいは、すべて「偽作」だとなります。厳密な意味で「偽作」があるとすれば、それは、作者を偽る、古く見せるといったレベルでしか該当しないものとおもいますが、しかし、そこに含まれる伝承のすべてが「偽作」=創造といえないことは、これも、記紀についても同断です。
 ある伝承がもっている、あるいは、その伝承が比喩的に伝えつづけていることに対して、それがどんな事実・心(伝承者が伝えつづけてきた「思い」)を表現・意味しているのかを、後世の人間、つまりわたしたちが、どこまで汲み取れるかといったことが大事で、ある書をまるごと信奉するかどうかの問題ではないというのがわたしの考え方です。
 ホツマの作者は、かなりの歴史通かつ神様通ですし、また、なによりも文学的な造形力は見事というしかありません。漠然とした割合ですが、ホツマは三割の真実と七割の文学性によって構成されているとみています。これは、「正史」の第一号である日本書紀も然りです。
 今回、問題点として絞られてきている「引用」の是非については、これは、とても大切な、いいかえれば、これからのことにも深く関わる、いわば表現の前提条件でもありますので、何度もいうようですが、わたしはそれを崩すことはしません。「引用」された当事者が不愉快におもうかどうかは、まったく次元が異なることです。逆説的にきこえるかもしれませんが、「引用」するにあたっては、それに値するものかどうかを判断してなされます。
 古墳誰時さん、ご理解いただけることを信じたいですが、もしご無理ならば、直接お会いしましょう。

637 乱暴な言葉で恐縮ですが 救世主 2002/10/18 09:30

皆様はとても紳士でいらっしゃいますね。たとえインターネットの掲示板では顔が見えないとはいえ、土足で人の家に上がり込んでは悪口雑言を言う、いわゆる掲示板荒らしを許すわけにはいきません。
なまじ丁重に言えばいうほど相手はいい気になってさらにエスカレートすることもあるでしょう。
私達は、ここが好きで集ってきています。ここの言うことが絶対正確とは言えない場合もあるかもしれません、しかし、それは掲示板の内容だけではなく、掲示板オーナーの人柄が好きで集ってきている人も多いと思います。オーナーさんは書込み内容で緩和を図っておられますが、私はそれ以前にインターネット社会における最低限のマナーを守らない人は排除すべきだと考えています。
古墳誰時殿におかれましては内容はともかく他人の掲示板を使用する資格は認められません。
信頼できる掲示板書き込み者とは、是も非も理解していただき、さらに知識向上にご理解いただける人だけです。自分の意見が通らないからと、むくれるのは最低です。
あやまるか、立ち去るか選択は二つに一つです。

638 著作権には制限があるのですよ。 囲炉裏で暖をとる者 2002/10/18 10:03

風琳堂のご主人には今さら釈迦に説法ですが、私も商業印刷に長い間かかわっているもので。

残念ながら古墳誰時さんは著作権法の「複製権」と「引用」を混同なさっているようですね。
インターネットのホームページは公衆送信ですから「公表された著作物」と見なされます。
従って一定の制限も受けます。それが「引用」です。
風琳堂のご主人の「引用」姿勢は一貫しており、何ら問題があるとは思えません。
「引用」が許せないのなら、あとは世に発表することを控えるしかないと思われます。

さて、楽しい囲炉裏夜話を続けませんか。

639 自HPのことです 古墳誰時 2002/10/18 13:55

1.早い話、こちらとは全く無関係の研究をしています。関連遺跡の特定と年代の推定が中心になっています。掲示板は平板では無理があるためツリー掲示板を使用しています。

2.掲示板規約の各制限事項はおおかた正しいのです。制限事項全体はノーハウの集約です。無断転載不可は当然です。引用は細心の注意が必要で、必要最小限つまり各項目毎くらいならば友好関係は保てます。

3.掲示板規約の制限を外して、こちらの方々と討論するようなことは絶対にあり得ません。掲示板運営者としての考えです。

4.規約なしの掲示板で邪馬台国論争をやって遠回りした経験があり、制限を厳しくしたという経緯もあります。掲示板は管理人がしっかりしないといけないという考えは強いです。そしてしっかりした管理人によって柔軟性を持った現実的な運営がなされるべきです。また制限事項等により特色あるサイトがあちこちに存在しても悪いことではないと考えています。これで同方面の研究者から文句を言われたことはありません。

640 Re:自HPのことです 不動明王 2002/10/18 23:39

もうええから、どっか行けって。

641 うざい! 十一面観音菩薩 2002/10/19 01:38

古墳誰時

1度目の写メールで貴方の心は読んでおります。どの回答を求めておられるかも・・・
2度目の写メールで貴方は私を試そうとしたことも・・・違いますか? (^-^)ニコ

これは某掲示板の書き込みのパクリです。
貴殿は自分の思った回答が来なくて、なにやらまだ言っているようですが、貴殿のHPは貴殿のHPで好きなことをやってください。貴殿の掲示板がどうだろうがここの誰も興味などありません。

貴殿の書き込み自体がうざいです。
消え去れ、古墳誰時

642 うざい! 古墳誰時 2002/10/19 05:08

= 十一面観音菩薩
= 不動明王
= 救世主
= ピンクのトカゲ


> 貴殿の掲示板がどうだろうがここの誰も興味などありません。
お!すごい侮辱。興味がないのに規約の引用したつもり。


> 貴殿の書き込み自体がうざいです。
> 消え去れ、古墳誰時
おまえ馬鹿か、直前の人も名前書いてて終わってないんよ。

643 もうやめましょうよー。(;_;) さかな 2002/10/19 07:13

古墳誰時さん、ほんとは引用で怒ってるんじゃないんじゃないですか?
プライドを傷つけられたと思っているのじゃないかな、と感じます。
人と一緒に勉強するということは、時には自分で築いたものを壊されるときもありますけれども、それは新しい発見のための通過儀礼のようなもので、それでもめげずに、一生懸命性懲りもなくおなじことを別の視点でまた勉強すると幅が広がると思うのですね。

NET上で繰り広げられる論争の多くは、その「モノを追求しよう」から「プライド」を傷つけられたという感情の怒りに移行してしまっていると思います。

古墳誰時さんの「はい討論」の掲示板が誰でも見られる領域のものでなかったなら、ここでの規約の引用はいけないと思いますが、そうじゃないのでみなさんの意見が正しいです。
それは、古墳誰時さんは重々わかっていらっしゃるように見えます。

私は仮面HNのみなさんの対応は好きではありません。
敵と見なしたら相手を殺してしまう。言葉の集団暴力であると思います。
正当な理由はあっても、当事者じゃなくても見ているのは痛いです。
失礼ながら、このような書き込みは、ここで語られている「ならずもの国家」となんら変わりない行為であると思います。
相手を傷めつけようという正義の悪意が見えるので、余計哀しいです。

古墳誰時さん、冷静になって風琳堂主人さんとお話ください。
そして見つめてくださいませんか? あなたが本当は何に怒られているのか。
掲示板の規約に信念をもって、今、自分のしたい研究のみの制限をしているとおっしゃっているのですから、引用されてもいいじゃないですか。
ちゃんと趣旨は伝わってますよ。(^0^)
古墳誰時さんは古墳誰時さんのなりのやり方で、どうぞ研究を続けて欲しいと思います。楽しみにしております。(^-^)v

たぶん、ここでの書き込みは古墳誰時さんの幅を広げるのにいいチャンスだったと思います。
違う角度から、ホツマを何度も見てみるきっかけになったと思います。
だから、今回のこのような顛末は非常に悲しいです。

冷静になって、風琳堂主人さんと血の通う「ことば」でお話してみてはいかがでしょうか?
文章ではもうお互いの感情の矛をおさめられないと思いますし・・・。

644 引返す勇気と遭難 通行人 2002/10/19 09:26

お話を拝見しております。ときどき立ち寄る者です。
私自身も自分のサイトで掲示板を運用しています。
その中でも、司会の私の思うように話題が展開しない時もあります。
また、書込みをされた方に「そんなことも知らないのか」と叱咤される時もあります。
しかし、掲示板に限らず生活一般において「知らない」ということが恥ずかしいことの様に見られがちですが、でも「知らないこと」を知ることは何よりの進歩だと思います。
ですから他人からの情報で自分に知らない事があったら、素直に「知りたい」「教えて欲しい」「一緒に学びたい」という思考回路が必要だと思います。
どれだけ自信のある研究でも他人の意見が気になることもあります。その時は、いたずらな自信よりも原点に戻って「知りたい」「学びたい」という初心に帰るのがさらなる向上につながるかと思います。
それによって自他ともに向上し進歩し、そこから、これまでも想像できなかった検証がなされる時もあります。
話はいささか違うかもしれませんが、山岳においても迷ったりトラブルが起きた時は、冷静に引返して、もう一度アタックしなければ取り返しの付かないことにもなりかねません。
インターネットにおいてもありうることだと思います。
「されどインターネット掲示板」ですが「たかがインターネット掲示板」です。こんな場所で、もめても何の得にもなりません。たとえ相手をおだてて、知識を頂戴しても、自分の研究に役立てればそれでいいじゃないですか。
インターネットごときで争っても何の進展もありません。
さしでまがしいですがご進言まで

645 Re:引返す勇気と遭難 古墳誰時 2002/10/19 14:33

通行人さん

ホツマにしか言及しないお方に規約の全体をコピーされたことがくやしいのですが(笑)、「引返す勇気と遭難」いいお言葉だと思います。参考にさせて頂きよく考えます。

風琳堂主人さん、さかなさん

少し時間が掛かるかもしれませんが、最新投稿にレスさせていただきたく思っております。

646 Re:もうやめましょうよー。(;_;) 古墳誰時 2002/10/19 15:54

> 古墳誰時さん、ほんとは引用で怒ってるんじゃないんじゃないですか?

 正直に、引用で怒ってま〜す。

> プライドを傷つけられたと思っているのじゃないかな、と感じます。

 プライドは低い方です。そんなのじゃなくて今後の研究遂行にも支障があるのです。

> 人と一緒に勉強するということは、時には自分で築いたものを壊されるときもありますけれども、それは新しい発見のための通過儀礼のようなもので、それでもめげずに、一生懸命性懲りもなくおなじことを別の視点でまた勉強すると幅が広がると思うのですね。

 一般論として捉えます。今はあまり関係ありません。

> NET上で繰り広げられる論争の多くは、その「モノを追求しよう」から「プライド」を傷つけられたという感情の怒りに移行してしまっていると思います。

 (重複)プライドは低い方です。そんなのじゃなくて今後の研究遂行にも支障があるのです。

> 古墳誰時さんの「はい討論」の掲示板が誰でも見られる領域のものでなかったなら、ここでの規約の引用はいけないと思いますが、

 まず、画面上で見ることはもちろん可能です。書込みも可能ですが、一定の説で古代史像をどこまで解明できるかという目的がありますので、制限事項を設けて(明確にして)他説は主張しないでほしいとしています。

>そうじゃないのでみなさんの意見が正しいです。

 違います。(邪馬台国論争時代の論調ですが)古代史関係には諸説ありますが正しいのは1つです。そのつもりの制限事項でもありますのでノーハウです。何十年も掛けて作ったものを簡単にコピーしていいと思われますか。

> それは、古墳誰時さんは重々わかっていらっしゃるように見えます。

 上の通り、観点からして違います。

> 古墳誰時さん、冷静になって風琳堂主人さんとお話ください。

 こういうお話が出ること自体が論点がずれています。

> そして見つめてくださいませんか? あなたが本当は何に怒られているのか。

 上述のとおり。

> 掲示板の規約に信念をもって、今、自分のしたい研究のみの制限をしているとおっしゃっているのですから、引用されてもいいじゃないですか。

 (重複)違います。(邪馬台国論争時代の論調ですが)古代史関係には諸説ありますが正しいのは1つです。そのつもりの制限事項でもありますのでノーハウです。何十年も掛けて作ったものを簡単にコピーしていいと思われますか。

 個々の引用、例えば「お宅のHP(掲示板)についてだが、この説を制限しているのは変ではないか?」というような話にしてほしいです。

> ちゃんと趣旨は伝わってますよ。(^0^)
> 古墳誰時さんは古墳誰時さんのなりのやり方で、どうぞ研究を続けて欲しいと思います。楽しみにしております。(^-^)v

 そうですか、ありがとうございます。

> たぶん、ここでの書き込みは古墳誰時さんの幅を広げるのにいいチャンスだったと思います。
> 違う角度から、ホツマを何度も見てみるきっかけになったと思います。

 う〜ん、正直よくわかんない。

> だから、今回のこのような顛末は非常に悲しいです。

 でも、さかなさんのお蔭で意見を書けました。

> 冷静になって、風琳堂主人さんと血の通う「ことば」でお話してみてはいかがでしょうか?

 (重複)こういうお話が出ること自体が論点がずれています。早く問題個所を削除してください。そちら側にとりましても、ほとんど無意味な投稿なのではありませんか。

> 文章ではもうお互いの感情の矛をおさめられないと思いますし・・・。

 そんなことはないと思いますが。

 さかなさん、どうもありがとうございました。

647 独善 ピンクのトカゲ 2002/10/19 18:18

古墳誰時
嘗めるんじゃねぇぞ!
自分のことしか考えられんぇのか
てめえの書き込みも支障があるんだぜ
三河の香具師の元締・三河の久兵衛末・ピンクのトカゲ
おとなしくいってりゃ〜御託を並べやがって
大概にしネェと本気でやらせてもらうぜ
どうしても削除を要求するなら、あとは、第三者機関(裁判所)に委ねるべきですぜ!
そして、その結果に従うのが男って言うもんでぇ

648 Re:読者の皆様へ 古墳誰時 2002/10/19 19:17

風琳堂主人さん

>  古墳誰時さんと不肖の主人のやりとりの背景には、ZOUさんが指摘されたように、ホツマ観、あるいは、瀬織津姫観の違いがたしかにあります。

 ホツマ観:西暦336年成立の本物の古文献。

 瀬織津姫観:天照大神(男)の正后。わたしの「秀真伝による古代史解明図2001.11.7版」には載っていませんが、書き忘れた又は書くスペースが無かったという程度の原因です。瀬織津姫だからといって特別な思い入れはありません。次回の古代史解明図にはできれば取り入れたいです。

>ホツマ研究の総体がもっている、まったく気づかれていないといいますか、自己矛盾の問題を、古墳誰時さんの「制限規約」は象徴的に提示しているとみています。

 言い掛かりです。「制限規約」という言葉についても、規約には投稿制限が付き物ではないでしょうか。

 制限規約、反皇国史観、皇国史観と用語がありますので説明します。わたしの掲示板の中で反皇国史観と皇国史観を制限したのは、私のHPでは古代の天皇や神を比較的多く扱っていますが、現代の両史観のうちで極端なものは討論から外すという意味が大きいのです。事前に明記しておかないと、投稿後の対処ができません。

>  これは、いつかホツマ論をするときにふれるつもりでいたものですが、要点だけを述べれば、ホツマが表象した、男神=天照大神、女神=瀬織津姫という二神の関係をきちんとみていきますと、

 以下に述べられている反皇国史観になることはないと考えています。

>「制限規約」があらかじめ排除していた、たとえば「反皇国史観」にいきつかざるをえないということがあります。これは、先験的な皇国史観や、反皇国史観の感情的な立場から言っているわけではありません。

 見てみましょう。

>そうではなく、ホツマが表した、天照大神=男神、その対神としての瀬織津姫の関係を掘り下げていくと、必然的に、皇祖神をまつるとされる伊勢神宮の創立動機が崩れる場所へいきます。

 内宮:天照大神、外宮:豊受神、ホツマの記載と一致していて創立動機がより裏付けられ方向でしょう。

>  そういった可能性を、厳然と秘めているのがホツマなる書ですが、

 ホツマには伊勢神宮の創立動機を崩す可能性はないということです。

>こういった認識を保留・先送りとする「研究」態度は、

 間違った認識でのことです。あとホツマとはどういう書(成立年代ほか)であるかということを早く明らかにしなければなりません。

>ほかの、つまり、これまでのアカデミックな学者たちによる神々や歴史の「研究」などと同様に、この国の神(まつり)の自然な姿や、歴史の暗部に光をあてることからは遠いものだろうと考えています。

 ?????

>伊勢神宮側が主張する、たとえば2000年の歴史がある社だといった自己主張が崩れるということは、既成の皇国史観の根拠=幻想の一角が無化されることでもありますから、

 わたしは考古学関係もかじっていますので、崇神〜垂仁〜景行の頃として、西暦300年頃と断言します。しかし天照大神の没年(崩年)はちょうど2000年前頃です。

>その意味で「反皇国史観」を呼び込むことは必然です。

 嘘です。年代については、将来的には訂正は必須でしょうね。

>ただし、瀬織津姫を明かすことは、1300年にわたる皇国史観が半ば意図的に混乱させ、かつ排除してきた、一般庶民の心の「本音」の部分を明かすことと重なるだろうというのが、囲炉裏夜話の、強いていえば思想的立場です。神と歴史の要の問題から眼をそむけないこと──これは、瀬織津姫を見失わないことと一緒だろうと考えています。

 それはそれで結構なことです。

>  ホツマは、瀬織津姫とは明らかに異なる「人物」として、いわゆる「宗像三女神」を文学的に登場させていますが、では、その三女神の一神である「湍津姫命」が瀬織津姫に置き換えられて具体的にまつられている事実について、おそらく、ホツマのみを「研究」している場所からは、とうてい説明も解明も不可能なはずです。これは、記紀がどのような編集思想によってつくられたのかといった観点・視点を考慮しないと、まったくみえてこないことです。この宗像神の問題一点を取り上げてみても、ホツマが記紀以前の作だというのを容認するのはむずかしいとおもいます。

 ホツマが記紀以前ということに変わりはないと考えていますが。この例については知識がないため割愛とします。

>  ホツマは、なぜ大物主と大田田根子の作とされるのか──。

 大田田根子が書いたから。これで辻褄は合っています。

>三輪氏は、記紀が創作されるとき、あるいは、伊勢神宮が立ち上がるとき、どのような立場にあった氏族なのか──。

 (垂仁の頃)大物主。春日左大臣家に対する右大臣家。

>わたしは、記紀以降に、伊勢あるいは三輪山のほんとうの神を伝えてきた人が存在したことを考えないと、ホツマ成立の動機はみえてこないという気がしています。

 ホツマ成立が後世(江戸時代など)とした場合のことです。記紀よりも先行成立というのが正しいと考えています。

>ホツマの作者は、日本あるいは伊勢の神まつりの虚妄部分に気づいていた人物だろうとおもいます。

 右大臣大物主家の頭首(大田田根子)。

>また、ホツマの歴史観をみますと、そうとうなインテリの作であることもわかります。

 ホツマの歴史観:事実を書いたものです。大田田根子は現代感覚とは異なりますがある意味インテリでしょうね。

>  伊勢神宮がもっとも警戒した神社が伊雑宮(現在、内宮の別宮扱い)でしたが、同宮の祭神(の一神)を瀬織津姫として認識していたのは、伊雑宮の「神人」でもあった西岡氏という「御師」でした(西岡家文書)。伊雑宮が伊勢の本宮とする主張は、伊勢神宮と幕府によってつぶされてしまいますが、ホツマ成立の背景には、伊雑宮と伊勢神宮との、江戸期における、この激烈な対峙事件が投影されている可能性があるとわたしはみています。

 この問題は江戸時代でのことでしょう。ホツマはこれだけを記している訳ではないので、現代の総合的な研究により必ず良い方向の解釈が生まれると思います。瀬織津姫の関わりについてはよく知りません。ホツマ成立はずっと昔のことと考えています。

>  古墳誰時さんが排除した「学術内容」の一つにホツマ偽作説がありますが、ホツマが「偽作」ならば記紀も明らかに「偽作」となります。それぞれがそれぞれの立場=編集的立場から一冊の書をつくりだすわけで、その意味で、この世に「偽作」はない、あるいは、すべて「偽作」だとなります。厳密な意味で「偽作」があるとすれば、それは、作者を偽る、古く見せるといったレベルでしか該当しないものとおもいますが、しかし、そこに含まれる伝承のすべてが「偽作」=創造といえないことは、これも、記紀についても同断です。

 ホツマは本物の古文献という立場で古代史の解明に挑戦しています。偽作説で研究している人もいるでしょうが、知ッタコッチャナイということです。

>  ある伝承がもっている、あるいは、その伝承が比喩的に伝えつづけていることに対して、それがどんな事実・心(伝承者が伝えつづけてきた「思い」)を表現・意味しているのかを、後世の人間、つまりわたしたちが、どこまで汲み取れるかといったことが大事で、ある書をまるごと信奉するかどうかの問題ではないというのがわたしの考え方です。

 関連遺跡と実年代の解明が先決と考えています。

>  ホツマの作者は、かなりの歴史通かつ神様通ですし、また、なによりも文学的な造形力は見事というしかありません。漠然とした割合ですが、ホツマは三割の真実と七割の文学性によって構成されているとみています。これは、「正史」の第一号である日本書紀も然りです。

 ホツマは本物の古文献との考えなので、書かれていることは殆どが真実とみています。

>  今回、問題点として絞られてきている「引用」の是非については、これは、とても大切な、いいかえれば、これからのことにも深く関わる、いわば表現の前提条件でもありますので、何度もいうようですが、わたしはそれを崩すことはしません。「引用」された当事者が不愉快におもうかどうかは、まったく次元が異なることです。逆説的にきこえるかもしれませんが、「引用」するにあたっては、それに値するものかどうかを判断してなされます。

 あなたはホツマについての間違った知識がせいぜいといったレベルです。他の制限事項まして制限事項全体に言及すること等はとても無理です。ホツマについての引用は致し方ないとしても、それ以上は自粛するべきです。

>  古墳誰時さん、ご理解いただけることを信じたいですが、

 ちょっと無理のようです。

>もしご無理ならば、直接お会いしましょう。

 会うとしたら問題解決の後になります。

 しかし長々と文章がお上手ですね、わたしは気短かですからもう本当に感心しました、いやはや。

649 囲炉裏夜話の考え方U 風琳堂主人 2002/10/19 23:58

■さかなさんの正論
私は仮面HNのみなさんの対応は好きではありません。
敵と見なしたら相手を殺してしまう。言葉の集団暴力であると思います。
正当な理由はあっても、当事者じゃなくても見ているのは痛いです。
失礼ながら、このような書き込みは、ここで語られている「ならずもの国家」となんら変わりない行為であると思います。
相手を傷めつけようという正義の悪意が見えるので、余計哀しいです。(囲炉裏夜話643)

 さかなさん、その通りです。匿名に隠れた発言行為は、それがたとえどのような正論であろうとも、集団で一人を攻撃するとなるとフェアではなくなります。以後、メールアドレスを伏した投稿で、個人(古墳誰時さんに限りません)を攻撃する投稿は削除しますので、どうぞ自らの言葉に責任をとれるようにしてください。
 まさに「よい機会」ですので、「囲炉裏夜話の考え方」を再度「引用」しておきます。

■囲炉裏夜話の考え方
 よその掲示板を見ていておもったことがあり、〔中略〕近い将来ここでもありうるかもしれないこと──について、少し書いておきます。
 それは、この囲炉裏夜話で、批判に名を借りた感情の応酬(本論外の小さな異論の応酬)をされるなら私的メールでやってください、ということです。ほかの掲示板の考え方は知りませんけど、ここはあくまで「公開の場」ですから、第三者=読者の視線・思いをよくよく考えて、私物化しないようにお願いします。度を越えたもの(読むに耐えない論議)は、編集責任者=管理者の一存で削除するか、実名を公表することを要求します。いいかえれば、匿名での感情的な論戦・応酬・逃げは認めないことをここにはっきりさせておきます。自分の言葉に、自他ともに責任をとっていただくことを原則とします。(囲炉裏夜話520)

 別に予言したつもりはありませんけど、「よその掲示板」の問題ではなくなってきました。くりかえしますが、無言の読者の視線・思いをよくよく意識してください(これ、編集者として、独りよがりの著者に何度か言ってきた言葉でもあります)。
 囲炉裏夜話がもし紙媒体の雑誌だったならば、誌上に載ることはまずない言葉が氾濫しはじめましたので、一言申しておきます。言葉=公ですが、言葉=個人でもあります。言葉がもっている二重性を大切にしてください。
 そろそろ「おしまい」にします。
 古墳誰時さん、あなたの理解不能力の感情表示だけは、最終のものとして、たしかに受け取りました。「引用」の是非については第三者(機関)に判断を委ねるしかなさそうです。囲炉裏夜話では「えてかたり」→「ごね得」は通用しません。ここへのあなたの書き込みは、今回限りで不可能となります。

650 「心を強くするメッセージ」のご案内 あだち 2002/10/20 08:27

   お邪魔いたします。

 悲しみを喜びに、不安を平安に
 失望を希望にうち変えてくれる
 メッセージをお受けください。
    日替わりにて
 「心を強くするメッセージ」
     を発信しております。

  http://www5a.biglobe.ne.jp/~subrow/

       安達三郎

651 ご苦労様でした。 杜 かじか 2002/10/20 12:57

 長い討論ご苦労様でした。
このような悲しい討論が二度と起こらないことを祈っております。

652 お疲れさまでした 吉祥姫 2002/10/20 14:27

それにしても[650]の書込みは、とんだ、すっとんきょうなお客様になってしまいましたね…(^_^;)

653 秋の気配が濃くなってきましたね。 サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/10/20 20:46

ご主人、こんばんわ

やっと、終止符が打たれたようですね。
また楽しい皆様のお話が聞けるかと思うと嬉しくなります。

このたびの掲示板での書き込みと対処の難しさはなかなか考えさせられるものがございました。

心ならずもハンドルを変え、メールアドレスを隠して投稿された方々が、そうせざるをえなかった状況と、きつい言葉で申し上げてもお引取り願いたいとの意思の現われかとも思います。
普段は言わなくてよい言葉をもってしても、話がかみ合わないもどかしさは、やはり心が寂しくなりますね。

ご主人はじめ、矢面に立たれたトカゲさんほか皆々さま、お疲れ様でした。
変名ハンドルをはずし、気持ちの良い囲炉裏夜話での会話が楽しめることは、変名を使われた皆様においても願っていらしたことだと思います。
あはは!でもどなたがどのハンドルかわかりませんけれど...(^^)
素顔のハンドルの皆様とも、改めてここでお会いできるのを楽しみにしております。

ご主人、風邪には早めの対策が効果的とか....
うふふ、そうですよ!早めにおいしい滋養のもの食べて
百薬の長を飲んで、ゆっくり寝たら直るそうです。
又のご来店をお待ちしております。
            居酒屋「さくら」女将より

654 悲しいことです MS 2002/10/20 20:57

 風琳堂の技術スタッフとしては、今回のような騒動、そしてアクセス拒否をしなければならないことは、悲しいことです。
 我々制作サイドとしましては、「性善説」を基本に制作にあたらないと、とてもホームページの制作または掲示板・ネットショッピングサイト等を立ち上げることはできません。
 現実としては、ネット詐欺や不正アクセスが後を絶ちませんが、それでも「性善説」を信じて制作しております。
 このホームページにアクセスしてくださる方は、議論好きで、自己主張が上手で、聞き上手、話し上手な方で、そんな訪問者によって、大人のホームページが形成されてきました。夜話には喧喧囂囂は似合いません。寝酒をやりながらちょっとアクセス、気分を落ち着けておやすみなさい。そんなホームページをこれからも続けてください。それにしても風琳堂主人の書き込みは長い!!

655 援軍のお礼 風琳堂主人 2002/10/21 00:18

 小さな掲示板の小さなドラマに終止符が打たれて、ちょうど24時間がたちました。
 このたびの闖入者とのやりとりでは、まるで瀬織津姫の化身かとおもわせる匿名さんの援軍を内外にたくさんいただきました。

 日光菩薩さん、救世主さん、不動明王さん、ZOUさん、十一面観音菩薩さん、囲炉裏で暖をとる者さん、さかなさん、通行人さん、ピンクのトカゲさん、かじかさん、吉祥姫さん、サクラさん……

 ケンカの最中ではお礼ができませんでしたので、ここでまとめてお礼申し上げます。ありがとうございました。味方に厳しくならないと他人を本気で切ることはできないとおもい、最後にちょっと「鬼」をやらせてもらいました。みなさんのところで同じようなトラブルがあるときは(無いに越したことはありませんが)、今回の借りを返しにうかがいます。そのときのHN[ハンドルネーム]は、「金剛不動桜明王」あるいは「糺の森の女神」にするかななどとおもったりしましたが、やっぱり「風琳堂主人」に落ち着くかも。
 スタッフのMSさん、パソコン素人の主人の補佐をありがとうございました。
 たまには短く──ということで、今日はここまで。

656 終わりましたか・・ ZOU 2002/10/21 01:45

今回の出来事について、なにか相談できそうな所はないかと探してみたんです。ご存知「WEB110(ウェブ・ワン・テン)」http://www.web110.com/や、そのリンク集中にリンクされている、メールや掲示板での法律相談を受け付けてくれる弁護士さんのサイトが存在することに気付きました。

実はこれは古墳誰時さんにもお勧めできることかもしれません。トカゲさんのおっしゃるように、以後ご意見のある場合は、第三者機関に相談されるのが良いのではないでしょうか。それが裁判所であれネット上の相談所であれ、風琳堂ご主人は正々堂々と受けて立たれる方であることを確信しており、私はご主人を支持するものです。なお、この場合は、「ホツマ」に関する真贋論争と、「引用」に関する法的な問題はまったく別物であることは言うまでもない事ですね。

次に、以前の書きこみ(No.634)で「紳士的に・・」と発言したことについてです。たとえ意見の違いにより袂を分かつことになったとしても、どこか別のサイトで出会ったときに「よっ!元気? お久〜(^-^)/」みたいに友好的な関係を作り直すことができれば楽しいですよ。私自身も奈良盆地から情報発信(怪しいのが好きなんですけどね^_^;)をする者であり、奈良オンリーのオフミが開かれていることなどを考えると、その気になれば実際に顔を合わせることが可能かもしれません。古墳誰時さんに意見させていただいた以上やはりバツ悪いですよ(;^_^A そういうの嫌ですもんね。

最後に、さかなさんやご主人のおっしゃる事(No.649)が正当だと思いましたので、私自身のネット上の所在も明らかにしておきます。正直、私の不勉強ゆえですが、風琳堂さんやトカゲさんのおっしゃる事に抵触することだってありますもんね。だからこそ、この「囲炉裏夜話」を読むのが楽しかったりします。

今回の出来事について私からの書きこみはこれにて。
みなさん、どうも失礼しましたm(__)m

657 鷲林寺と瀬織津姫U 風琳堂主人 2002/10/21 03:38

 どなたか「援軍」のお名前を書き忘れているぞとおもい、あっ、クミコさんだと送信してから気づきました。クミコさん、ゴメン。また、ありがとうございました。

 ZOUさん、異論は異論、友好関係は、それはそれ──賛成です。異論を認めないことには人と人との関係の基本部分までガタガタになります。また、「古代」の話などもできませんしね。押し付けではなく、自由に意見がいえる場だというのが大事かとおもいます。どうぞ、ここは「排除」しませんから、ZOUさんもご遠慮なく。
 奈良でもし古墳誰時さんに会われることがありましたらよろしくお伝えください。ホツマ教をはずせば、別に悪人ではないと読みました。
 わたしもかつてホツマ熱にかかっていたことがあります。なんといいましても、瀬織津姫を唯一肯定的かつ好意的に記した書ですからね。ヤマト側の諸文献は瀬織津姫を「悪神」とみなしているのに、ホツマ一書だけが、瀬織津姫を優雅でやさしい神として描いているというので、最初、それはもうコウフンしました。ただ、その後、全国の瀬織津姫祭祀と伝承を拾っていくようになりますと、どうもホツマ一書に還元してこの女神を語ることは不可能だとおもうようになりました(ホツマは湍津姫のことを「タキコ」と書いていますが、特に、宗像三女神の問題があります)。ZOUさんと、もしホツマ真贋論争をするとしても、今しばらく先にしましょう。これは、正確には、ホツマ「成書時期」論争となるかなとおもいますけど(あと二・三の古史料を確認できれば、ホツマの成書時期はほぼ確定できるだろうとみています。そのときは、この囲炉裏夜話に書きます)。

 先日の「鷲林寺と瀬織津姫」の話の補足を少し──。
 鷲林寺HPによりますと、同寺が空海によって創建されたのは833年=天長10年のことで、同HPの寺の「沿革」には、この寺の前はなんだったのかをうかがわせる記述があります。

■鷲林寺の前は八幡高良社か
(空海によって大鷲が桜の霊木に封じられたあと)再び化人が現れて「観音示現の地、なんじの求める霊域はこの処なり。なんじ、しばらく礼拝[らいはい]せよ」と告げられました。お大師さまはご自分の体を地に投じて礼拝すると、不思議にも観音さまが現れました。そのお姿を写して大鷲を封じ込めた桜の霊木にて十一面観音菩薩を刻み鷲林寺[じゅうりんじ]と名付けられました。その後八幡高良などの社を再建し〔後略〕

 この「沿革」によりますと、八幡高良社は創建ではなく「再建」されたことになります。同社は、鷲林寺ができる前にすでにあり、寺の創建時には廃れてしまってはいたが、それを同寺創建のあとに「再建」したというように読めます。
 この再建された八幡社は「八幡高良社」とあり、この「高良」の意味はなにかということがあります。「沿革」からだけでは、正確に読み取ることはできませんけど、しかし、筑後の高良玉垂神社との関係があるのかもしれません。つまり高良神=香春神=宗像神とたどれる可能性です。
 八幡比売神としての宗像神は、さらにその背後に瀬織津姫を隠していましたが、鷲林寺の八幡高良神をここに重ねてみますと、高良神=宗像神とみることもできるのではないかと考えられてきます。鷲林寺寺域には、現在、若宮社の名で廣田神がまつられていますが、鷲林寺創建時に「再建」された八幡高良社が現在の若宮社となったものかとおもわれます。また、『諸社禁忌』は、廣田神のことを「八幡同体」ともしていました。
 廣田神は、天照大神荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)と表示されるも、これは瀬織津姫の異称で、八幡比売神もまた瀬織津姫でしたから、八幡高良神から男神=八幡神をはずした比売神は「高良」神という女神とみることができます。この高良神(=香春神)の女神はなにかとなりますが、これは、香春神社祭神の現在の表示でいえば、「女神」は辛国息長大姫大目命、豊比売命の二神となります。しかし、八幡神と関わる「女神」という条件を考慮しますと、八幡関係神は、豊比売命のほうだろうとなります。なぜなら、この豊比売が鎮座する社名は「古宮八幡社」でしたから。
 鷲林寺のかつての八幡高良社の高良神=香春神は、そのまま廣田神=瀬織津姫=豊比売(肥前の川上神社を考えれば、淀姫=与止日女ともなる)と異称同体とみることができそうです。廣田神もまた、九州の地へと遡及することができるということでしょう。いくつもの神名表示がなされていて、ほんまにややこしいですが……。

658 悪役の清原一族も… 吉祥姫 2002/10/21 07:38

後三年役で悪役にまわった出羽の清原一族も「出羽を守ろう」がために源氏について悪役を演じました。
それにあやかるわけではありませんが、自分達の城を守る為には前後見境なくとも参戦します。風琳堂さん、かりに毎度出没しなくても、みかたはみかたです。心強くしていてください。
ちなみに出羽の清原の出生も陸奥の阿倍一族と言われています。北を守る人々には皆熱い血が流れていますね…

659 「高良」難しいですね クミコ 2002/10/21 22:20

ご主人思い出して下さって嬉しいです。

私(625)で八幡高良を八幡高奈と書き間違えていたのですね。すみません。

「高良」でちょっと混乱。
いろいろ調べていたところにも高良神社が出てきたりしてて…
文章になりそうでしたらまた聞きに来ますのでその時はよろしくお願いします。

660 北のこころ 風琳堂主人 2002/10/22 05:40

 吉祥姫さん、こんばんは。
 アテルイに象徴させてもいいですが、北の戦史は受動の戦いで、こちらから侵略的に攻めることはしないが、もしやってきたら追い返すというのが基本の型かとおもっています。人の心は弱いですから、形勢が不利になると仲間割れなんかもありますけど、しかし、最後のところでは、「賊軍」となろうが「鬼」と呼ばれようが知ったことではない、理不尽な輩は「皇軍」もクソもない、すべてたたきだす──アテルイ(たち)が底流として伝えてきている「北のこころ」があるとすれば、これだろうなとおもっています。
 昨日、遠野の歴史を語らせたらこの人の右に出る人はいないという人と話をしていて、遠野は、これまで、畑などから蕨手刀がごろごろ出ていて、あまりにしょっちゅう出るので、まともに記録してこなかったということを聞きました。
 タタラ跡もいくつも確認され、今でもカナクソなどがよくみつかるそうです。ひょっとすると、遠野はアテルイたちの軍への武器の供給基地の役目ももっていたかもしれない、その可能性はおおいにある、という結論になりました。

 クミコさん、こんばんは。
 高良、香春といった漢字面にあまりとらわれないほうがいいのかもしれませんね。
豊前国風土記逸文は「鹿春の郷」のところで、「昔、新羅の国の神が自分で海を渡って来着いて、この河原に住んだ。すなわち名づけて鹿春[かはる]の神という」と記述しています。
 鹿春=香春の神が新羅から「自分で海を渡って」やってきたというのは興味深い伝承ですが、この引用箇所をみますと、高良、香春=鹿春は、もともとは「河原」からきたことが考えられます。鷲林寺の八幡高良神は、八幡「河原」神というところでしょうか。高良神は、河原、水辺の神といった性格で理解すればいいのではという気がしています。

661 和漢三才図会 さかな 2002/10/22 07:42

 ちょっと、薬草のことを調べようと思い借りました本で発見しました。

◆『和漢三才図会』
【天象類】
 暴風(はやて・のわき)
 [和名 八夜知(はやち) また、乃和木(のわき)という]
 暴は急ということである。卒におこる貌である。風雨の暴疾をあらし(風へんに利、音はリツ)、あらし(風へんに栗、音は同じ)という。

 風(かぜ)
 [和名 加世]
 風の神は飛廉と名づける。『晋書』の注に「飛廉は風伯である。箕星は風師である。飛廉神は鹿の身体で雀のような頭、角があって蛇の尾を持ち、豹文がある」

【天文】
 女(うるきぼし)
 一名は須女 またの名はむ(漢字がでません)女
 ――中略――嫁娶りを主る。これを須女という。須とは身分の卑しい女の称。機織の身分の低い者のことである。婦女の地位を主り、織物したり、衣服を仕立てたり、嫁娶りの仕事などを主る。

 和漢三才図会をみますと、暴風の神が瀬織津姫であることがわかります。また、須女とは機織女のことであるようなので、これを前に風琳堂主人さんに説明いただいた、暴風の神のところに当てはめますと、瀬織津姫と須勢理姫が重なってくるように思いました。
 また、風の神の容貌のところを見ますと、鹿の角をはやし、蛇の尾を持つケルトの神・ケルヌンノスとほぼ変わりありません。(私は縄文でケルトとつながると思っているので・・・)
 まだ、確信とまではいかないので、もうちょっとこの辺を調べたいと思います。(^▽^)v

◆高良という言葉
 『おもろさうし』では「玉珈波羅」というのは、「勾玉」のことだそうです。
 広辞苑で調べました「青玉=竹」となんとなくつながりそうな気配ですが、もうちょっと調べます。

662 お邪魔します。 この花咲くや姫 2002/10/22 14:12

ピンクのトカゲさんのところを逃げるようにして
遊びに来ました。ふ〜ん。ピンクさんもいるけどいいのかな? 怒ってんの?どうして。ちょっと堅すぎるって・・

>ピンクさ〜ん「天皇制と女神と本の話」は斜め読みいたしました。このこといってたの? すごいね。意味わかってるの。

この花はお勉強が嫌いなの。それなのに ホツマ伝を習わなければいけないらしい。

そんな物 教わらなくたって 困ってる人を見たら助けてあげられるし 別に困ってないから・・・

それと風琳堂ご主人さま。この花はピンクさんを信用してないわけじゃないよ。

遊んでたの。ねえ。ピンクさん。 じゃあ!また来るね?

663 おっと大チェック書込み発見! 吉祥姫 2002/10/22 17:50

吉祥姫です。
秋田県鹿角市出身のシンセサイザーを職業にしています。
秋田県鹿角市(かづのし)は
「豊岡」「上津野」「鹿角」と呼び名が変遷しており興味深い所です。
十和田高原超文明と騒がれるまっただ中に存在します。もっとも美しく研究された?「日本ピラミッド:黒又山(通称クロマンタ)」も目と鼻の先です。
 そんな中さかなさんの書込みを発見しました。
》鹿の角をはやし、蛇の尾を持つケルトの神・ケルヌンノス
 鹿の角をはやした神様の名前がケルヌンノス…というとは…
「ケルヌンノス」--ケルノス--ケルス--ケス------ケスノ--ケズノ--カズノ…と無理すれば変わらないとも言えませんな…(^_^;)(^_^;)
 意外に鹿角の知名の新説になったりして…

664 改めて こんにちは。 この花咲くや姫 2002/10/22 22:57

はじめまして。今日2度目の書き込みです。
前回の自分のレス見ていて 悲しくなりました。
そして 今は恥ずかしいです。初めての方のHPに来てコレはないですよね。大変。大人気なく反省しています。

改めてよろしくお願いいたします。

ご主人は瀬織津姫の研究をされているのですか?
ご出身は福島の方ですか?一度福島の方には行ってみたいと思っていますが どうしても足が運べません。
大内宿にいってみたいのですが いつもチャンスがつかめないのです。

この花咲くや姫は 浅間神社にお祭りされている神さまののお名前から戴きました。
自分でもよく判らないのですが・・・このHNが気に入ってます。

665 鹿は死して角をのこす 風琳堂主人 2002/10/23 07:42

 さかなさん、こんばんは。
 暴風の和語が、八夜知[はやち](→疾風)、または乃和木[のわき](→野分)とのこと──、これは遠野の早池峰山の山名にも関わるようです。
 遠野盆地に吹き寄せる風は「早池峰颪[はやちねおろし]」といいますが、早池峰は疾風[はやて]が吹き降りてくる峰の意味があります。
 早池峰山は、現在は瀬織津姫を山神としていますけど、その前は日神=太陽神の山でした。瀬織津姫は、山の姿としては早池峰よりも美しい、早池峰山の南に聳える前薬師岳(現在の薬師岳。ここに又一の滝があります)にもともと鎮座していて、そこから早池峰山へと移っていったことが考えられます(詳しい話は『エミシの国の女神』を参照ください)。
 遠野側の早池峰神社は、その背後の前薬師岳を、さらにその背後の早池峰山を拝むように建てられています。ちなみに、風琳堂の事務所の近くにある早池峰山遥拝社でもある賀茂神社(桜の古木の横に水神の祠があります)や、遠野に最初に瀬織津姫が降り立ったとされる伊豆神社(来内権現)も同一直線上にあります。伊豆─早池峰信仰ラインが狂いもなく形成されていますが、遠野盆地の信仰の視線はけっきょく早池峰山に収斂するようになっています。
 ところで、瀬織津姫は「暴風の神」というよりも、やはり水の神ではないか、瀬織津姫が「暴風の神」となるのではなく、瀬織津姫の対神の日神がそうではないだろうかとわたしは考えています。瀬織津姫は水神で、たとえば奈良盆地ですと広瀬神がそれに該当し(広瀬の水神)、風神は龍田神となります(龍田の風神)。両社はセット=一対の関係社を構成しています。
 日神は火神でもあり、火は風をおこしますから、風神=「風伯」神ですね。それに対して、水神は、この「風伯」神に対応させれば、「河伯」神と表示されるかとおもいます。
 高良=香春は「河原」からきた語という風土記逸文の話までは浮かびましたが、勾玉の意をもつ「玉珈波羅」という語ははじめて知りました。
 伊勢神宮の式年遷宮のときに、新しい宮の敷地に白い丸石(玉石)が敷かれますが、これは河原の白石で、これも、その祭神がもともと河原の神だということと関係がありそうです。玉珈波羅も河原の石を玉化したものなのかもしれません。

 吉祥姫さん、こんばんは。
 どこかで聞いたような苦しい音韻変化ですが、どこで聞いたものかよく思い出せません。トシですかね。
 鹿角の最初は「豊岡」という地名だったというのは初めて知りました。鹿角には大日さん=大日霊貴神社のこともあってうかがったことがあります。境内にすごい杉の株があって、この神社の創祀伝承に関わる継体天皇の話もありうるかなとおもった記憶があります。鹿角は遠野の空気と通じる印象があります。
 鹿の角ということで、わたしなどが真っ先に浮かぶイメージは、「鹿は死して角をのこす」ということでしょうか。
 角の本体である鹿ですが、鹿は鹿でも「白鹿」となりますと、これは早池峰とも深く関わってきます。遠野物語に興味深い話が収録されています。

■白鹿と「白き石」の話
 同じ人(六十話に出てくる嘉兵衛爺)六角牛に入りて白き鹿に逢へり。白鹿[はくろく]は神なりと云ふ言伝へあれば、若し傷[きずつ]けて殺すこと能はずば、必ず祟[たたり]あるべしと思案せしが、名誉の狩人なれば世間の嘲りをいとひ、思ひ切りて之を撃つに、手応へはあれども鹿少しも動かず此時もいたく胸騒ぎして、平生魔除けとして危急の時の為に用意したる黄金の丸[たま]を取出し、これに蓬を巻き附けて打ち放したれど、鹿は猶動かず。あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず、全く魔障の仕業なりけりと、此時ばかりは猟を止めばやと思ひたりきと云ふ。(遠野物語六十一話)

 ここに出てくる「六角牛」(ろっこうし)は遠野盆地の東に聳える山で、遠野三山の一角を占める山です。また、猟師の「嘉兵衛爺」は、安倍貞任の末裔の分家と伝えられる人です(『注釈遠野物語』)。
 この話で興味を惹かれるのは、「白鹿[はくろく]は神なり」との伝承があることと、それがほんとうは「白き石」だったということです。
 岩手は鹿[しし]踊り(鹿子踊り)の宝庫といってよいところですが、これは遠野においてもまさにそのとおりで、そのなかでも、早池峰鹿踊りの「東禅寺組」は、「白い幕をかぶって踊るが、この白鹿にちなむ」とされます(門屋光昭『鬼と鹿と宮沢賢治』)。
 六角牛山は遠野富士の異名をもつ色っぽい形をした山ですが、ここの不動滝には瀬織津姫がまつられています(麓の六神石神社の筆頭祭神は大己貴命…『岩手県神社事務提要』以下同)。また、この山が遠野盆地をはさんで西に対面する山は石上山(石神山とも)といって、これも遠野三山の一山とされます。石上という名のとおり、これは奈良の石上神宮の「石上」にちなむ山名です(麓の石上神社の筆頭祭神は経津主命)。遠野・石上神社の神宝は「刀」でしたが(今はありません)、これも天理市の石上神宮を意識したものでしょう(鹿の角から七支刀のイメージが浮かぶことを指摘していたのはさかなさんでした)。
 遠野盆地を中心にみますと、身近な山としては六角牛山がもっとも親しげに聳えていて、遠野富士の美称もうなずけます。わたしは、六角牛山はもともと瀬織津姫(→大己貴)の山であったとみています。また、この山が対面する石上山は、物部氏の祖神の男神=日神をまつる山で、両山は「遠野三山」が構成される前は一対の関係にあった山で、両神が遠野盆地の北・最奥部へ移って、前述の前薬師岳(現在の薬師岳)と早池峰山の神となったと考えられます。
 東北への物部氏の古い痕跡を想像できる遺跡に、日本最北の「前方後円墳」とされる角塚古墳(四〜五世紀)があります(胆沢町)。わたしたちは漠然とエミシの国=東北とおもいがちですが、千数百年前にはすでに「前方後円墳」をつくる豪族が存在したことは重要なことかとおもいます。
 この古墳名にも「角」がつけられていますが、これも鹿の角からきたものとしますと、象徴としての角とはなにかと想像が膨らみます。角は「鹿」のそれでもありますが、転じて「鬼」の角にもなります。賢治は、なぜ鬼剣舞、鹿踊りを偏愛といってもよいくらいに愛していたかというテーマを追ってみることも可能でしょう。
 賢治のエミシの心は、早池峰を海神(=太陽神)の山とみていたことによく表れています。また、遠野物語の白鹿の話は、引用のほかに三十二話にもあります。同話に出てくる猟師は「何の隼人の猟師あり」と書かれていて、まさに海の民の末裔が遠野盆地に生活の場を築いていたことがうかがえます。
 白鹿=白石は神なり──この白鹿=白石に乗る、影向するのが早池峰の女神です。

 この花咲くや姫さん、こんばんは。
 先回のお話は茫としていてコメントしようがありませんでしたけど、ご理解いただけてうれしくおもいます。富士山=浅間神社の神の木花咲耶姫は、瀬織津姫の分神的異称とみています。ご縁ありですね。
 できましら、「囲炉裏」を囲んで聞いている読者に向けて、一話完結の話を置いていっていただけるとありがたいです。楽しみにしています。
 不肖・風琳堂主人は一部の人から「不祥(心根のよくない)」「不詳(正体不明)」の主人だといわれます。気に入らないことには「不承」の主人かもしれませんけど。わたしばかりでなく、この囲炉裏夜話にやってくる人はみな謎めいています。

666 この花咲くや姫といわ猿 この花咲くや姫 2002/10/23 10:54

>富士山=浅間神社の神の木花咲耶姫は、瀬織津姫の分神>的異称とみています。ご縁ありですね。

瀬織津姫の分神的異称・・・ザシキワラシやカッパですか?

>「囲炉裏」を囲んで聞いている読者に向けて、一話完結>の話を置いていっていただけるとありがたいです。楽し>みにしています。

そんな 気の利いたお話しはありません。
夢の中で 亡き叔母から「浅間神社に行くよう」に言われました。その後ろには もう一人女性の方がおられました。叔母の影でお姿がよく分かりませんでしたが 阿久利さまだと思っていました。

近くの神社の神主様に一番近い浅間神社を伺い訪れました。何故行かなければ行けないのか・・・お社にお参りをしようと階段を昇りかけた時後ろから「何処に行くの?」と声をかけられ振り向けどどなたもいませんでした。参拝を済ませ今登った階段を降りかけましたら そこには東照宮のいわ猿の石造が置かれていました。見ると小さな虫が付いていたので 払いのけて上げました。

とっても嬉しそうでした。「この花咲くや姫 どうもありがとう」といわれたのでそのままいただきました。

何故。こんな寂れた神社に東照宮のいわ猿が置かれているのか 今でも分かりかねます。でも 寂しい時には行って頭をなぜてやります。そのうち色々なことを語りかけてくれるでしょう。

まるで おとぎばなしですね。でもそれでもいいのです。
階段は1段。1段と昇ります。


木花咲耶姫

667 瀬織津姫の分神的異称・・・ザシキワラシやカッパですか? サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/10/24 02:23

あは!
ご主人、やはりご報告したくなりました。

本日の東スポのトップは河童の写真でした。
思わず、買ってしまいました…(^_^;)

野市土淵小学校裏の小烏瀬川の岸辺に映っていました。
全身、緑色頭に伝説どおりお皿も...の字が躍っています。

何でも月曜日と水曜日の午後四時に現れるとか地元のケーブルテレビ局『遠野テレビ』が9月6日に放送したときには、山側に残った足跡だけの報道がされたとか...
そんなフィーバーの中での今回の写真の投稿となったようです。
写真は絵に良くあるカッパそのもののように見えます。

ご主人、地元ではどのような扱いなのでしょうか?
また、分神的異称・・・カッパですか?

668 不言猿が言いたいこと 風琳堂主人 2002/10/24 03:55

 この花咲くや姫さん、こんばんは。とても興味深いお話です。
 瀬織津姫の分神的異称は木花咲耶姫とその姉神・磐長姫のことをいっています。磐長姫は「甚凶醜」(古事記)、つまり稀代の醜女神として、美神かつ桜神の代表のような木花咲耶姫と象徴対比されます。もっとも、遠野においては、ザシキワラシやカッパにも瀬織津姫が投影されてもいますが(詳しくは『エミシの国の女神』の「オシラ神に隠された女神」を参照ください)。
 わたしは異界からの言葉を直接聞いた経験がありませんけど、ただ、神社などで、ときどき、ここの神は居心地悪そうだなという「気配」を感じることはあります。わかりやすい例でいえば、たとえば、滝そのものを神体とし、その滝の向かいか横に不動明王が鎮座しているような、そんな神社を想像してみてください。社名がしかも「〜滝神社」となっていて、そして、その神社の由緒書か看板の祭神表示をみると「日本武尊命」などとなっている場合です。ヤマトタケルはいつから滝の神様となったのじゃ、「?」というわけです(これは東北に散見される例)。
 そういった「?」のヴァリエーションの一つとして、木花咲耶姫と磐長姫という神がありますし、また、弁才(財)天と習合する、不言島の神=宗像神なども同じく、です。
 浅間神社の石造の「いわ猿」についていた「虫」を払ったら、帰りに、そのいわ猿に「この花咲くや姫 どうもありがとう」と感謝の言葉をかけられた──。この「いわ猿」は「言わざる」のはずでしょうが、お礼の言葉を「言った」というのがいいですね。
「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿は、江戸期に大流行した庚申信仰の神とされる青面金剛の使いとされます。これは密教あるいは仏教の側がいう神で、神道側は、庚申の神を猿田彦としています。いずれにしても「猿」です。
 庚申の神は、青面金剛や猿田彦のほかに帝釈天ともされます。だれもが知っている帝釈天といえば、柴又の帝釈天でしょうか。寅さんのあの有名なセリフ「それを言っちゃあおしまい」というのも、「言わざる」の猿からきています。
 庚申信仰の一般的な解釈を少し──。人の体には三匹の悪い虫がすんでいて、それが六十日ごとにやってくる庚申の日に、天帝=玉皇大帝(北極星)へ、その人の悪さを報告しにいく。天帝は、その虫の報告を聞いて、その人の寿命を決定する。そんなふうに寿命を縮める報告をされてはかないませんから、人々は、庚申の日には徹夜で過ごすとされます。これは、寝ると悪い虫が体から抜け出して天帝に報告に行ってしまうからだとなります。
 こういった庚申信仰の理解・理由づけは、陰陽道によるものですが、庚申信仰そのもののはじまりは平安期にまで遡ります。ただし、これは、もともとは庶民の信仰ではなく、節分や七夕などと同様に、宮中の信仰行事を起源としています。
 三猿の本義は、「見ること、聞くこと、言うこと」を自己否定するということにありますが、これは、平安期における天帝(この場合は天皇)の秩序を犯すことの禁忌=タブーを表しているとみることもできます。
 浅間神社において、「不言猿」があえて口を開き、そこへ参った女性に「ありがとう」と言ったわけです。神社世界におけるタブー中のタブーの神があるとすれば、それは、おそらく瀬織津姫の右に出る神はいませんから、これはとても意味深い話です。ちなみに、猿田彦は、伊勢においては、日神=大年神の異称同体で、この日神は、水神=瀬織津姫の旦那神でもあります(伊雑宮)。「不言猿」の言葉は、さて、ほんとうは何を言おうとしたものか──ですね。

 サクラさん、こんばんは。
 遠野で河童フィーバーをしているとは知りませんでした(ケーブルテレビを観ていませんので)。
 遠野のカッパは、早池峰神=瀬織津姫=水神の零落した姿とわたしは考えますが、同じことを頭において河童をみている地元の人は、きっとほんのわずかだろうとおもいます。
 遠野では、たんにカッパではなく、太郎河童とかいろいろ名前をつけて、ほかの神もそうですが、人と同じ背丈の神様としてみています(神社の神様だと、愛宕さん、お多賀さんと、すべて「さん」付けですし、祭りのときは、山の上まで人にきてもらうのは大変だろうということで、神様が自分から里へ降りてきなさるといった言い方になります)。観光行政の考え方はわかりませんけど、河童だからといって、別に貶めてあつかうことはありません。それなりの「神様」として敬意をもって接しているといえるようです。新聞の写真の川には、子育て・安産の守護神としての母河童がまつられています。
 子守り・子安神ともなる瀬織津姫の経緯を知っていて、この母河童を訪れるのは、むしろ遠野外の人なのかもしれませんね。
 ザシキワラシはどこに行けば見れますか──こういった質問に憤慨・慨嘆している人もいます。その人は、ザシキワラシを妖怪の類ではなく、れっきとした「神」とみているわけです。できれば、河童に対しても、「見る」のではなく、せめて「会う」というセンスをもってきてほしいと、わたしなどでもおもっています。

669 賀茂一族です。 この花咲くや姫 2002/10/24 15:03

私にしてみれば もう不思議をとおりすぎています。
先祖の系図探しに入ったのも その一つです。

陰陽道ですか?だとしても賀茂一族でしょう。
吾妻鏡の中でも神道・神事についてふれています。

670 Re:賀茂一族です。 この花咲くや姫 2002/10/24 22:23

> 私にしてみれば もう不思議をとおりすぎています。
> 先祖の系図探しに入ったのも その一つです。
>
> 陰陽道ですか?だとしても賀茂一族でしょう。
> 吾妻鏡の中でも神道・神事についてふれています。

PS 浅間神社の不言猿ですか。会いに行ってきました。
今まで 東照宮の不言猿だと思っていました。
しかし 浅間神社と不言猿の組み合わせも変だなと常々考えていました。妙に納得いたしました。

671 不言猿が言いたいことU 風琳堂主人 2002/10/25 06:08

 この花咲くや姫さん、こんばんは。
 とても静かな夜ですね。
 浅間神社の「不言猿」はきっといいヤツですよ。世の中、「ありがとう」と言えるものに、悪人・悪神はいません(たぶん)。

 瀬織津姫の基本性格は滝神・水神ですが、この水神的性格は、たとえば河川という生活の「動脈」的な場面にまで拡大することができるようです。この女神が、川上神社あるいは川下神社の祭神として各地に確認できることからも、無理のない「拡大解釈」かとおもっています。
 ただし、全国の川上神社・川下神社の祭神に瀬織津姫の名がすべて出てくるわけではありません。たとえば、淡路島津名町にあります川上神社の祭神は「弥都波野売神」とされ、瀬織津姫の名は出てきません。しかし、同社の「由緒」を読んでみますと、実に不可思議な記載であることがよく伝わってきます。

■川上神社「由緒」
 創立年月不詳、伊奘諾神社の川上(上流)に鎮座して居るので、一ノ宮の川上神社という。明治初年まで本殿内に「一ノ宮」と記入した金幣があったが紛失して今は無い。延喜式神名帳に津名郡河上神社とあるのは当神社の事ですが文書等明治初年に失われたという。(神奈備HP)

 自社の由緒を語るにしてはわずかな言葉です。しかし、これも「不言猿」の「ありがとう」の言葉にも通ずるような大きな暗示を含んでいると読むことができます。
 川上神社の小さな「由緒」には、「明治初年」という言葉が二回も使われています。しかも、この「明治初年」は、「一ノ宮」と記入した金幣が「紛失して今は無い」、由緒を記す「文書等明治初年に失われた」といった無念の「時間」を伝えるように書かれています。
 明治国家は、各地の神社に何を強行したのかということが、このわずかな由緒の言葉から伝わってきます。このことは、遠野・早池峰神社が「維新ノ際社録ノ没収トナリ」 (「早池峰神社昇格申請書」昭和3年) と記していたことと正確に呼応しています。
 淡路島と、東北の奥深い山のなかの神社が、明治初年・維新における日本国家からどんなことをされたかを共通して語っていることで、こういった「没収」が全国的になされたことがみてとれます。
 ほかにもいくつかの神社等の同証言を挙げることもできますが、わたしたちが「神様」を語るときに、こういった国家の意志に鈍感であってはならないとおもいます。明治「近代」国家の暗い意志の影響から、現在の日本の「国民性」はまだ自由ではないとみるしかありません。
 きっとなにも言わずに読んでくれている、この囲炉裏夜話の読者は賛成してくれると信じていますが、神あるいは日本の「建国」の思想を語るときに、「明治初年」に象徴される神社および神々の改竄の史実に鈍な感性・知と、この囲炉裏夜話は無縁でありたいとおもっています。
 淡路島の川上神社もまた、「不言」の禁忌=タブーのなかから一言を紡いだことにおいて、その言葉数の多寡とは別に、とても大事なことを、勇気をもって語っていると受け取りました。淡路島の川上神社──ここもいつか訪ねてみたい神社です。

672 難しいです・・・。 さかな 2002/10/25 08:34

吉祥姫さん
はじめまして。
>秋田県鹿角市出身のシンセサイザーを職業にしています。

HPにあったのを拝聴しました。(^-^)
また、他の記事も興味深く拝見させていただきました。

>秋田県鹿角市(かづのし)は
「豊岡」「上津野」「鹿角」と呼び名が変遷しており興味深い所です。

上津野→上毛野に似ているので鹿角は安倍氏(豊城入彦からもでている)あたりにご縁がある土地なんでしょうか?
(昨日関越道で群馬をかけぬけたので、ちょっと、豊城入彦モードです・・・)

>十和田高原超文明と騒がれるまっただ中に存在します。もっとも美しく研究された?「日本ピラミッド:黒又山(通称クロマンタ)」も目と鼻の先です。

大湯の環状列石は拝見しました。(車窓からですが・・・)
面白いところですね。
山はどこにあるのかわかりませんでしたけれども。

>「ケルヌンノス」--ケルノス--ケルス--ケス------ケスノ--ケズノ--カズノ…と無理すれば変わらないとも言えませんな…(^_^;)(^_^;)
意外に鹿角の知名の新説になったりして…

それはわかりませんが、とある神社の宮司さんたちがそんな話をしているので、ケルトと縄文は通説なのかと思ってたんですが、違うんですか・・・。(汗)

風琳堂主人さん

おはようございます。
>暴風の和語が、八夜知[はやち](→疾風)、または乃和木[のわき](→野分)とのこと──、これは遠野の早池峰山の山名にも関わるようです。

やっぱりそうだったんですね! よかったです。

>遠野盆地に吹き寄せる風は「早池峰颪[はやちねおろし]」といいますが、早池峰は疾風[はやて]が吹き降りてくる峰の意味があります。

「はやて」や「はやち」は「はやと(隼人)」に音が似ていますので、ここからの転訛であると考えられるような気がしているのですね。
書紀では隼人の祖は「火酢芹命」なので、「スセリ→ハヤチ」はつながると思っています。
古事記では火照になっていますが、ほとんど登場しない火酢芹も兄弟の真中にいますので、火照=火酢芹は同一とみていいと思っています。

>瀬織津姫は、山の姿としては早池峰よりも美しい、早池峰山の南に聳える前薬師岳(現在の薬師岳。ここに又一の滝があります)にもともと鎮座していて、そこから早池峰山へと移っていったことが考えられます(詳しい話は『エミシの国の女神』を参照ください)。

薬師をアシュク(漢字が出なかったので)如来と置きかえるところもありますが(同じ東方浄土の教主なので)、アシュクは「安宿=あすか」という言葉でもありますよね。
また、このアシュクは妙喜という浄土名を持っており、妙義という名で釈迦の最後の食を司りあらゆる力をあたえられた神、御膳神だそうです。
昨日行った妙義山で買いました本に書いてありました。
ここはもともと波古曽神社といい、金達寿氏の本では渡来神の比売古曽なのではないか、とかかれておりますが、丹生都姫信仰があったようです。
大国主の分霊である少彦名は薬師と習合されたりしていますので、分霊というより、伴侶と考えるとすっきり行く気がしますけど、よくわかりません。

>ところで、瀬織津姫は「暴風の神」というよりも、やはり水の神ではないか、瀬織津姫が「暴風の神」となるのではなく、瀬織津姫の対神の日神がそうではないだろうかとわたしは考えています。瀬織津姫は水神で、たとえば奈良盆地ですと広瀬神がそれに該当し(広瀬の水神)、風神は龍田神となります(龍田の風神)。両社はセット=一対の関係社を構成しています。

龍田の神の「級長(磯長)」は「し・いそ」の発音ですので、「石」ともとれるような気がします。そうすると「石長」になりますね。
もしかしたら、一霊四魂の考えか五行に当てはめられるかも知れません。

>日神は火神でもあり、火は風をおこしますから、風神=「風伯」神ですね。それに対して、水神は、この「風伯」神に対応させれば、「河伯」神と表示されるかとおもいます。

河伯というと、河童の沙悟浄ですが、この沙悟浄は深沙神と重なるところがありますので、深沙神とみていいと思います。これは男女和合の神、聖天と同神のようです。(象の頭を持ったインドのシバ神の息子)
また象でひっかかるのは、「象王」は「蔵王」のことですし、レプチャ語で「象」というと「猿田彦」に当たると思いますので、河伯も男性として書かれていて、日神の影が見えるような気がします。

>伊勢神宮の式年遷宮のときに、新しい宮の敷地に白い丸石(玉石)が敷かれますが、これは河原の白石で、これも、その祭神がもともと河原の神だということと関係がありそうです。玉珈波羅も河原の石を玉化したものなのかもしれません。

比売己曽神のアカルヒメはもともと、白い石(白い玉)であったという話も見逃せない気がします。

673 筑紫君磐井と白日別神 九州の龍 2002/10/26 23:09

風淋堂ご主人、こんばんは。しばらくの間、石人山古墳・岩戸山古墳に足を運んだり、筑紫君磐井について調べていました。
八女津媛伝説がある福岡八女地方。古代、筑紫君磐井が活躍した地でもあります。私は、てっきり磐井一族の発生の地は、八女なのかなと思っていたところ、彼らの発生地は筑紫野市筑紫のようでして、その地に鎮座する筑紫神社におきまして、『白日別神』を祀ったといわれています。

私の興味を引いたのは以下の話です。

『筑後国風土記』に、「筑後の国はもと筑前の国と合わせて一つの国であった。この二つの国の間の山に狭く険しい坂があり、往来の人が乗ったしたぐら(鞍のしたに敷く敷物)がすり尽くされた。そこでこの坂を「したぐらつくしの坂」といった。またこの境の上にあらぶる神がいて、往来の人の半分は生き、半分は死んだので「人の命つくしの神」といった。また死者をほうむるためにこの山の木を伐って棺を作ったので木を切りつくしてしまった。そこで『筑紫君』と『肥君』が占って、筑紫君の祖甕依姫を巫女としてこの神を祭ったところ、それ以後往来の人は、害されることがなくなった。それで「筑紫神」といい、筑紫国と言われるようになった。」

以前から、磐井のことは気になっていましたが、少しずつ、古代の謎が解けてきたようです。

674 新羅は黄泉の国か 風琳堂主人 2002/10/27 05:25

 さかなさん、こんばんは。
たくさんのコメントをありがとうございます。ゆっくり、じっくり、いきましょう。

 九州の龍さん、こんばんは。
 八女の古代をみようとしますと、やはり、磐井君がヤマト軍・物部麁鹿火によって鎮定されたことが重く浮かんできます。
 それと、筑後国風土記(逸文)が記す、筑前・筑後の境界にいる神、つまり峠の神であろう「あらぶる神(麁猛神)」=「筑紫神」とはなにかということもありますし、この神を鎮めるために立てられたとされる巫女の名「甕依姫」も気になるところです。
 日本書紀によりますと、磐井君が征討される理由は、新羅と通じ、朝廷の命に従わないからだとされます。このような理由説明からも、当時の朝廷サイド=ヤマト側が、新羅を友好視していないことが読み取れます。また、筑紫君磐井が新羅への朝廷派遣軍の責任者である「近江毛野臣」に対して述べた言葉──「今でこそお前は朝廷の使者となっているが、昔は仲間として肩や肘をすり合せ、同じ釜の飯を食った仲だ。使者になったからといて、にわかにお前に俺を従わせることはできるものか」(宇治谷孟訳)──こういった言葉から、磐井のかつての「仲間」らが幾人も朝廷派に転向していったこと、いいかえれば、筑紫の地で磐井一人が朝廷そのものと一線を画す大豪族であったことがうかがえます(それが征討の真の理由となります)。
 磐井の時代は6世紀初頭にあたるようですが、わたしたちが神々(とその背後の歴史)をみようとするとき、では、筑紫君磐井が朝廷と一線を画し、任那や百済ではなく、通じた、加担しようとしたとされる「新羅」とはそもそもなんだったのかということがあります。これは、日本の神々にとって、あるいは書紀の思想にとって、新羅とはなにかという問いでもあります。
 今回は、この「新羅」と瀬織津姫の話を少し──。

 金達寿さんは瀬織津姫を、その音から「ソウルの姫」→新羅の女神という解釈をたしかしていて(『日本の中の朝鮮文化』)、これがトゲのようにずっとひっかかっています。和訳すると「都の姫」といった感じになるのでしょうけど、これだと、瀬織津姫の滝神としての性格がまったく消えてしまいます。瀬織=滝という理解をしたほうが、宗像神の湍津姫(=滝津姫)と瀬織津姫が置き換わる例(出水市・厳島神社、中津市・闇無浜神社)も納得がいくわけです。
 ただ、高良=香春神にしても、ヒメコソ神=アカルヒメにしても、その出自関係伝承に韓半島をうかがわせるものがあり、これをどう考えるかということがあります。
 日本書紀に最初に出てくる外国地名が「新羅」なのですが、ここは、はたして三国(高句麗・百済・新羅)という歴史時代の新羅なのかどうかということがあります。
 書紀に、「新羅」が初めて記される箇所を読んでみます。

■素盞鳴尊の追放地としての新羅
 一書(第四)にいう。素盞鳴尊の行ないがひどかった。そこで神々が、千座[ちくら]の置戸[おきど]の罪を科せられて追放された。このとき素盞鳴尊は、その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降られて、曽尸茂梨[そしもり]のところにおいでになった。そこで不服の言葉をいわれて、「この地には私は居たくないのだ」と。ついに土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上[とりかみ]の山についた。ときにそこに人を呑む大蛇がいた。〔後略〕(宇治谷孟訳)

 スサノヲは、大祓いの対象となる最初の神です。スサノヲは天照大神が「磐戸」に隠れるきっかけをつくった神として、その罪を問われることになります。書紀は、この罪問い→祓いの場面を、「もろもろの神たちは、(天照大神が磐戸から出てきたことを)大いに喜んで、素盞鳴尊には、沢山の捧げ物をお供えする罰を負わせた。手足の爪を抜いて、罪のあがないもさせた。天児屋命は、祓いの祝詞をよまれた」と記しています。中臣の祖神=天児屋命が「祓いの祝詞をよまれた」という記述に、ここに中臣祓=大祓祝詞がもっている意味がよく表れています。
 書紀は天磐戸隠れの場面の「一書(第三)」において、もろもろの神の言葉として、「お前の行ないは大変無頼である。だから天上に住むことは許されない。また葦原中国にも居てはならぬ。速かに底の根の国に行きなさい」と、スサノヲの追放先を「底の根の国」と明言しています。
 書紀は、根国=黄泉国がどこかということで真っ先に挙げているのが「出雲の簸の川のほとり」ですが、ただ、「一書(第二)」では、「安芸の江の川のほとり」ともしていて、厳密にいいますと、場所を一つに特定できないように「一書」をいくつも並べています。これは、書紀の表現方法の大きな特徴ですが、これは一見、曖昧である、あるいはいくつかの伝承を公平に記すという客観性があるなどという評価論議になるのかもしれません。しかし、わたしは、ここは、書紀編纂の時点で、どこが「根国=黄泉国」とみなされていたかをうかがうことができるという理解をしています。
 書紀が念頭におく、「根国=黄泉国」の一つが「新羅」だということです。「一書(第四)」では、スサノヲは「この地(新羅・曽尸茂梨)には私は居たくないのだ」と言ったあと、「出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上の山」に移ったとされます。出雲はすでにじゅうぶんに根国=黄泉国のはずでしたが、それでも新羅の「曽尸茂梨」よりはましだということなのでしょう。
 ところで、この「曽尸茂梨」なのですが、これは、百済サイドがそう認識していたのかもしれませんけど、なによりも書紀の編纂・創作思想が、黄泉国の中の、さらなる最悪の黄泉国の意で[曽尸茂梨]あるいは「新羅」という語をつかっていることが考えられます。曽尸茂梨という語が含む「尸」は「しかばね」という意味ですが、これは庚申信仰における、三匹の悪い虫を「三尸の虫」と表すこととも通じていて、いずれにしても「死」と深く関わっています。
 スサノヲは、黄泉中の黄泉の国(新羅=曽尸茂梨)から、普通の(?)黄泉の国(出雲・簸の川の上流、あるいは、安芸の江の川のほとり、さらにいえば熊野)へとやってくることになります。この新羅=黄泉国という観方は、そのまま、当時の書紀編纂・創作者の新羅観であることを押さえておく必要がありそうです。
 ちなみに、新羅時代の歴史時間ですが、高句麗・百済・新羅の三国時代は4世紀のはじめごろからはじまり、676年に新羅が韓半島を統一し、そのあと高麗によって滅ぶ935年までにあたります(ヤマト・百済軍が新羅・唐軍に白村江で大敗するのは663年8月で、同年9月には百済、668年には高句麗が滅亡し、その後=676年に新羅が韓半島を統一)。
 倭国にとっては、いわゆる前方後円墳の時代のはじまりは、韓半島の三国時代のはじまりとほぼ重なります。たとえば、スサノヲは新羅へ行って、それから出雲にやってきたとあたりまえのように語られたりしますけど、としますと、スサノヲは4世紀の前には遡れない「神」だとなります。また、記紀はスサノヲの「姉神」としてアマテラスを描いていますから、アマテラスも理屈の上では4世紀を遡れない神だとなりますし、3世紀の卑弥呼に擬そうとした神功皇后の「新羅」行にしても、4世紀以降とみるしかなくなり、書紀編年の時間的矛盾は露呈してきます。
 しかし、記紀におけるアマテラスという神の性格は、稲作の始まりばかりでなく、あらゆる食物の誕生にも関わる神として描かれていますので、書紀がアマテラスと同時代のスサノヲの追放先として「新羅」の語をつかっていたのは、これは編集上の明らかなチェックミスでした。
 書紀の思想は、新羅を最悪の黄泉国の比喩としてつかっていますから、わたしたちが神々を語るときに、新羅あるいは韓半島からやってきた「渡来の神」といった表現は、そのまま鵜呑みにすることには距離をおいてみる必要がありそうです。
 新羅という言葉は、三国時代の新羅に限定するというよりも、半島の南域を含む対馬海域、あるいは東シナ海の各沿岸域における、倭の海人の生活領域とみなすほうが、具体的な「場」の問題としては当をえていると考えられます。倭の海人と、彼らが奉じる神々に対する異和あるいは消去の表明の書として、書紀編纂・創作の方法があるということなのでしょう。
 ただし、新羅は黄泉国であると同時に、「一書(第五)」は「韓郷の島には金銀がある」、また仲哀天皇条および神功皇后条においては、新羅は「宝の国」とされるように、新羅は黄泉国であると同時に黄金国という二面性があります。神功の新羅征討潭は、そういった二面性から読まれる必要があるのではないかと考えられます。
 瀬織津姫が、金さんがいうように、もし新羅の女神だとしますと、これも、「宝の国」の女神であると同時に、最悪の黄泉国の女神だという書紀の表現意向・思惑として理解すべきだろうということです。「曽尸茂梨」から牛頭天王=スサノヲの話をするときも、構造は同じではないかとおもいますが、今夜は、瀬織津姫に関する、金達寿さんの解釈への小さな異論の話です。

(追伸)
 出稼ぎのような出張が迫ってきました。どこで仕事をすることになるかはまだ不透明な部分がありますけど、ひょっとすると来年の春まで「缶詰」状態になる可能性があります。うまくレスポンスができないことになるかもしれませんけど、よろしくお願いします。また連絡します。

675 『日本書紀』の余白に kokoro 2002/10/27 23:58

☆ 674のカキコからヒントをもらって、伊太祁曽神社の聖母信仰とその周辺について、私なりに考証してみました。

「新羅攻略を思い立った神宮皇后は、軍評定のため、常陸の鹿島に天神地祗を集める。ところがこのとき、海底に住む阿度部磯良だけが召集に応じない。諸神が音楽を奏し、風俗催馬楽の歌を合わせたところ、磯良は感に耐えかねて海中から上がってくる。しかし、その姿は全身に貝や海草がまといついて、すさまじく醜かったという。」

 これは、『太平記』に見られる阿度部磯良出現のもようです。『太平記』は南北朝時代の書物ですが、ここにみられる磯良のイメージには、古代海人の信仰した神格=ワダツミの記憶が、ほとんどなまなましいといってよいくらい、付着していなかったでしょうか。彼はこの後、使者として海中の竜宮に赴き、秘宝の干珠満珠を借り出し、皇后はそれを武器に新羅へと出立します。
 磯良は記紀に現れない神ですが、安曇磯良、磯武良などとも呼ばれ、しばしば九州安曇氏の始祖とされます。志賀島等には、彼の伝承が数多く残されていますが、実際にそれらの地域にかつて海人の拠点があり、安曇氏は彼らを統括した首長層を出自としていました。しかしながら、彼の伝承がもっともよく伝わる地域は、対馬だと思います。

@「神宮皇后の時、雷大臣命イカツオミノミコト、安曇礒武良を新羅に遣はされ、雷大臣命彼地の女を娶り一男を産む。名づけて大和大臣と云ふ。新羅より帰り給ふとき、濱久須村へ上り玉へり。其古跡たる故、神祠を建祭れり。(上対馬町浜久須に鎮座する霹靂イカヅチ神社の『神社明細帳』)」
A「神功皇后が安曇浦(※厳原町の阿須浦)に着いたとき、磯武良が迎えて、御乗船の準備をした。」
B「神功皇后が安曇浦を発ち、美津島町にある網掛崎に着いたとき、にわかに風雨が激しくなり、雷鳴が轟いた。このため船が沈みかけたので、皇后は磯武良を海中に遣わしてワダツミを祀らせ、荒れ狂う海を鎮めた。(ABは文化6年の『津島紀事』より)」

 これらの伝承でワダツミは、対馬における安曇磯良の別名、磯武良=イソタケラと呼ばれています。磯武良には蛇体であるとかいった、いくつかの属性があるのですが、永留久恵氏は『式内社調査報告』で、それがワダツミの古名だったとしています。

「その海人の名は明らかではないが、昔は山の神、海の神といふだけで、固有名のないものが多かったわけで、これに少童神、或は筒男命を当てたのは、復古神道が興ってからである。この少童神、筒男命が登場する以前に、海人の固有名として語られていたものは、磯武良であった。(『式内社調査報告』第十二巻 P437)」
「このような伝承から見て、磯武良こそ、海神の原初の名にちがいないと思はれる。それは蛇体(龍神)をトーテムとする海人族の信仰によるものと見られるが、その容姿は「しこ」(醜)である。(『同書』P431)」

 ところで、べつの場所で永留氏は、音韻転訛を被る前のイソタケラが、本来、イソタケルだったと推測していますが、だとすれば、これと全く同じ神名が、『日本書紀』に見られことになります。五十猛命(イソタケルノ命orイタケルノ命)がそれです。なお、磯武良と五十猛命の神名が同じであることについては、神奈備サイトのsetohさんも指摘しています(「五十猛命と神々」http://www.kamnavi.net/it/itake12.htm等)。

C「素盞鳴尊の行ないがひどかった。そこで神々が、千座[ちくら]の置戸[おきど]の罪を科せられて追放された。このとき素盞鳴尊は、その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降られて、曽尸茂梨[そしもり]のところにおいでになった。そこで不服の言葉をいわれて、「この地には私は居たくないのだ」と。ついに土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲の国の簸の川の上流にある、鳥上[とりかみ]の山についた。ときにそこに人を呑む大蛇がいた。<中略> はじめ五十猛命が天降られるときに、たくさんの樹の種をもって下られた。けれども韓地に植えないで、すべて持ち帰って、筑紫からはじめて、大八洲の国の中に蒔きふやして、全部青山にしてしまわれた。このため五十猛命を名付けて、有功の神とする。紀伊の国においでになる大神はこの神である。(神代上、八伎大蛇退治における一書(第四)宇治谷孟氏訳)」

しかも単に名称が一致するだけではなく、実際に対馬には、五十猛命の伝承や五十猛命を祭神とする神社が、主として上県郡の東岸を中心に、数多く分布しているのです。とすれば、磯武良(=安曇磯良)には、五十猛命と何らかの繋がりがなかったでしょうか。
 対馬における五十猛命伝承の代表的なものとして、以下の那須加美乃金子ナスカミノカナゴノ神社(上対馬町小鹿字大濱に鎮座)の由緒を揚げます。

D「素戔嗚尊五十猛命を率ゐ八十木種ヤソコダネを持て韓地カラクニ曽尸茂梨ソシモリの所に往き、其種を植させ玉ひ、帰朝の時此山(※上対馬町と峯町の境界にある「神山」のこと。現在でも霊山として禁足地であるという)に八十木種を植玉ふより繁茂し、人の入ることを深く禁ずる所にして、実に神霊の地なり。貞観十二年三月被授従五位上。是則『延喜式神名帳』に載する那須加美乃金子神社也。<後略>(『神社明細帳』)」

この由緒などは、上記したCに基づいて作られたのが一目瞭然でしょう。明らかに附会です。そもそも五十猛命の名は、対馬における神道研究の基礎資料、貞享3年の『対州神社誌タイシュウジンジャシ』に見えていません。したがい、こうした伝承や信仰は、五十猛命が、偶然、対馬古来のワダツミと神名が似ていたことから、附会によって生じた、というのが穏当な見方かもしれません。では、五十猛命と磯武良の間には、何の関係もなかったでしょうか。
 この問題はけっこう微妙です。上記@の伝承で磯武良は、雷大臣命に付いて新羅へ行き、それから我が国に戻っています。そして、この@は『続日本紀』にある栗原勝子公の記事から附会されたものと思われます。

「右京の人、正六位上の栗原勝子公が次のように言上した。
『子公らの先祖の伊賀都臣は、中臣氏の遠い先祖に当る天御中主命の二十世の孫で意美佐夜麻の子であります。伊賀都臣が神功皇后の御世に百済に使いしました時に、百済の女性を娶って二人の男子を生みました。その名を本大臣・小大臣といいます。後に彼らは遙か本来の血筋をたずねて、わが朝廷に帰化しました時、美濃国不破郡栗原(不破郡垂井町か)に土地を賜って居住しました。<後略>』(宇治谷孟氏訳『続日本紀』光仁天皇の天応元年7月16日)」

この記事をみれば、@の雷大臣命イカツオミノミコトとは、神功皇后のサニワを務めた中臣烏賊津使主ナカトミノイカツオミだったと分かります。それはともかく、こうしてみると、安曇磯良(=阿度部磯良、磯武良)という神格は、『太平記』のエピソードもそうでしたが、総じて神功皇后伝説との深い関わりあいを見せるのです。記紀の神功皇后条は、現在ほぼ定説となった見解では、推古・斉明・持統といった女帝をモデルに、7世紀の東アジア情勢に基づいて作られたとされます。とすれば、磯良が神功皇后伝説と一緒に語られるのも、天智7年に百済救援へと向かった倭の水軍に、安曇系海人が多く含まれたことや、その将軍の1人が安曇比邏夫アズミノヒラフだった記憶の反映のようです。
 さて、安曇磯良が神功皇后伝説と関わりが深いとすると、対馬における磯良の古名がイソタケラ(ル)だったことを考え併せたとき、五十猛命と神功皇后は、磯良を介して結びつくことになります。そうして、この結びつきを念頭において読めば、『日本書紀』一書にある五十猛命の説話は、実は、神功皇后の新羅遠征談とよく似ていなかったでしょうか。すなわち、

【神功皇后】
 A.臨月の皇后が筑前国から出発し → B.臨月のまま新羅へ行って → C.また筑前に戻って応神天皇を出産した。

【五十猛命】
 A.五十猛命は八十木種を持って降臨し → B.新羅の曽尸茂梨へ行ったが、一つも植えないで → C.全て持ち帰って、筑紫から始め、大八洲国全体に蒔き増やした。

皇后が身ごもる応神天皇≠ニ、五十猛命の持つ八十木種≠等価と見なせば、両者は同型説話であるように思われます。この類似が偶然でないとしたら、一体どのようなことが言えるでしょう。
 五十猛命には、イダテ神という別名があるのですが、吉野裕氏は東洋文庫『風土記』注で、イダテ神について次のように述べており、私はこれが妥当な見解だと思っています。

「(※イダテ神は、)海人族の祭った神とする説(松岡静雄)、射立ての意で山の狩猟者の行為と関係のある神名とする説(村松武雄)など数説あるが、簡単に斎楯の神として水軍の祭った神とみた方がよい。『神名帳』にみえる同名数社は ── 丹波国桑田郡を別とすれば ── 紀伊・播磨・伊豆・陸奥などの水軍の要地にある。(『日本の神々2』射楯兵主神社の項、P55から孫引き)」

五十猛命が水軍神だったとすれば、次のように考えられないでしょうか。『魏志倭人伝』にえがかれた頃の海人族は、北九州沿岸を拠点に活動していました。しかし、古墳時代に入り、安曇氏が伴造氏族として中央に進出すると共に、海人はヤマト朝廷統括下に入ります。さらに、7世紀になると、新羅・唐との関係に緊張が高まり、水軍力増強の必要に迫られた朝廷は、卓越した航海技術もつ海人を、軍船の杪挟カジトリ・水戸カコとして使い、水軍として編成します。また、『日本書紀』には、推古朝以降、安曇姓の人たちが外征・外交に携わる記事が多く見えます。こうしてみると古代水軍は、海人との関わりが非常に深かったと言えるでしょう。そうだとすれば、海人族の信仰したワダツミが、彼等自身が水軍としての再編を受ける中で、水軍神へと変容したのが五十猛命ではなかったでしょうか。すなわちワダツミ=安曇磯良は、五十猛命の神格の古層であり、磯武良と五十猛命が同じ神名なのも、もともと両者が同一神だったことを示唆するのです。
 ところで、対馬のワダツミ信仰には、古くはこの神格が御子神として信仰を受けた形跡があって、本来、これと対をなした母神がその一方に控えていたようです。たとえば、対馬の式内社には、和多都美神社が3社と和多都美御子神社が1社、見られる、というのがそうした形跡の一例です。また、これらの式内社には論社が多く、それぞれの論社は重複し、しかも祭神名が文献によってまちまちなのですが、それらの中に、しばしば豊玉姫命とウガヤフキアエズノ命が見られます。おそらく、この両祭神は附会によるもので、本来は海人の信仰した母子神だったようです。永留氏によれば、これらの祭神中に見られるウガヤフキアエズノ命は、附会を受ける前、もともとは磯武良だった可能性が高いそうです。総じて、海人の信仰するワダツミが、母子神として観念されたのは、対馬だけの特殊事情ではなく、海人族全般の信仰に当てはまることです。例えば、記紀にある豊玉姫命とウガヤフキアエズノ命の物語自体も、本来は海人族の伝承だったもので、やはり彼等の母子神信仰を伝えるものと考えられます。この物語には、産屋が出てきますが、全国的にかって産屋の習俗があった地域は海人族が活動していたケースが多く、こうしたこととあいまり、総じて出産にまつわる伝承や母子神の信仰は、強く海人的な文化を想起させます。
 もともと記紀神話には、海人族起源と思われるそれが多いですが、神功皇后の説話は特にそれが著しいです。例えば、新羅に上陸した時、皇后の船を載せた波が国の中まで及び、新羅王が「かって建国以来、海水が国の中まで上がってきた事例は知らない」と言って戦慄するのは、海幸山幸の説話で、山幸が潮満玉で洪水を起こし、海幸を溺れさせた説話に似ていますし、帰朝する皇后が逆臣を攪乱するために皇子を喪船に載せる挿話は、ウツボ船の伝承に似ています。そうした中で私は、神功皇后と応神天皇という母子関係やその出産にまつわるエピソードもまた、海人の母子神信仰に起源すると思います。ちなみに対馬では、実際に八幡信仰(神功皇后・応神天皇)にワタツミ信仰(豊玉姫命・ウガヤフキアエズノ命=磯武良)が習合されたケースが多数あるようです。神功皇后伝説が、推古・斉明・持統といった女帝をモデルに、7世紀の東アジア情勢に基づいて作られたことは先にも触れましたが、こうしてみると、海人の母子信仰にまつわる伝承もまた、そこに組み込まれたのが伺えないでしょうか。
 ここで、伊太祁曽神社の聖母信仰について考えます(伊太祁曽神社の聖母信仰については、『日本の神々6』や神奈備サイトの「伊太祁曽神社の聖母信仰http://www.kamnavi.net/itakiso/seibo.htm」をご覧下さい)。Cには、五十猛命は紀伊国に祀られている大神だとあり、当社の主祭神が五十猛命であることを指しているようです。また、五十猛命は我が国を緑豊かにした有功イサシオの神であるとしていますが、これは紀伊国が、本来、木の国≠ナあり、その豊富な木材資源を用いて外航用の大型構造船が建造されたことから生じた神格です。伊太祁曽神社のある紀伊国には、紀ノ川河口部を拠点に海人族の一大コロニーがあり、紀氏は彼等を統括して水軍を経営し、朝廷による対朝鮮の遠征・外交の一翼を担いました(雄略紀)。
 こうした文脈からみると、伊太祁曽神社の祭祀の源流は、紀ノ川流域で活動した海人族によるワダツミ信仰だったと思われます。じっさい、紀ノ川流域に古い海人の信仰があったことは、中流域にワダツミを祀る式内海アマ神社が鎮座していることからも伺えます。そうして、五十猛命と安曇磯良がもともとは同一神格だったとすれば、伊太祁曽神社の聖母信仰は、かつての古いワダツミの神格が、母子神として観念されていた記憶を留めるもののように思われます。なお、松前建氏は伊太祁曽神社の聖母信仰について、ワダツミ信仰と同じく、やはり対馬に見られる天道信仰から類推した説明を行っています(『日本の神々6』「日前・国懸神社」「伊太祁曽神社」の項)。本論もここから多くのヒントをもらっていますが、私はやはり、伊太祁曽神社の聖母信仰は、天道信仰起源というより、ワダツミ信仰起源とするほうが素直な解釈だと思っています。
 おそらく、かつて紀ノ川流域の海人の間で語られ、現在では失われたワダツミの伝承は、記紀神話の豊玉姫命とウガヤフキアエズノ命の物語に近かったでしょう。そうしてそこには多分、以下の(1)〜(4)の要素が見られたと思われます。

 (1)「母神」
 (2)「出産による子神の誕生」
 (3)「根の国(=ワダツミのいろこの宮、黄泉国、竜宮、ニライカナイetx.)」
 (4)「一度、根の国へ出かけた母子神の此岸への帰還(あるいは子神だけの帰還)」

そうして、上記(1)〜(4)に対し、以下のAの操作をすれば神功皇后の説話が、

【A】
 (1) → 「神功皇后」
 (2) → 「応神天皇の出産」
 (3) → 「新羅」
 (4) → 「応神天皇を身ごもったままの神功皇后による、新羅への遠征と筑紫への帰還」

Bの操作をすれば五十猛命の説話が、

【B】
 (1) → 「五十猛命」
 (2) → 「八十木種を大八洲国全体に蒔き増やす。」
 (3) → 「新羅」
 (4) → 「八十木種を持った五十猛命が新羅へ行ったが、蒔かないで筑紫に持ち帰る。」

それぞれ生じます。とすれば、記紀編纂時に、海人によるワダツミの信仰と伝承は、皇室神話の中に吸い上げられ、6〜8世紀の女帝をモデルにした神功皇后説話の素材となるとともに、紀伊海人がもっていた本来のワダツミ伝承は、一書にある五十猛命の説話とすり替えられなかったでしょうか。なお、(3)→「新羅」≠ヘ、674の風琳堂主人さんのカキコから示唆をもらいました。慧眼だと思います。
 こうした記紀の諸操作は、高度に文学的なものです。現在では、神功皇后伝説が4〜5世紀の歴史的事実の反映とする見解は、かなり分が悪そうですが、終戦後かなりたってからも、それを信じる学者はいたそうです(今でもいるかもしれません)。これは単なるナショナリズムだけではなくして、この伝承がすぐれた創作であったことにも起因していたように思われます。それはともかく、もしかするとCを作ったのは、和銅7年から『日本書紀』編纂にたずわり、後に文章博士になった紀朝臣清人だったかもしれません。紀氏出身の清人は、あるいは紀伊海人の伝承をよく知っていた可能性があります。
 それはともかく、このようなワダツミの信仰・伝承が、神功皇后伝説を創作する材料として記紀に取り入れられたとすれば、朝廷側にとってそうしたワダツミの信仰自体が危険となり、隠蔽の必要に迫られたと思われます。伊太祁曽神社の旧社地は、現在、日前・国懸神社が鎮座している場所だったとされますが、これも本来のワダツミ信仰を隠蔽するため、その聖地に皇祖神、天照大神を祭神とする両社を祀ったのかもしれません。さらに、鎮座地を明け渡しても伊太祁曽神社は、新しい鎮座地でワダツミを信仰し続けることができず、中央で作られた五十猛命を祭神として祀らされなかったでしょうか。さらに類推を押し広げれば、本来、このワダツミ系統の母子信仰は、海人の活動した地域で広く行われていたのが、隠蔽のために後世、それらに八幡信仰(神功皇后・応神天皇)が被されなかったでしょうか。例えば、宇佐神宮も本来、こうしたワダツミ系統の母子信仰が行われた聖地だったのが、中央によって八幡信仰が習合した等々(これはもう誰かが、どこかで言い出しているかもしれません)。しかし、きりがないのでここで止めます。今回は、瀬織津姫神のことに触れられませんでした。申し訳ないです。

☆ 五十猛命の神格の古層に、ワダツミ起源の母子信仰が眠っているとすれば、それは不思議な浸透力で『日本書紀』一書第四の字面ににじみ出ている感じがします。新羅まで子連れで行って戻ってくる素戔嗚尊は、妙に母性的なイメージを纏っているのです。

676 伊太祁曽神の不思議 風琳堂主人 2002/10/30 06:08

 kokoroさん、こんばんは。
 ずしっとした手応えのある論考をありがとうございました。
「聖母信仰」──これは母子神信仰でもありますが、いわば神の放逐─漂着の信仰でもあります。倭の海人の古層に、こういった「放逐─漂着」の神に対する信仰が認められるとしますと、さらに最古層には、この漂着神をわがこととみなしていた倭の海人の「心」があるはずというのがわたしの理解です。放逐する側として自己をとらえるのか、漂着神を受け容れる側として自己をとらえるのか、あるいは漂着そのものに自己を重ねるのかといった感性=心のありようを想像できるわけですが、わたしは仮説の第二と第三は密接に重なっていると考えます。
 倭の海人の古層の母子神=漂着神信仰を文学的に形象化したものが、神功皇后であり、その前に素盞鳴尊があり、これらは同構造をもっているという指摘が、今回の論考の主旨ですね。
 また、素盞鳴尊の子神とされる五十猛命と安曇磯良神が重なる話も鋭い考証と読ませてもらいました。スサノヲは「妙に母性的なイメージを纏っている」──。記紀は、スサノヲとアマテラスを擬制的な対関係にあるというように描いています。日神=太陽神が男神から女神に性転換していることを考えますと、スサノヲも月神と同様に、もともとは女神だったのかもしれません。スサノヲが「母子神」の消えた母神を原イメージとしてもっているとしますと、その子神=五十猛命は男性神格の日神=海洋農耕神であるとみることができます。
 ところで、素盞鳴尊─五十猛命は、書紀の記述を元にして「植林の神」というとらえかたがなされるのが一般的かとおもいます。この五十猛命を主神としてまつるのが和歌山の伊太祁曽神社ですが、ここの祭礼をながめますと、実に奇妙なことに気づきます。どういうことかといいますと、この神社の主神=五十猛命の「植林の神」という大事な性格に基づくはずの「木祭」がはじまるのは、実は「近年」のことなのです(神奈備HP「伊太祁曽神社の祭礼」)。
 同社の古くからの重要な祭礼は卯杖[うづえ]祭、茅輪[ちのわ]祭、秋季例祭の三祭とされ、植林神にちなむ「木祭」が含まれていないことは何を表しているのかということが大きな「謎」としてあります。
 同社の奥宮は「丹生神社」であり、そこへの神輿渡御が伊太祁曽神社の最大の祭りである「例大祭」=秋季例祭とされるわけですが、これは、五十猛命と丹生都姫に深い関係が認められるということになります。
 また、同社の三大祭りの一つである「茅輪祭」(輪くぐり神事)については、これはいうまでもなく、蘇民将来潭における武塔神=素盞鳴尊にちなむもので、五十猛命の神社で、自身に関わる祭礼よりも、その父神とされる素盞鳴尊にちなむ祭礼が重要視されているということは、これも奇異といえば奇異です。残りの「卯杖祭」にしても、これは、基本的には稲作の豊凶占いの神事ですから、これも同社主神の最重要の性格である「植林」とは距離のある神事です。
 おそらく、こういった主神の性格である「植林」と距離のある神事を中心におこなってきている奇妙さに気づいた人が、「近年」、やっと「木祭」を付加したということなのでしょう。
 この伊太祁曽神社の祭礼の不可思議さをもう少し掘り下げていきます。つまり「茅輪祭」(輪くぐり神事)についてなのですが、同社はこの祭りを次のように記しています。

■茅輪祭と祓戸神
 かつては旧六月三十日(現在は七月三十日)に行われる例祭で拝殿にひもろぎを設け竹輪に茅縄を繞らし参拝者この輪をくぐりてひもろぎに設けた祓戸の神を拝せば一ヶ年無病息災におくる事が出来ると云ふので遠近の参拝者で賑ふ。(「伊太祁曽神社の祭礼」)

 伊太祁曽神社の茅輪祭の祭礼日は「かつては旧六月三十日(現在は七月三十日)」になされていたとあります。現在の「六月三十日」には、茅輪祭とは別に「水無月祓」がやはり祭礼として組み込まれているようですが、いずれにしても、(瀬織津姫を筆頭神とする)「祓戸神」への信仰が、伊太祁曽神社が「遠近の参拝者で賑ふ」理由のようです。
 茅輪祭で、茅輪をくぐる前には大祓祝詞が人々に配られるらしいのですが、この茅輪祭の本義は(こんなことを言ってよいのかともおもいますが)、「伊太祁曽大神への祀りではなく、別に祀られた祓戸四柱、瀬織津比売命、速開都比売命、気吹戸主神、速佐須良比売神への祀りである」(同前)とされます。茅輪祭の主たる神であるはずの素盞鳴尊までがスポイルされているということが、なんともあっさりと記されています。
 伊太祁曽神社側の社伝は、伊太祁曽神はもともと日前・国懸神宮の地にあったもので、垂仁天皇の代に、日前神たちに自らの社地を譲ったのだといった主張をつづけています。その社地譲りのあとどこへ遷ったかというと、亥の杜=三生神社とされ、それがさらに、702年=大宝二年のときに、祭神分化とともに、現在地へと遷座したとなります。
 この702年=大宝二年という年は、持統の三河行があった年で、同年にわざわざ中央から伊太祁曽神の分化遷移が命じられていることは要注意事項かとおもいます。
 伊太祁曽神は主神を五十猛命とするも、日本書紀の素盞鳴尊の追放潭の箇所に記された、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命(「一書(第五)」)が基本となっていますから、現在も、女神二神が配祀神としてまつられています。また、続日本紀の大宝二年の項には、たしかに「伊太祁曽・大家都比売・都麻都比売をそれぞれの地に分け遷した」とあり、いかにも当初から伊太祁曽神は三神であったようにみうけられますが、おそらくここが伊太祁曽神社の最重要な「謎」ではないかとおもわれます。
 伊太祁曽神三神表示の一神・大屋津姫命は、大屋比(毘)古命との対神表示がなされますので、五十猛命=大屋比古命という等式関係が当然のように語られます。しかし、五十猛命=伊太祁曽神は、その奥宮=丹生神社の神に対して「神輿渡御」という対関係がみられ、この丹生神に大屋津姫命も抓津姫命の名もないという奇異さが際立っています。
 HP「伊太祁曽さんの風土記」において、瀬藤禎祥さんは、「武内宿禰ってご存じですね。武内宿禰は紀氏の祖先でもありますね。彼が来たのが九州系の紀氏の到来でしょう。この時に九州の五十猛命と抓津姫が入ってきたのかもしれません」と推測していますが、わたしはここから、伊太祁曽三神の元は、「五十猛命と抓津姫(=都麻都比売)」の二神がもともとの姿であった可能性を読みました。つまり、伊太祁曽神二神が、日本書紀の編纂時点において、大屋津姫命が付加されて三神化された可能性があるということです。
 この仮説の前提で、続日本紀702年の分神遷宮の朝廷の命を考えますと、これは三神というよりも、二神の分神化かつ遷宮命令ではなかったのかとみることができます。これは、日本書紀および続日本紀の記述を否定する仮説となりますが、対神祭祀を引き裂く方法は、伊勢神宮の創祀のときからの、中央=中臣=藤原祭祀の不文律のような鉄則でしたから、あながち荒唐無稽の仮説ではないという気がしています。それに、この鉄則が三河において実施されたのが、この大宝二年=702年のことでした。
 伊太祁曽神二神構成の可能性の傍証として、もうひとつ例を挙げておきます。それは、702年に分神遷宮された一神である都麻都姫神社に、式内論社の一つである高積神社があります(和歌山市禰宜)。ここの現在の祭神は、都麻都姫命、五十猛命、大屋都姫命の三神とされ伊太祁曽三神表示をしていますが、ここは上宮・下宮と二社構成で、上宮(上社)は高御前社、下宮(下社)は気鎮社とするも(紀伊国名所図絵)、同社の異称は「高積比古神社、高積比売神社」と二神構成であることを表していました。同社由緒は「いつ頃からか、伊太祁曽三神を祀った」とし、その三神化の時期は不明としていますが、しかし、ここも二社二神という対関係の社であることを古態として伝えています。
 なお、五十猛命は筑紫の地(筑紫神社)では「白日別神」との異称があります。この神こそ、「あらぶる神(麁鹿神)」=筑紫神であり、この神をまつる対神=女神の名が「甕依姫」であり、これは吉備における鬼神・温羅をまつる阿曽媛と同パターンですが、ここで、この甕依姫が瀬織津姫と同質神と考えられるとしますと、筑紫の地においては、磯良神=五十猛命はアラハバキ神の異称である可能性さえも出てきます。まさに「あらぶる神」とみなされた、古代倭の海人のまつる原型の太陽神(男神)でもあるということでしょうか。
 日向の都萬神社(宮崎県西都市)の祭神は、木花開耶姫命とされますが、別伝においては抓津比売命とされます。このツマツヒメですが、これは、「ツマとは出ている所の意があり、海への出っ張りに祀られた女神」とされます(都麻都姫神社[和歌山市吉礼]の由緒)。としますと、これは吉備においては(丑寅)御崎神とも通じますし、またなによりも「道主貴」つまり航海神としての宗像神にも重なってくることになります。
 甕神(甕依姫)・桜神(木花開耶姫)・海洋農耕神かつ太陽神と対神を構成する神・御崎神(抓津姫)、あるいは日前神・丹生神など、これらに共通して関わる神をやはり想定したくなってきます。
 伊太祁曽神(二神)が日前国懸神宮の社地にもともとあったということは、これは日前国懸神の元神としての伊太祁曽神ということかもしれません。祭神消去・変更は、まず日前国懸神・伊太祁曽神になされ(690年の持統紀伊行のときか。垂仁時代というのはあとからの付会で、このとき伊太祁曽神は「亥の杜」に遷移が強行された)、さらに大宝二年=702年に、亥の杜から伊太祁曽神の分神遷宮が強行されたということかと考えられます。つまるところ、日前国懸神と伊太祁曽二神は「異神」だったのかどうかですが、わたしは、双方が変名・変質化されただけの問題で、もともと「同神」ではなかったかというふうにおもっています。
 702年、異例の分神遷宮(分遷)を強行する理由ですが、たんに「神威」が強いからだといった理由では根拠薄弱という気がします。神威が強ければ、勅使を派遣するなりして、さらに丁寧にまつればよいはずで、そういった通常祭祀では収まらない祭祀法が第一次遷宮先においてもなされていたのではないか──。伊太祁曽神への、異例中の異例である分神遷宮(分遷)の命への新しい仮説となるのかもしれませんが、この命が出された時間=702年は、大宝令が「天下に頒布」された年でもあり、時代が天皇制=律令制へと加速的に動き出した時代だというのは、やはり大きな意味をもっているとおもいます。皇祖神をまつる伊勢神宮の下準備はすでに終えられてはいましたが、しかしまだそれは安定祭祀とはほどとおい新しい祭祀だったということと、この異例の命は深く関わっている可能性があります。

(追伸)
 明日から出張します。主人の書き込みは少し途絶えるかもしれませんけど、楽しい夜話・論考をひきつづき自由に書き込んでください。

677 寒いですねぇ サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/11/07 23:01

ご主人、お元気ですか(^^)
またまた。お仕事でご出張とか?


くれぐれも、お体にはお気をつけ下さいませ。
ご主人のながーいレス見ないと寂しいですもん。

東京も寒くなりました。
それでも来週には多摩の阿伎留神社へ行ってみようと
思っています。
何かご報告できるようなことがあるといいなぁ...
などと思いつつ...

678 阿伎留神と小河神 風琳堂主人 2002/11/10 12:04

 サクラさん、お久しぶりです。今、名古屋の倉庫事務所です。遅いレスですみません。
 出張編集=出稼ぎ(某大学のテキストの編集)の準備ですが、すでに前哨戦の様子です。来年の春までにB5判で2400ページほどの仕事ですが、最低その半分がわたしの割り当てだそうです。こりゃキツイ仕事になることまちがいなしです。

 阿伎留神社は鹿占神事で知られる神社ですね。ハハカのこともありますので、なにかわかったらまた教えてください。
 ところで、この阿伎留神社の境内社に菅原神社がありますが、ここに合祀されている神社に小川神社があります。この合祀はたぶん明治期のことかとおもいますけど、この小川神は、大国魂神社=武蔵総社六所宮の二番目の小河大神と同神でしょう。
 あきるの市二宮に鎮座する二宮神社の異称は小河神社でした。ここの現在の祭神は国常立尊とされていますけど、これは明治期に祭神変更された可能性がとても高いとみています。この小河神社の江戸期までの史料がみつかればはっきりするはずですが、あるいは、阿伎留神社の菅原神社に合祀された小川神がどんな神だったかがわかると、この国常立尊の怪しさ、ひいては二ノ宮神が照らし出されるとおもっています。
 三河では、瀬織津姫が小河天神などと名が変えられた実例もあり、どうもうさんくさいのがこの武蔵の小河=小川神社です。一の宮の小野神社は、天乃下春命を筆頭神とするも、本来の祭神名として、よく瀬織津姫の名を伝えていたなとおもっています。
 瀬織津姫の神威を、関東鎮護といった「ご利益神」として最大限に利用しようとしたのが、当時のヤマトの祭祀政策でした。そして時代が下って、その利益性が庶民に還元されるようになると、瀬織津姫は、祓い神として変身→定着していきます。阿伎留神社にも水無月祓の神事があるようですが、これがいつごろから始まったものかは知りたいところです。同社の筆頭祭神は大物主神という三輪山かつ金毘羅の神です。この三輪の蛇神=太陽神が対関係を構成するのが消えた水神ですが、それが小河神ではないかというのがわたしの仮説です。
 ヤマト側の一方的思惑とはまったく異なるところで、瀬織津姫は多摩川(および荒川)の川=水を根本的につかさどる神だったことが考えられます。
 あきるの市は、国民の自由と権利をうたった、明治期においては出色の憲法草案である「五日市憲法」(千葉卓三郎)をもっています。三多摩は自由民権運動の根拠地の一つでもありますが、この五日市憲法が明治憲法として採用されていたら、日本の近代はかなりまっとうなスタートを切ったはずでした。瀬織津姫の消去・隠祭も、これほど露骨にならずにすんだだろうということもいえます。
 ところで、あきるの市には、これも調べる価値がありそうにおもえる、岩走神社があります。同社は、平安末期に信州の伊那谷から移り住んだ石工たちがまつった神社だそうで、多摩川の支流・秋川の「激しく流れる滝の様子」から社名をつけたといいます(旅館網代HP)。この岩走神はどんな神かはまだわかりませんけど、伊那谷といえば天竜川です。天竜川(古名は麁玉[あらたま]川)の水神・滝神は瀬織津姫でしたから、この岩走神も同神の可能性がありますね。
 多摩川の水神が、もう少しで明らかになりそうで、サクラさんの探訪を楽しみにしています。

679 ご無沙汰です。 この花咲くや姫 2002/11/14 17:27

一つ感じたことのお知らせに参りました。
瀬織津姫の御霊はこの花咲くや姫の中にいるような気がしてきました。

先日 読ませていただいた中に ザシキワラシとカッパの
説を読んでから・・・一身に戻られたと思いました。

感想です。では

680 瓜生姫の謎 kokoro 2002/12/08 23:59

 ご主人、お久しぶりです。お仕事、お忙しいでしょうか。皆さんが寂しがっていると思いますので、たまには声を聞かせてください。

◆9月1日、515> kokoroさん、琵琶湖にまた行かれるとのことで、バス釣りの合間に、もし時間がとれるようでしたらですが、天智・天武・持統の産湯の伝承をもつ三井寺(御井寺・園城寺)の近くにある「日御前神社」(三尾神社境内社)に関する情報がわかればまた教えてください。日御前神社は大津皇子の后「瓜生姫」(正体不詳)の創建と伝えられます。持統によって無念の死をとげた大津でした。その大津ゆかりの瓜生姫が創祀した日御前神社なのですが、ここは祭神名からしてはっきりしていませんし、瓜生姫がどんな意図でこの社をまつったのかもはっきりしません。

 だいぶ時間が経過しましたが、ここにみられる日御前神社について調査したので、私なりの考証をまじえて、その結果をまとめてみました。


1.祭神について

 日御前ヒノゴゼン神社は滋賀県大津市に鎮座する三尾神社の境内社で、現在は、三尾神社社殿のすぐ右脇に並んでおり、これはいくつかある境内社の中でも別格の扱いです。三尾神社の社務所で貰ったリーフレット、『三尾神社』の「年間行事と特殊神事」の項を引用します。

「一、朝瓜祭  七月二十二日、二十三日
 日御前神社の例祭で天武天皇の長子(※長子ではない)、大津皇子第三の姫宮瓜生ウリウ姫の御創建でもと中保町に鎮座のところ、明治四十四年三尾神社の境内に移し、末社とした。姫宮信仰の瑞験あらたな神霊石があり子供の病気(夜泣き、かんむし)安産・縁結びに霊験があるので遠近よりの参拝者が多く、神霊石が朝瓜形をしているところから、参拝者は朝瓜に子供の名前を書いてお供えする風習があるので、朝瓜祭と称する。」

どうやら、この神社は、出産や育児に関係する信仰を集めているようです。ところが、同リーフレットの「境内社とその御祭神」の項には、

「日御前神社 … 天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神」

とあります。この三柱の神々が出産や育児に関係するとは思えません。ここには、祭神について何らかの混乱や附会のあった可能性が感じられます。明治44年の『大津市志』から、日御前神社の記事を引用します。

「日御前神社
 中保町に在り、高御産巣日神、天御中主尊、神産巣日神を祭る。人皇第四十代、天武天皇の長子、大津皇子第三の姫宮、瓜生姫宮の白鳳年中の御勧請にして、社内に瑞石一個あり。姫宮信仰の瑞験、新なる神霊石にして、火災安産小児の病気等に霊験あるを以て、世人の帰依する所也。其色淡墨色にして白斑を有す。形瓜に似たり。土人呼んで越瓜の宮と云ふ。毎年六月二十三日、瓜を献ずる例あり。一説に曰く、是れ三井新羅社の末社なり。新羅の末社に日の御子と云ふあり。本地五十猛命(※どうでもいいことですが、通常、本地というのは仏教側の本尊を指すわけですから、「本地五十猛命」では逆になるのではないでしょうか。)、稼穡を守り玉ふ神なりと云ふなり。一本、日御前神を火御前に作る。明治四十四年三尾神社に合祭せり。(『大津市志』中巻、P1519〜1520、原文には句読点がないので適当に補いました。)」

 この記事は「一説に曰く」として、三井新羅社の末社に日の御子≠ニいうものがあり、日御前神社がこの日の御子≠フことだとあります。三井新羅社とは言うまでもなく、古来、園城寺守護の鎮守とされてきた新羅シンラ明神(新羅善神堂)のことでしょう。三井寺の縁起や伝承をかなり広く集めた『園城寺伝記』から、「日の御子」のことと思われる「火御子明神」の記事を引用します。

「一、新羅明神の御事
 東 般若菩薩 南向 文殊
 西 宿王菩薩 南向 普賢
 西 火御子  東向 十一面(『園城寺伝記一』)」
「一、火御子明神の事
 この神は、延暦寺の南郊園城寺の北野に地を卜して、無始無終の神なり、清和の御宇、この處を新羅権現に譲り、貴賤を慈愍され、法呂に愛憐を幡れ、内證は三十三身の能化、六道済度の薩垂(※垂は、つちへん≠ノ垂≠ニいう字)、十一面観世音なり、(『園城寺伝記四』、原文の漢文を現代語風に書き下した『三井寺法燈記』P28及びP65から引用)」

ここには、火御子明神(=日の御子)が、清和天皇の御宇に新羅明神が勧請される以前から祀られていた地主神であること、その本地が十一面観音であったこと等の興味深い記事が見られます。そして、その神格は「無始無終の神なり」とされます。
 無始無終という状態は、記紀神話に置き換えると、神代冒頭に登場する、世界がまだ特定のフォルムに収まっていなかった混沌状態を思わせます。天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神は、この混沌から天地の別が生まれた後、現れる神々で、『古事記』で一番最初に登場する神々でもあります。この三柱の神々が日御前神社の祭神となったのは、あるいはこうした連想から、『古事記』の記事がやや強引に附会された結果かもしれません。ちなみに、私が調べた範囲では、日御前神社の祭神を天御中主神外2柱としている最も古い文献は、北川舜治による『近江名跡案内記(明治24年)』でした。


2.日光感精・卵生の説話

 『大津市志』の記事によれば、「一説に曰く」として日御前神社は、日の御子社(=火御子明神)のことで、この神社は新羅明神の末社でした。新羅明神には、有名な新羅三郎義光のエピソードをはじめ、様々な伝説が伝わっていますが、康平5年(1062年)の『園城寺龍花會縁起』にあるものがもっとも古く、そこには大略、次のようにあります。

「園城寺を復興した智證大師円珍が、唐より帰朝の船中に一老翁が現れ、我は新羅明神である、和尚のために仏法を護持するだろう、と言って姿を消した。帰朝の後、朝命に従って円珍は、唐から将来した法文を太政官に納めたが、その時にまた明神が現れ、この日本国に一勝地がある、よろしく伽藍を建立し、仏法を安置せよと言った。円珍は近江国滋賀郡園城寺に至り、住僧に寺の由緒を聞いたが知らないという。ところが、一老僧、教待キョウタイという者がおり、自分は齢162歳で、寺は建立以来180余年であるとしてその由緒を説き、永く寺を円珍に寄すと言った。それから新羅明神は寺域の北に鎮祀せられたのである。」

 この伝説は円珍の自記、『行歴抄』には全く見られず、入唐僧が海洋の船中で神の示現に会うという説話に類話が多いことからも、後世の作為と考えて間違いないでしょう。この問題について、昭和17年の『大津市史』は次のように述べており、私には妥当な見解に思えます。

「新羅明神は何時から祀られ、何時から智證大師に附会する伝説を生んだのであろうか。これは極めて困難な問題で推定の範囲を出ないが、そうした前提(※新羅明神の伝説が後世の創作であるという前提)の下に想察を試みたい。思うに新羅明神は明らかにこれ蕃神であってもと帰化人の祭祀せるものであろう。この地に勢力あった大友村主は普通は大友皇子の後胤としているが、新撰姓氏禄や桓武記によると後漢孝献帝の裔である。園城寺がもと大友氏の氏寺であった事実は蔽うべくもないので、これと併せ考えて新羅明神も亦彼等の氏神的性質を有したものとすべきではなかろうか。即ち園城寺が天台別院となった貞観の頃より遙か以前から此地方の鎮守として明神が祭祀されていたものと考ふべきであろう。而して後年山門(※延暦寺)・寺門(※園城寺)の抗争の激化すると共に、山門では日吉山王、乃至慈覚大師の遺志によって祭祀された西坂本赤山明神を鎮守とせる故にこれと対抗する意味で、新羅明神を以て寺門の鎮守と考えて来たものであろう。(『大津市史』上巻P155)」

要約すると、新羅明神は清和天皇の時代に、円珍が園城寺を復興するより前から祀られていた神で、その起源はおそらく、大津京建設以前からこの地に住み着いた渡来人の一族、大友氏が、氏神として祀ったものであろう──、ということになります。
 さて、『園城寺伝記』には、日の御子明神(=火御子明神)のことについて、新羅明神が勧請された時、鎮座地を譲り渡した神とあります。だからおそらく、この日の御子社こそ、新羅明神よりさらに大友氏の祭祀していた渡来系の地主神を思わせるものがあります。そうして、『大津市志』は「一説に曰く」として、日の御子社は日御前神社のことである、という説を紹介しているわけですが、この説が正しいとすれば、日御前神社は元来、大友氏によって祀られた渡来系の祭神を祀る社だった可能性が高くなります。
 『大津市志』によれば、日御前神社のご神体は、瓜に似た形の霊石でした。この石は「火災安産小児の病気等に霊験ある」わけですが、このうち、火災≠ヘ、「一本、日御前を火御前に作る」とある火御前≠ゥら附会されたものでしょう。瓜から生まれる瓜子姫の昔話にもあるとおり、神話や伝承に登場する瓜は、しばしば卵のメタファーです。日御前神社の霊石は、朝瓜に似た形をしていたそうですが、この石にもかって、何らかの卵生説話が伝わっていたと考えられないでしょうか。この石に安産等の信仰があるのは、その記憶の名残と思われます。
 新羅系の渡来人に関わりがあって卵生説話ときたら、『古事記』応神天皇段にある天日槍の説話でしょう。そこでは、新羅の沼のほとりで昼寝をしていた女が、陰上に虹のごとく輝いた日光が差すと赤玉を生み、これを得た天日槍が持ち帰って床の間に置くと、美麗な嬢児と化したので妻としたが、やがて妻は夫のもとを離れて難波に去ったため、日槍もそれを追って我が国にやってくる訳です。この説話で、赤玉から日槍の妻が生じるくだりは、卵生説話の一種と思われ、新羅系渡来人の中に、このタイプの説話を我が国に持ち込んだ一派がいたこと示唆します。また、『日本書紀』の応神3年条の「一云」には、天日槍の遍歴コースが分注として載っていますが、そこでは播磨から但馬に至る過程で、近江も通過したことになっているのです。
 園城寺を復興した円珍の母は讃岐の人で、空海の姪だった人ですが、伝説によれば、夢に朝日が口のなかに入るのを見て、円珍を懐妊したとされます。この伝説もまた、後世の作為と思われますが、そのモチーフは、天日槍の物語で新羅の女が、日光に感精して赤玉を生んだことを連想させます。本来、大友氏が伝えていた日光感精説話が、後世になり、円珍の伝説の一部に取り込まれたものではなかったでしょうか。日御前神社と同じとされる説のある日の御子社の、日の御子≠ニいう語も示唆的です。
 総合すれば、大友氏は新羅系統に出自をもつ渡来人であり、彼等は天日槍の説話に見られるような日光感精及び卵生モチーフを伴うシャーマニズムを、半島から園城寺近辺に持ち込んだものと思われます。瓜に似た霊石を御神体とする日御前神社(=日の御子社)は、その信仰の名残で、日光に感精するという信仰も、円珍の母が夢に見た朝日によって彼を懐妊する、という伝説の中に記憶されたように思われます。


3.瓜生姫

 白鳳年間に当社を勧請したという瓜生姫は、その名前からして本来、天日槍の説話で新羅の沼のほとりで日光に感精して赤玉を生んだ女と等価な存在だったように思われます。したがって、当社の本来の祭神であったか、あるいは本来の祭神の親族であったのでしょう。こうしてみると、いよいよもって、天御中主神外2柱の現祭神は、怪しい感じがしてきます。
 よく分からないのは、瓜生姫が大津皇子の第三の姫宮とされていることです。大津市内には、場所柄でしょうが、大友皇子の伝説が少なくありません。大友皇子(弘文天皇)を祭神とする御霊神社も3社あります。したがい、瓜生姫が大友皇子の第三の姫宮だったとされているならば、まだ分かる気がするのですが、大津皇子となるとどうしてそうなるのか理解に苦しみます。上記のように、日御前神社は大友氏の古い祭祀と関係がありそうなので、大友氏→大友皇子という単純な連想からも、大津ではなく、大友皇子にまつわる由緒があってよさそうなのです。まさか、大津に鎮座しているので大津皇子が附会されたという訳でもないでしょうし…。こうも不自然であると、作為によって伝承が改変され、何かが隠されたのではないかと疑いたくなってしまいます。


◆9月1日、515> 書紀は、大祓祝詞創作の翌年=670年、山御井の傍らに諸神をまつり、ここで中臣金が祝詞を奏したとしています。この祝詞がどんな祝詞だったか決めつけるわけにいきませんけど、状況は、大祓祝詞の内容からいっても「諸神」に関わりますし、初めて大祓祝詞がここで奏された可能性があります。また、三天皇の産湯の「御井」をつかさどる神はなにかということもあり、その神と「日御前神社」の神は関係があるのではないか──。日御前神社という社名からも、瀬織津姫の匂いがしてきますが、これはまだ、調べる動機の話です。

 関連がありそうな伝説があるので、ついでに紹介しておきます。

【金殿井カネドノノイ】
 大津京のおかれた時代、右大臣に中臣金という人物がいた。彼は天智天皇の信任が厚かったが、天皇が大津に宮を移してまもなく、重い病にかかったとき、中臣金の夢に、都の西方の大木の根もとから湧き出る清水を汲んで天皇にたてまつれというお告げがあった。そこで金が宇佐山中にわけいると、夢告どおりの泉があったので、さっそく天皇にさしあげたところ、病はたちどころになおったという。この泉は、そんな訳で「金殿井」と呼ばれるようになった。
 のちに、源頼義が山上に宇佐八幡宮を建立したとき、この泉水を人々に飲ませたところ、霊験があったともいう。八幡宮の参道を登っていくと、道の脇に今も井戸が残り、毎年八月中旬の土用の日に、霊泉祭がおごそかにとり行われている。<後略>(『大津の伝説』P69)

文中に見られる「宇佐八幡宮」は、大津市錦織一丁目に鎮座する宇佐八幡神社のことです。

☆ お忙しいようなので、レスはゆっくりで結構です。

681 三井寺と琵琶湖の龍神 風琳堂主人 2002/12/25 23:13

 この花咲くや姫さん、こんばんは。ごぶさたしています。
 ザシキワラシとカッパの背後には共通した水神が潜んでいます。ついでにいえば、オシラサマもそうですが、これらは現在の時間への下降過程と、そのときどきの生活感覚と知が交差したところに造形された異名同体の神とわたしは考えています。遠野でいえば、時間的な最古層にあるのはオシラ神で、ザシキワラシとカッパはそのあと、たぶん近世以降の産物だろうとおもっています。

 kokoroさん、こんばんは。
 ほんとにゆっくりレスですみません。このように囲炉裏夜話に時間をおいてみますと、これまでの瀬織津姫談議の、その最中にいるときにはあまり意識しなかったのですが、尋常ではないような熱エネルギーのシャワーを浴びての疾走だったなという気がしてきます。
 出版社の水商売性は本家の「お水」とどっこいのところがあって、明日のことはまったくわからないところがあります。今宵の接客をどこまで明日の可能性へとつなげるかという、ある種の「一所懸命」(「一生懸命」ではありません、念のため)の積み重ねなのかもしれません。
 琵琶湖の日御前神社を中心としたレポートをありがとうございました。
 先日、日御前神社を管理している三尾神社の方と話す機会があったのですが、この日御前神社氏子の人がとても大事な由緒資料をもっているのだがなかなか見せてもらえないとのことでした。こういった秘密めいた話、しかも神社関係の資料には、福島県古殿町の資料もそうでしたが、たいていは瀬織津姫がらみかなと想像しています。
 これがわたしの憶測かどうかは今なんともいえないのですが、ただ、kokoroさんの報告にありました、たとえば『大津市誌』(明治44年)の記述などは、ていねいに読むと「?」というところがあります。日御前神社の項には、祭神の「一説」=「本地」を五十猛命とする紹介がありましたが、さらに同市誌は「一本」として、さらなる異説を紹介していました。つまり、「日御前神を火御前に作る」という一行の不思議さです。
 わたしは、この「一本」の異説はとても大事ではないかとおもいました。
 少し整理しておきますと、日御前神社の現在の祭神は「高御産巣日神、天御中主尊、神産巣日神」とされるも、「一説」には「日の御子」=五十猛命が「本地」神とされるが、「一本」には、「日御前神を火御前に作る」という一言があるわけです。
 この「作る」とはどういうことかということがあります。火御前(神)は日御子明神という異称をもつことはわかるのですが、そこに「作」られた日御前神とはなにかについては「一本」はそれ以上語っていません。この「作る」を「まつる」というように読むことが可能だとしますと、火御前=日の御子神と日御前神は異神ではなかったのかということがうっすらとみえてきます。
『大津市誌』のこの記述で興味深いことがもうひとつあります。それは、日御前神社の祭神を五十猛命と伝える異説があることに加え、この五十猛命を「稼穡を守り玉ふ神なり」と伝えていることです。「稼穡[かしょく]」というのは難しい言葉ですが、辞書によれば、これは農事とか作物の植付けと取り入れを意味する言葉だそうです。五十猛命は、書紀に準じれば植林神のはずでしたが、ここでは稼穡神=農耕神だということ──これは、伊太祁曽神社の主要祭事が、植林の神事(木祭)ではなく、むしろ稲作農耕のそれ(卯杖祭)であったことと符合しています。
 日御前神社には、海洋農耕神(=太陽神)としての五十猛命がまつられていたが、しかし、そこにまつられた(あるいは元々の地主神だった可能性の方が高い)日御前神はどこかに消えてしまっているということではないでしょうか。このことは、『園城寺伝記』が伝える本地仏として、火御子(=五十猛命)=十一面観音という奇妙さにもよく表れています。また、同伝記は、この十一面観音は「東向」しているとされます。これも日前・国懸神宮の日前神と共通した印象があります。
 奥三河田峯の十一面観音は、その鎮座位置を何度も南面するようにしても、いつのまにか南西の方向へ向きを変えてしまうという不思議な話がありました。この南西の方角が正確に「伊勢」を指しているということは何を意味しているのかですが、そこ=伊勢には、まさに日の神がいるということで、その「日神」に向き合おうとする十一面観音の性格が語られているとおもわれます。
『園城寺伝記』は、この日御子明神=火御子明神という日神=太陽神は、新羅明神に土地譲りをした神だとしています。いわば、園城寺の地主神という性格があるのかもしれません。しかし、ならば社名は日御前神社ではなく日御子神社であってよいわけで、ここにも複雑な経緯が潜んでいるようです。『大津市誌』の異説である「日御前神を火御前に作る」にしても、火御前神を主、日御前神を従というように記していたわけで、これも社名と矛盾しています。
 長等[ながら]山園城寺=三井寺の地主神ですが、案内書の『三井寺』(園城寺発行)によりますと、三尾明神とされます。つまり、日御前神社を明治44年に「合祭」(『大津市誌』)した三尾神社の神です。
 話がややこしくていけませんけど、三尾明神が本来の地主神だとしますと、三尾明神=日御子明神=火御子明神(=五十猛命)ともなりますが、では三尾神社の現在の祭神はなにかといいますと、今度は「伊奘諾尊」と表示されているわかりにくさです。
 わたしは、三尾=ミオは澪・水脈のミオからきたものではないかと考えますけど、園城寺寺域にある三尾神社は水神の要素を表に出すことはしていないようです。ただ、園城寺から琵琶湖岸を北へ行った安曇川町にも三尾(三重生)神社があり、ここには、「天成神道」、つまり「秀真伝」が伝えられています。ホツマが伝える最重要な女神こそ瀬織津姫でしたが、これらの関連は残念ながらまだ闇のなかです。
 園城寺の三尾明神が伊奘諾尊かどうかはともかく、三尾神社の由緒書によれば、「この神は常に赤・白・黒の帯を着し、その形が三つ尾をひくのに似ているところから三尾明神と申し上げる」とのことで、わたしはこれを読んだとき、これは朝鮮の巫堂=ムーダンにも通ずる天女の衣装だなとおもいました。
 長等山園城寺の長等山の地主神としての三尾明神なのですが、ここでさらにやっかいなのは、その名も長等神社があることです。現在の同社の祭神は、建速須佐之男大神、大山咋大神、宇佐若宮下照姫大神、八幡大神、地主大神の五神とされていますが、もとより地主大神こそが大元神なのでしょう。ここで興味深いのは、宇佐八幡神に関わる出雲神=下照姫の名があることかもしれません。
 ここで基本的な問いを提出しておきますと、そもそも琵琶湖の水神と、琵琶湖周辺の長等山(ほか)の地主神は異神なのかどうかということがあります。園城寺=三井寺の「三井」=御井そのものが「水」を表していますので、個々の地主神を問うよりも、琵琶湖の水神に対して、園城寺はどう処遇してきたのかをみたほうが、話ははやいのかもしれません。
『三井寺』は、この琵琶湖の水神にまつわる話を収録していますので、それを引用しておきます。

■三井の霊泉と九頭龍神
 金堂の近くには天智・天武・持統の三帝が産湯に用いられたという三井の霊泉があります。三井寺の名のもとになったこの泉の水は、古来より閼伽水として金堂の弥勒さまにお供えされてきました。このことから金堂水ともいわれています。
 さて古記には、この泉には九頭一身の龍神が住んでおり、年に十日、夜丑の刻に姿を現わし、金の御器によって水花を金堂弥勒に供えるので、その日は泉のそばに参ると「罰あり、とがあり」といわれ、何人も近づくことが禁じられていたという話が伝わっています。

 九頭龍神といえば白山の女神でもありますが、その女神が弥勒=仏教に奉仕する姿が「伝説」化されて伝わっているということなのでしょう(この弥勒菩薩は、天智天皇の「御念持仏」とされます)。この九頭龍神は「夜丑の刻」に姿を現すそうで、としますと、貴船神とも共通するようです。なお、白山神の本地仏は十一面観音でもありましたが、三井寺の九頭龍神に白山神の名は出てきません。また、この伝説からだけでは、九頭龍神が琵琶湖とどう関わるのかはみえてきませんけど、「閼伽水」の覆い屋である「閼伽井屋」には左甚五郎作の竜の彫刻がほどこされ、この竜は「むかし」、「毎夜琵琶湖に出て暴れたので、甚五郎自ら竜の眼に五寸釘を打ち込んだ」とされます。
 三井寺の龍神は、祟り神・暴れ神といった伝承をもっていたようで、これは裏返していえば、この龍神は、どうやら不本意に、弥勒あるいは仏教に奉仕させられているのかもしれません。天智の「御念持仏」とされる金堂の弥勒菩薩なのですが、天智の「御念持仏」とされる仏が実はもう一体、三井寺にあります。それは本寺に対する別所(神社でいう別宮)とされる微妙寺にある十一面観音です。この十一面観音は「除病、除難、滅罪」に特別の利益があるとされ、まさに祓い神が仏に化身したかの観があります。
 三井寺(の金堂)といえば除夜の鐘、「三井の晩鐘」でよく知られるわけですが、この除夜の鐘がまた琵琶湖の龍神と関わっています。関係記事を『三井寺』から引いておきます。

■三井寺の除夜の鐘
 一般には除夜の鐘は、百八の鐘を撞いて旧年の厄を払い、新年の招福を祈念する行事ですが、当寺の除夜の鐘は、琵琶湖の竜神にまつわる伝説に彩られています。
 助けてもらった若者の妻となりながら産小屋で本当の姿を見られ、生まれたばかりの子供を残して琵琶湖へ去らねばならなくなった竜は、残されたわが子が、無事に育つようにと自分の眼玉を与え、盲目となってしまいます。わが子の姿を見ることができなくなった竜は、嘆き悲しみ、三井寺の鐘を毎日撞いて子供の無事を知らせて下さい、年の暮れにはできるだけ多くの鐘を撞いて聞かせて下さい、と頼んだと伝えています。
 以来、三井寺では竜神を慰めるため多くの灯明を献じ、竜の目玉にちなんだ眼玉餅を供え、百八に限らずできるだけ大勢の人達に鐘を撞いてもらっています。

 これはかなり脚色された「話」ですが、琵琶湖の母龍神への鎮魂慰撫といったモチーフだけはよく伝わってきます。この母龍神の子神は、あるいは、日(火)御子神であると考えることもできましょう。としますと、消えた母龍神は日御前神だったのかもしれません。
 日御前神社の神体が瓜に似た形の霊石、神霊石であることから、その素性は今は謎としても、瓜生姫の名も連想できます。また、この霊石を「卵」とみるときは、kokoroさん指摘の卵生説話を呼び出すこともできそうです。としますと、これも母子神信仰へとたどることができます。
 琵琶湖の水神を考えるときにどんな氏族が重要かといいますと、これは丹波や神功皇后とも関わりますが、わたしは息長氏が最古の水神伝承をもっていたのではないかとみています。はっきり「水姫」の名として浮かぶのは「息長水依姫」でしょうか。この水依姫あるいは水神が十一面観音と習合することを指摘していたのは、白洲正子『十一面観音』(新潮社)でした。
 この三井寺の母龍神の悲話は、とおく聖母信仰=母子神信仰を下地にしていることが考えられます。これは「伊太祁曽神の不思議」でもふれましたが、五十猛神という海神との対神はなにかという問いにもなります。水平=対偶的な関係を重視すれば、水神と日神の一対神(海神に通われる水神……肥前国風土記)となりましょうし、それを垂直的な関係に置換すれば、母神と子神という話の構造ができあがります。いずれにしましても、この三井寺の除夜の鐘の話もそうですが、なぜ最古層の対神は、その対関係をまっとうできないのかという根本的な問いは残ります。
 除夜の鐘の12月31日は、神道でいえば、6月30日に続く、第二の大祓いの日にあたっています。除夜の鐘が「旧年の厄を払い」とあるのも、ゆえなしとはいえないということですね。琵琶湖南岸部(瀬田川の佐久奈度神社)で、天智の側近=中臣金(と鎌足)によって、瀬織津姫は大祓神とされたわけですが、三井寺の除夜の鐘は、大祓神=瀬織津姫への鎮魂の晩鐘ともいえるようです。今年の除夜の鐘は、心して聴くことになりそうです。

(追伸)
 リライト編集を380ページほど終えた、いわば間隙を縫っての久しぶりの囲炉裏夜話です。次の原稿が明日にも届くそうで、こんなスロウペースが来年の春までつづくようです(あと、920ページです)。とはいえ、この受託仕事も本づくりの一環ですから、これはこれで編集者の「芸」かとおもっています。瀬織津姫とは直接関わりませんけど、今、「本づくりのご案内」のコーナーを当HPにUPする準備をしています。本をつくりたい人、本づくりに関心のある人は、どうぞご覧になってください。近日に、ここでお知らせします。

684 良いお年を。 GOTO 2002/12/28 09:32

たいへんご無沙汰しております。
今年は遠野へ出かけたおかげでこちらに
おじゃまさせていただくことになりました。
ひとえに瀬織津姫のおかげですね。
門外漢のたわごとにお付き合いいただいたご主人にも
たいへん感謝しております。
来年は伊豆七島の神津島に出かけようと考えております。時期は未定ですが。
無事に行ってきましたらまたご報告いたしますので。
それでは来年も宜しくお願いいたします。
最後になりましたが皆様のご多幸をお祈り申し上げております。

685 今年一年ありがとうございました。 クミコ 2002/12/29 14:15

ご主人
いよいよ年の瀬も押し詰まってまいりました。
お忙しいですか。どうぞご無理なさいませぬよう
良いお年をお迎え下さいませ。

686 よいお年をお迎え下さい。 kokoro 2002/12/29 23:00

 ご主人、今年はお世話になりました。
 来年もよろしくお願いします。

687 良い年をお迎えください。 この花咲くや姫 2002/12/30 22:03

今年も まもなく終わろうとしています。
来年が 皆さまの飛躍の年になりますよう・・・。

688 良い歳の瀬を さかな 2002/12/31 09:21

風琳堂主人さん

本年は大変お世話になりまして、ありがとうございました。
お仕事お忙しそうですが、どうぞ無理なさらすに、ご自愛ください。

689 稔り多い一年でした! サクラs(*^-^)ノ☆ 2002/12/31 23:22

ご主人、真っ白な銀世界に埋もれて頑張ってらっしゃいますか?
お正月は少しはゆっくりされる時間があるのでしょうか?

ご主人、今年はあっという間に過ぎてしまいました。
ご主人にご報告したいことがあるのに、忙しすぎてなかなかまとまりませんでしたが、稔り多き一年であったことに変わりありません。

瀬織津姫を通じて知ったこと。そして瀬織津姫を通じて皆様に知り合えたことは私にとって大きな財産となっています。
本当に一年間お世話になりました。
ありがとうございます。

そして、来年も引き続きご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。

そしてね、ご主人。また飲みにきてくださいね。
 バーチャル居酒屋「さくら」に.....

ご主人と瀬織津姫の更なる飛躍を願いつつ...
 そして、皆様に良き年が訪れることを願いつつ
  今年のお礼の言葉とさせていただきます。

690 「空(くう)」でやっとるぞん。 ピンクのトカゲ 2003/01/01 01:47

「空」の一升瓶二本ももらって、この上ない年越しから新年を迎えているでのん。
今、氏神若宮殿に呑みに行って帰ったでのん。
本年も頼むぞん&主人三河に帰省の折には「空」で一杯やらまいか。

691 瀬織津姫と桜に乾杯 風琳堂主人 2003/01/01 02:07

 桜と瀬織津姫=水神が深い関係にあることを明かす年になるだろうという予感の元に、旧年=2002年を迎え、また、それがほぼ明らかになったのが2002年でした。皆さんから簡単には応えられない多くのヒントをいただいたことに、あらためてお礼申し上げます。
 あと、2002年を振り返って大きな「収穫」だったなとおもえることは、出雲とも、厳島とも関わる、宇佐八幡の大元神=比売大神が瀬織津姫であることがはっきりしたことです。また、鹿島神の元神(の一神)が荒祭宮の神であることから、春日四神のうちの一神である、これも「謎」とされる比売大神も瀬織津姫である可能性が現実味を帯びてきました。
 水神は、桜に宿る神でもありましたが、水神はさらに、仏教的には、十一面観音にも化身します。神仏混淆の実態はなにかということについて、わたしたちはかなりはっきりしたイメージをもって語ることができるようになった──そんな一年でもありました。
 おもえば、最初は遠野郷の「無名」ともおもえた早池峰の女神=瀬織津姫でしたが、その神のルーツをたどるうちに、伊勢はもとより、日本という「国」の成立過程全体を照射するところにいる神であることまでみえてきました。大祓祝詞あるいは記紀以降において、その「建国=国づくり」の無理な作為性を明かす神、つまり、「日本」とはなにかを再考する上でも最重要な神であることはまずまちがいありません。現在までの、この1300年ほどの時間過程を「昨日」のことのように語ることを可能とさせてくれたのが瀬織津姫でしょうか。こういった歴史視点を与えてくれたこの女神に、新年の「乾杯」を捧げたいとおもいます。
瀬織津姫の深化と拡がりが、さらに予感される年、2003年の始まりです。
 本年もよろしくお願いします。

(追伸)
「本づくりのご案内」をUPしました。と、ご案内をしようかとおもっていましたが、現在、調整中です。パソコン素人の主人もほぼ2年経過し、Wordとエクセルとメールだけはなんとか使えるようになりましたが、HPをいじることができないのは相変わらずです。主人のパソコンの師匠でもあるサコウさんには、いろいろな「技」を教えてもらってようやくパソコンに慣れてきたかなというところです。サコウさん、あらためてよろしくお願いします。
 この不況の時代に、「仕事」を抱えて年を越すのが3年つづいていて、それはそれでありがたいことかとおもっています。これは規模の大小とは無関係ですが、純粋に出版だけで経営を成立させるのは限りなく不可能な時代を、わたしたち出版関係者は生きています。風琳堂は世界最小の出版社といってもよいのですが、おそらく、この小ささが、風琳堂を20年近く延命させてきている理由なのかもしれません(風琳堂の登録上の創業は1984年1月)。
 自営業は「自ら営む」ということで、これは独歩の精神にも通じていますから、言葉の甘さを感じさせる「自由業」よりもわたしは気に入っています。
 今回の「本づくりのご案内」は、わたしたちの「自営」の心を企業組織化せずに明日へ向かおうとする小さな試みでもあります。この自営・独歩の精神は、とおく瀬織津姫の存在の仕方と呼応しているのではないかという気もしています。瀬織津姫の柔和な笑みが感じられているかぎり、まだやれそうです。

692 謹賀新年 クミコ 2003/01/01 22:07

あけまして おめでとうございます
2003年‐瀬織津姫 楽しみです。
どんな転回になるのでしょう?
元旦からワクワクしています。
瀬織津姫に乾杯!

693 瀬織津姫と皆様に乾杯! サクラs(*^-^)ノ☆ 2003/01/02 11:38

新年明けましておめでとうございます。

>2003年が瀬織津姫の深化と拡がりが、さらに予感される年。

あは!ますます楽しみですね。
全国からの情報が実を結ぶ予感....
ご主人、今年も意義深い掲示板になりそうですね.(^^)

ご主人、瀬織津姫と皆様に乾杯です!
 トカゲさん、お正月を「空」で迎えられたなんて!
   あはは、幸先の良いスタートに乾杯です!

694 水無神社の祟り神T 風琳堂主人 2003/01/04 10:18

 クミコさん、サクラさん、皆さん、あらためてよろしくお願いします。
 昨年(今年)は、年賀状を1枚も書けない状態で、年末から年始へと、神ならぬ「紙」との格闘がつづいています。まったく「忸怩」たるおもいです。
 今日(1月4日)から、愛知県の某大学のテキストづくりで名古屋へ移動します。これは、新学部用のテキストの編集なのですが、まだ各著者からの原稿が半分も仕上がっていないという状態です。しかし大学側の意向としては、春の新学期にテキストを間に合わせる(間に合わせたい)ということで、これは相当に無理な日程であることはまちがいありません。
 編集→校正→印刷→製本の流れがいくつも同時的に重なることが眼に見えていますので、いよいよ本格的な「監禁」のような編集になりそうです。
 実際に現場に入ってみないことにはなんともいえないのですが、せっかく名古屋へ行くならということで、中部地方で前から気になっている神社についてのメモをさせてもらいます。
 この神社は、おそらく白山神とも関わることになるであろう、水無神社(飛騨国一ノ宮)といいます。同社の神は、日本海側と太平洋側の分水嶺にあたる位山(1529m)の神で、水分[みくまり]神・水神の要素が中心にあるはずですが、なぜか現在の祭神名は御歳大神とされています。
 古事記によりますと、御歳大神は御年神という表記がなされていますけど、この神は、大年神と香用比売の子神とされます。古事記は、この大年神の対神としては、香用比売のほかに伊怒比売と天知迦流美豆比売があると記していましたが、日本書紀へと「推敲」する過程で、これらの「水」の匂いのする女神たちはまるごと消去されてしまいます。
古事記にはかろうじて記載があるものの、書紀からは姿を消す香用比売という女神なのですが、これがまったく謎めいています。ほかの伊怒比売や天知迦流美豆比売は出雲神の可能性があることについてはすでにふれましたが、おそらく香用比売も水神的要素をもっている、ある神の「分神」の可能性があるのではないかという仮定をもって考えています。
 水無神社の祭神とされる御歳大神=御年神ですが、これはどうやら近代=明治以降の表示らしく、ではその前においてはどうだったのかというと、祭神の曖昧さは江戸期においてもすでに始まっていたようです。玄松子さんのHPには、水無神社の祭神に関する諸説が紹介されていますので、現在の御歳大神以外にどんな神が当該神とみられていたかを引用させてもらいます。

■水無神社の祭神説
@ 大己貴命(『一宮御本縁』)
A 高照光[ママ]姫命(『神名帳頭註』)
B 神武天皇(『飛騨八所和歌叢書』)
C 八幡神(『元禄検地水帳』)
D 天火明命(『神名帳考証』)
E 水神(『先代旧事本紀』)

 祭神不詳の様がありありと伝わってきます。しかし、こういった祭神不詳にもかかわらず、水無神社は、戦前までは「国幣小社」の社格をもっていて、これは、岩手の駒形神社とよく似ています。どんな神かははっきりしないが国幣社という別格として遇する不思議を平然と行ってきた例です。駒形神社に隠祭されている神が瀬織津姫であることについては、すでにふれました(「駒形神社の秘神」囲炉裏夜話423・424)。
 水無神社の祭神諸説の@大己貴命、A高照光[ママ]姫命、C八幡神、E水神の四説には、ここに瀬織津姫の「影」を認めることができます。
 さて、水無神にもかかわらず水神とはいかにという素朴な疑問もわくのですが、この水無[みなし]は元々「水主」からきたものだというのは神社側の主張です。

■水無神社御由緒(「飛騨一宮水無神社略誌」HP「玄松子の記憶」)
神代の昔より表裏日本の分水嶺位山に鎮座せられ、神通川、飛騨川の水主、また水分の神と崇め農耕、殖産祖神、交通の守護(道祖神)として神威高く延喜式飛騨八社の首座たり。
歴代朝廷の崇敬厚く、御即位、改元等の都度霊山位山の一位材を以って御用の笏を献上する。
明治維新、国幣小社に列し、旧来より飛騨一宮として国中の総社(総座)なり。本殿以下二十余棟建築凡七百坪は昭和十年起工、国費を以って改築せらる。
飛騨はもとより美濃、越中、木曽に及んで分社、縁社二十余社を有する。

 水無神=水主神の神格の高さだけはよく伝わってくる由緒です。神の性格としては、水神=水分神のほかに、農耕・殖産神であり道祖神でもあるということのようです。
 神社側の主張をそのまま受け取って水無神=御歳大神としてほうっておくということもできるのですが、豊島泰国『日本呪術全書』によりますと、この水無神はとびきりの神威をもっていて、神官を震え上がらせることがよくあるという興味深い話が紹介されています。

■飛騨一ノ宮水無神社の祭神の霊威
 天の浮船の降臨伝説もある位山を背後にした飛騨一ノ宮水無神社(岐阜県大野郡宮村字石原)は、終戦まで国幣小社の格式を誇っていた名社である。この神社の祭神は御歳大神(水無大神)だが、その神威は、専門の神職を畏怖させるほど凄まじいものとされている。というのは神社のもっとも大きな年中行事である例祭(「宮祭」)にあたって、宮司がみずから斎戒を厳重にしなければ、祭神から咎めを被り、その身を押さえつけられてしまい、まったく身動きがとれなくなるというのである。つまり金縛り状態である。
 特定の宮司ならばいざ知らず、何人もの宮司がその金縛りに見舞われていたというから尋常ではない。(豊島泰国『日本呪術全書』原書房)

 神職が怠慢な祭祀をすると「祭神から咎めを被」るというのは、たしかに「尋常」ではありません。こういった話を読みますと、水無神は、ほんとうはどんな神かということが気になってきます。
 祭神諸説の第四説である八幡神の「比売大神」が瀬織津姫であることと、この水無神の神威の強さはどこか共通していることが考えられます。瀬織津姫が最高の「祟り神」として遇される経緯についてはくりかえしませんけど、豊島泰国『日本呪術全書』は、さらに「恐ろしい神事」を紹介していますので、それも参考までに引用しておきます。

■上野一ノ宮貫前神社の無言神事
 恐ろしい神事といえば、一ノ宮貫前神社(群馬県富岡市一ノ宮)の御鎮神事を挙げないわけにはいかない。御鎮神事は同神社(祭神:経津主神、比売大神……引用者)の特殊神事で、祭典奉仕中、絶対に一言も物をいってはならないのである。口を利けば、死ぬという伝えがある。
〔中略〕
 ある宮司がその奉仕をしたが、外出にあたって玄関先で、ついうっかりと、「火は大丈夫か」と漏らした。その翌日、あろうことか、急死。いつもの口癖が仇になったのである。祭典中、あっと叫んだだけで、頓死した神職もいる。咳払いですら、死を免れないという。神馬も嘶いたと思ったら、即死したといわれる。
 御鎮神事は夜に行われるが、社務所の座敷で草履を履いて土間に降り、提灯一つをもって参道を通る。周囲の家は明かりを消して、大人たちも布団をかぶって息を潜めているという。神事奉仕中の神職に会うことすら、忌むのである。〔中略〕御鎮神事で使用した草履は、神聖きわまりない魔除けになるとして崇敬が篤い。

 貫前神社の祭神は経津主神と比売大神とされていますが、もとより祟り神の筆頭は「比売大神」のほうでしょう。つまり、香取神=経津主によってまつられる神=女神です。馬を即死させた話は香取神宮にもあり、この神は「御手洗井の神」という水神でした(「伊豆から香取へ」囲炉裏夜話483)。京都・下鴨神社の御手洗社=井上社の神が瀬織津姫であることもおもいだされます。
 水無神と貫前神(の比売大神)は同神の可能性がありますが、これを断言するには、資料がまだ不足しています。
 三井寺で琵琶湖の龍神の目をつぶしたのは左甚五郎でしたが、水無神社にも左甚五郎「幼少」の作とされる神馬、しかも黒馬がまつられています。興味深いことに、この黒馬も目がつぶされてないとのことです。
 水無神社の黒馬はなぜ目がないのかといいますと、「昔この地方で夜な夜な稲を食い荒らす馬がいると、村人が待ち伏せ後をついて行くと、馬は水無神社の境内に入っていき、彫り物の馬に変わった。そこで村人は馬の目を抜いたそうだ。それ以来二度と馬は現われなくなった」という伝承があります(HP「宮村水無神社」)。
 水神の使いあるいは水神の化身は一般的には白馬ですが、雨乞い祈願のときには、あえて白馬ではなく黒馬を奉納するのは、本来の白馬が黒く汚されることで水神が怒って雨を降らせるからだとされます(晴雨祈願のときは逆)。いずれにしましても、馬と水神は切っても切れない関係にあります。
 水無神社には黒馬だけでなく白馬もまつられていますから、水無神が雨乞い・晴雨の祈願神でもあったことがいえそうです。
 なお、飛騨地方の名桜に「荘川桜」があります。この桜は、御母衣ダムがつくられるときにあわや湖底に沈むところを湖岸に移植して生き延びたものですが、このダムに沈んだ白川郷から遷された白川神社を境内に抱えるのが水無神社です。玄松子さんは、「ちょっと怪しげな雰囲気の社」だとメモしていましたが、この白川神社の神については、インターネットの世界では、まだだれも言及していないようです。
 古桜と水神が深い関係にあることを考えますと(「水神の化身としての桜」囲炉裏夜話298参照)、水無神と白川神も異質な神だとはおもえません。名古屋で、万が一調べるチャンスがあればとおもい、いくつか気になることを書き留めておきます。

695 すいません、教えてください。 GOTO 2003/01/07 09:14

>宇佐八幡の大元神=比売大神が瀬織津姫であることがはっきりしたことです。

ごめんなさい。
放生会に興味があって調べていたら、
宇佐八幡が日本で最初ということだそうですね。
過去ログNoどのあたりか、お教えいただけませんでしょうか?
お手数かけます。m(_ _)m

696 お答えします 風琳堂主人 2003/01/08 02:41

 GOTOさん、お久しぶりです。
 放生会は、744(天平16)年に始まったようですね。大隈・日向の隼人討伐は凄惨を極めたということなのでしょう。彼ら(の死)への鎮魂神事として始まったというのが、放生会の最初の姿=意味かとおもいます。
 八幡の比売大神と瀬織津姫が同神ではないかということで論及したのは、囲炉裏夜話380「八幡神と瀬織津姫」や、その関連話として395「龍神=龍王と瀬織津姫」や400「佐太の龍陀が通う神」などがあります。あと、福島県古殿町の「鎌田家文書」が決定的な証言をしています(423・424「駒形神社の秘神」で紹介)。この文書の出現は、伊雑宮の元神(の一神)が瀬織津姫であることを証言している「西岡家文書」と等価な重みをもったものとみています。
 この世には、まだ光をみていない多くの貴重な「証言」文書があることは、まちがいありません。どう出会えるかだけなのかもしれません。
 それにしましても、どこでどのように言及してきたのか、自分でも怪しくなっていることに気がつきました。GOTOさんのお蔭です。いつか整理する必要がありそうです。

697 さっそく、ありがとうございます。 GOTO 2003/01/09 09:36

過去ログ探したら、既に私、登場していましたね。
全く失念しておりました。お恥ずかしい限りです。
お手数おかけしました。

宇佐八幡の放生会は日本初と言われながら、放生するのが魚や鳥ではなく、蜷(巻貝?)ということが異質ですよね。一説には隼人の風俗が長髪を巻くようにまとめていたので、巻貝を首に見立てたそうで、いかにも血なまぐさいです。
その鎮魂の地、宇佐八幡の大元神が比売大神=瀬織津姫ということは二重に上塗りされた因縁の地なのかもしれませんね。ぜひ宇佐へ出かけてみたくなりました。

698 瀬織津姫について質問です 魎皇鬼 2003/01/09 12:18

ある知人の方より御社から発刊されている「エミシの国の女神」を取り寄せていただいて読み始めたものです。
読み始めていて非常に素朴な疑問を感じましたのであえてお尋ねさせていただきます。

1.瀬織津姫の名前が隠匿されずメージャーになっていたとしたら記紀や神話体系、国学…。現在の日本はどのような姿となっていたとお感じでしょうか?
2.そもそも五万といるいろいろな国文学者や神社本庁などこのご研究をどのように思われているのでしょう?圧力などやはりあるのでしょうか?(それなりの(どんな(^^)?)の機関からあったのでしたらやはり真実が含まれているという事になるのかな)
3.同様なご研究をされているアカデミックな立場でのご研究者はいらっしゃるのでしょうか?
4.そもそもひとり歩きしている「瀬織津姫」という名前ですがなぜ別名に変えてまで隠匿せねばならなかったのでしょう。別名で語られていても判ってしまえば一緒のことでしょうに。
5.それほどまでに隠匿したい瀬織津姫の名前を大祓詞に残したのでしょう?
6.宇佐八幡の大元神=比売大神が瀬織津姫との結論をおだしになられていますが新羅、百済などの異国の神様ある可能性はないでしょうか。

もちろん貴HPにおいてあるテキストや御著を完読すれば
理解できる物もあるでしょうし過去にも同じ質問でお尋ねされウンザリされるご気分になられるかも知れませんがあえてご質問させていただきました。ここでお話にくい内容であればメールでもかまいません。(こちらからお知らせします。)お忙しいところ恐縮ですがご教授くださいませ。

699 瀬織津姫についてのご質問に 風琳堂主人 2003/01/10 05:47

 魎皇鬼さん、はじめまして。
 本を「読み始め」ていただいているそうでお礼申し上げます。
 ご質問の主旨をうまく汲み取れているかどうか自信ありませんけど、応えられる範囲で少し言葉を用意します。

1. 瀬織津姫の名前が隠匿されずメージャーになっていたとしたら記紀や神話体系、国学…。現在の日本はどのような姿となっていたとお感じでしょうか?

 瀬織津姫の名前が「メジャー」になるという仮定ですが、瀬織津姫がなぜ「隠匿」されるのかという、その理由を見極める過程に「現在の日本」を再考するヒントがあるのではと考えています。瀬織津姫がもし周知かつ認知されれば、日本は、かなり風通し(水通し?)のよい国に再生しているだろうと感じています(囲炉裏夜話50の投稿も参照してください)。

2.そもそも五万といるいろいろな国文学者や神社本庁などこのご研究をどのように思われているのでしょう?圧力などやはりあるのでしょうか?(それなりの(どんな(^^)?)の機関からあったのでしたらやはり真実が含まれているという事になるのかな)

 国文学者が「五万」もいるのかどうか知りませんけど、彼らや「神社本庁」の人たちがこの本をどう思っているのかは残念ながらわかりません。また、こちらが「圧力」と感じなければそれは無いに等しいわけです。ただ、この本の内容に「真実が含まれている」かどうかを、そういった「圧力」があったかどうかで測るのはあまり意味がないとおもいます。「真実」の有無については読者が判断すればよいことで、国文学者や神社本庁の人がどう考えるかといったことを斟酌して出版したわけではありません(ただし、オシラサマとは何かということに関しては、関係研究者=民俗学者にはこの本を一読してから「研究」を再構成してほしいという希望はもっています)。

3. 同様なご研究をされているアカデミックな立場でのご研究者はいらっしゃるのでしょうか?

 瀬織津姫の本格的な研究はまだ緒についたばかりです。「アカデミックな立場」から「研究」がなされるとすれば、これからだとおもいます。

4.そもそもひとり歩きしている「瀬織津姫」という名前ですがなぜ別名に変えてまで隠匿せねばならなかったのでしょう。別名で語られていても判ってしまえば一緒のことでしょうに。

 瀬織津姫という名前が「ひとり歩き」をしているのかどうかといったら、わたしは、それはないのではないかとおもっています。瀬織津姫の名を「なぜ別名に変えてまで隠匿せねばならなかった」のかを探究した章が本にありますので、これは本を読み進めていただければありがたいですが、次のご質問とも関わりますので、そこで簡単にふれておきます。

5.それほどまでに隠匿したい瀬織津姫の名前を大祓詞に残したのでしょう?

 当時、瀬織津姫の神威は特別なものと認識されていたのでしょう。この強い神威をもった神は「敵」にまわすわけにはいかず、国家の罪穢れを祓う神、ときには異敵征服の祈願神として利用しようとした人間がいるということかとおもいます。なお、「隠匿」したかったのは、正確にいえば、「瀬織津姫の名前」というよりも、瀬織津姫がもっている、ある神との「関係」だろうと考えています。結論的に言ってしまえば、皇祖神=アマテラス神話が崩壊する、あるいは相対化される場所にいるのが瀬織津姫です。伊勢にこの神をそのままの名で残すことは危険であると考えた人間が、瀬織津姫の名を、たとえば荒祭神とか大忌神などというように「別名」化したのだと考えられます。瀬織津姫(の名)を伊勢から消去しても、当事者(人間)にとっては、その贖罪の意識はかなり根深かったはずで、この贖罪意識の表れが、あの巨大な出雲大社の創建になるという仮説をわたしはもっています。

6.宇佐八幡の大元神=比売大神が瀬織津姫との結論をおだしになられていますが新羅、百済などの異国の神様ある可能性はないでしょうか。

 瀬織津姫が「異国の神様」、なかでも新羅の神ではないかという仮説を提出していたのは、中島利一郎さんや金達寿さんで、その神名の音韻類推から「ソウルの姫」「都の姫」という解釈でした。わたしは、瀬織津姫という「名前」は、瀬織=滝という、かなり高度な漢語の知識あるいはセンスをもった人物の命名ではなかったかとみています。つまり、瀬織津姫は「滝津姫」「滝の姫」という意味でしょうか(事実、宗形三女神の湍津姫が瀬織津姫と置き換わってまつられている神社が九州に2社、熊野本宮内に1社、現在確認されています)。また、瀬織津姫という「名前」は、列島各地の水神の総称名として、7世紀以降に新造されたもので、「名前」自体は、それほど古くみないほうがいいとも考えています。ただし、この神の水神という性格は、三韓時代よりも、そして列島の弥生時代よりも、はるか昔に遡れるだろうと考えています。いわば、縄文の水神の系を内蔵しているということもできます。

 繰り返しますけど、瀬織津姫「研究」はまだ始まったばかりです。瀬織津姫がもっている、この水神や滝神という性格は、この神の魅力を構成している大きな要素でしょう。魎皇鬼さんも、よろしかったらご自身の瀬織津姫研究をわたしたちに読ませていただければ、この女神の「研究」は、幅も深みも増すのではとおもっています。アニメ世界で瀬織津姫を展開してみたいという方もいらっしゃいます。それも「よし」だなとおもっています。

700 灯台下暗し 九州の龍 2003/01/10 23:24

風淋堂ご主人、あけましておめでとうございます。
とても忙しいということは知っておりましたが、結構書き込みがあるようですね。

私の自宅におきまして、義父と義母が天照皇大神と水神を対で祀っていたことが判明いたしました。灯台下暗し(笑)

今年もよろしくお願いします。

701 お答えありがとうございました 魎皇鬼 2003/01/11 08:23

ぶしつけな質問にも関わらず早速のご丁寧なコメントありがとうございました。
また、お話にくい面も多々あったでしょうがお答えくださって感謝致します。

既に全章、読ませていただいております。完読前のご質問で大変ご無礼を申し上げました。過去ログも一部拝見しました。まだ充分理解できていない部分もあるのですが少し拡大解釈すればまさに現代の日本の膿の部分の源流がここにあったというわけですね。現代の政治思想、権力構造その根底にこの問題は関わっているという事になりますか。そもそも日本の神々のルーツは、もっと素朴な山の神、水の神などの自然崇拝的な部分であったはずなのになぜこんな複雑な姿になってしまったのか。最もこれは人間というキリスト教では「原罪」と呼称する宿命を持つ所以で逃れようにも逃れられない部分なのでしょうが。オシラサマや天白神などもともと素朴な信仰だったはずで、そう考えれば瀬織津姫との関わりも違和感無く受け止められました。瀬織津姫という名前が隠匿されてゆく過程は、各地に残された由緒、伝承を紹介しながら証拠を積み上げて行く過程は、まさに推理小説のように興味深く読ませて頂きました。

瀬織津姫という名前を本道から消し去った贖罪の表れが「大祓詞」であり全国各地に残された瀬織津姫の痕跡なわけですね。その名をこの世からひとつひとつ抹消してゆく作業は恐ろしく手の混んだ作業でしたでしょう。まさに国家総動員で成し遂げたプロジェクトだったのでしょうか。出雲大社との関わりも興味深いお話です。今後の新たな進展に期待したいです。

瀬織津姫が異国の神では?という部分については、肥前=佐賀地方にその消去が著しいとありました。九州といえばやはり大陸とのかかわりは否定できません。この地からエミシの国へという図式も今後のアプローチ多いに興味のあるところです。

行く先不透明の我が祖国ですが、瀬織津姫のお導きで是非、禊、清めていただきたいものです。今まで本著のようなご研究がなかったのが不思議ですがとても興味深い内容ですし今後御同朋の研究者が増えれば今後のご研究にも拍車がかかりますね。何の因果かこうして私も瀬織津姫にめぐり合うことが出来ました。今回は、ぶしつけな質問で大変恐縮ではございましたが著者様の真意を説く御姿勢は、強く感じることが出来ました。御著を読み解いてゆくうちに充分伝わって参りました。「狼煙はあがった」という感じでしょうか。今後も水通し?のいい日本へ再生できるよう応援してまいります。

703 たまには内輪の話を 風琳堂主人 2003/01/16 06:13

 九州の龍さん、こんんばんは。本年もよろしくお願いします。
「とても忙しい」のはホントです。一日のうち半分以上の時間は「編集三昧」で、この集中力を瀬織津姫「研究」に費やすことが可能なら、出雲大社の謎や春日=鹿島の神祇論理、富士山の女神や「君が代」の「君」の謎などを明かすことはかなり速まるだろうなとおもわないわけではありません。
 こうまで「忙し」くしている=させているのは、これはひとえに風琳堂という出版社の問題です。これまで、人文書・学芸書の出版の軸を崩さないということで20年近くやってきたわけですが、この編集ならぬ「偏執」=こだわりのために、一時、10年ほど前の時点ですが、風琳堂の負債は2800万までいって、これは個人の出版としては限界かと見極めたということがあります。この「限界」というのは、普通の奉職人間が家一軒の負債を抱えることを基準としようとおもっていたためですが、そういったサラリーマンと少し異なるのは、たとえば30年ローンが「ない」ということでしょうか。相手はそんなに気長に待ってくれませんので、いきおい過剰な仕事を引き受けることになります。
 これまで、一方で返済をしつつ、一方で出版もするという対極の時間投資をしてきているのかもしれません。現在、風琳堂の負債は900万ほどまで減ってきてはいるのですが、これを個人のレベルで考えますと、やはり大きな負担です。相手は5年も待てないとなれば、これは「稼ぐ」しかないとなるわけです。「忙しさ」の理由を明かせばこういうことです。
 龍さんのご配慮はいつも絶妙で感謝しています。お家で、「天照皇大神と水神を対で祀っていた」とのこと──、これは、東北ならばオシラサマと呼称してもよかった話かとおもいます。わたしの遠野の親戚では、かつて神棚に、京都・下鴨神社からもらってきた「鏡」をまつっていて、これだけは、水害で家が全滅したときにも持って逃げたそうで、今でも遠い親戚の家にまつって正月前には必ず磨いているとのことです。この「鏡」の神様は、最初、呉服=織物の神だったそうで、それが明治期にはお酒の神に変身したようです。織物の神で考えれば、下鴨神社の糺神でもあろう瀬織津姫がみえてきますし、酒造の神で考えれば、あの丹塗矢の主神の一説に大山咋神があることから、まんざらでたらめな祭神性格ではないということになります。

 魎皇鬼さん、基本的にご理解いただけたようでうれしくおもっています。あの女神の本や、この囲炉裏夜話で、少しずつですが、瀬織津姫という水神・滝神の存在を気にする人や、ときにわたしの知らなかった情報や分析・研究を届けてくれる人が増えてきています。
 瀬織津姫という神を明かすのは一人では限界があります。既成の「アカデミック」な研究の蓄積は絶無に近く(民間研究ではふれたものがないわけではありませんが)、その意味で、これから瀬織津姫について新しい方法で調べ、それぞれの人が意見をいうのはすべて「新鮮」に映ることとおもいます。わが国の神話学者は、瀬織津姫を筆頭とする、日本の水の神の系譜をだれ一人明かした者がいませんからね。
 瀬織津姫は、魎皇鬼さんが看破されたように日本の権力構造の根底に関わっているばかりでなく、日本の文学の成立の初源にも深く関わっています。あるいは「桜」に象徴される日本の「文化」を考える上でも大きな存在でもあります。この女神の魅力に至る第一の扉が開きかけているというのが、現在の段階です。よろしかったらご一緒に瀬織津姫「探究」をしましょう。

704 千と千尋の神明かし 風琳堂主人 2003/01/26 05:02

 昼も夜もないといった日常の最中でしたが、トカゲさんから「千と千尋の神隠し」をテレビで放映するからぜひ観るようにとのことで、よい機会でしたのでちょっとマジメに観ました。
 この宮崎作品は、これまでと少し趣の異なる仕上がりで、一言でいえば、甘さが薄らいできたなとおもえました。
 この作品に、瀬織津姫を「感じた」人は多かったのではないかとおもいます。わたしは、感じるもなにも、瀬織津姫がモロに登場していて、この作品の根底を支えていることにびっくりしました。
 瀬織津姫がモロに登場していると書きますと、それは千尋のことだろうとおもわれるかもしれませんけど、それはそのとおりなのですが、モロということでいえば、名のある川の神だとされる「腐れ神」がそれに該当します。この嫌われ者の神の先便として「顔なし」がやってくるわけですが、これも嫌われ者の神です。
 ここで問いを、たとえば、なぜ川の神は腐れ神となるのかという問いを立ててみます。すると、千=千尋が、この神に刺さった大きな刺を抜く、しかも、それまでこの神を避けていた湯屋のみんなが協力して抜くシーンが大きな意味をもってきます。刺が抜けると、その穴から、なにやらさまざまな汚物・残骸などが吐き出されてきます。このシーンは、川が汚れている現代への警句のようにもみえますけど、それは表面的なことで、わたしは、これらの汚物は、王権および人々の罪・穢れを一身に祓い清めてきた水の神=瀬織津姫の、その内部に王権(と人々)に代わって溜め込んできた汚物=罪・穢れだなと観ました。
 このようになにもかも飲み込んでしまうのは、腐れ神と顔なしの二神ですから、そういう意味では、顔なしは、祓い神の風の神=気吹戸主を暗示しているのかもしれません(あの顔なし=透明はまさに「風」の姿です)。湯屋の全員が忌避する、これらの二神が、千=千尋だけには好意の情を表していたのも、おそらく二神は同系の神だということを暗示しています。
 さて、物語のもう一人の主人公=ハクなのですが、この少年の化身する姿は白竜で、しかもかつて川におぼれた千尋を助けたことがあるという関係設定がなされています。また、自分の名を思い出せないともされています。映画のラスト近くで、千尋がこの少年の名をニギハヤミ云々と明かすと、少年は白竜から人の姿にもどります。
 この作品がかなり考えられてつくられているなとおもったのは、実は、このハク=ニギハヤミ=白竜が、あの腐れ神と関係があることを暗示させる場面が二つも仕込まれていたことでした。一つは、腐れ神が汚物を吐き出しさっぱり(?)したあと、湯屋から去ってゆく姿です。画面は小さかったですが、たしか、竜の姿でした。もう一つは、千が腐れ神の湯釜に落ちて死にかかったところを救いあげるというシーンです。この小さな救いのシーンは、明らかに、過去の千尋の溺れかけたときの救いの記憶とリンクしています。
 これは、ハクが忘れた=忘れさせられた名を思い起こさせる伏線の話ですが、千尋の存在は、ここで瀬織津姫と重なることになります。そういえば、尾張・知多半島の恋の水神社の水神は、竜に乗ってスクナヒコナを助けにやってきます。千尋が白竜に乗っている最中に、この白竜の名を叫び、ハクはニギハヤミという名をとりもどします。この竜に乗っている千尋の姿が水神=瀬織津姫とだぶりますし、ニギハヤヒという男性太陽神を連想させる名を、千尋という少女が記憶していること──、ここで、瀬織津姫が千尋に化身したといってよいかもしれません。この男性太陽神の名を明かすことができる女神は、おそらく、瀬織津姫をおいてほかには考えられません(伊勢の元神である太陽神および三輪山の神は、ともに「男性の蛇」であったことも思い出されます)。
 ところで、この宮崎作品の大きなやさしさということでいえば、やはり、この湯屋という舞台の設定にあったかなとおもいます。日本の神々は疲れている──そんな疲れた神々の「癒し」の場として、この幻想的な「銭湯」は用意されたようです。この湯屋の水=湯を管理している釜爺もまた、千尋たちの味方でした。
 汚物を吐き出し、この神の湯で癒された「腐れ神」に、一瞬でも「女神」の姿を映しこんでいたら、この作品はそらおそろしい完璧度を備えたものになったなと、これはないものねだりですが、最後にぜいたくな「希望」のような「感想」を添えておきます。宮崎駿、それにしても、よい作品をつくるようになってきました。

707 水主神とはなにか 風琳堂主人 2003/02/11 17:37

(1) 速川=寒川の神
 速川、寒川というと、どこにでもある一般地名・川名にみえるかもしれませんが、瀬織津姫という水神をフィルターとしますと、存外、これらは一般地名ではなく、固有地名かもしれないということがみえてきます。
 西野儀一郎『古代日本と伊勢神宮』(新人物往来社)の瀬織津姫探求は、天照大神=瀬織津姫という同神説を越えていない限界はあるものの、ここに紹介されていた史資料・伝承はとても貴重なものが多いです。同書を枕につかわせてもらいます。

■速川=寒川神としての瀬織津姫の可能性
「延喜式第八神祇八祝詞」に「大祓六月晦大祓、十二月準之」の条文に「瀬織津姫」の神名が出る。
 高山[たかやま]の末[すえ]、短山[ひきやま]の末より佐久那太理[さくなだり]に落ちたぎつ、速川[はやかわ]の瀬に坐[ま]します、瀬織津姫という神……
 ここで私はおどろくも、おどろかないもあったものではない。玉城町田丸の佐田にある神宮摂社の「佐田国生[さたくなり]神社」を、土地の人はいまでも「はいこさん」と俗称しているが、この祭神は「速川比古命」「速川比当ス」である。『皇太神宮儀式帳解文』や『倭姫命世記』によれば、いまの外城田川を「布留川」(古川)「寒川」「速川」「惣郷川」「久留川」と呼んだという。これらの川は私の家の敷地の西境を流れる川で、いまの外城田川、当時の速川である。その瀬に坐した神様を瀬織津姫というわけである。速川、瀬織津姫が固有名詞であって普通名詞でないとすればこうも、私の身近に天照大神が座[ま]しましたということになる。青天の霹靂とは、まさにこのことである。この姫は天照大神の荒魂[あらみたま]ともいう。(西野儀一郎『古代日本と伊勢神宮』)

 現在、速川=寒川を社名にもつ神社の祭神として、瀬織津姫の名がストレートに確認できるところは、次の三社です。

■速川=寒川神社の主神としてまつられる瀬織津姫
@速川神社……富山県氷見市早借字滝尾880
A速川神社……宮崎県西都市大字南方字鳥ノ巣183-1
B寒川神社……和歌山県日高郡美山村寒川284

 三社の事例をもって、速川、寒川が特別の地名・川名といいきれるのかという疑問もないではありませんが、こと神社のレベルでみていきますと、そうとばかりはいえません。
 ただ、たとえば東国の相模国一ノ宮である寒川神社(神奈川県高座郡寒川町)、下総国二ノ宮論社の寒川神社(千葉市中央区寒川町)、二宮神社(「寒川神社二宮大明神」船橋市三山)などに、祭神名としては、現在、瀬織津姫の名はまったく出てきませんから、より疑問は深まるかもしれません。しかし、試みに、たとえば相模国一ノ宮である寒川神社の由緒等を少し調べてみますと、現在の祭神表示の怪しさは、すぐに伝わってくることとおもいます。

■寒川神社(【式】寒川神社)
(祭神)寒川比古命、寒川比女命
(鎮座地)神奈川県高座郡寒川町宮山3916
(由緒)寒川神社誌
御祭神 寒川比古命(さむかわひこのみこと)、寒川比女命(さむかわひめのみこと)
御祭神二柱をたゝえて寒川大明神又は、寒川大神と奉称している。
御神徳 寒川大明神は太古草昧の時代、相模国・武蔵国を中心に広く関東地方を御開拓になられ、農牧・殖林治水・漁猟・商工・土木建築・交通運輸その他あらゆる殖産興業の途を授け、衣食住等人間生活の根源を開発指導せられた所謂関東文化の生みの親神である。この地方に生を享ける者としては、夢寐にも忘れることのできない一切生業の大恩神にましますのである。
而して悠久幾千年、国土国民、一切生業の守護神として、あらゆるものゝ生成化育発展充実を理想へと導びかせ給い、わけても古来唯一の八方除の守護神として、御霊験あらたかにましまし、地相・家相・方位・日柄・厄年等に由来するすべての悪事災難をとり除かせられ、福徳開運をもたらし、生活々動に限りなき恩恵をかがふらせ給うなど、御神徳は実に広大無辺にあらせられる。(HP神奈備「延喜式神名帳」)

 相模の寒川神は、「関東文化の生みの親神」であるそうです。また、「古来唯一の八方除の守護神」という祓い神の性格を濃厚に伝えています。では、現在の祭神の「寒川比古命、寒川比女命」がはたしてそういった祓い神の要素をもっているのかと疑問を投げかけてみますと、最初に引用した、伊勢の速川=寒川=布留川(奈良の石上神宮の川も布留川)の祓い神=瀬織津姫の存在を想起するしかないとなります。
 ところで、「寒川比古命、寒川比女命」という現在の祭神が、神社創建の当初からのものではなかったことは、寒川神社自身が証言しています。

■寒川神社による自社の「ご祭神」説明
寒川比古命(さむかわひこのみこと)
寒川比女命(さむかわひめのみこと)
二柱の神を祭り、寒川大明神と称しています。当社の御祭神については、古くより諸説があり、時代々々により寒川神、八幡神、菊理媛、素盞鳴命、稲田姫尊……、と一定ではありませんでした。
大正5年12月、内務省通牒により、寒川比古命・寒川比女命の二神を御祭神として奉祀し現在に至っています。(「寒川神社のホームページへようこそ」)

 相模の寒川神社は、「大正5年12月、内務省通牒により、寒川比古命・寒川比女命の二神を御祭神として奉祀」していると、正直に表に出しているところがいいです。また、祭神については「古くより諸説」があってはっきりしないのだともいっています。
 この「諸説」にみられる祭神名としては、@寒川神、A八幡神、B菊理媛、C素盞鳴命、D稲田姫尊ほかがあるようですが、これらのうち、@の寒川神は伊勢の地で、Aの八幡神の比売大神は瀬織津姫であること、Bの菊理媛=白山神も瀬織津姫である可能性は濃厚ですから、過半の「諸説」に瀬織津姫が隠れていることがわかります。
 この相模の寒川神社の鎮座地名に「寒川」がみられるように、神名と地名は密接に関わっていることが考えられます。
 東国のほかの二社についてはここではふれませんけど、もう一社、地名が神名あるいは神社名と関わっていることが考えられる神社を西国にみてみます。それは、讃岐国の旧寒川郡に鎮座している大蓑彦神社といいます。

■大蓑彦[おおものひこ]神社(【式】大蓑彦[オホミノヒコ]神社)
(祭神)大蓑彦命
(鎮座地)香川県大川郡寒川町石田東甲1743
(由緒)
当社は延喜式神名帳に「讃岐二十四座の一」とす、里人蓑神明神と奉称す、神社の北方に寒川渕ありて名水なり、寒川郡名之によって起ると云う。
御祭神大蓑彦命は上古蓑を作り始め給ひし功績によりて称へし御名なるべしと云う。一説には素盞嗚命、又水霊神を祀ると云へり、神名帳考証に「寒川郡大蓑神社水霊郡名寒川郡因此神歟」と云う。
特選神名牒に「水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なりとある。大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし」と記されたり。(HP神奈備「延喜式神名帳」)

 ここも、江戸時代において、すでに祭神の不定がみられます。しかし地名潭に限定してみれば、「神社の北方に寒川渕ありて名水なり、寒川郡名之によって起ると云う」と、名水=寒川渕の存在がみえてきます。寒川郡は、現在、「寒川町」という町名になって存命しています。
 相模の寒川神の祭神「諸説」にも「素盞鳴命」が登場していましたが、讃岐の大蓑彦神社の祭神にも素盞嗚命の可能性が指摘されています。これは、名を喪った水神の流浪漂泊のイメージが素盞鳴=スサノウと重なるからかもしれません。「蓑」を着けて流浪の途につくスサノウのイメージが「大蓑彦」の名称を呼び寄せたものか、あるいは、消された水神と共有するスサノウという神の根本的な性格に拠るものか──ここでは断定はひかえます。
 ところで、名水=寒川渕は「神社の北方」にあるとされていますから、ここは、この神社の最重要な神域とみてよいのでしょう。つまり、讃岐の大蓑彦神社の寒川渕を司る神がこの社のほんとうの神だとみられます。この認識があるからこそ、祭神に、その名は抽象化されていますけど、「水霊神」が指摘されていたと考えられます。
 神社由緒に引用されている『特選神名牒』は、この「水霊神」を、相模の寒川神社と同じく、「大水上児寒川比古命寒川比女命」かとし、さらに、「大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん」と推測を重ねています。
 ここで興味深いのは、「大水上神」の名が登場していることです。この大水上神に関わる伊勢側の資料を、次に掲げておきます。

■『神宮典略』(内宮系神統譜)が記す「滝祭神」の異称同神名
大水神=滝祭神=水上神(水上御祖)=御裳乃濯川比女=朝熊水神(西野儀一郎『古代日本と伊勢神宮』所収、神統譜にみられる「一云」などは、引用者が=記号に置き換えた)

「水霊神」として「大水神」が考えられるとすれば、これは伊勢内宮の元神である滝祭神と同神だとなります。滝祭神が瀬織津姫の異称神であることについては、これまでにもふれてきましたが、西野さんも、同じことを次のように書いていました。

■滝祭神としての瀬織津姫
「大神宮の西の川辺にあり。御殿なし」と『(皇太神宮)儀式帳』にはしるされている。内宮神域内の手洗場の側にある石だけの社である。これこそ皇大神宮のもとの神であり、神宮の祭祀の前にはかならず滝祭の神を祀るのである。
 荒木田経雅神官は『(皇太神宮)儀式帳解文』で推量すれば、滝祭神は「瀬織津姫」とも「大神御蔭川神」などともいっている。そしてはっきりとした祭神名はいわれていないとしている。(西野儀一郎『古代日本と伊勢神宮』)

 江戸期末とはいえ、伊勢の神官である荒木田経雅が、大水神=滝祭神と瀬織津姫が同神であると指摘していたのは貴重なことです。なお、滝祭神が「水神」であることについては、鎌倉期の『倭姫命世記』にすでに記されていることでした。

■水神としての滝祭神
滝祭神〔無宝殿、在下津底、水神也、一名沢女神、亦名美都波神〕(『倭姫命世記』)

 ちなみに、伊勢神宮の元宮ともいうべき伊雑宮の奥宮にあたる「天の岩戸神社」(ご神体は鍾乳洞内の滝)にみられる祭神名に、泣沢女神と美都波女神があります(あと、猿田彦神を足して三神とされています)。ご神体が、鍾乳洞内の滝(これは五十鈴川の源流部に位置してもいる)であることと、『倭姫命世記』が記す、滝祭神=沢女神=美都波神という表示が正確に対応していることがわかります。この神秘的なというべき、鍾乳洞の滝神こそが瀬織津姫でした。
 ここまでみてきますと、瀬織津姫の異称同神の等号式は、限りなくその数を増やしていくことが予想されます。この小稿でみただけでも、ざっと次の諸名が確認できます。

 瀬織津姫=滝祭神=大水神=沢女神=美都波神=水上神(水上御祖)=御裳乃濯川比女=朝熊水神=速川神=寒川神=大神御蔭川神……

 最後の「大神御蔭川神」ですが、こういった抽象的な祭神名にされている内宮摂社が三社あります。これらの祭神も瀬織津姫であることは、荒木田経雅神官および西野氏によって明かされていましたので、次に書き出しておきます。

■御蔭(川)神としての瀬織津姫
@蚊野神社……大神御蔭川神(『儀式帳』)、瀬織津姫(『儀式帳解文』)
A田辺(田乃家)神社……大神宮御蔭神(『儀式帳』)、瀬織津姫(『儀式帳解文』)
B御船神社……大神宮御蔭神(『儀式帳』)、瀬織津姫(『儀式帳解文』)
 以上、三社はいずれも外城田川流域にあって、むかしは神社境内の入口は、外城田川流水に面していたと土地の古老はいう。(西野儀一郎『古代日本と伊勢神宮』、@〜Bは引用者が整理)

 瀬織津姫=御蔭(川)神は、外城田川=速川=寒川の「流水に面して」まつられている(いた)という指摘もあり、これは、瀬織津姫がまさに同川の水神=川神ゆえのことでしょう。
 伊勢側の関係資料からは、飛騨一ノ宮・水無神社の「水無=水主」という言葉は出てきませんけど、この水主神が、たとえば「大水神」や、「水上御祖」といった瀬織津姫の異名と無縁であるとは考えにくいです。

(2) 讃岐の水主神とはなにか
 飛騨一ノ宮・水無神社の由緒によりますと、同社の現在の祭神は、水無大神(御歳神)とされるも、位山の「水分の神」であり、「神通川、飛騨川の水主」と、両大河の「川神」であることがうたわれていました。これは水無神がまさに水主神であることを告げるもので、しかも、ここの神は、「祟り神」ともいえそうな、とびきりの「神威」をもっていることを指摘していたのは、豊島泰国(『日本呪術全書』原書房)でした。
 現在確認できるもので、その名も「水主」を社名にもつ神社が少なくとも二社あります。一つは、京都・城陽市の水主神社(祭神:天照国照彦天火明奇玉饒速日尊ほか9柱)と、もう一社は、香川県大内郡の水主神社(祭神:倭迹々日百襲姫命)です。
 城陽市の水主神社祭神の天照国照彦天火明奇玉饒速日命は、飛騨の水無神社の数ある祭神諸説のなかの天火明命説(『神名帳考証』)と一見共通しています。水主神=水神は、天照国照彦神、あるいは天火明命、あるいは奇玉=櫛玉神、あるいは饒速日命といった男性太陽神の諸神と、深い関係にあります。これら同性格の諸神、つまり海洋農耕神かつ太陽神・火神の総称神として、あの長い神名=天照国照彦天火明奇玉饒速日命(『先代旧事本紀』)はあるとおもわれますが、この神が水神=川神として考えられるとすれば、それは、海からやってくる男性神格の龍神の要素をもっていたからでしょう。一方、水神もまた女性神格の龍神ともなりますので、これが、両神が水神=水主神とみなされる、あるいは混同される理由かとおもいます。
 しかし、基本的には水神と日=火神は陰陽の対極をなす関係にありますから、「水」の神は女神が基本でしょう。城陽市の水主神社にそれを探りますと、全10柱の祭神のうち2柱、つまり、かつての天照御魂神、山脊大国魂神だけが月次新嘗の対象で別格であったことに注意がいきます。天照御魂神は伊雑宮と同じ祭神表示で、大国魂神は男系の日神を国津神化したものです。両神はもともと一対神でしたが、水主=水神の要素をもち、さらに日神=天照神と関わる水神はなにかと考えますと、天照御魂神が隠している本来の女神の名は自ずと絞られてきます。
 内宮別宮とされる伊雑宮(現祭神:天照御魂神)ですが、ここの元神(の一神)が瀬織津姫であったことは『エミシの国の女神』がすでに明かしていることでした。以下に、もう一例みておきます。この社は、山城国の、通称、湧出宮[わきでのみや]、正式社名は和伎座天乃夫岐賣[ふきめ]神社といいます。

■和伎座天乃夫岐賣神社(【式】和伎坐天乃夫支賣神社【大、月次新甞】)
(祭神)天乃夫岐賣命、田凝姫命、市杵嶋姫命、湍津姫命
(鎮座地)京都府相楽郡山城町平尾字里屋敷54
(由緒)湧出宮縁起
古来より天下の奇祭「いごもり祭」で世に知られる湧出宮は、JR奈良線棚倉駅前の鎮守の森に鎮座する古社である(旧社格は「延喜式内社・郷社」)。創建は今より1200年余り前の、称徳天皇の天平神護2年(766)に、伊勢国渡会郡五十鈴川の畔より、御祭神として此の地に勧請申し上げたと伝えられている。社蔵の文書(和伎座天乃夫伎賣大明神源縁録)によれば、御祭神天乃夫伎賣命とは、天照大神の御魂であると記されている。恐れ多く神秘なるが故にかく称し上げたとある。後に田凝姫命、市杵島姫、瑞津姫命を同じく伊勢より勧請して併祀したとある。尚、この三女神は、大神とスサノオの命との誓約によってお生まれになった御子である。(涌出宮大明神社記)
大神を此の地に奉遷した処、此の辺は一夜にして森が涌きだし4町8反余りが、神域と化したので、世の人は恐しく、御神徳を称えて、「涌き出森」と呼称したと言い伝えられている。山城の国祈雨神11社の1社として、昔から朝野の崇敬を集めてきた。清和天皇(859)や、宇多天皇(889)が奉幣使を立て、雨乞い祈願をされたところ、霊験により降雨があったと記されている。本殿は社蔵の「堂社氏子僧遷宮記」よれば、現本殿は元禄5年(1692)の造営で、「三間社・流れ造り」で屋根には「千木・勝男木」置くとある。それ以前には中世の戦火で度々焼失し、源頼朝や、後小松朝、後柏原朝の御世にも再建された。昭和50年には本殿の屋根が檜皮葺 から銅板葺き変わり、現在の形になった。平成3年には氏子、崇敬者の浄財拠出により、神楽殿・社務所が全面改築新装された。
涌出森境内一帯は、弥生期の居住跡として弥生式土器・石器等が出土した。また、社務所改築前の発掘調査では、竪穴式住居跡も確認された。(HP神奈備「延喜式神名帳」)

 祭神の天乃夫岐賣[ふきめ]命は、古記によれば「天照大神の御魂」であり、しかもこの神は、「称徳天皇の天平神護2年(766)に、伊勢国渡会郡五十鈴川の畔より、御祭神として此の地に勧請申し上げた」とあります。「伊勢国渡会郡五十鈴川の畔」の神は、滝祭神のことでしょう。しかし、「天照大神の御魂」という名称は、「恐れ多く神秘なるが故にかく称し上げた」とされるわけで、これはまだ仮称です。このフキメ=天照御魂神という名の「神秘」の神、つまり滝祭神と同神である水神は瀬織津姫とみるしかありません。なお、同社の「いごもり祭」(居籠祭)の主役の座に座るのは「古川一族」で、この一族は、「伊勢から下ってきた神を出迎えた一族」とされます。速川=寒川の異称に古川の名があったことも関係がありそうです。
 さて、話を水主神にもどします。讃岐国、つまり現香川県に鎮座する水主神社です。こちらの祭神は、城陽市の水主神社とはちがって、倭迹々日百襲姫命一柱とされています。
 倭迹々日百襲姫命──これまでに例のない水神=水主神の名が登場してきました。日本書紀は、倭迹々日百襲姫は、三輪山の神に通われる女性であり、また、孝霊天皇の皇女だとも記していましたから、この女性は、神と人との境界にいる存在、あるいは巫女的な存在(斎宮的存在)であったことが想像されます。
 讃岐国の水主神社の由緒等を読んでみます。

■水主[みぬし/みずし]神社(【式】水主神社)
(祭神)倭迹々日百襲姫命
(鎮座地)香川県大川郡大内町水主1418
(由緒)
当社は、大水主大明神又大内大明神と言われ、文武、元明天皇の時代より「洛陽の坤の方なる讃岐の国に霊地あり、大水主御社と号す」と言われていました。
創祀は遠く孝霊天皇の御宇にして、一説には、宝亀年間の勧請と誤伝していますが、再建の年にして、祭神は孝霊天皇の皇女「倭迹々日百襲姫命」で、七才の年に大和の国黒田の盧戸より出て、八才の時東讃引田の安戸の浦に着く。御殿、水主に定め造営せられたとあります。
土地の人は、ここを「大内」と呼び、昔日の大内郡の郡名大内町の町名はここに起源となると言われております。
じ来、各時代多くの変遷を経、現在に至って居り、明治三十四年三月二十七日、国宝となった木造狛犬二点(運慶作)、木造御神像八点、雷文螺鈿鞍一背、大般若経入白木面塗函六十点の外、県指定の文化財社宝も数多く秘宝しております。(HP神奈備「延喜式神名帳」、適宜読点を補足)

 讃岐の水主神社は、「文武、元明天皇の時代」にはすでにまつられていた古社のようです。文武時代は持統晩年にも重なりますから、この時代は伊勢神宮の改竄創祀がなされてまだ日が浅い時間を背景にもっています。また、元明天皇の時代はそのまま藤原不比等の時代でもあり、古事記が創作され、つづいて各風土記がつくられはじめた時代です。
 それにしましても、深読みしようのない「由緒」となっています。この由緒の出典は「平成祭データ」なるもので、いわば神社本庁お墨付きのものだからなのかもしれません。
 ここで、神社側の一味異なる「由緒」を読んでみます。

■水主神社「境内案内」T
 弥生時代後期、女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返され、水主神社の祭神倭迹々日百襲姫命は、この争乱を避けて、この地に来られたと伝えられています。
 姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたといわれています。
 境内は県の自然環境保全地域に指定され、付近からは縄文時代の石器、弥生・古墳時代の土器が多数発見され、山上には姫の御陵といわれる古墳もあり、宝蔵庫には多くの文化財が納められています。社殿はすべて春日造りで統一されており、社領を示す立石は大内・白鳥町内に今も残っています。
 與田寺(四国八十八ヶ寺霊場奥の院…引用者)へ向う途中の弘海寺付近には昔有名な「石風呂」があり、宿屋が栄え、「チンチン同しに髪結うて、水主のお寺へ参らんか。」とこどもたちが歌ったほどにぎやかな土地でありました。(HP「玄松子の記憶」)

 由緒の言葉が俄然いきいきとしてきました。倭迹々日百襲姫命は、「女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返され」たため、その「争乱を避けて」、大和の地から、この讃岐の地へ流浪してきたことになっています。その真偽はなんともいえませんけど、「姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けた」という姿は親しみがもてます。この讃岐の地で水神=水主神とみなされた、このモモソヒメという皇女は魅力的な存在です。
ところで、玄松子さんは、もうひとつの「境内案内」も収録していますので、そちらの祭神説明も読んでおきます。

■水主神社「境内案内」U
◎倭迹々日百襲姫命
奈良県黒田慮戸(現在の奈良県磯城郡田原本町黒田)に居を定める。御年七才より黒田を出、八才にて水主宮内に着き給う。成人まで住み給いて農業・水路・文化の興隆成し水徳自在の神と称へられ奈良時代にはすでに神社形成をなしていた。

 こちらは、少し角ばった祭神説明です。神社側のこの二つの祭神伝承と書紀の記述を信じますと、倭迹々日百襲姫命は、「成人」後、讃岐の地から大和にもどり、そこで三輪山の神と神婚することになります。もっとも、こういった時間の流れ、倭迹々日百襲姫命の人生時間の流れを再構成することに意味があるとはおもえませんけど、わたしたちが混同してならないのは、倭迹々日百襲姫命が三輪山の太陽神と感応する能力をもった女性で、生存時点ではまだ水主神ではなかったということでしょうか。これはいいかえれば、彼女自身が水神と一体となる感応力をもった存在 (「雨を降らせ、水源を教え」る能力をもった女性) であったとしても、彼女自身は「水源」の神そのものではなかったということです。つまり、彼女は、神をまつる存在ではあっても、自身が神=水主神としてまつられるのは後世のことだろうということです。
 このことは、水主神社の神仏混淆時代の産物である「大水主大明神和讃」(応永十七年=1410年、増吽[ぞううん]僧正作)に、モモソヒメの(大和から讃岐への)流浪の姿は、「たとえば伊勢の神垣は/日本姫(倭姫)に託[のり]まして/五十鈴の川の滝祭/尋ね廻りし如くなり」という言葉によってもわかります。日本姫=倭姫の流浪は、まつる神としての天照大神の鎮座地を探しての流浪旅だったわけで、自身がまつられるための流浪ではありませんでした。倭迹々日百襲姫の流浪も、それと同じだと、この和讃は語っているわけです。ここには、倭迹々日百襲姫命が倭姫の「如く」にまつろうとしている神の名は出てきませんけど、彼女自身がまつられるために流浪してきたということではないということです。
 それにしましても、この和讃の作者=増吽なる人物はただものではありません。といいますのも、倭姫が抱く天照大神をまつる地は、「五十鈴の川上」(倭姫命世記)ではなく、「五十鈴の川の滝祭」の地だとうたっているからです。この滝祭神がいる地こそが、天照大神が鎮座する地だという認識は途方もないものです。この讃岐の水主の地にも、伊勢の滝祭神と同神がすでに鎮座していて、それが倭迹々日百襲姫命の到来を待っていたと想像することは楽しいです。もし倭迹々日百襲姫命が倭姫のように一緒に連れてやってくる神がいるとすれば、それは、どんな神が考えられるかという問いも生じてきます。
 和讃は、この水主の地は「有縁の処」であり、ここには「往昔大悲の御誓い/深くおわする」ともうたっています。また、「葦原国の浅ましき/吾らを導き給わむ」とも語り、この言葉は倭迹々日百襲姫命あるいは大水主大明神に向かって祈るように捧げられています。
 和讃は、また、火神を厭うイザナミ神を例にし、水神に思い入れる心性や、水主神社を守護するように取り巻く水主三山の神と熊野三山神は「同体」だともしています。しかし、熊野三神のなかでも、特に「和光同塵」の神、「日本第一大霊験」を現す熊野神、「結の御前」ともされる熊野神、つまり熊野・那智(の滝)神に「神力無窮の盟[ちかい]」をもって「水徳立てん」としています。この「水徳」を立てるのが、増吽自身なのか倭迹々日百襲姫命=大水主大明神なのか判然としないほどの思い入れが伝わってきます。
 増吽は、「熊野は千手の因の徳/枯れたる木にも花咲きぬ」と、まるで那智の滝神かつ桜神を知っているかのような言葉も残していて、大水主大明神に、「神力霊験双[ならび]なし」の「水徳」をもたらすことを願う言葉を絶唱しています。
 こういった増吽の和讃を読んでいますと、倭迹々日百襲姫命=大水主大明神が熊野・那智神と深く重なってきますし、もっといえば、この和讃によって、大水主大明神は那智の滝神とまさに「同体」となったようにおもわれてきます。
 倭迹々日百襲姫命という謎の姫は、「第七代」天皇=孝霊の皇女という、気の遠くなるような「過去」の姫です。また、最初期の前方後円墳とされる「箸墓」に眠る皇女ともいわれています。その真偽は今は確かめようがありませんけど、那智の滝神=滝祭神=瀬織津姫と、この流浪する皇女は、その「水徳」においても、また、その流浪の姿そのものにおいても、確実に重なってきます。それが、現在、讃岐・大内の地で手厚く信奉されている水主神の二重化された「神」の姿かとおもいます。

(3) 讃岐国の瀬織津姫
 讃岐国において、では、瀬織津姫は一切まつられていないのかというと、むろんそんなことはありません。
 瀬織津姫をまつる神社──現在確認できるものに限られますけど、以下に書き出してみます。

■瀬織津姫をまつる香川県の神社
@川上神社【本殿主神】……綾歌郡綾上町枌所東4018
A黒嶋神社【本殿配神】……観音寺市池之尻町281
B滝宮神社【本殿主神】……三豊郡大野原町井関240
C梶州神社【本殿主神】……仲多度郡琴南町梶州741
D落合神社【本殿主神】……仲多度郡琴南町勝浦字長谷2349
E川上社【本殿主神】………仲多度郡琴南町川東3048
F祓戸神社【金刀比羅宮境内社】……仲多度郡琴平町892-1
G日向神社【八幡神社境内社】………木田郡三木町池戸鍋渕1387

 Fの金刀比羅宮(祭神:大物主神)だけが瀬織津姫を「祓い神」とみなしてまつっているわけですが、ここの主神・大物主神こそが、倭迹々日百襲姫のところへ通う三輪山の神でもありました。あと、Gの日向神社の神として瀬織津姫がまつられていることは、日向神=八女津媛の背後の神を暗示して余りあるというべきかもしれません(囲炉裏夜話597、599参照)。あるいは、「祭神不詳」を表示しつづけている日向大神宮(京都市山科区、延喜式内社・日向[ひむかい]神社)ですが、ここも、その祭神はもう「不詳」ではないということになります。
@〜Eについては、A・Cが微妙ですが、ほかはすべて水神=滝神=川神としての社名だとみることができます。瀬織津姫の本来の性格が生かされています。
 ここで、水主神社と同じくらいの「古さ」をもつ──、といっても『延喜式』の神名帳に記載があるということですが、少なくとも927年の時点には社が存在していた、Aの黒嶋神社をみておきます。

■黒嶋神社(【式】黒嶋神社)
(祭神)闇山津見神、瀬織津姫神
(鎮座地)香川県観音寺市池之尻町281
(由緒)由緒書
丸亀藩、甲斐国の或川堀御普請申付けられ工事難行せし時、藩主佐渡守高矩公の枕辺に黒嶋、池之宮二神お立ちになり、「紫の幕張り工事取進めよ、たやすく成就いたすべし。」とのお告げあり、早速にも取り計えば思いのほか早く完成。よって宝暦五年(一七五五)六月二十六日、御供田十石五斗四升二合の寄進あり。
また将軍家より悍馬賜りし時、或夜夢にて「吾は領内にある黒嶋大神なり。」と告げ給い、奇瑞のことなるによって、万延元年(一八六〇)に至り御供田拾石を寄進せしと旧記にある。
明治維新の際、村社に列せられ、同四十年十月二十四日、神饌幣帛料供進神社に指定、大正六年、郷社に昇格。
鎮座縁起年代は不詳であるが、延喜式内讃岐二十四社の一であるから当時の御神威が想像されると云える。(HP神奈備「延喜式神名帳」)

 神の性格をもう少し書いてほしいところです。このわずかな由緒の言葉からいえることといえば、「藩主佐渡守高矩公の枕辺に黒嶋、池之宮二神お立ちになり」とありますように、水神=瀬織津姫はどうやら「池之宮」の神だということくらいでしょうか。としますと、闇山津見神が「黒嶋」の神となるようです。
 ところで、黒嶋・黒島という島名が、特別の意味をもっていることを指摘していたのは、「日本文学に見る河川」(歴史風土に根ざした郷土の川懇談会)の高橋さんでした。

■黒島(黒嶋)の意味
黒島と言うと南から北まで随分名前のある島ですけれども、海の仕事をする人たちが特に信仰していた島、大切にしていた島に、そういう名前がよくつけられます。

 ここでなぜクロシマかという問いが浮かんできますが、これは黒島が九龍島と表示されている例(和歌山県古座町)から、龍神が鎮座する島ということかもしれません(ちなみに、古座町の九龍島=黒島には、弁天、龍王、蛭子神の三神がまつられています。また、同町の古座川は、かつては祓川と呼ばれていて、ここには祓ノ宮があり、祭神は瀬織津姫です)。
 さて、池之宮という社名は、ほかにも瀬織津姫がまつられる社に散見されるものです。讃岐国でいえば、この池之宮の「池」に該当するのは、先にふれた大蓑彦神社でいえば、「寒川渕」となりましょうか。また、水主神社とも関わりますが、讃岐国一ノ宮・田村神社にも、この「池」に相当するものが、しかも、かなり謎めいていますが、確認できます。
 水主神社の和讃の最後のところに、よく読むと奇妙な文句があります。それは、「そもそも当社は当国(讃岐国)の/一品一の宮なるべきを/御妹に禅[ゆず]りまし」という箇所です。水主神=倭迹々日百襲姫は、讃岐国の一ノ宮になる神格をもっていたが、一ノ宮の格を「御妹」に譲ったというのです。
 そのように一ノ宮の格を譲られたのが田村神社なのですが、奇妙なことに、ここは水主神社と同じ祭神=倭迹々日百襲姫命とされ、では「御妹」はどこへ行ったのかとなります。少し長いですが、同社の由緒を読んでみます。

■田村神社(【式】田村神社[明神大社])
(祭神)倭迹迹日百襲姫命、五十狹芹彦命 配 猿田彦大神、天隱山命、天五田根命
(鎮座地)香川県高松市一宮町大字一宮286
(由緒)田村神社略記
祭神
倭迹迹日百襲姫命[やまとととひももそひめのみこと]、猿田彦大神[さるたひこのおほかみ]、天隠山命[あめのかぐやまのみこ]、五十狭芹彦命[いさせりひこのみこと]、吉備津彦命[きびつひこのみこと]、天五田根命[あめのいたねのみこと]
以上五柱の神を田村大神と申す
倭迹迹日百襲姫命は人皇第七代孝靈天皇の御皇女にましまし祟神天皇の御代国内疫病に苦しめるを救治し給ひ又武埴安彦[たけはにやすひこ]の謀反を予知して建言し給ひ謀反を未然に防ぐ等数々の勲功あり仍て百襲(襲は勲功の約)の名を負ひ給ふ
後吉備津彦命[きびつひこのみこと]と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給ひよく鎮撫の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられた
御陵[はか]は大和国城上郡大市村にありこの御陵を作るのに昼は人が作り夜は神が是を作られたと云はれ広大な御陵で箸[はし]の陵[みささぎ]と言はれてゐる
五十狭芹彦命は姫命の御弟に当らせられ又の名を吉備津彦命とも申す 四道将軍の御一方にして西海を鎮定し給ひ吉備国の祖神となられた
猿田彦大神は皇孫瓊々杵尊[ににぎのみこと]御降臨の時天[あめ]の八衢[やちまた]に出迎へて御嚮導をなし道途の安全を守護し給ひし神にして此の神の向ふ所は如何なる禍神も恐れて避け奉ったと云はれ方除の神として神威まことに偉大である
天隠山命は高倉下命[たかくらじのみこと]とも申し神武天皇御東征の砌霊剣を奉って偉功を立て給ひ後御子天五田根命(又の名を天村雲命[あめのむらくものみこと])と共に紀伊国より当国に渡らせられ山河を以て国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定められた
皇室武門武将の崇敬
当神社の起源は極めて古く社記によれば元明天皇の和銅二年社殿を創建すとあり往古より田村大社定水[さだみづ]大明神又は一宮大明神とも称し夙に朝野の崇敬浅からず 仁明天皇の嘉祥二年二月従五位下に叙せられ清和天皇の貞観三年二月官社に預り延喜の制名神大社に列し讃岐国の一宮たり以後屡々神階を授けられ建仁元年二月正一位の極位に敍せらる降って明治四年五月十四日に国幣中社に列せられたり〔中略〕
延宝七年に両部習合を廃し五十石の社領中五石五斗を割いて社僧大宝院に寄せ神仏を分離し江戸時代の初期に於て早くも唯一神道の道を開かれた爾来松平家の祈願所として累代社領を寄進し或は家宝を献ずる等その尊崇明治維新に至るまで変ることなかりき
当神社奥殿の床下に深淵あり厚板を以て之を蔽ひ此の殿内には盛夏といへども凄冷の気が満ちてゐて古くより神秘を伝へ今に窺ひ見る者なしこれ定水大明神の称ある所以にして領内に水旱あれは領主奉行は必ず先ず以て当社に祈願したりと云う (HP神奈備「延喜式神名帳」)

 祭神説明をするにあたって、日本書紀を忠実になぞっていることがわかります。モモソヒメは、水主神社の伝承では、大和から流浪してきたというオリジナリティがありましたが、田村神社の由緒には、それはほとんどみることができません。その意味で、田村神のモモソヒメと水主神のモモソヒメは対極をなす「神」だとなりましょう。水主神が一ノ宮の格を「御妹」=田村神に「禅[ゆず]」ったという表現をしていたのは、おそらく、国家祭祀への迎合神となった田村神としてのモモソヒメへの揶揄の意味が込められていたことが考えられます。
 田村神は、とんとん拍子で神階をのぼりつめ、「建仁元年二月正一位の極位に敍せら」れたとされます。この上昇志向は、明治4年=1871年という早い時期に「国幣中社」となるところまで継続していきます。
 ところで、この田村神社が、まさに国家神のイメージを刻印しているのは、こういった神格・社格に対する上昇志向にあるということもむろんありますが、あるいは、次のような記述にみるべきかもしれません。

■神仏分離を先取りした田村神社
延宝七年に両部習合を廃し五十石の社領中五石五斗を割いて社僧大宝院に寄せ神仏を分離し江戸時代の初期に於て早くも唯一神道の道を開かれた

 延宝七年=1679年という早い時期に、明治期の神仏分離を先取りしたことが述べられています。社はこれを「唯一神道の道を開かれた」と表現していますが、つまりは、明治期に始まる国家神道を先取りしたという意味でしょう。ここで思い起こされるのは、田村神社が神仏分離したときよりも十年以上前に、つまり寛文七年=1667年に、すでに同じことをしていた神社があったことです。出雲大社です。
 出雲大社「国造」でもあった千家尊統氏は、その著『出雲大社』(学生社)において、この神仏分離の先行をなかば得意げに、次のように書いていました。

■出雲大社の神仏分離
 大社の歴史にも、時に盛衰があり、戦乱の中世になって社風もようやく衰え、社殿も荒廃し高さ八十尺を維持できず、規模を縮小して仮殿式になった。近世になって第六十八代の国造千家尊光は、このような衰微を大いに憂え、北島国造恒孝とともに協力してその復興をくわだて、松江藩主松平直政の支援をえて大改革を断行した。徳川幕府も五十万両を奉納して援助した。
 そして神仏習合の弊をのぞき、境内地にあった堂塔を廃して拡張整備し、社殿を高さ八十尺という古来の正殿式に復興して寛文七年(一六六七)にはほぼ現在のようなどうどうたる規模の偉容が完成した。出雲大社の神仏分離は、じつにこの時に行われたのであって、神仏分離といえば一般には明治初年のことと思いがちであるが、当社ではこのようにきわめて早い時代の事であった。

 おそらく、「神仏習合の弊」を意識し、また国家神道=唯一神道を先取りしようとした二社めにあたるのが、讃岐国の田村神社なのかもしれません。モモソヒメは書紀に準じて、つまり、「武埴安彦[たけはにやすひこ]の謀反を予知して建言し給ひ謀反を未然に防ぐ等数々の勲功」ある祭神であり、そのイメージをずっと押し通してきたのでしょう。ヤマト=朝廷権力がうごめく地から、戦乱を避けて、厭うて、流浪してきた水主神のモモソヒメとは、その名は一緒でも、神の質はまったく正反対だとなります。
 ところで、田村神社に唯一オリジナルなものがあるとすれば、それは、由緒の最後に記されていた「神社奥殿の床下」の「深淵」の存在でしょう。ここは、「古くより神秘を伝へ今に窺ひ見る者なし」という「井」のようです。しかも、この井を司る謎の水神は「厚板を以て之を蔽ひ」というように封印された神のようです。この謎の井の神は「定水大明神」と呼ばれているようですが、まさに秘された水神が「床下」にいることはまちがいありません。この神は、「水旱」あるときは雨乞いの神となるそうで、そういった「神秘」の神、封印された水神がどんな神かは、わたしたちはほぼ確定的にいうことができます。岩手の滝神は江戸時代に「深秘」の神と称されていましたが、田村神社がこの「神秘」の神をまさに秘神として封じていることが、同社の神階および社格の高さを、他社の群を抜いて実現させてきた理由だとみるべきです。
 それにしても、那智の滝神=滝祭神=瀬織津姫と一体化した水主神としてのモモソヒメのほうに、わたしたちが抱く「神」の本来のイメージがどれほど近いかということ──、この田村神=朝廷協力神としてのモモソヒメとの比較において、それは歴然としてきます。
 最後に、田村神社が不比等時代の709(和銅二)年に「創建」されたことと、のちに水主神社が後発の田村神社に一ノ宮の格を「禅[ゆず]る」とされていることには、深い関係があるだろうことを指摘しておきます。不比等の王権・祭祀構想が具体化されつつある時代に、田村神社があえて創建されたことは、水主神社にとってばかりでなく、その後の「日本」の神まつりの全体・歴史にとっても、ことのほか大きな問題の所在を象徴的に暗示しています。

(追伸)
 一ヶ月余でやっと1日時間がとれましたので、少しずつメモをしていたものをまとめました。「建国」なる日にアップするのもなにかの縁でしょうか。
 トカゲさんのコメントが入りましたので、消すことはやめ、今回はそのままにしておきます(トカゲさんの「味」が出ていますので)。

710 白山神とはなにかU 風琳堂主人 2003/04/12 23:22

(4) 白山の仮装の神々
現在、白山神=白山比唐ヘ、菊理媛・伊奘諾・伊弉册の三神表記という奇妙な表示を続けていますが、これら方便の三神がまつられるのは、養老時代の前へ遡ることは不可能です。その意味で、元正の養老時代は、泰澄を媒介として白山の元神が隠祭された時代だとみることができます。このことは、いいかえれば、元正の背後の藤原不比等の存在まで透視して考えてみる必要があるということです。
 白山権現にその地を譲ったとされる別山の神ですが、この別山神は、その異称に大行事神という名を、また小白山神ほかの名をもっていました。ちなみに、その名も大行事神社という名の社が静岡県掛川市にありますが、ここの主祭神は瀬織津姫です。また、尾張・木曽川町に鎮座する白山(黒田)神社、および秋田県本荘市の日住白山神社の主祭神も瀬織津姫です。日本全国で、白山関係社に瀬織津姫の名を確認できるのは、現在のところ、以上の三社しかありませんけど、この三神社の祭祀がでたらめでないことは、これまでみてきたとおりです。
 別山大行事神(=白山瀬織津)に捧げる祝詞「別山御本地祝言」が石徹白・白山中居神社に伝わっていますが、この祝詞には、「凡そ大行事は白山旧住の冥衆、権現補佐の神将なり。本地は正観自在尊」と「白山旧住」の神だということがくりかえされ、しかし極めつけは、「当山(白山)擁護の霊神と仰ぎ、威厳を四海に施す」と、(白山)妙理大権現とどちらが神格が上なのか、読むものを戸惑わせるほどの賛辞が捧げられています。この祝詞は、解題によりますと、「石徹白に現存するうちで最も古い祝詞」とされますが、白山三山神のなかでも、別山神=白山瀬織津が、白山権現とまさに同格あるいは別格のようにみなされている祝詞というべきです。
 考えてみれば、別山という山名はどこか不自然なネーミングです。ここで別山の「別」について言及しておきますと、これはその「元=本」に対して「同格」という意味が込められています。このことは、伊勢の内宮に対する、荒祭宮をはじめとする伊雑宮ほかの「別宮」諸社が、内宮=皇大神宮の元神=本神をまつっていて、その神格においては、元神と同格(以上)の祭祀対象であることと同じだとみることができます。さらにいえば、加賀・「白山七社」の一社に、同じく「別宮」がありますが、その本地仏(主仏)は白山本宮と同じ十一面観音であることも、不思議なことではないとなりましょう。
 平安末期ごろからかとおもいますが、白山神=白山比唐フ異称祭神名の第一候補として、イザナミとは別に、菊理媛という名が登場してきます。イザナギ、イザナミの黄泉国におけるケンカの仲裁神とされる菊理媛理解は少しこじつけっぽいですが、しかし白山比刀°e理媛という等式はかなり一人歩きしています。このことは、かつての白山本宮三社がそろって現在も菊理媛をまつっていることからもわかります。この等式がほんとうに成り立つかどうかということですが、菊理媛=ククリヒメが水に潜るの「くぐる」「くくる」からきたものとの説を主張していた人がいました。白洲正子さんです(『十一面観音巡礼』)。この説を「半ば」首肯できるのは、この「くぐる」「くくる」が禊ぎの行為を表しているとおもえるからです。わたしが「半ば」肯定できるというのは、社家の「秘伝」にもありましたように、白山神がそういった禊ぎ神として認知されるとして、菊理媛はまだ方便の神名にちがいなかろうと考えられるからです。
 菊理媛の是非はともかく、この水に「くぐる」「くくる」行為、禊ぎの行為については、「越宗廟白山媛太魂神御鎮座日記鏡巻」における白山神鎮座行の過程を描写する、次の記述からも瀬織津姫がみえてきて、白山神と瀬織津姫が同神であることをあらためてうかがわせてくれます(この鎮座日記によれば、雄略時代に三輪山から「大神」が白山へやってきたように読めて興味深いです)。

■川に臨みて潜み濯ぐ
而[しこう]して各[おのおの]皆川に臨みて潜[ひそ]み濯[そそ]ぐ因[ゆかり]を以て神を祭る、瀬織津姫神是なり。然る後、隈筥[くまはこ]川を上り伊野原の円岳[まるおか]に到り着く。

「川に臨みて潜み濯ぐ」──その「因[ゆかり]」によってまつられた神が瀬織津姫だそうです。この鎮座伝承は微妙な記録というべきですが、瀬織津姫は三輪山の日神とともに、この白山へやってきたとも読めることを指摘しておきます。
 ところで、ここに出てくる「隈筥[くまはこ]川」は現在の石徹白川で、いわば九頭竜川の源流川にあたります。なお、九頭竜川の下流域には、明神社の境内社とはいえ、河濯神社=瀬織津姫の名が確認できます(福井県吉田郡松岡町)。
 この河濯神=禊神としての瀬織津姫ですが、河濯神については、内宮の「五十鈴川上」の滝祭神の多くの異称同神名に「御裳乃濯川比女」の名があったことも添えておきます(「水主神とはなにか」参照)。また、「お水の親神さま」という白山比盗_社の白山神のとらえかたにしても、やはり滝祭神の異称同神名に「水上御祖」の名があったことと無縁ではないでしょう。滝祭神は、内宮(皇大神宮)第一別宮・荒祭宮の神=瀬織津姫でした。
 白山の地主神としての別山神ですが、現在、この神の表示名は大山祇命とされています(白山比盗_社ほか)。おもえば、別山神が大山祇命であるといった記述は、史料集には一行たりとも出てきません。こういった祭神表示は、おそらく明治以降のことかとおもいます。別に白山に限りませんけど、明治政府(の神祇官・神祇省)にとって、神仏分離と祭神名(瀬織津姫と限定してもよいです)の改竄・隠祭、および由緒の改竄創作はセットとなった強行策でした。
 8世紀初頭、伊勢の新しい祭祀が7世紀末に稼動したあと、白山祭祀も改竄がなされたこと、および、その倍する(倍以上の)改竄祭祀が、明治期から昭和初期にかけて行われます。
 この明治期の改竄の猛威のなかで、少なくとも美濃・石徹白の社家の人たちは、泰澄伝承に仮託しながらも、その伝承の綻びに瀬織津姫の名を刻んでいたことは特記しておきたくおもいます。なお、この美濃側の史料を読み下し、公刊した上村俊邦さんですが、その姓の「上村」から、おそらく、藤原秀衡が元暦元年=1184年に、白山神への奉納仏=虚空蔵菩薩の守護のために付き添わせた武士団の名「上村十二人衆」が想起されてきます。彼らはさらなる守護のために石徹白に住み着いたとされます。ご本人に確認したわけではありませんけど、石徹白の上村さんといえば、この上村十二人衆の末裔にまちがいないでしょう。
 秀衡は熊野・那智大社に山桜を手植えしていて、その意味で那智の滝神を知っていた可能性があり、また、白山信仰においても、その「本地」の神(々)を知っていた可能性があります。熊野・那智神と白山神の両神は深く秘されていましたけど、その秘神が同神であることについては、少なくとも現代のわたしたちよりももう少し身近に、秀衡は認識できる立場にあったとはいえるものとおもいます。
 秀衡奉納の虚空蔵菩薩で想起されるのは、伊勢・皇大神宮の「奥の院」とみなされていた朝熊山・金剛証寺の本尊も虚空像菩薩(福威智満虚空像大菩薩)であったことです。同寺本尊の背後には男神の天照大神像がまさに秘神のようにまつられていますが、こういった秀衡の奉仏行為を考えますと、白山もまた、日神=火神の山であったとみなすことができます(白山は火山です)。泰澄の夢告・神託に登場するのはいつも「貴女」「神女」であったことから、その後の白山神は「女神」であるイメージが定着していきますけど、本来、ここも太陽神の鎮座する山であった可能性があります。大汝峰=大己貴という仮称は、史料では「高祖太男知[おおなんじ]」、また「西刹の王」(西方浄土・極楽浄土の王)と最高級の持ち上げ的な表記がなされていました。わたしたちの記紀の理解では、大己貴こそ「地神第一」の神のはずでしたが、白山の伝承においては、地神第一神は「一天四海の総領」天照大神だとなります。白山において、大己貴と天照大神の差異はほとんどないに等しい賛辞が与えられています。大己貴=「一奇眼の老翁」は、天目一箇神=太一神=天照大神の異称神の可能性があり、白山もまた、伊勢=アマテラスとは異質の源初の太陽神を隠しまつっていることは、これも早池峰山と同じだというべきかもしれません。
 遠方から望見しますと、白山三山のうち、御前峰と大汝峰は一体であり、ひとり別山のみが主峰の南に独立峰として聳えています。地質学的には、別山のほうがはるかに古い時間をもっていて、御前峰・大汝峰は休火山です(別山は火山ではありません)。太古からの「水」の時間を考慮しますと、決して火を噴かない別山こそが水神の山にふさわしいです。しかし、泰澄によって、これら三山の総称名として「白山」はあります。そこに白山権現の元神ともいうべき地神第一と第二の神が鎮座している(していた)ことは、むしろ自然だとみるべきでしょう。消えた白山の日神(かつての白山上社の神か)に対して、秀衡は虚空蔵菩薩を寄進したと考えられます。

(5) 白山神と桜
 白山神の秘された神(の一神)としての水神=瀬織津姫ですが、瀬織津姫はまた、桜神でもありました。では、白山神と桜に関係はないのかということになりますが、それが、やはりあるわけです。桜は水神の化身ですから、当然といえば当然かもしれません。
白山の地主神=別山神=小白山神=大行事神の本地仏は聖(正)観音とされていましたが、この観音を本尊とする寺を泰澄が養老元年=717年に開いています(福井県朝日町・福通寺)。そこに、泰澄手植えの薄墨桜があります。泰澄は「ご本尊への献家として」桜を植えたというのが寺側の伝承ですが、これが事実としますと、白山の地主神=別山神への鎮魂の意を込めた桜植樹ということになります。泰澄は、王朝=元正とその背後の不比等による、白山の改竄祭祀に加担したことになりますが、その白山の「本地」の神、地主神のほんとうの名を、白山の祭祀現場において、少なくとも彼一人は知っていたはずで、そのせめてもの罪障行為として、この福通寺の桜植樹はあったと考えてよさそうです。
 泰澄の桜植樹は、少なくともあと二本、美濃の白山神社(長滝白山神社)の地にもあります(岐阜県白鳥町・専竜寺、同町為真・白山神社)。為真・白山神社は、桜そのものを「ご神体」としていたらしく、泰澄と桜の関係はことのほか濃厚であることがうかがえます。
なお、美濃側の禅定行の拠点である長滝白山神社ですが、ここは、その名のとおり、長滝(現在の阿弥陀ヶ滝)をご神体としているのでしょうが、この「長滝」についての関係記事を読んでみます(長滝白山神社にも、由緒不明の古桜がありました。これも泰澄ゆかりの桜の可能性があります)。

■長滝大明神
別山より東之麓の道は征伐道と名付く官軍平ぐ道。〔或は初之薩?[さった]道とも、菩薩説法の道とも号す〕異国征伐の為に神宮を東の麓に開く。即ち越前国大野隈筥川の東、伊ノ原の霊場なりと云々。〔即ち美濃国長滝大明神是也〕(「白山禅頂御本地垂迹之由来伝記」)

 美濃国長滝大明神は、別山「東の麓」の「神宮」だとあります。ここが、瀬織津姫の社である可能性については、同記事と関連する記事が「白山大鏡」にもありました。この別山「東の麓」の宮は、ここでは白山瀬織津が鎮座する「東馬場の麓の宮」と書かれていますが同じ社でしょう。すでに引用したところですが、該当部分のみ抽出して再読してみます。

■白山瀬織津は長滝大明神
地神の第二子・白山瀬織津・置倉宮、東馬場の麓の宮に坐し、東夷の異国を征伐をなす。

 瀬織津姫の基本性格が水神=滝神であることをおもえば、このように「長滝」の「大明神」と仮称されることはありうることです。この滝神と別山神が同神であることは、「白山大鏡」に次のような記述があることからも判明してきます。

■別山神は滝[たきつ]速河神
峯を三尊勝仙の峯と分[わか]つ〔秘決義と云う〕。三天津彦々瓊々杵[ににぎ]尊、別山滝[たきつ]速河・国津社の宮に坐す。天神地祇輔佐の神となし、高山[たかやま]の末短山[ひくやま]の末を治める、摂録[せっしょうろく]の神王なり。

「三」の峰=別山の神「神王」が皇孫=瓊々杵尊であるというのは、これまでみてきたように、これも方便の神表示です(前出は別山神=天忍穂耳尊でした)。瀬織津姫が宗像神のタキ(ギ)ツヒメ=湍津姫ともなること、また伊勢においてはハヤカワ=速川神ともなることはくりかえしませんが(「水主神とはなにか」ほか参照)、この引用に、さらに大祓祝詞の文言「高山・短山[ひきやま]の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比唐ニいふ神」を重ねてみれば、別山神にいかに瀬織津姫が深く秘されているかは瞭然となってきます。
 別山神=滝速川神の「滝速川」をどこの川とみなすか(比定するか)についてふれておきますと、それは、現在の長良川かとおもいます。これは、「越宗廟白山媛太魂神御鎮座日記鏡巻」に、次のような記述があることからも分明かと考えます。この鎮座日記の記述もまた多くのことを示唆しています。この文書は、神道側による白山神鎮座の認識がよく出ているものでもありますが、引用部分は、泰澄にではなく、雄略の家臣=大途見彦命へ、中川[なかるがわ]=長良川の「河上」の「老翁」が託宣する場面です。

■河上の老翁の託宣
(雄略二十一年)十月乙巳、岩根宮を発起[たち]て、見野[みの]の国に入り中川[なかるがわ]を遡る。時に河上に老翁あり〔中略〕
 翁、亦教え訓[さとし]て曰く、汝等克[よ]く聞くべし。此の滝津早川の瀬を水の流れに順[したが]いて逆上[さかのぼ]りて行尽[ゆきつき]れば、即ち越之国青雲白根の峰有り。此古二神[ふたかみ]の住坐[いまさん]と欲して見定る処なり。言い終て帰り去る。此の翁は今の立花の祝神[はふりがみ]なり。此の日見野県主、女二人卒[したが]いて来詣[きたりもうで]て言[こと]云う、辱[かたじけ]なくも皇神[すめらみかみ]の此の国に臨幸[いでまし]喜ばしき哉[かな]〔後略〕

 ここは、雄略時代に、(三輪山から)白山にやってきたとされる「大神」が「皇神」と明かされる場面でもあります。この鎮座日記は『倭姫命世記』の白山版とみられますが、引用のあとでは、雄略二十二年に「皇神」が白山にまつられる記載があって暗示的というべきです。この雄略二十二年というのは象徴的な時間で、これを史実とみなす根拠はありません。ここで「象徴」というのは、皇神が白山神となる同じ年の「雄略二十二年」に、丹波の豊受大神が伊勢の外宮神となるからです(『倭姫命世記』)。この象徴的な同時間設定を採用した白山側の鎮座日記の真意、つまり、伊勢・外宮神と白山神の成立が同年だとされていることは何を意味しているかですが、結論だけをいえば、白山神と外宮神は同神の可能性があるということです。
 これは、丹波の天女=水神を明かすときにふれることとします。
 鎮座日記の話にもどりますと、この「皇神」(を奉祭する一行)は、「見野[みの]の国に入り中川[なかるがわ]を遡る」「滝津早川の瀬を水の流れに順[したが]いて逆上[さかのぼ]」るとありますように、「見野[みの]の国」=美濃国の「中川[なかるがわ]」=長良川が「滝津早川」とみなされています。滝津早川=長良川が「行尽」ところに白山、つまり「越之国青雲白根の峰」があるという、ある種土地案内がなされています。長良川=滝津早川の「滝」こそが、これまでにみてきた「長滝」です。長滝は、「中川」=長良川の滝から長滝と呼ばれていたこともうかがえます(現在は阿弥陀ヶ滝と呼称されますが、これは中世以降)。
 白山の地主神としての別山神=小白山神=白山瀬織津=瀬織津姫は長滝大名神でもあったわけですが、ここで、この「長滝」が、長良川=中川=滝津早川の「滝」であることも明らかとなってきました。以下に、この長滝がいかに白山神と関わり深いかをみておきます。白山神が「貴女」となって、泰澄に夢告する場面です。

■長滝神=白山神の託宣
(泰澄が「林泉久寿滝[くとうのたき]の深淵」に臨んで「礼拝念誦[ねんじゅ]」していると)此の祈念に酬[むく]いて前の貴女現れ告て曰く、吾れ天嶺に有り難く常に此の林中に遊ぶ。此の処を以て中居[ちゅうきょ]となす。即ち東の源涵[げんかん]長滝の流水にて、末代の濁世[じょくせ]の衆生の汚穢[おわい]、不浄の垢を洗浴[せんよく]清浄と為し済度せ令[し]む。此の地を中居とし給い、吾れ此の安久寿の淵に住み和光同塵の垂迹を示し、上一人を守り下は万民を撫[な]ず。大徳諦[あきらか]にし給う。(「白山権現鏡之巻」)

 白山神(=貴女)は「長滝の流水にて、末代の濁世[じょくせ]の衆生の汚穢[おわい]、不浄の垢を洗浴[せんよく]清浄と為し済度せ令[し]む」と泰澄に託宣しています。ここは、白山信仰の社家の「秘伝」にあった、白山神は「穢れを禊ぐ神」だとされる根拠とみなしてよい箇所です。この禊ぎ祓いの最高神がどんな神かはもはや明らかでしょう。また、長滝を「源涵[げんかん]」とする川は中川=長良川とされていましたから、白山神=河神をここに重ねれば、長良川の河神がどんな神かも明らかでしょう。
 引用における「和光同塵の垂迹」を示すという白山神の託宣ですが、これは熊野・那智の滝神の言葉でもあります。さらにいえば、白山絶頂の認識──「観音浄土補陀洛山蓬莱深仙と号す。白山絶頂是なり」(「白山禅頂御本地垂迹之由来伝記」)にあります「観音浄土補陀洛山」は、熊野・那智の「補陀落渡海」、巡礼歌「補陀落や岸打つ波は三熊野の那智のお山に響く滝津瀬」にみられるように、補陀洛信仰の源は熊野・那智にあります。補陀洛山=那智山という認識が熊野信仰の背骨にあります。白山に、いかに熊野・那智(神)の信仰が投影しているかは明らかかとおもいます。この那智の滝神こそが瀬織津姫でした。「白山記」巻末の歌「補陀落の本[もと]の栖[すみか]を振り捨てて如何[いか]で茲[ここ]まで越[こし]の白山」──その歌意は意味深いというべきです。
 なお、白山神の託宣の最後の部分「上一人を守り下は万民を撫[な]ず」の「上一人」ですが、通説では、これを「天皇」と解釈することが多いです。たしかに、これは、瀬織津姫と似て非なる白山神を仮想したときにいえることかもしれませんが、白山神=瀬織津姫とみますと、「上一人」はまったく意味が異なってきます。瀬織津姫が伊勢およびヤマトの祭祀権力から蒙ってきた受難の歴史を考えますと、ここの「上」はまさに「神」であり、それは瀬織津姫と同様に、伊勢の祭祀から消された一対の日神=男系太陽神とみなすほうが自然だとなります。ヤマトの祭祀権力による国家構想、つまり、天皇=神(→アマテラス)を中心に据えるとする国家構想がもっとも忌避した水神=女神が瀬織津姫ですから、瀬織津姫が「万民を撫[な]ず」、和光同塵の神=仏となることはあっても、そういった迫害のシンボル「上一人」をことさらに「守る」とは考えにくいことです。「上一人」である女帝元正の勅命によって、白山の現在の神々は「造作」されているわけで、つまり、白山においても瀬織津姫の名は消去されかけていたわけです。このように、「上一人」一語をみても、白山神をどう考えるかで、その意はまったく異なってみえてきます。
 ヤマトの祭祀権力者による「曖昧化」の表示手法は、元を探れば、伊勢の「天照大神」の表記法にその原点があります。漢字表記からだけでは、男系太陽神=アマテルなのか、皇祖神=アマテラスなのか、まったく判別できないということです。この曖昧化の手法の断行と継続は、たとえば、月の女神が月の男神に変えられるなど(記紀)、日本の神まつりの全体に、いびつな影を落としていくことになります。神仏混淆が庶民に受容される根拠の話でもあります。
 ところで、別山神=長滝神=白山瀬織津=瀬織津姫は、一方で「万民を撫[な]ず」神でありながら、一方で「(東夷=)異国征伐」の神としてまつられたとされていました(「白山大鏡」)。瀬織津姫の神威は、天智あるいは中臣(=藤原)鎌足と中臣金によって、国家祓いの最高神=大祓神として策定されていましたから(天智八年=669年)、当時、これ以上の「力」をもった神は存在しなかったにちがいありません。少なくとも、ヤマトの祭祀施策の意向に添うようにこの神を解釈すれば、そうなります。しかし、瀬織津姫の根本性格はまず水神=滝神でしたから、その性格は、東夷征服の祈願神といったヤマト側の一方的な意向をはるかに超える普遍性をもったものです。この普遍性とは、水の祖神=親神という性格によって端的に語られるものといえます。
 つまり、水を司る瀬織津姫の性格は、ヤマトと東夷という対峙・対立の関係を本質的に超えるものとみることができます。この普遍的性格によって、瀬織津姫は庶民の神ともなりえますし、実際にそのようにまつられています。神仏の二重化された変名としては、この白山が、また早池峰山がそうでしたが、水神の化身としての十一面観音ともなりますし、航海の守護神=船霊神ともなります(船霊神として十一面観音をまつる例があります……真喜志きさ子『琉球天女考』)。さらに、水辺の織姫的性格から、棚機神=機織神=養蚕神とも、また、その川神的性格から弁才天ともなります。
 なお、十一面観音についてですが、この観音が異敵征服の祈願「仏」ともなりうる、つまり瀬織津姫と同性格をもつ仏であることは、この白山伝承の記録(「白山禅頂御本地垂迹之由来伝記」)にも記されていることでした。曰く、「本地十一面観世音。七星の中の破軍星是なり」です。この「破軍星」という性格を十一面観音がもっていることは、同観音の柔和な表情の背後の性格として、やはり軽視してはならないとおもいます。このことは、瀬織津姫もまた、東夷征服の祈願神という性格を180度反転させうることを暗示しています。この「破軍星」という性格を秘めているゆえに、別山神は「大将軍」神ともみなされたというべきです(「白山大鏡」)。これも蛇足のような、ダメを押すような事例ですが、熊野・十津川の大将軍神社の主祭神に瀬織津姫の名が確認できます。
 この美濃の白山信仰、あるいは白山神は、奥三河(愛知県東北部山間地帯)へ伝播しますと、花祭りの主役の神ともなります。南信濃の霜月祭りもそうですが、湯立て神事には、まず滝神の神水をいただいてきて湯釜に注ぎ、その神水の「湯」をもって八百万神をもてなすとされます。瀬織津姫は、神々をもてなす裏方の神であると同時に、招かれる八百万神の最初に読み上げられる神でもあります。つまり、水王(ミーノーさま)、火王(ヒーノーさま)の順です(南信濃・霜月祭りの式)。
 花祭りのもてなし役かつ賓客としての水神=滝神=瀬織津姫は、その名を天白神とされるも、それが伊勢からやってきた神であることを明確に伝えているのが、三河・岡崎の天白神社と奥三河御園地区の花祭りです。花祭りの伝播系統には白山修験系と熊野修験系の二系統がありますが、いずれにしても、そこに瀬織津姫が共通して秘されていることで、この二系統の差異は本質的には「ない」とみることができます。湯立ての「湯の花」を桜神=水神の化身と見立ててこその「花」祭りです。
 以下に、白山神=瀬織津姫の、その水神=滝神=川神という性格を、白山を源流山とするもう一つの川(手取川)に探ってみます。
 伊勢・内宮側の認識では、滝祭神は水上御祖とも異称されていたわけですが、この水上御祖は、いわば「水祖神」と読みかえることができます。白山神もまた水の親神であるとされていますから、それだけで滝祭神と白山神が異なる水祖神ではなかろうという「推測」は成り立ちます。美濃側の史料は、これが推測のレベルではなく、「実証」のレベルで語ることを可能としました。白山権現の背後の神こそが瀬織津姫です。
 白山神による泰澄の夢の中への出現および託宣=夢告については、多くの史料が記すところですが、たとえば、『白山妙理大権現縁起』の禅定道七宿の項には、泰澄の夢の中に白山神がやはり「天女」の姿となって夢告する場面があります(上村俊邦『白山の三馬場禅定道』)。ここでも、白山神と瀬織津姫がダブルイメージとして描かれています。

■国中の水の守護神=河上大権現
 師(泰澄)この所に於いて一宿したまう。夢中に天女現じて曰く「吾ここにありて国中の水を守護す。中居の林中天然の横災起きるときは此処に移坐し、鎮まるときは彼こ[ママ]にまた還りて遊居す」と語りおえてうせたまう。
 大師驚き覚めて心静かに法施まいらす。幽谷の草木も奇異の色を顕わせり。是れを以て名となすと。後に大師一社を創建して河上大権現と崇め奉るなり。(『白山妙理大権現縁起』)

 これは、手取川源流部の沢にあたる西俣谷川に鎮座する川上御前社(石川県白峰村)の由来ともなっています。白山の天女は「吾ここにありて国中の水を守護す」と泰澄に夢告したという記述は、「河上大権現」=白山神の性格を語ってあまりあるというべきでしょう。しかし、泰澄(あるいは縁起を創作したもの)は、河上大権現と表記するところまではしても、この権現に秘された水神の名は語られることがありません。縁起などの多くが伏せているとはいえ、これまでみてきましたように、白山神=河上大権現に秘された神は瀬織津姫とみるしかありません。これは、各地の川上神社の祭神として瀬織津姫の名が確認できることを傍証とするまでもないとおもいます。
 この川上御前社は長らく廃社同然となっていたようですが、昭和六十年=1985年に、川上御前保存会83名の熱意によって再建されました。その新しい「堂社は真東向き」に建てられたとありますから、南面の常軌をあえてはずして「真東」(日)に向けた保存会の認識は、川上神の性格についてそうとうに深く認識していることが想像されます(瀬織津姫の長い異名の部分は向津媛=向日女です)。このことは、川上御前社の旧跡碑に刻まれている同保存会の方の次の歌によって、より確認できるものとおもいます。

■川上御前神への歌
今はたゞ谷の流れに沈むとも 浮ぶ瀬もある 末の世の川

 この石碑の暗示的な歌──おそらく、白山の秘神を知っていてこその歌と読むしかありません。白山瀬織津=川上御前神の「浮ぶ瀬もある」時代は近いというべきでしょう。そういえば、「他見堅く無用」の奥書をもつ「白山禅頂御本地垂迹之由来伝記」をさらに書写した山崎尾之助翁は、その奥書で、「右此書物は白山大権現極秘に御座候らえども、石徹白五郎左衛門明治三年に書写下されたる」と記していました。また、「大切に後に見る可し。他人にカセルベカラズ」と結んでいました。「白山大権現極秘」の時代は、確実に終焉しつつあるものとおもいます。
 岩手・遠野の隣町の住田[すみた]町にある鍾乳洞の滝=「天の岩戸滝」の滝神をうたった柳原白蓮の歌「神代より隠しおきけむ滝つ瀬の世にあらはるるときこ来つれ」も想起されるところです。伊勢の元神も天の岩戸の滝神(滝祭神=伊雑宮の秘された水神)でしたが、秘神としての滝神はまた水祖神でもあり、それが白山瀬織津=川上御前神へと転位しています。石碑の歌は、桜花に「水の心」を詠みこんだ和泉式部の歌「かげにさへ深くも色の見ゆるかな花こそ水の心なりけれ」を源流とする、柳原白蓮の水神=滝神讃歌の「歌の心」の系譜にまちがいなくつながっています。
 早池峰郷は、明治の神仏分離の際、お山の権現=十一面観音の背後の神として、迷うことなく瀬織津姫をまつることをしました。そのために受難を国家から蒙ることはありましたが、それでも一社を除いて、その後の神まつりにほとんどブレはなかったとおもいます。エミシの国の山間奥地ゆえといえばそれまでですが、それでも十一面観音と一体となった、あるいは背後の神を瀬織津姫として伝承してきたことは明らかです。白山においては、国家の「眼」の執拗さは早池峰の比ではなかったはずですが、にもかかわらず、少なくとも美濃側の白山信仰は、「瀬織津比唐ニ云う神、苦業の因[もと]を救うべし」(「白山大鏡」)と、この神の名を正確に刻印していたのでした。
 なお、明治新国家による神仏分離が目指したのは、たんに神と仏を「分離」するということだけではありませんでした。分離した上で、仏と一体となった、あるいは仏の背後の神を洗い出し(判然とさせ)、国家神道にとって不都合な神(瀬織津姫と限定してもよい)を消去・改竄するというのが神仏分離の真の意図でした。その意味で、美濃・石徹白の「神仏分離騒動」における国家との対峙・対処法は、泰澄信仰を表立てての、また「社家・社人」と「神地」の放棄=「帰農」という画期的(捨身的)な奇策をもっての、白山の「本地」の神、白山権現と一体となった神を守護する戦いでもあったことを書き添えておきます(上村俊邦編・上村修一監修『石徹白の神仏分離騒動(上)』)。
 時代が皇祖神=アマテラスおよび天皇を中心とした国家体制の再編・強化を加速させるときに、自らの生活的特権を放棄してまで「仏=神」を守り抜いた先鋒・論客の一人が、「上村十二人衆」直系の人物・上村五郎左衛門であったというのも、歴史の奇しき縁というべきでしょうか(この五郎左衛門氏こそが、「他見堅く無用」と書き記した人物)。また、この「騒動」によって守り抜かれた仏像=泰澄像の体内秘書の一書こそが、これまでにもたびたびに引用してきた「末代の秘書」=「白山大鏡」でした。わたしたちが現在、このように眼にし、また白山の真の女神を明らかにできる一級の史料の出現経緯には、少なくとも800年余の時間と、仏土安寧の国を志向した藤原秀衡の呪意、あるいは、いったんは潰えた秀衡の、語のほんとうの意味での「安国」(大祓祝詞に出てくる天皇の「安国」という意味ではない)への切望、あるいは「東北の精神」(高橋克彦)=エミシの心が、渾然と秘められているというべきかもしれません。

(追伸)
 一連の編集仕事があと一山残っているにしても、その前に時間が少しとれましたので、白山神についての小論を載せます。現地を歩いてみれば、おもわぬ史料や伝承を得ることができそうな予感がありますが、とびきり貴重な史料を入手しましたので、まずは文献だけで論及できるところまで、先にアップしておきます。白山神と瀬織津姫──再考するきっかけにしていただければありがたいです。

711 白山神とはなにかT 風琳堂主人 2003/04/12 23:24

(1) 白山の地主神
 白山信仰の社家の「秘伝」は、白山神の性格の一つに「穢れを禊ぐ神」という要素があると告げていました(吉田幸平『伊勢白山信仰の研究』)。また、加賀側の白山神社(白山比盗_社)の現在の由緒は「お水の親神さま」という形容をもって白山神を認識していることがよく語っていますが、基本の性格は水神だということです。
 白山神が水神=水分[みくまり]神だというのは、これは地図帳を開けば一目瞭然のことです。白山(連峰)がどういった川の源流山であるかを拾い出しておきますと、東に、飛騨から越中にかけての庄川を、南に、美濃の長良川を、南西から西にかけては越前の九頭竜川を、そして北西にかけては加賀の手取川を流出していることがわかります。これらの川が、白山をほぼ直接の水源山としているわけですが、白山連峰あるいは主脈をさらに北に辿れば、奥三方岳を中心とした諸山からは北東に越中の小矢部川、真北に金沢を貫流する犀川があり、また、白山連邦の南には能郷白山を中心として、美濃の揖斐川を流出させています。
 飛騨一ノ宮の水無神社の神体山は位山とされ、ここは日本海側と太平洋側の分水嶺とされています(北に宮川→神通川を、南に飛騨川を分ける水分の山)。そういった分水嶺の性格で白山をみますと、世に数ある分水嶺のなかでも別格中の別格であるのが白山であり、加賀の白山神社側が「お水の親神さま」と誇るのも納得がいくというものです。
 ところで、「お水の親神さま」であり、「穢れを禊ぐ神」とされる白山神には隠れたエピソードがありました。『エミシの国の女神』にすでに引用がありましたが、再度読み直してみます。三重県一志郡にまつられる「七白山」の由来譚です。

■伊勢を志向した白山神
 若宮八幡宮の社僧円珍上人に円乗坊珍徳上人という弟子があった。もともと家城の出身で、家城主水正三世の孫、与左衛門の次男と云われている。この珍徳上人ある夜の夢に、加賀の白山大権現があらわれて、加賀の社殿は近く消失の禍があるによって、天照大神のいます伊勢の地に移りたい、という神託があった。そこで加賀まで出かけ、白山に参籠して祈念をこめていたところ、満七日の夜、神のお告げがあり、未明にいたって見れば、笈(おいずみ)に七本の幣帛がたっていた。上人大いに喜び、これを奉じて帰国の途につき、途中家城の瀬戸が渕まで来て、しばらく休むために笈を岩上においたところ、笈がにわかにゆれ動いて、中から七羽の白鳥が出て飛び去った。
 そこで珍徳上人は、その白鳥が舞いおりた場所にそれぞれ白山神社を創建した。(吉田幸平『伊勢白山信仰の研究』)

 白山神は珍徳に「天照大神のいます伊勢の地に移りたい」と神託=夢告したというのです。天照大神の伊勢の地と名指ししていることで、白山神の関係性格が語られているとみることができます。ちなみに、加賀白山の社殿は、その天台・比叡山傘下にあった社僧たちの横暴に業を煮やした一向衆徒によって、1480年=文明十二年に実際に焼失しています(現在の白山比盗_社は、その後、末社の位置に再建されて現在に至る)。
 この伊勢七白山の鎮座伝承を重視しますと、全国の白山神社本宮とされる加賀の白山神社=白山比盗_社には、白山神は「いない」ということになります。
 ところで、白山神について調べようとしますと、これまで、この加賀の本社側の史料=「白山記」が根本史料とされ、この「白山記」をどう読むかということに終始してきたといってよいかとおもいます。
 白山神とはなにかという問いは、白山の元神とはなにかという問いでもあります。白山も熊野と同様に三山で構成されるということを保証・定着させてきたのが、この「白山記」でもありましたが、白山三山(御前峰・大汝峰・別山)の概要ばかりでなく、白山の元神の存在についても同書にすでに書かれていましたので、まずはその大元の伝承を読んでおきます。

■別山神は白山の地主神
 加賀の国石川郡味智[みち]の郷に一つの名山有り、白山[しらやま]と号す。その山頂を禅定[ぜんじょう]と名づけ、有徳[うとく]の大明神住す。即ち、正一位白山[しらやま]妙理大菩薩と号す。その本地は十一面観自在菩薩なり。〔中略〕
北に並びて高峰峙[そばだ]つ、その頂に大明神住す。高祖太男知[おおなんじ]と号す、阿弥陀如来の垂迹なり。〔中略〕
 南に数十里を去り高山有り、その山の頂に大明神住す。別山大行事[べつさんだいぎょうじ]と号す。これ大山の地神なり、聖観音の垂迹なり。〔中略〕
 此れを白山の三御山[みつおやま]の御在所と名づく。
 後に峙つ一少高山は剣御山[つるぎのおやま]と名づく〔神代のミササギ也と〕。この麓に池水有り、翠[みどり]ノ池と号す。適[たまたま]その水を得てこれを嘗[な]むれば、齢[よわい]を延ぶる方なり。大山の傍らに玉殿[たまどの]有り、翠ノ池より権現出生し給ふなり。
 西に小社あり、別山の本宮なり。権現に譲り奉り南山に渡り給うなり。(「白山記」、〔 〕は割注。上村俊邦氏読み下し文を元に適宜改行を設け、句読点を補足、送り仮名を表記統一した)

 泰澄による白山神の本地仏=十一面観音の念出がなされたところは、引用記載の白山山頂部にある「翠ノ池」(現在の翠ヶ池)とされます。ただ、これには前段があって、白山神は最初、九頭龍王として出現し、しかしそれはまだ仮姿だとして、泰澄によって再念出されてはじめて十一面観音が姿を現したとされます。これは、白山神の本地仏としての十一面観音の出現譚としてほぼ「定説」となっているものですが、この観音の別姿としての九頭龍王がそのまま川名となっているのは、この川の流域に泰澄が白山神の神託を聞く伝承地がみられることからも、白山ともっとも縁深い川という認識があるからなのでしょう。泰澄の出生地近くを流れる川こそが九頭竜川です。

(2) 白山瀬織津という神
 さて、加賀側の「白山記」は複数の書写を積み重ねて、かなりの潤色・付会がほどこされて現在読める由来譚となりますが、その大元の「白山之記」なるものの原型的な伝承こそが、引用にある別山大行事神は「これ大山の地神なり」、「(白山)権現に(山神の座を)譲り奉り南山に渡り給うなり」という記載です。白山の地主神は、白山権現にその地を譲って、「南山」つまり別山へ移ったのだという記載が、おそらく、白山の本来の神を明かす最初の手がかりでしょう。
 しかし、この加賀側の史料だけでは、では白山の地主神とはそもそもなにかがみえてくるものではありません。ここで、美濃・石徹白[いとしろ]側の史料が大きな意味をもってくることになります。
 白山と早池峰山の女神は同神の可能性が高いことについては、これまでにもふれてきたことですが、それを実証的に語ることができそうな史料として、美濃側の文献史料があります。上村俊邦編著『白山信仰史料集』(私家版、発売元:岩田書院)です。これまで、ある種「推測」の域の範囲内で語るしかなかった白山の元神について、この美濃側の史料は決定的ともいえる伝承を記載・収録しています。
 特に、同史料集に収録され、奥書に「他見堅く無用」と記された「白山禅頂御本地垂迹之由来伝記」、そして同じく奥書に、「余の経論[きょうろん]の秘書に依らず深秘あり」「秘を以て骨目と為す」「末代の秘本なり」と記された「白山大鏡」の二史料は、白山神とはなにかを語る上で、これまでの史料制約を大きく突破できる伝承を収録していて貴重です。
 福島県古殿町の「鎌田家文書」もまた「他見堅無用」と記していましたが、同文書は、八幡比売神を瀬織津姫と明記している棟札の写しを収録していました。
 以下、この美濃側の二史料を中心に、必要に応じて他史料を参照・引用することとします。これは、ややもするとバランスを欠く史料扱いにみえるかもしれませんが、この方法は、瀬織津姫というタブー中のタブーの神を明かすにはやむをえない方法かとおもっています。他史料が公的な価値をもっていればいるほど、瀬織津姫はその史料の背後に隠れてしまいますので。また、この方法によって、美濃側の史料奥書が記していた「他見堅く無用」「末代の秘本」といった注記の真の意味も、おそらく瞭然と明かされるはずです。
 さて、白山の地主神として、加賀側の史料(「白山記」)は、別山大行事神の名を示唆的に書き残していました。この「別山大行事」をキーワードとして美濃側の史料を読んでみます(下記、史料の出典はいずれも『白山信仰史料集』収録)。
「白山禅頂御本地垂迹之由来伝記」は、白山のこの地主神=別山大行事神を「地神」と表記しています。正確にいえば「地神第二」と表記していますが、まずは同史料の該当部分を抜き出してみます。

■白山の地神(1)
小白山大行事権現は地神第二の尊。天照大神の御子天忍穂耳の尊と号す。(「白山禅頂御本地垂迹之由来伝記」)

■白山の地神(2)
地神五代之神は、第一は日域曩祖[のうそ]之神として、伊勢大神宮と顕れ、第二は小白山別山大行事権現なり。(同前)

 白山の地神(の一神)である「地神第二」とされる別山大行事神は、さらに「小白山別山大行事権現」と呼ばれていることがわかります。つまり、白山三山の一山である別山は、その異名に「小白山」という名をもっていることがわかります。
 この「地神第二」の神はなにかということで、「白山大鏡」は次のように記しています。

■白山の地神(3)
地神の第二子・白山瀬織津・置倉宮、東馬場の麓の宮に坐し、東夷の異国を征伐をなす。神宮を東の麓に占い、託宣記に曰く、慶雲二年兇族の陣を誅[う]ち我れ大将軍となす。天慶年中、官軍平げ鎮めるに、一乗の法味を飽て勢力我れ勝つ。(「白山大鏡」)

 置倉地神でもある白山の地神「第二」は「白山瀬織津」だとあります。瀬織津姫はたしかに白山にいたことが明記されています。ただし、この白山瀬織津は、「東夷の異国を征伐をなす」神であると、異国征伐の祈願神という性格が語られています。この異国征伐の祈願神としての瀬織津姫は、東北においては養老二年=718年、大野東人の手によって、熊野大神の名でやってくることになります(岩手県・室根神社および瀬織津姫神社)。白山において、東夷征伐の祈願神として「白山瀬織津」という神が語られていることと、養老時代=元正時代に、瀬織津姫が「東夷」の地・東北へやってくることは注意しておいてよいかとおもいます。
 ところで、白山の「地神第二」は白山瀬織津とされるも、一方で「天照大神の御子天忍穂耳の尊」と記されてもいました。しかし、白山神がそもそも水分神=水神であることを基準にしますと、地神第二神を「天忍穂耳の尊」とみることには無理があり、これは、書写した者による書き加え、つまり皇統譜に沿った後世の付会とみなすべきでしょう。
 また、白山瀬織津・置倉宮の「置倉宮」をどう考えるかは不定の要素が残りますけど、これはおそらく大祓の神事と関係しています(大祓祝詞のなかに「千座[ちくら]奥座[おきくら]」という言葉があります)。
白山における大祓神事の具体についてはあとでみますが、ここで、「白山大鏡」は、「置倉宮」の神(=白山瀬織津)を、白山の地主神というよりも、「白山絶頂」の神そのものであると、次のように明記していたことは、やはり白山の地主神を考える上で大きな示唆に富んでいます。

■白山絶頂の神(1)
凡よそ白山絶頂は高天の原凡天宮、千倉[ちくら]天神・置倉[おきくら]地神の雪嶺なり。(「白山大鏡」)

 また、別文書による異伝もありますので、それも参考までに書き写しておきます。

■白山絶頂の神(2)
白山絶頂は日域第一の霊場、天地の諸神垂迹の秘峰故、天嶺絶頂の岩窟・土窟は、皆是れ八百万神の霊祠。幽谷の流水、渟[とど]まる池の水は悉[ことごと]く甘露の法水。また心身内外清浄の水共云う。自在吉祥無解[むげ]の雪嶺。難罪必除の禅定なり。(「白山絶頂之湧出妙理権現之由来本記」)

 白山絶頂の神は、「千倉[ちくら]天神・置倉[おきくら]地神」とされ(大祓祝詞の文言「千座奥座」が想起されます)、この「絶頂」は、「日域第一の霊場、天地の諸神垂迹の秘峰」ともみなされていたようです。いいかえれば、白山絶頂への神聖絶対視がなされていることがよく伝わってきます。また、引用の後者では、「天嶺絶頂の岩窟・土窟は、皆是れ八百万神の霊祠」とされていますから、白山絶頂を中心とした周辺には「八百万神」が集っていることになります。これは、神まつりのメッカ=絶対聖地が白山だといっていることになりますが、もとより、こういった「中心」性を白山がもっているとすれば、そこに「中央」の祭祀意志が反映・投影しているゆえとみるしかありません。白山において、天神地祇=八百万神たちに教え諭す意味ももつ大祓祝詞が重要神事として採用されたことと、おそらく、こういった白山を絶対神聖視する認識表現は深い関連があるはずです。
 ここで、そもそも白山の地主神とはなにかということで、これまでの引用を整理しておきますと、白山地神の「第一」は「日域曩祖[のうそ]之神として、伊勢大神宮と顕れ」とありましたように、白山の地主神としての第一は天照大神とみなされていました。また、白山地神の「第二」は白山瀬織津=小白山別山大行事権現ということになります。
 これらの記載は、まさに白山の女神が伊勢の天照大神と因縁浅からぬ関係にあることを告げるものです。これは、最初に引用した、加賀の白山本宮が焼失するときの白山神の神託──「天照大神のいます伊勢の地に移りたい」という白山神(女神)の神託とも対応しているとみることができます。
 ところで、ここで「地神第一」とされている天照大神ですが、この神は、いわゆる皇祖神=アマテラス=女神としての天照大神かどうかという疑問も湧いてきます。しかし、このことについては、「白山禅頂御本地垂迹之由来伝記」は、天照大神は女神ではなく、男神であるとして、次のように記していました。

■天照大神は男神
 于時[ときに]、伊奘諾・伊弉册の御子に四神[よはしらのかみ]御坐[いま]し、一女三男と号す。一女と云うは蛭子の明神、三男とは日神・月神・素盞鳴尊がこれなり。日神と申すは地神五代の最初、忝[かたじけな]くも一天四海の総領・天照大神宮、伊勢国山田原五十鈴川の上に垂迹し給う。委[くわ]しくは神代の巻に記し畢[おわ]る。已下[いか]同じ。
 月神と申すは、豊後国に御座[おわ]す宇佐八幡宮是なり。〔後略〕
 素盞鳴尊は乙子[おとご]を愛育し給う。八百万代の神達御心をなぐさめて、十月出雲国に宮を作りて移らせ給う。

 一見、記紀の記述をなぞっているようにみえますが、天照大神は、伊奘諾・伊弉册の「一女三男」の第一男神=日神で、「一天四海の総領・天照大神宮、伊勢国山田原五十鈴川の上に垂迹し給う」と書かれています。
 なお、ここに注記されている、「委[くわ]しくは神代の巻に記し畢[おわ]る」の「神代の巻」ですが、これは、「白山大鏡」のことで、記紀のそれではありません(記紀は、天照大神を「女神」としています)。「白山大鏡」は、正確には、そのタイトルに「白山大鏡第二神代巻初一」と書かれていて、「白山大鏡」には「第一」の巻がまずあったことがうかがえます。この「白山大鏡第一」の巻はどこかに秘蔵されていてまだ陽の目をみていないか、あるいは紛失してしまっていて、現在、それを読むことはできないということのようです。
 そういった「部分」しか読めない「白山大鏡」ですが、それでも、白山瀬織津=瀬織津姫を白山の「地神」として伝えているこの史料は、それだけでも、一級(以上)の価値をもっていることはいうまでもありません。奥書に「深秘」「秘を以て骨目と為す」「末代の秘本」とせよと記される所以です。
 また、天照大神を女神ではなく男神と伝えている「白山禅頂御本地垂迹之由来伝記」は「白山大鏡の補完史料」とされるもので(解題)、これも、上記のように、白山の地神が明かされる伝承を記載していることで、まさに「他見堅く無用」の史料ということになります。両書の成立年および原記載者は特定できませんけど、少なくとも「白山大鏡」の最終書写の時期は「享和第四龍含甲子」=1803年、また、「由来伝記」の書写時期は「明治三年」=1870年、つまり、神仏分離から国家神道へと向かう時代の最初期の書写であり、そこに「他見堅く無用」と記さざるをえなかった理由を、また時代趨勢を、わたしたちは読み取るべきでしょう。
「白山大鏡」は、その記載から、加賀側の「白山記」が捨象している伝承を多く含んでいて、その意味で、原「白山大鏡」の成立時期を中世あたりにまで遡行して語ることは可能ですが、しかし、日本の神々の歴史でもっとも秘されてきた瀬織津姫という神を明かす関心からいえば、そういった成書時期を特定する書誌学的関心はわたしにはありません。いいかえれば、伝承の質あるいは綻びを、あるいは伝承の行間を読むことが当面の関心で、成書時期の確定については、ほかの研究者に譲ります。
 話を白山神と瀬織津姫にもどします。
 美濃・石徹白[いとしろ]側の、この「末代の秘本」である「白山大鏡」は、加賀側の「白山記」とはちがって、さらに瀬織津姫を、次のように描写しています。

■瀬織津比唐ニ云う神
一度梵宮神仙の峯に詣る衆生は、永く三途の旧里に出ず、五道大神なり。瀬織津比唐ニ云う神、苦業の因[もと]を救うべし。西の麓を死出の山と云う。三途河流れ、五色水澄[すみ]て五蘊の垢を洗う。妄業の闇忽[たちまち]に晴れ、籃[かご]の渡しに及ぶ。険難の三途大河を亘[わた]りて、現身[うつしみ]に於て直[ただち]に見仏聞法の仏土に至る。情有りて唱うべし。生死[しょうじ]の大河を渡り涅槃の岸に至る。(「白山大鏡」)

 瀬織津姫は「苦業の因[もと]を救う」神であり、これは、「三途河」、つまり、人の「生死[しょうじ]の大河を渡り涅槃の岸に至る」ことを司る神だという認識が書かれています。
 瀬織津姫を大祓神とした佐久奈度神社(滋賀県大津市)の「解釈」では、瀬織津姫は「三途河」の渡し神、姥神だとなります。これも白山と同質の認識といってよいでしょう。白山神が、社家の「秘伝」において、「穢れを禊ぐ神」とみなされていたことも重なってきます。

(3) 白山の大祓神
 瀬織津姫が白山において(も)、禊ぎ祓いの神、つまり六月と師走=十二月の大祓神として認識されていたのは、美濃側においても同断でした。大祓の具体的神事「瀬織津姫の祭」の様がうかがえますので、該当記事を読んでみます。

■六月、千座[ちくら]の大祓
 中の七より八に至り之を行う。七日まず河上の岩窟[いわや]前に及び葉薦[すごも]を敷き、壇を設け座[くら]を調える。青和幣・白和幣各一本、散米・麻共案の上に之を置く。茅輪一枚・机各一脚・玉串各一本・人形各一枚、申ノ刻川祓諸司出仕。(而して)祭主、先ず河神・瀬織津姫の祭。神供の神酒之を献じ拍手再拝、祝詞畢[おわ]りて各玉串を採り、身を払い祓[きよ]め訖[おわ]る。人形千輪[ちのわ]の行事終りて、後取[しとり]之を流し共に再拝、畢りて退出[しりぞく]。此れ夕日祓と称するなり。八日辰ノ刻岩窟の前に之を修す、神供神酒常の如し。再拝拍手・祝詞各畢り、玉串を取り修祓[しゅうばつ]前日の如し。人形・贖物[あがもの]悉く後取[しとり]之を流し、連拝終り退出。此れ朝日祓とは称するなり。(「越宗廟白山上下年中行事祭祀巻」)

 この大祓の神事において、まず「河神・瀬織津姫の祭」だという認識が記されていることは貴重です。白山神は「お水の親神さま」と、加賀の本宮がみなしていたことを想起すべきでしょうし、またなによりも、白山の四方に流出する「河」を、ここに重ねてみることができます。それらの「河神」として瀬織津姫があること──このことについてはあとでふれます。また、「越宗廟白山上下年中行事祭祀巻」というタイトルが表していますが、白山は「宗廟」でもあり、さらに、ここもかつては諏訪と同じく「上下」という二社構成による祭祀がなされていた可能性があることを指摘しておきます。
 ところで、白山の大祓の神事=六月大祓において、その神事の主神が大祓神四神(瀬織津比刀E速開都比刀E気吹戸主・速佐須良比)ではなく、瀬織津姫一神であることは注意しておいてよいかとおもいます。大祓の中心の神がどんな神かを、この白山の大祓神事はよく証言しています。もっとも、第二次大祓神事ともいうべき師走=十二月のそれには、あとの三神も追加登場してきますので(神名は出てきませんけど)、こちらも読んでおきます。

■十二月、天神地祇祭、並に晦日[みそかの]大祓
 下の七より八に至り之を祭る。兼て大殿に葉薦[すごも]を敷きて、案を二脚建て設け、於いて天神座[あまつかみのみくら]・地祇[くにつかみのみくら]なり。七日子[ね]ノ刻に於いて天神を招祷し奉る。亥[い]ノ刻に於いて地祇を招祷し奉る。次第は正月祭に同じ事なり。晦日の大祓は、別祓神を四座[よつくら]に加える。酉[とり]ノ下[げ]の刻に及びて、三座六所の天神地祇・四神に於いて、各神供の神酒・祝詞を献じ畢りて幣を班[わか]つ、先ず本座に幣〔但し四本束て持て乃を用う〕、終りて幣使に与え、案上・案下に之を賦[みつ]ぐ。亥ノ刻に衆官各[おのおの]修祓、召使に賦[ぶやく]し机に玉串一本・散米[まきごめ]麻人形一枚・机上に各これを置き、祭主之を高案に別け、縄を解き加えて之を祓い終る。各玉串を以て身を撫で、人形に気を掛け払い出す。後取[しとり]、進みて之を流すなり。以上の祭祀は、私斉[しさい]に於いて非ず、天下の大礼にして宝祚[ほうそ]長久の祝これなり。四海静謐の祈念なり。能思厚祭慎みてこれを行い怠るべからず。(同前)

 六月の大祓は瀬織津姫一神の主祭でしたが、「晦日の大祓は、別祓神を四座[よつくら]に加える」とあります。そして興味深いのは、この二つの大祓神事(および天神地祇祭)は、白山社家の自由意志ではないという、ある種「弁明」がなされていることです。曰く、「以上の祭祀は、私斉[しさい]に於いて非ず」というわけです。ではどんな祭事かというと、「天下の大礼にして宝祚[ほうそ]長久の祝これなり。四海静謐の祈念なり。能思厚祭慎みてこれを行い怠るべからず」という意義づけがつづきます。
 この「天下の大礼」としての大祓神事ですが、では、白山において、これはいつからはじまったのかという問いも生じてきます。同書は、大祓神事の開始時期を次のように記録しています。これは、白山祭祀を明かす上でも重要な証言・記録というべきでしょう。

■養老時代からはじまった大祓神事
 右両度の祭奠(二つの大祓神事…引用者)、養老・天平・勝宝・宝字・神護五朝の旧礼なり。階を送り威を増すは、仁寿・貞観・天暦の三朝の御時之を行わせられる。勅使先ず宮川に臨み、身を濯ぎ祓い於き給いて、葉薦[すごも]二枚之を敷く。案を建て太麻・人形を案上に之を置く。祭主先ず進て河神を祭る。〔後略〕

 白山において、河神=瀬織津姫を主神とする大祓神事がはじまったのは養老時代(717〜723年)だとあります。この養老時代というのは、女帝・元正の時代にあたり、また、右大臣・藤原不比等の晩年にあたります(不比等の死は養老四年=720年8月3日のこと)。藤原不比等の死の三ヶ月前の五月二十一日に日本紀=日本書紀は成立します。ときあたかも、日本書紀の創作編集から成書に至る時期というのが、養老時代前半ということになります。ちなみに、書紀において、瀬織津姫=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、最高の祟り神とみなされます。また、蝦夷征服の祈願神として瀬織津姫が熊野神として東夷国=東北へ「派遣」されてくるのも元正の養老時代でした(養老二年=718年)。
 ところで、その後の白山信仰に決定的な影響を及ぼす泰澄ですが、彼が白山山頂において十一面観音を感得・念出した年は養老元年=717年とされます。
「泰澄和尚伝記」によりますと、泰澄は、白山山頂において十一面観音を念出・感得したあと、つづいて別山へ赴き、そこで「一人の宰官」と出会います。この謎の宰官は、「吾は是れ、妙理大菩薩の神務ノ輔佐、行事の貫首なり、名づけて小白山別山大行事と曰う」と告げ、その本地の姿として聖観音と変じてすぐに姿を消します。
 泰澄はさらに大汝峰に赴き、今度は「一奇眼の老翁」と出会います。この老翁は「往昔は我れ是れ伊弉册命の神務静謐啓跋[けいはつ]の輔弼[ほひつ]なり、名づけて大己貴[おおなむち]と曰う。蓋[けだ]しまた西刹[さいせつ]の主なり」と告げ、これもまたたくまに姿を消します。
 大己貴の本地仏が明瞭に語られていない奇妙さが残りますが、より奇妙なのは、これらの奇夢ともいうべき夢告を泰澄一人の胸に収めておくのではなく、都の天皇に、時をおかずに奏上していることです。「泰澄和尚伝記」は、この奏上を「天奏」という表現をしていますが、この天奏の場面を読んでみます。

■白山祭祀の勅命を出した元正(1)
 爰[ここ]に和尚天奏俄[にわか]に昇りて、元正の勅命忽ち降[くだ]る。麓には白山の神殿新[あらた]に建て、国家の崇敬他に異なり、雪山の頂きに仏体を顕わし、供養恭敬致し貴賎歩[あゆみ]を運び登臨す。結縁ここに在り、於戯[ああ]本地垂迹の悲願、現当[げんとう]二世の済度、我が願い既に満足す。歓喜合掌す。

 あまりできのよい潤色表現とはいえないのですが、「元正の勅命」によって、白山の「神殿」がつくられたことだけは伝わってきます。元正の白山祭祀の勅命については、さらに「白山権現鏡之巻」に次のような記述があることからも明らかかとおもいます。

■白山祭祀の勅命を出した元正(2)
爰[ここ]に大徳、元正天皇に奏聞[そうもん]し、勅命[みことのり]にて白山高嶺の三所に、垂迹体の霊神を造作[ぞうさく]、坐[いま]す宮社の殿堂は甍[いらか]を並べて建立し御座[おわし]ます。(「白山権現鏡之巻」)

 白山三所の権現の「垂迹」の神々は、元正の「勅命」により、泰澄によって「造作」されたと読めます。なお、泰澄と元正の関係は、養老六年=722年の天皇の「不予」(気鬱病か──『続日本紀』によりますと、その具体的内容は伏せられていますが、穂積朝臣老が元正を名指しで「非難」したとして佐渡に流罪刑となるのが、この養老六年正月のこと)が泰澄の念力によって回復したなどとも記され、泰澄と天皇家の濃厚な関係は、元正あとの聖武、孝謙=称徳と、泰澄の死(神護景雲元年=767年)まで、その蜜月関係をつづけたことを伝記は記しています。
 こういった伝記表現は、自社自寺の権威づけの意図を反映したもので、時間が下れば下るほど、泰澄の「想い」とかけ離れていくことは必然というべきですが、しかし、白山祭祀の国家的な関与を呼び込んだ存在・媒体として、つまり、象徴としての泰澄という存在だけは、その伝記的虚飾がすべて無化されたとしても残るだろうとおもいます。
 白山祭祀において、泰澄は、養老時代までの地主神に代わって白山妙理大菩薩=十一面観音を、白山の「本地」の仏としたことは宗教的「史実」として残るからです。

712 大井神社 PONTA 2003/04/15 01:28

はじめまして☆
PONTAのAYAともうします。
今度、大井神社に行って来ます。
静岡県島田市にある大きい方の大井神社です。
島田市内には、小さな大井神社もあります。と言うか、大井川沿いにはたくさんの大井神社があって(明治政府の1郷1社によって合祀されたり、ダムで水没する前は76社?現在は60社?)、どこも祭神は「水神」なのですが、なぜか彌都波能売神を祀ってる神社と瀬織津比売神を祀ってる神社と2種類有るそうです。

時々「水神社」って神社を見かけますが、祭神を調べてみると「水神」って書いてあって、「誰のこと? はっきりしてよ!」ってよく思います。

713 宗像 あすか 2003/04/15 04:02

宗像三神女と、瀬織津姫は、
何か、関係があるのでしょうか?

714 大井の川神と裏伊勢の神 風琳堂主人 2003/04/16 07:59

 PONTAのAYAさん、こんばんは。
 大井川流域には、明治期の前まで70社以上も「大井神社」がまつられていたというのは初めて知りました。その川名と同名の「大井」の川神はなにかといえば、いうまでもなく「大井神社」の神様がそれに該当するのでしょう。では、大井神社の神はなにかというと、彌都波能売神と瀬織津比売神、そして大井川流域の水神社まで含めると、その神様は「水神」だということのようです。大井川の川神=水神はなにか(「誰か」)という問いはわたしにもあります。まったく「はっきりしてよ!」ですね。
 ここに出てくる三つの神名は、そのすべてが横並びの神名かどうかと問うてみますと、固有の「神名」の匂いがするのは瀬織津比売神のみで、あとの彌都波能売神と水神は、むしろ瀬織津比売神=瀬織津姫の、神としての性格を表象・仮称したもの、あるいは瀬織津姫がもつ性格から派生した神名ではないかとなります。彌都波能売神は水端[みずは]女神で、これは、瀬織津姫がその名を記載される大祓祝詞=中臣祓の「速川に坐す瀬織津比唐ニいう神」という水辺=水端を表したものですし、後者の「水神」は、白山神の話でもふれましたように、川神=水神という瀬織津姫のもっとも原型的な性格を表象したものとみることができます。もっとも、瀬織津姫という神名にしても、その美名性はなかなかのものですが、これは単純に滝神とみなしてよい命名です。しかし、そういった滝神がなぜ固有神化するかといいますと、この神が、神宮=伊勢祭祀の祖型神としてあるからだとおもいます。
 したがって、大井川の川神=水神はなにかという問いに「固有名」で答えようとすれば、けっきょくのところ「瀬織津比売神=瀬織津姫」とみることに不都合はないとなります。では、なぜ瀬織津姫と表示しないのかという問いが当然浮かんできますが、これはやはり「伊勢」の神=アマテラスとはなにかという問いとセットで考えるしかないとなりましょう。
 参考までに、以下に、現在確認できる、大井川流域にまつられる瀬織津姫関係社を書き出してみます。

■大井川流域の瀬織津姫関係社
@ 鎮水神社【大井神社境内社】……島田市大井町2316
A 八幡神社【本殿合祀】……榛原郡川根町笹間渡425
B 大井神社【本殿主祭神】……榛原郡川根町笹間下1236[支流・笹間川上流部]
C 大井神社【本殿主祭神】……榛原郡中川根町地名1582
D 八幡神社【本殿合祀】……榛原郡川根町葛籠262
E 八幡神社【本殿主祭神】……榛原郡中川根町久野脇694
F 八幡宮【本殿合祀】……榛原郡中川根町下長尾371
G 八幡神社【本殿合祀】……榛原郡中川根町上長尾644
H 八幡神社【本殿主祭神】……榛原郡本川根町崎平230-2
I 敬満大井神社【本殿主祭神】……榛原郡本川根町千頭750
J 井川神社【本殿主祭神】……静岡市井川1469
K 大井神社【本殿配祀神】……静岡市田代329-2

 これらは、下流部から上流部へたどった順に並べてあります。Jの井川神社は、井川湖=井川ダムの湖辺にありますから、大井川をだいぶ遡った上流域にあります。合祀社がいくつか含まれているとはいえ、瀬織津姫の名が12社、現在これだけ流域に集中して確認できる川は大井川が全国一です。あと安倍川にも数社確認できますけど、この安倍川と大井川にほぼはさまれた静岡市には、J、Kを含めて、また、大井神社、水神社などの主祭神=瀬織津姫を含む12社が集中していて、この集中度も特別です。
 ともかく、大井川流域の瀬織津姫関係社からみえることで興味深いのは、瀬織津姫が大井神社ばかりでなく、八幡神社とも関係があることが、特にEとHからみえてくることです。これは今だからいえることですが、瀬織津姫は宇佐八幡の「比売神」に秘された神でもありましたから、こういった祭祀は不思議ではないとなります。
 また、もう一つ興味深いことは、Iの敬満大井神社の主祭神として瀬織津姫がまつられていることです。敬満大井神社の「敬満」といえば、これも大井川流域(島田市阪本)に鎮座している敬満神社との関連を考える必要が出てきます。延喜式神名帳によりますと、敬満神社は明神大社という別格中の別格社です。ここの現在の主祭神は敬満神ととぼけた表示をしていますが、ここの神がたぶん大井川の元締め的な神だろうと想像しています。ここはいつか調べてみたいとおもいながら保留となっている神社です。そもそも「敬満」とは、どこからきた言葉なのかということもあります。水神の使いとしての馬の匂いもしますが、未確認です。島田に行かれるなら、また時間の余裕があるならですが、ぜひ、この敬満神社も調べてみてください(東隣の大楠神社も)。敬満神社の祭祀のはじまりは垂仁二十六年とされているようですが、この年は、伊勢の祭祀がはじまったとされる年でもあります。あえて伊勢祭祀開始の「公的」な年に時を合わせている敬満神社の由緒と、そのなんともはっきりしない祭神名=敬満神は、洗い出してみる価値がありそうです(明かされるのを待っているような気もしています)。敬満神の祭祀経緯や、神の性格がどう伝承されているのか──もしなにかみえてきたら、また教えてください。

 あすかさん、こんばんは。
 昨日お電話をいただいてあらましお話ししたことと重なりますけど、静岡の大井川流域の八幡神(の女神)として瀬織津姫の名が伝わっていることは、宗像神(の女神)が宇佐八幡神の比売神であることとも重なってきて、その秘祭・隠祭の問題はありますが、瀬織津姫祭祀の全国分布の広範囲性をあらためて考えさせられます。
 宗像三女神と瀬織津姫に「関係」があるかということでいえば、まず、少なくとも宗像三女神の一神とされる湍津姫と置き換わって瀬織津姫がまつられている例があることで、「関係」は「大いにある」となります。この祭祀の具体例は、大分県中津市の闇無浜神社、鹿児島県出水市の厳島神社、紀州熊野本宮境内社の滝姫社です(現在のところ、これら三社ですが)。なお、宗像大社には、現在、瀬織津姫は大祓の神とされてまつられていますが、わたしは、湍津姫==八幡比売神=瀬織津姫が宗像神の中心の女神であるとみています(囲炉裏夜話57「湍津姫の誕生」、344「荒ぶる神と淀姫」、358「淀姫=与止日女の元は瀬織津姫」、380「八幡神と瀬織津姫」ほかも参照ください)。
 ところで、湍津姫の「湍」は「早瀬」の意で、早瀬=速川とみれば、そのまま伊勢および大祓祝詞の速川神=瀬織津姫への転位がみえますし、また「湍」は「たきる」「たぎる」の意も含んでいますから、これもそのまま滝神=瀬織津姫へと転じるとみなすことができます(瀬織=滝です)。
 丹波(丹後)・籠神社などのいくつかの社は自社を「元伊勢」だと主張しています。宗像大社は、ちょっとひねって、自社を「裏伊勢」だと主張しています。いずれにしても、これらは、自社の神が伊勢ととても強い関係をもっていることを証言しているわけです。なぜ「元」伊勢、「裏」伊勢なのか──宣長流にいえば「深き理[ことわり]あり」となるのでしょうけど、瀬織津姫という伊勢に秘された水神=滝神をキーの神として考えますと、「裏」も「元」も、その含意するところに違いはないということになります。つまり、宗像神は伊勢=アマテラスの「裏」神であり、籠神は外宮神との関係を含めて伊勢の「元」神だということです。
 これは語感の話ですが、「裏」は「元」を主張するよりも隠微、幽冥です。要するに、表に出てはならない(出してはならない)とする自主規制あるいは禁忌を自覚しているゆえに「裏」伊勢なのでしょう。上記、大井川の元つ神の社や多くの大井神社から瀬織津姫の名が消えている理由でもあろうかとおもいます。むしろ、瀬織津姫を現在に伝えつづけているわずかな神社のほうが、そういった神社こそが、ホンモノではないかということを教えているのが、白山祭祀の秘伝文書ではないでしょうか。
 日本の神々の中心・最高神とされる伊勢神=アマテラスですが、しかし、そもそもアマテラスとはなにかという問いを忘失せずに各社の神々とその祭祀をみていけば、日本の神まつりにおける禁忌は、なにも宗像一社の問題ではないということがみえてきます。こういった視点があれば、いつか、日本の神々は、かなりシンプルな姿に、それも、ちっとも威張っていない神様(たち)の姿に還元、あるいは復元されてくることとおもいます。この威張っていない神様は子どもと一緒に遊べる神で、そういった神こそが「日本のほんとうの神様」だと喝破・断言したのが、『遠野物語』の原話者=佐々木喜善でした。

715 ありがとうございました。 あすか 2003/04/19 00:21

本、とてもおもしろかったです。
今まで、自分の中でひっかかってきた
キーワードがすべて、出揃っていました。

とくに、数年前、海人(あま)族という言葉の、
響きに魅せられ。。。
関連書物を、読み漁りました。

たまたま、その頃、知り合った友人は、
"創作舞踏をやっていて、
その人の、祖先は、代々宗像大社で、踊ったりしていたそうです。

自分の中で、いろんなことを整理するのに、
少し時間がかかりそうですが。。。
今まで、探していたもののパズルが、
やっと、キチッと合いそうです。。。

ありがとうございました。。。

716 白山神と桜谷神へのメモ 風琳堂主人 2003/04/25 07:26

あすかさん、こんばんは。
掲示板外のメールのやりとりで、君が代と瀬織津姫の関係にまで話が拡がってきました。この問題は性急に解くことはむずかしいだろうとおもっていますが、瀬織津姫がもし糸島半島の桜谷神社および志鹿島の神であることが明らかになってきますと、これまでの君が代のイメージはまったく変わってくることはたしかだろうと考えています。
 囲炉裏夜話の読者とも問題意識を共有できればということで、あすかさんに送った小生のメールを公開させてもらいますね。

■瀬織津姫と君が代の関係を解く前提について
君が代と瀬織津姫の関係は、ストレートに、あるいは簡単に確認できるとはおもっていませんけど、歌詞の全体が読めることがまず前提だなとはおもっています。
このことと、志賀島の神とはなにかという問題も合わせて考える必要があります。
あと、九州の瀬織津姫を明かそうとしますと、いつも立ちはだかってくるのが神功伝承です。
神功の三韓「征伐」伝承は学問的には虚構であるとなかば定説化されていますが、こと神社の伝承世界に降りてみますと、しっかり網の目のように張り巡らされていて、これは現地へ行って「そうではない」という伝承を拾い出してみるしかないようです。伝承には伝承で無化しておかないと、いくら学問の「定説」をふりかざしても説得力がありませんからね。香椎宮を明かすという作業も、おそらく君が代問題にふれるときにはセットかとみています。いわば「聖母信仰」の「聖母」神とはなにかという問題です。
君が代問題は、上記の方法を組み合わせ総合的に論じることと、そして桜谷神社の神明かしが一体となったときに、話=論がリアルなものになってくるだろうと──現在いえるのはそのあたりまでです。

 ここに桜谷神社の名が出てくるのは、君が代の「君」が磐長姫を讃えてうたわれている可能性があり、その磐長姫をまつる神社が、糸島半島の桜谷神社でもあるからです。
 ここのところ、白山神をもう少し調べたいということで、白山周辺の各県の地図帳をみていて、おやっとおもった神社が二社あります。白山を源流山とする九頭竜川の河口に位置しているのが福井市ですが、同市には、福井県では唯一瀬織津姫を主祭神としてまつっている川上神社があります。この川上神社の近くに、問題の(?)桜谷神社、そして佐佳枝廼社という神社があります。また、佐佳枝廼社の近くには「桜橋」という名の橋もあります。
 瀬織津姫は、琵琶湖→瀬田川の桜谷の神でもあり、また、鳥取市の桜谷神社の主祭神としてもまつられていますから、桜谷神=瀬織津姫の可能性はとても高いわけです。それと、桜神としての瀬織津姫ということもあります(桜谷はその名のとおり桜の名所でもあることは、鴨長明『方丈記』に記載があります)。
 佐佳枝廼社は、サカキノ社と読むのでしょう。これも、瀬織津姫のフルネームである撞賢木厳之御魂天疎向津媛命[つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと]の「撞賢木」=ツキサカキとの関連が考えられます。
 九頭竜川河口域の桜谷神社にも白山神=瀬織津姫の伝承が認められるならば、これは糸島の桜谷神社にふれる際の強い傍証根拠の一つとはなるだろうと考えています。
ところで、福岡県の古処山などは白山権現=木花開耶姫としていて、白山と桜神の秘神を知らないと、この祭神表示は理解不能です。また、石徹白の白山中居神社は、本殿相殿神としてですが、磐長姫と天照大神をセットでまつるという、唖然というか痛快というべきか、びっくり祭祀をしています。ともかく、白山神(の関係神)として、木花開耶姫および磐長姫の名が出てくるところがなにごとかです。この二女神は、糸島半島の桜谷神社の祭神でもあります。
 また、白山地主神とされる別山神は現在大山祇命などと祭神表示されていますが(白山比盗_社)、記紀によれば、木花開耶姫および磐長姫の父神(書紀の一書は母神)として、この大山祇を記しています。
 伊予・大三島においては、大山祇命は「渡の神」とされ、風土記逸文などは百済から渡ってきたからだなどと書いています。しかし、わたしは、百済云々ではなくて、大山祇の背後の瀬織津姫が、白山伝承ほかにみられるように、三途の川の「渡し」の神とされていることを重視すべきだろうと考えています。また、大三島の神は大山祇という「山神」である前に、宗像にも、あるいは玄界灘の島々とも通いあう「島神」であろうと考えています。
瀬織津姫が桜神=滝神でもあり、また「渡神」でもあるという話はくりかえしませんけど(囲炉裏夜話294「三春滝桜と瀬織津姫」参照)、九頭竜川流域の平泉寺地域には「大渡神社」というバス停もあって、これも調べてみるとおもわぬ伝承が飛び出してくるかもしれません。
 九頭竜川と瀬織津姫との濃厚な関連性でさらにいえば、同川最河口部に「折戸」という地名があって、ここには白山神社がまつられています。この「折戸」という地名は、清水市折戸町および折戸湾にもみられますけど、天女伝説の美保の松原の隣町が「折戸」です。そこに鎮座しているのが「瀬織戸神社」で、祭神は、いうまでもなく瀬織津姫です。つまり、折戸という地名は瀬織津姫ゆかりの地名とみることができます。また、九頭竜川最上流部にあたる石徹白川ですが、この石徹白郷にも「折戸橋」という橋があります(上村俊邦『石徹白の神仏分離騒動(上)』)。
 九頭竜川=石徹白川の支流・御前川の滝「長走りの滝」(史料では「長滝泉」)には、(かつて)瀬織津姫がまつられていたという情報を、上村俊邦さんからいただいています。「白山権現鏡之巻」には「爰[ここ](伊野原)の東に長滝泉西に短滝泉、林に清浄な石坐有り。吾れ(白山神)遊び止[とどま]る地なり」とあり、長滝泉=長走りの滝で白山神が遊んでいたという楽しい記述があります。そこに瀬織津姫が「まつられていた」わけです。現在、長滝泉の瀬織津姫は、おそらく明治期の神社合祀の嵐に飲み込まれて消えているのでしょうけど、「その後」、この瀬織津姫はどうなったのかということも、気になっているところです。

(追伸)
 約1400ページという激戦編集(?)もやっと終わりました。遠野へもどる前に、九頭竜川、および、「日本一の清流」の称号を土佐の四万十川と競う、美濃の長良川歩きでもしてみようかと考えはじめているところです。
 なお、「折戸」と水神(=瀬織津姫)の関係がほのと伝わってくる民話をみつけましたので、関心のある方はご一読ください。白山と縁深い立山の民話です。

■与平お宮(富山県上市町折戸の民話)
 剱岳のふもとから流れ出る早月川というのは、たいへんなあばれ川で、むかしからたくさんの人たちを苦しめてきたものじゃ。この川の上流の早月谷に、折戸という村があってのう、この話は、そこに伝わっている話なんじゃ。
 むかし、むかし。この村に与平という、えらく信心深い、心のやさしい若者がおったそうな。
そのころは買い物をするというても、遠い遠い上市村まで、一日がかりで行ってこんならんほどに不便なもんじゃった。だけど、この与平という人は親切なことに、自分が買い物に行く時は必ず、
「上市村まで行くけど、なんかいる物があったら買うてきてあげようか。」
と、村じゅう聞いて回っておったと。
 あるとき、その日も山を下りて上市村まで買い物に出たんじゃが、たのまれた用事がたくさんあってのう。あっちこっちとかけ回っとるうちに、とうとう日がくれて暗うなってしもうたと。与平はよっぽど親類の家にとまっていこうかとも思うたけど、みんな待ちわびとるじゃろうと考えたら、それもできんし、山のような荷物をせおって、急いで帰ることにした。
 歩き続けて、甘酒河原にさしかかると、
「与平、与平・・・・・・」
と、自分の名前をよばれたような気がした。暗がりをすかしてみたけれどだれもおらん。そら耳だったかと思うて行こうとすると、やっぱり、
「与平、与平・・・・・・」
と聞こえてくる。
 声をたよりに近づいてみると、そこにはなんと百貫目(約三百七十五キログラム)ほどもある大きな石があって、たしかにそこから声が出とった。
「おまえに声をかけたのはわしじゃ。わしは水の神なのじゃが、おまえのしんせつにはいつも感心しておる。聞くところによると、早月川は大雨のたびに洪水を起こし、おまえたちはたいへん困っておるというではないか。わしが守ってやるから、せおって連れて行くがよい。」と、その水の神様は言わしゃった。
 与平はえらいありがたいこととかしこまって、山のような荷物をせおってはおるけど、なんとしてもと決心してのう。さて、持ち上げてみるとびっくりするくらい軽くて、まるで、石がひとりでに動いとるようで、案じるまでもなく村に行き着くことができたそうな。
 そこで与平は、村のみんなと話し合ってほこらを作り、その神様をまつったところが、それいらい洪水も少なくなって、村は大助かりじゃったと。
 ところで、この神様はほこらの中でじっとしとるのがしょうに合わっしゃらんようで、気がつくと必ず、外に出とられるんじゃそうな。与平がせおった時にはあんなに軽かったのに、うそみたいにどぉんと重うなられて、村じゅう総出でふんばって、やっと中に入れましても、やっぱり外に出てしまわれるそうな。

 今でもほこらの外で鎮座しとられるそうじゃけど、ほんとにふしぎな話じゃね。
 村ではこれを「与平お宮」と名づけ、早月河原、折戸田んぼの守護神として、毎年五月七日に祭礼をおこなっているそうな。(富山県中新川郡上市町HP)

 立山(剱岳)を源流山とする立山川→早月川流域に伝えられている「水の神様」は、その名は明かされていませんけど、好感がもてます。なお、白山においては、瀬織津姫はまだ天女の姿を留めていましたが、立山(雄山)側の雄山神社においては、瀬織津姫は老いた姿=姥神=祖母神として、人々の立山信仰の中心に存在することになります。この話はまたの機会にします。

718 瀬織津姫と君が代 あすか 2003/04/27 10:38

おはようございます、ご主人。

夏に、糸島にいきますので、
また、糸島のかたにメールを送っておきます。

古代史を、検証しようという動きは、
いろんなところで、おこっていますね。

やっぱり、人間は真実を知りたいという
欲求が強いいきものなのだと、思います。

ご主人の、知識はすごいですね。
どっからでも、瀬織津姫のお話ができる・・・

本だけの知識でもないし、
行動に裏打ちされた感情の伴った知識。
すごいですね。

わたしは、魂の赴くままに・・・
神社を尋ねて、歩き回った足跡に・・・
いつも、瀬織津姫がいらっしゃったということですね

弥山も、瀬織津姫がおられるんですよね。
天河から、いつも弥山に、登ってたひとは、
写真をいっぱいとってました。
彼も、瀬織津姫に魅せられた一人ですよね。

これからも、よろしくお願いします。

719 沖縄の神歌に出てくる「君が代」 名護 2003/04/28 14:08

 邪馬台国総合説というおおげさなタイトルのサイト
http://www.setouchi.ac.jp/~dnagoh/を出している者です。
 風琳堂ご主人のこのページは、私の説と共鳴する部分が多くようで、じっくり勉強されてもらおうと思っています。ご著書も読ませてもらっています。

 「君が代」のことを書かれた方がおられましたので、沖縄、久米島に伝わる神歌を私のサイトにアップしました。ご検討下さるとよいと思います。
 沖縄では君真物(キンマムン)の神(真実の君、あるいは君の中の君、という意味でしょう。沖縄の最高神で、女性です)が何年かに一度、北(すなわち日本本土)から来臨し、沖縄本島北部の国頭にから上陸するという伝説があります。
http://www.yanbaru.ne.jp/~NRBC/nakijinarekore.htmの【今帰仁阿応理屋恵】(ナキジンアオリヤエ)の項をご参考に。国中に涼傘(りゃんさん)が立つそうです。貴人の来島を意味します。
 これは日本本土から赤いお椀(須玖式土器)を携えて来島し、後の日本という国を統一へ向かわせた女達のあった時代の残映でしょう。君が代とはこの時代以来のもので、女たちの思想によって形成された、戦乱を克服した平和な国家というのが原初の意味であったと思われます。しかし、後のちの日本は専制国家へと変質し、君はその専制君主の意味に変質した、ということなのでしょう。久米島の神歌は、沖縄にはその原点が豊かに存在することを示唆しています。長期の伝承過程で、やはりかなりの変質はしているようですが、しかし、原初の意味は保っているものと思われます。難しい歌ではありますが・・・

720 沖縄の神歌と瀬織津姫 風琳堂主人 2003/04/30 09:44

 あすかさん、こんばんは。
 弥仙(=須弥山)を源流山とする川は天の川で、これは熊野川の最上流部にあたります。この川神が天河社の神で、それを弁財天と呼称したのが役小角とされます。天武時代のことです。天河社は天河大弁財天社となり、この弁財天と川向こうの八坂神=素盞鳴尊が七夕祭祀の神々ともされます。現在、天河の女神は宗像神の一神である市杵嶋姫とされますが、ここに市杵嶋姫=弁天という定型の等号式が布置されたことで、天河の本来の水神は陰に隠れてしまったとみることができます。では、天河の本来の水神はどこへ行ったかといえば、わたしは同社摂社の大将軍神社ではないかとみています。
 大将軍神は、桓武の平安遷都の守護神=四方神として京の都にまつられたことから平安時代の創祀神のようにみられますけど、平安時代の前から京の地に鎮座していた大将軍神社があったことにも注意しておく必要があります。それは西賀茂大将軍神社です(京都市北区西賀茂角社町)。平安期創祀の大将軍神は素盞鳴尊とされるのが一般的ですが、この西賀茂大将軍神社は異例で、その祭神は磐長姫命とされます。さらに異例ともいうべき話ですが、天の川=十津川=熊野川流域の山奥にとても大切にまつられている大将軍神社があり、ここの主祭神は瀬織津姫で、しかも謎の男神と対のかたちでまつられています。
 大将軍神の男神は素盞鳴であり、女神は磐長姫または瀬織津姫とされること──この特異な祭祀形態には、やはり七夕祭祀のはじまりにおける、日本固有の理由・謎が付着しているようです。
 七夕祭祀は、天武のあとの持統女帝によってはじまります。日本の七夕祭祀は、中国のそれとはちがって、雛祭りと同じく、祓いの要素が加味されているのが特徴です。一年に一度の逢瀬を許容するということを「日本」的に解釈すれば、祓いの神々とされた男女神への鎮魂祭祀の意味もそこには含まれているとみることができます。
 日本の七夕神事の原イメージを文献に探ってみますと、天照大神と素盞鳴の天安河をはさんだ「誓約=うけひ」の場面が浮かびます(記紀)。ここは、宗像神が三女神として誕生したり、天忍穂耳命という皇孫=ニニギの前の神が「霧」から誕生するなど、いわゆる「五男三女神」の不自然な誕生を告げる場面でもあります。五男三女神は息吹神=霧神という幻想神です。
 ところで、大伴家持は、越中国にて、「七夕の歌」と題して次のように歌っていました。

■大伴家持の七夕歌
天照らす 神の御代より 安の河 中に隔てて 向ひ立ち 袖振り交し いきの緒に 嘆かす子ら 渡守 船も設けず 橋だにも 渡してあらば その上ゆも い行き渡らし(『万葉集』4125)

 万葉集の七夕歌は凡歌ばかりが百首以上収録されていますが、そのなかで、家持は、七夕の神々の宿命を、書紀の記述と重ねることができた唯一の歌人でした。「いきの緒に 嘆かす子ら」が霧神=五男三女神という幻想神でしょう。
 天河の七夕祭祀に、書紀のこの「誓約」の場面および家持の歌を重ねますと、天河の市杵嶋姫は天照大神であることになってきて興味深いです。宗像神は伊勢=アマテラスの「裏神」であるという宗像大社側の主張には根拠があるというべきでしょう。書紀の「誓約」の場面は、天照大神はアマテラスという女神に変身し、素盞鳴と擬似結婚するという設定になっています。ここには神々の性転換という作為性がありますから、その意味で、天照大神が男神→女神となったように、素盞鳴はもとは女神であった可能性があります。大将軍神に女神の磐長姫あるいは瀬織津姫が認められる理由かとおもいます。また、素盞鳴が両性具有神ともなりうることを表しているとみることもできます。

 名護さん、こんばんは。
 先日は、銅鐸神ほかの貴重なご教示をありがとうございました。また、遠野の瀬織津姫の俗名とされる「おない」さんが「おなり神」と関係があるのではないかというご指摘もいただき、即答できないままに今にきています。
 ところで、君が代の「君」が磐長姫をうたった可能性があるということで、磐長姫の背後の神はなにかという話になってきました。そこへ、沖縄・久米島の神歌では、「君が代=神が代」で、しかも、ここでの「君」は女神とのこと、また、沖縄本島北部には、「君真物(キンマムン)の神(君の中の君)」が「北」=日本本土からやってくるというご指摘です。
 これは基本的な視点ですが、わたしは、君が代=神が代の「君=神」は、南島を含めた「隼人」たちの最高神でもあったろうとおもっています。また、さらにいえば、隼人も熊襲も蝦夷(エミシ)も、そこには種族的な違いはないものと考えています。もし名称の違いにこだわるなら、そこには生活の場=領域のちがいがあるのみとおもいます。
 白山神を問うていってみえてきたことの一つは、女帝元正の養老時代は、露骨に、それまでの神々が中央祭祀の意向によって改竄された時代だということがあります。この養老時代には、泰澄が元正の勅命によって白山祭祀に手を加えていたわけですが、これは一人泰澄に限るものではなく、九州の地では法蓮が同じことを宇佐神に対して行っている可能性があります。
 また、元正時代には、大祓祝詞が正式に朝廷神事として採用されたことは、白山側の文書が証言しているだけではなく、『続日本紀』にも次のような記述があったことからも明らかです。

■大祓祝詞と隼人の征討
(養老五年=721年)秋七月四日 初めて文武百官に命じて、妻・娘・姉妹をつれて、六月と十二月の晦[みそか]の大祓の儀式の場に集まらせることにした。
 七月七日 征隼人副将軍・従五位下の笠朝臣御室[みむろ]・従五位下の巨勢朝臣真人[まひと]らが、帰還した。斬首したものや捕虜は合せて千四百人余りであった。

 養老四年八月に、元正の影の天皇ともいうべき藤原不比等が亡くなると、なぜか時を合わせるようにして東(北)では蝦夷が蜂起し、西(南)では隼人が蜂起します。「陸奥[みちのく]や筑紫[ちくし]の辺境の砦の民は、しばしば戦乱にあい、兵役に病み疲れています」といった太政官の奏上がなされるのが養老五年六月のことです。また、養老四年十一月八日には、「南嶋(南西諸島)の人二百三十二人に、それぞれ身分に応じた位階を与えた。遠方の人々を手なずけるためである」などとふざけた記述もあります。
 おそらく「手なずけ」を拒んだのでしょう、隼人の斬首・捕虜は「千四百人余り」と記録されることになります。この記録の日付があえて七夕の日=七月七日だということは偶然のことかどうか──七夕神事に祓いの要素が重なっていることともしや関係あるものかもしれません。この象徴的な日付=七月七日の記述の直前に、「六月と十二月の晦[みそか]の大祓の儀式」が「初めて」朝廷の公式神事として記録されていることは無縁ではないとおもわれます。瀬織津姫は大祓祝詞のなかでのみ、その生存を許すといった意味が、この大祓の儀式の公言化には込められています。
 ところで、この隼人の征討→鎮圧によって、その地の神々だけは無事に生き延びただろうというのはやはり疑問で、鎮定後、そこには隼人の最重要な神々の改竄があったことは白山と同様であっただろうと想像できます。神が代=君が代の「神=君」の女神が無事に延命したとは考えにくいということです。香椎宮の元宮ともいうべき壱岐の聖母宮(かつての香椎宮)には、白山祭祀の勅命が出されたのと同年にあたる養老元年=717年、今度は、ここでも元正の勅命による祭祀関与が伝えられており、これは、一つの傍証証言とみなすことができます。
 沖縄本島北部においては、ニライ・カナイの地は「北」(日本本土)にあると想定され、そこから「君真物(キンマムン)の神」が来訪するとされています。『おもろさうし』の解説によりますと、ニライ・カナイは「神々の住む海の彼方の楽土・理想郷」とあり、そういった理想郷が「北」に認められるとするなら、ここはより直接的には九州の地を、さらにいえば、まっとうな祭祀が成立していた時代を想定できるのかもしれません。ニライ・カナイの神々は、隼人の神々でもあることになります。
 また、ニライ・カナイを、つまり海の彼方の楽土を「東」に認めるときは、そこには太陽神が「てだが穴(太陽が出現する穴)」からやってくるという、出雲佐太大神の加賀の潜戸の出現譚と同一の神出現の構図もみえてきます。佐太大神=猿田彦神という太陽神は伊勢の元神=地主神(の一神)でもあります。
 琉球開闢の神はアマミキヨ(アマミコ=アマンコ)とされ、これは大地母神とみることができますが、このアマミキヨの「穴」から太陽(神)が出現することによって、この「穴」は聖なる生誕を告げる「穴」、つまるところ、聖なる「アマンコ→オマンコ」とみることができます。このアマンコを内在させる神女が、その霊性の強さを認められるとき、聖なる巫女として絶対化されるのは必然というべきでしょう。
 久米島の神歌「五月お祭のおもろ」には、「君=神」(女神)に向かって、「昔あったように/きさし(世の始めに)あったように」、「見守って下さい/養って下さい」という祈りのフレーズが何度もうたわれます。ここに願われている「君=神」が人=天皇のレベルにないことは明らかで、それが筑紫の磐長姫であるとすれば、この磐長姫とはなにかという問いがさらに鋭角性を増してくることはいうまでもありません。
 ニライ・カナイは「神々の住む海の彼方の楽土・理想郷」とあり、これは、ニライの神とカナイの神という「神々」が住みたまう楽土ということかとおもいます。開闢神=大地母神であるアマミキヨに、人の原初的な「性」という共同幻想が付与されたとき、この大地母神はアマミキヨとシネリキヨという対なる神々として、まさに人間的な分身化を遂げます。アマミキヨの「穴」にやってきて、そこからくぐるようにして出現してくる太陽神こそが原初の日神です。
『おもろさうし』には、「意地気神(すぐれた神)」「事直し神(世の中を平和、幸福にする神)」への讃歌が散見されます。これは、「君真物(キンマムン)の神」と同一神でしょうし、ヤンバルにおいては「真筋の神」とも表現される神かとおもいます。この「真筋の神」がうたわれる神歌には、驚くべきフレーズも含まれています。

■六月祭ノオモイ(『やんばるの祭りと神歌』名護市教育委員会)
やまとから くたりたる   大和から下った
やしろから くたりたる   山城から下った
赤椀の ゆなわし      赤椀の世直し
黒のいの ゆなわし     黒塗りの世直し
うやのろに みやす     親ノロに差し上げ
ますしぢに みやす     真筋の神に捧げて
うすばよて みやす     お側に寄って差し上げる
うまめゆて みやす     お前に寄って差し上げる
もちゃぎりば さゝぎ    持ち上げては捧げ
さゝぎりば もちゃぎ    捧げては持ち上げ

「大和から下った/山城から下った/赤椀の世直し/黒塗りの世直し」──この「世直し」をうたう神歌はこの引用歌以外にもいくつも読むことができます。大和と山城から下った「赤椀の世直し」とはなにかについては、名護博さんの『赤椀の世直し』(ゆい出版)に詳しい考察がありますのでそちらに譲ります。
 ここで、「世直し」が願われている「真筋の神」は、記紀の記述に照らせば、イザナギの禊ぎから誕生したとされる「直日神」のイメージに近いのかもしれませんが、記紀から独立した瀬織津姫の話としていうなら、むしろ下鴨神社の最重要な神=糾神(=糾の森の弁天さん)=瀬織津姫を連想すべきかもしれません。
 ヤンバルの神歌に瀬織津姫の名が直接出てくる歌はありませんけど、「透視」可能な歌はあります。これも「世直し」に関わる神の歌です。

■くわーしのおもり(六月十一日穂祭の時に謡う)
ウー ゆいたちゅる たちゅる     寄り立っている
ウー かみがみがちじゃ        神様達の頂(長)は
ウー いちゃるゆるくいが       如何なる世の声か
ウー うらしゆぬくいや        浦添の声は
ウー いちゃるゆるくいが       如何なる世の声か
ウー うふちゅはし かきてい     大人の橋を架けて
ウー さくらばし たちゅみ      桜橋が立つか
ウー ちゅくしだまみたま       筑紫玉、御玉(を首に架けて)
ウー ちみがあしあしぶ        神女が遊び遊ぶ

■おもり(失題)
やまとぅから くだたる        大和から伝わってきた
あかわんぬ ぬるわしや        赤椀の世直しは
なかむらち はたゆらち        中盛らして、端も揺らして
がーみくーや             神酒は
うふぐるた まぐるめーたー      大ゴロ達よ、真ゴロ達よ
まうぃかいど むちゃぎわちょり    真上に持ち上げなさい
ささぎわしょり            差し上げなさい
しまんにぬ うふかみん        島の根の大神に
むいとぅしょ むいますなよ      盛り通せよ、盛り増すな
くしりわんぬ うふがかん       これを知れ私の大神
むいとぅしょり むいますなよ     盛り通せよ、盛り付けるよ
うふちゅがみや うふちゅしょり    大人神は大人になりなさい
さくらがみや さくらむどぅんしょり  桜神は桜を戻しなさい

 原語だけを読んだら、あるいは耳にしたとして、正直、内容を読み取る、聞き取ることはおぼつきません。もっとも、横の和訳を参照したとしても、どこまで正確に全体の内容を読み取れるかは少し心もとないですが、しかし、全体に「世直し」が願われている基調だけは伝わってきます。
 また、ここには気になる言葉たちがいくつかあります。たとえば、「寄り立っている/神様達の頂(長)は/如何なる世の声か」、「大人の橋を架けて/桜橋が立つか」、「大人神は大人になりなさい/桜神は桜を戻しなさい」といったフレーズです。「大人の橋」「大人神」を現代の感覚で読んでよいものかどうか、また、これらの語の対語のように語られている「桜橋」「桜神」とはなにかということです。
 わたしたちの瀬織津姫探求において、この女神はまさに「桜神」でもありました。また、7世紀末に伊勢の新しい祭祀が強行される前までは、瀬織津姫はまさに「神様達の頂(長)」と深く関わる神でもありました。この神が「大和から伝わってきた」となりますと、この「桜神」の背後に瀬織津姫の影が潜んでいることはじゅうぶんに考えられてきます。
 瀬織津姫が琉球の最重要な神と交差する可能性が読み取れる神歌を、もうひとつ読んでみます。伊是名[いぜな]島の雨乞い歌です。

■伊是名の雨乞い歌
伊是名森 真玉森          伊是名森の、真玉森の
まやつじに まやだけに       マヤ頂に、マヤ嶽に
すみあがよる 湧あがよる      澄み上がる、湧き上がる
あさゝうず 澄さうず        親清水、澄む清水の
川づかさ 川ばたをせぢ       川の神、川端の神
よしやはい あまみや神       ヨシヤハイ アマミヤ神

 伊是名島には、見事な三角錐形の神奈備山があり、ここに伊是名グスクがあります。沖縄をかつて駆け足で歩いていたとき、複数の郷土史研究者の方からぜひ伊是名島へ行くようにといわれていたことを思い出しました。「次の機会には必ず」と言って今日まできてしまいましたが、ここで伊是名の雨乞い歌と出会うことになりました。この神歌は、アマミヤ神=アマミキヨが「川の神、川端の神」でもあることを歌っています。おそらく、この伊是名島にとっても、ニライ・カナイは「北」に意識されているものとおもいます。
 ここまでみてきますと、琉球の絶対創世神=アマミキヨ=アマミコが、ひとり琉球のみの神でない可能性が考えられるようです。これは、沖縄産のゴホウラ貝や水字貝が本土の古墳から検出されることによっても、あるいは前述の「てだが穴(太陽が出現する穴)」の太陽神と出雲の佐太大神(加賀の潜戸神)の同質性をみても、海の民の広大な交易・共有世界を想定することができます(名護さんには釈迦に説法のような話ですが)。
 アマミキヨ=アマミコと「君」の女神=磐長姫──。アマミコは創世神=大地母神であると同時に、「アマミコ=海巫女」、つまり海神=日神を受け入れる巫女ではないかという視点もあるとおもいます。
 記紀においては、磐長姫と木花開耶姫は、美醜という価値観を象徴的に二分化した神で、記紀の創作・編纂者は、その美神の側の系譜に天皇譜を接続させていきます。この姉妹神の親神は大山祇とされますが、この神は白山においては瀬織津姫を隠す神名として利用されもします。
 ところで、大山祇(表記は大山津見神)の子神ですが、古事記は、磐長姫と木花開耶姫二神のほかに、足名椎(櫛名田比売の父神)、神大市比売(大年神の母神)と木花知流比売(布波能田遅久奴須奴神[ふはのもぢくぬすぬのかみ]の母神)がいたという別表記もしています(書紀では消去されますが)。そしてこれらの神々、ただし磐長姫一神を除く神たちの子神の系譜を書き立てていきます。この脈絡のない神々の系譜づくりにはまったく閉口しますが、西野儀一郎さんは『古代日本と伊勢神宮』において、こういった記紀の神々の創作記述は「ひとにぎりの朝廷内部の頂点上層部の人たちの頭の中の神様づくりのゲーム遊び」だと書いていました。同感です。しかし、なぜこういった「神様づくり」をしたかという問いは残ります。これは「遊び」ではなく、記紀の創作・編纂者にとっては「真剣」な「神様づくり」であったという視点も考えてみよというのが、記紀があえてその記載を拒んだ瀬織津姫の、沈黙の言葉としてあります。
 古事記において「甚凶醜」とされる醜女神=磐長姫には子神の表記はなく、その意味で磐長姫は孤愁の女神です。しかし、にもかかわらず、隼人の最高神であった可能性があります。君が代の原型歌とされる志賀島の山讃歌に、ストレートに磐長姫の名が出ているのかどうか──これは大きな判断の分かれ目=ポイントになるだろうとおもっています。磐長姫が記紀の編者たちによって創作された神名だとしますと、磐長姫に仮託された謎の神こそが本来の「君」の女神ということになります。わたしたちの「君が代」に対する漠然とした問いの網を絞り込んでいくと、この謎の「君」の女神とはなにかという問いにゆきつきます。南島においては、「北」からやってくる「君真物(キンマムン)の神」と同神としますと、琉球の神歌に磐長姫の名が一箇所も出てこないことは、逆証的に、磐長姫の仮称性、記紀による創作神名である可能性を告げていることになります。

 昨日のメールで、「木花開耶姫と瀬織津姫と同神とみてよいか」という質問をいただきました。私信ですが、問いの性格はほかの読者の思いとも共有する性質のものですので、ここでふれておきます。
 大祓祝詞においては、瀬織津姫は三分身=三分神化され、いわゆる祓いの「三女神」とされます。宗像神もまた、この大祓神の三分神化をなぞるようにして創作=三分神化されていると考えられ、その意味で、木花開耶姫も磐長姫も分神化されているとわたしは考えています。したがって、木花開耶姫と瀬織津姫とが「同神」かどうかといえば、分神であるとまではいえますが、文字どおり「同神」とはいえないというのが正確な言い方です。瀬織津姫の一要素である棚機神=織姫と桜神の要素を体現しているのが木花開耶姫ですが、しかし木花開耶姫の性格で瀬織津姫の性格の全体をカバーすることはできません。これは、たとえば、瀬織津姫がもっている水神=滝神の性格要素を挙げてみればわかりやすいかとおもいます。木花開耶姫が滝神としてまつられている事例があるのかということです。また、瀬織津姫が天照大神=日神と対となる水神であることをみてもよいです。天照大神と磐長姫あるいは罔象女神がセットでまつられることはあっても、木花開耶姫とセットでまつられるケースはあるのか、また、伊勢祭祀の中枢に木花開耶姫の名はその痕跡を認めることができるかといった問いを並べてもよいです。
 弁才天と習合する神は一般的には宗像神=市杵嶋姫ですが、しかしもう一神います。瀬織津姫です(下鴨神社・糾の森の弁天さん)。また、滝神として認められるのは、宗像神=湍津姫と瀬織津姫ですし、大将軍神の女神は磐長姫と瀬織津姫です。桜神も二種の神で、これも木花開耶姫と瀬織津姫です。磐長姫と木花開耶姫は大山祇神の子神=分神で、その大山祇神によって隠祭されている白山祭祀があります。瀬織津姫は早池峰郷においては水神=滝神かつ山神ですから、そのまま大山神=大山祇神であってもウソではないわけで、そういう意味で、白山において白山地主神=別山神を大山祇神と表示するのは、瀬織津姫を水神=罔象女やオカミ神として表示する手法と異なるものではありません。また、瀬織津姫は、その水神かつ織姫、および祓い神の性格から、天竜川流域・伊那の天伯神社においては明らかに七夕神としてまつられています。記紀はその記述において、瀬織津姫の名を完璧といってよいほどに伏せていますけど、各地各社の祭祀現実は瀬織津姫祭祀を手放したわけでないことは、これらの諸事例からもいえるものとおもいます。
 ここで、誤解のないようにひとつだけはっきりいわせてもらいたいのですが、それは、たとえば白山神や諏訪神、宇佐八幡比売神ほかの秘神としての瀬織津姫がだんだん明かされてきましたけど、だからといって、瀬織津姫という神名ですべて、関係神社の祭神表示をせよ、塗り替えよという意図は、わたしにはないということです。ただし、瀬織津姫という背後の神を知らないよりは知っている上で、たとえば白山[しらやま]さん、八幡さん、鹿島さん、お伊勢さん、お諏訪さん、あるいはお不動さん、弁天さん等の親称はあったらよかろうということです。「八百万神」とはそういうことではないかということです。各地各社の秘神・瀬織津姫を明かすということは、厳密には、瀬織津姫を隠そうとする中央祭祀の「意図」を明かすこと、つまり、1300年という長き時間にわたってはびこっている、この国の「暗」の思想を明かすということです。こういった思想が無化されることと、各社の祭神表示を塗り替えることとは必ずしもイコールではありません。それぞれの氏子の人たちの自然な総意が祭神名を変更する(自分たちの納得できる神にもどす)以外に、神々の名を部外から変更する理由はないということです。これは、さかのぼって、中臣=藤原祭祀から戦前の内務省神社局にいたるまで、お前たちにもその祭神変更の権限はもともとないのだということです。
 瀬織津姫の名において、ほかの神々が、今度は逆に否定・消去されることは、まず瀬織津姫自身が望むものではないだろうと考えます。瀬織津姫はとても魅力的な女神ですが、どうぞ誤解のないように、この女神を大事にしてほしいという希望を、少し蛇足的に書かせてもらいました。

721 おはようございます。 あすか 2003/05/06 09:12

女神さまの名前は、
置き換えられたりしているので。
なかなか、ほんとうの神様の名前がわからないので、
ちょっと唐突なかきこみだったかも、
しれません。。。ごめんなさい。。。

わたしも、久高島にいってきました。
セーフーウダキと、いっしょに・・・

船の時間の関係で、
30分くらいしかいられなかったのですが・・・
昔、祭事のあった場所を、
やっと見つけられて、
とんぼ返りで、船にもどってきました。

男は、海人(ウミンチュ)女は、神人(カミンチュ)
というのは、究極のひとの生き方かもしれないと、
思いました。

わたしは、沖縄から帰って、神棚を祭るように、
なりました。

参考文献”神々の古層 女が男を守るクニ
   久高島の年中行事 T 比嘉 康雄
     ニライ社

夏の、糸島は無の氣持ちで。。。
ただ、桜谷神社などを、回って来たいと思います。
もし、回れたら、ご報告します。

722 復活祝い 九州王朝の龍 2003/05/07 22:11

風琳堂ご主人、お久しぶりです。
お仕事の方は、一段落ついたようですね。
また、新たな瀬織津姫のお話を期待しています。

723 隠岐・壇鏡神社のこと 風琳堂主人 2003/05/08 09:39

 あすかさん、こんばんは。
 沖縄はたしかに「女が男を守るクニ」(だった)のかもしれません。現代女性論の観点からいっても、女性はみな自身のなかに「女神」を秘めていますから、そういう意味で、自らの「女神」を生きることを自信をもって選択したらよいだろうとおもいます。その点、男はダメで、せいぜい両性具有の精神(スサノウか?)をもつくらいが限度です。
 桜谷神社の探訪記、楽しみにしています。小生のこれからの動きは未定。まず、なまった体を回復させることからはじめねばというところです。

 龍さん、九州王朝ですか。
 どんな王朝も、その内部に権力ヒエラルキーを抱えていますから、最終的には相対化、無化される必要があるというのが小生の究極の(?)立場です。わたしが古田思想に距離をおいているのは、そういった小さなこだわりがあるためです。ヤマト王権に消された王権が各地に存在しただろうことは認めますが、そういった滅亡の王権の発掘だけでは「だからなんなんだ?」ということになります。ハンドルネーム一つのことで、ナンクセみたいなレスですみません。他意はありません。
 今、遠野へもどる準備をしています。少し山歩きをして足腰を鍛えて、それから長旅に出ようかというところです。

 1999年10月4日のことですが、隠岐島で唯一瀬織津姫を主祭神とする壇鏡神社が焼失するという「事件」がありました。その後、放火犯はつかまって現在服役中らしいのですが、そこの氏子総代の金岡さんから、祭神の瀬織津姫についての問い合わせをいただきました。神社再建に合わせて、新しい由緒書を作成したいという主意のようです。
 これまで、実のところ、神社の部外者がここを訪れても、どんな神がまつられているのかは不明であるような境内案内板の表記でしたから(幻松子さんの、いつも詳細な情報を盛り込んだ神社探訪記にさえ祭神名が記されていません)、これを機に、祭神=瀬織津姫の名が陽の目をみることとなればいいことだなとはおもっています。
 隠岐の瀬織津姫の滝=壇鏡の滝は、小野篁が配流になったとき(838年)に、一心に帰京を願った滝でもあり、また柿本人麻呂の子・躬都良[みつら]の恋人でもあった八百比丘尼との関連も考えられ、とても歴史を感じさせる滝です。また、抓津媛=瀬織津姫の可能性を明かすヒントをもった地でもあるのが、壇鏡神社が鎮座する隠岐・都万村でもあります。
 以下に、いただいた新聞の記事の一つを転載します(写真は省略。滝の画像を見たい場合は「壇鏡の滝」「壇鏡神社」で検索してください)。

■壇鏡神社募金で再建──火災から4年、今夏完成めざす
 火災で全焼した都万村の壇鏡神社の再建に向け、地元住民や島の出身者約千人から約四千万円の寄進が集まった。今年夏までの完成を目指し工事が進んでいる。
 壇鏡神社は約千二百年前に設置、一九九九年十月に火災で全焼した建物は六─八百年前に建てられたという。はらいの神瀬織津姫を祭り、洞穴の中に本殿と拝殿がある。地元の人たちは親しみを込めて「壇鏡さん」と呼ぶ。船や家が完成すると安全を祈願するなど地域とのかかわりは深い。
 神社の両わきには、日本の滝百選に選ばれている壇鏡の滝が流れる。俳人の故山口誓子が壇鏡の滝を見て詠んだ「捨身とは天より滝の落つること」の句碑もあり、観光地としても有名だ。
 再建を進める壇鏡神社御造営奉賛会の金岡弘泰会長(七五)は「全焼した壇鏡さんを見た時はあぜんとした」と振り返る。多くの募金が寄せられ、「地域のシンボルを復興したい気持ちの表れ。ありがたい」と感謝する。
 氏子の大工らが再建工事に取り組む。焼失前の写真を参考にして作業している。
 金岡会長は、「先祖が残した心のよりどころを後世に残したい」と話している。(『中国新聞』2003年1月24日)

「捨身とは天より滝の落つること」──山口誓子のこの句を読みますと、瀬織津姫と滝の関係をかなりわかっての上での一句だなといった印象を受けます。
 壇鏡の滝の崖窟には虚空蔵菩薩が鎮座しているとのこと──、これも伊勢の元神の日神が習合する仏が虚空蔵菩薩であったことと関係しているようです。伊勢内宮の「奥の院」金剛証寺の中興の祖は空海でしたが、壇鏡神社の神宮寺・光山寺は弘法大師=空海像を本尊としているとのこと、瀬織津姫と空海の関係は、この隠岐にまでみられるようです。
 金岡さんから頼まれたわけではありませんけど、再建資金のカンパを希望される方は、下記まで問い合わせるなりしてみてください。

■壇鏡神社再建に関する問合せ先
〒685-0103 島根県隠岐郡都万村大字那久
壇鏡神社御造営奉賛会
会長 金岡弘泰
電話 08512-6-2051

724 人麻呂考 ピンクのトカゲ 2003/05/09 18:04

風琳堂さんが、隠岐の壇鏡神社について、柿本人麻呂の子・躬都良と八百比丘尼について触れていましたから、柿本人麻呂について、少し書かせていただきます。

人麻呂論というと、学会での評価はともかく、一般人が思い浮かべるのは、梅原猛氏の「水底の歌」ではないでしょうか。

梅原氏は、『水底の歌』で、人麻呂は、当時、後の春宮大夫に相当する職にあり、この祖母から孫への皇位継承に異を唱えたことが原因となり刑死したとしています。

人麻呂の死については、万葉集は、
柿本朝臣人麿、石見国に在りて臨死(みまか)らむとする時、自ら痛みて作る歌一首として
「鴨山の 岩根し枕(ま)ける われをかも 知らにと妹を 待ちつつあらむ」
柿本朝臣人麿、死(みまか)し時、妻依羅娘子の作る歌二首として
「今日今日と わが待つ君は 石川の 貝に交じりて ありといはずやも」
「直(ただ)の会ひは あひかつましじ 石川の 雲立ち渡れ 見つつ偲はむ」
丹比真人、柿本朝臣人麿の意に擬へて報ふる歌一首として
「荒波に 寄りくる玉を 枕に置き われここにありと 誰か告げなむ」
或る本の歌に曰はくとして
「天ざかる 鄙の荒野に 君を置きて 思ひつつあれば 生けるともなし」
の五首を挙げています。

梅原氏は、依羅娘子の歌の「貝に交じりて」を人麻呂の屍は水底に沈んでいると解釈し、丹比真人の歌も水底に沈んでいる人麻呂に代って人麻呂の心を歌ったものだとし、人麻呂の死は水死しによるものだとの結論を導き出しています。
そして、人麻呂自身が読んだ歌の詞書(ことばがき)に「臨死らむとする時に作る歌」と書かれているから、事故死ではないとしています。
つまり、事故死ではない水死=刑罰による水死→水死刑としているわけです。

最初に書いたように、梅原説では、人麻呂は、後の春宮大夫に当する職にあったとしています。
延喜式によれば、春宮大夫は、従四位下の身分に相当する職です。
当時の法律では、五位以上の身分の者の事跡については、正史に記載しなければならないことになっています。
しかし、正史には、柿本人麻呂という名前は見えません。
梅原氏は、人麻呂と同時代の人物で柿本朝臣を姓とする人物を捜し、日本書紀の天武一〇(六八一)年一二月二九日に小錦下の位(後の従五位に相当)を授けられた柿本臣猿と続日本紀和銅元年(七〇八)四月二〇日に卒したとされる従四位下柿本佐留こそが人麻呂、その人ではないかと推理します。
延喜式によれば、従四位下に相当する職は神祇伯、春宮大夫、中宮大夫です。神祇伯は、中臣氏の世襲ですから、佐留(猿)は、春宮大夫か中宮大夫であった可能性はあります。
また、『古今和歌集』の真名序では、人麻呂を柿本大夫としていますから人麻呂が春宮か中宮の大夫職であった可能性も否定できません。

では、なぜ、人麻呂は、正史では、猿(佐留)の名前で記載されるのか?
梅原氏は、この答えとして、刑罰による改名ではないかとしています。
しかし、この説には、問題点があります。
人麻呂が、皇位継承争いに敗れ、刑罰により改名されたとするなら、なぜ、日本書紀の天武一〇(六八一)年一二月二九日に小錦下の位を授けられたとき、なぜ、猿と書かれているかということです。
このときは、人麻呂は、罪人でないわけですから、罪人としての名の猿でなく、柿本臣人麻呂と書かれるはずです。
また、佐留(猿)の死亡記事では、「卒す」と記載されています。
この時代、身分により「死」を表現する文字が身分によって異なっています。延喜式では、親王及び三位以上の者は、「薨」、四位・五位・皇親は「卒」、六位以下及び庶民は、「死」を使うとされています。
佐留は、従四位下ですから「卒」でいいわけですが、罪人であれば、「死」と表記されます。たとえば、大伴家持は、藤原種継暗殺事件に関与したことから流罪に処せられます(事件のときには、既に死亡していたが、遺骨を流罪にした)。
続日本紀は、家持の死亡記事を「中納言三位大伴宿祢家持死」と記載しています。
佐留が罪人であれば、家持と同様に「従四位柿本朝臣佐留死」と記載されるはずです。
つまり、佐留は、少なくとも罪人ではないということになります。

この矛盾点を解消したのが井沢元彦氏です。
井沢氏は、この矛盾点を人麻呂作とされる謎の歌を折口信夫が解読するというミステリー小説『猿丸幻視行』で、人麻呂が罪を犯し、猿に貶められたのではなく、無念の死を遂げた猿が怨霊化しないように人麻呂と呼ばれるようになったとしています。
無念の死を遂げた菅原道真公が天神様と呼ばれたと同じように...
そして、「佐留卒す」の記事については、佐留は、死罪に処せられたが、表むきには、単なる失脚と扱われ、続日本紀が編纂された頃には、関係者もおらず、誰にもはばからず「卒」と記載下のではないかという仮説を立て、表むきは、単なる失脚として扱われた理由として、佐留は、春宮大夫か中宮大夫の職にあり、皇位継承争いに巻き込まれたのではないかとしています。
そして、井沢氏は、人麻呂について『彼は熱烈な皇統主義者』であったとし、文武の即位に異を唱えたという梅原氏の説を踏襲しています。

文武が即位するのは、文武元(六九七)年八月一日です。一方、柿本佐留(猿)の死亡記事は、和銅元(七〇八)年四月二〇日です。
いくらなんでも刑の原因が生じてから、刑の執行までに一〇年近くがかかるというのは、頷きかねます。現在のようなオウム裁判は当時はなかったわけですから
また、人麻呂は、文武四(七〇〇)年四月に死亡する明日香皇女の挽歌を作っています。
現在で言えば、死刑囚が、国葬に参列し、弔辞、それも挽歌ですから長い弔辞を述べたようなものです。これも頷きかねます。
梅原―井沢説が刑死だとする和銅元(七〇八)年の直近の出来事を続日本紀から拾ってみますと、景雲四(七〇七)年六月一五日に文武が亡くなり、七月一七日に元明が即位しています。
元明は、文武の母です。持統から文武という祖母から孫への皇位継承も確かに前例がないものですが、子から母への皇位継承は更に異常なものです。
文武から元明の皇位継承について続日本紀は、元明即位前記で「景雲三(七〇六)年一一月、文武は病にかかり、母(元明)に皇位を譲る気になった」と記されています。
一方、文武が病気にかかったとする景雲三年一一月条には、何の記載もありません。
これこそが、井沢氏の言う公式に死罪にできなかったことと関係するのではないかと思います。

では、なぜ、人麻呂は、元明の即位に反対したか?

その前に、梅原氏や井沢氏が人麻呂が異を唱えたという持統から文武の即位について考えてみます。
そもそも、この祖母から孫への皇位継承というのは、持統が腹を痛めた子・草壁が夭逝したことにはじまります。
朱鳥元(六八六)年九月九日、草壁の父・天武が亡くなります。
そして、翌一〇月二日、草壁の異母兄・大津の謀反が発覚し、翌日死を賜ります。
この事件については、持統が息子・草壁に対抗する勢力を拝するためのデッチアゲだといわれています。
持統二(六八八)年一一月四日に天武の葬送を終えます。
そして、翌年の四月一三日、草壁が亡くなります。享年二七歳、若すぎる死です。

草壁の死に際し、人麻呂は、以下の挽歌を贈っています。
「天地の初めの時 ひさかたの天の河原に八百万千万神の神集ひ集ひいまして神分かち分かちし時に 天照らす日女の尊 天をば知らしめすと 葦原の瑞穂の国を 天地の寄り合ひの極み知らしめす神の尊と 天雲の八重かき分けて神下しいませまつりし高照らす日の皇子は 飛ぶ鳥の浄みの宮に神ながら太敷きまして(後略)」と詠んでいます。
大意:天地の初めのとき、天の河原に八百万の神が集まり、神の領分を定めたとき、天照日女尊は天を治めると、葦原の瑞穂の国を永遠に治める神として降臨した高照日皇子は、明日香浄御原に神として宮殿を構えられた。
高照日皇子は、明日香浄御原に神として宮殿を構えられたとしていますから天武を指します。そして、この天武を人麻呂は、葦原の瑞穂の国を永遠に治める神として降臨したと歌っています。

井沢氏は、人麻呂を『熱烈な皇統主義者』だとしています。
そして、熱烈な皇統主義者=人麻呂は、草壁の挽歌において、その『皇統』とは、天武の血筋が永遠に葦原の瑞穂の国を治めることだといっています。
人麻呂は、後に高市にも挽歌を贈っていますが、高市の挽歌では、壬申の乱での高市の武勇を称えています。
熱烈な皇統主義者=人麻呂の皇統とは、天武―草壁と続く血統こそがと思っていたと考えられます。
そして、草壁亡き今、天武―草壁の血統こそ皇統だと考える人麻呂は、この血を受け継ぐ草壁の忘れ形見=文武に期待をかけていたのではないでしょうか。
草壁に挽歌を贈っているぐらいですから、人麻呂が草壁に近い関係にあったことが想像できます。
大夫でないにせよ。草壁の春宮職にあったのかもしれません。
そして、文武が成人し、いよいよ即位するとき、反対したでしょうか?

では、元明の即位を反対した理由はなにかということになります。
一つには、子から母への極めて変則的で異常な皇位継承ということが挙げられると思います。
しかし、人麻呂のこだわりは、天武―草壁と続く皇統なわけです。
草壁の死後が、即位しています。
この持統の即位について、人麻呂がどう思っていたかは、解りません。
人麻呂は、斎明七(六六一)年頃の生まれといわれますから、このときは、三〇歳前後、反対しようにも反対するだけの力がなかっただけかもしれません。
というのは、人麻呂は、持統最晩年(七〇二年)の三河行幸においては、歌を残していませんし、持統六(六九二)年の伊勢行幸にも同行していないからです。

人麻呂が持統の即位に対して、快く思っていないとするなら、その理由はなんなんでしょう。
人麻呂の皇統のこだわりは、天武―草壁です。持統は、天武の后であったに過ぎません。
持統以前にも后が天皇に即位した例はありました。敏達の妃の推古、舒明の妃の斎明(皇極)です。
推古は、欽明の娘、斎明は、敏達の孫で、いずれも皇族でした。
持統も天智の娘です。
前例はともかく、熱烈な皇統主義者=人麻呂は、天武の血筋が永遠に葦原の瑞穂の国を治めるといっています。
天智の娘が皇統を継ぐとは、一言も言っていません。

子から母への異常な皇位継承に加え、元明は、持統と同じく天智の娘なのです。
天武の血筋が永遠に葦原の瑞穂の国を治めることを理想とする熱烈な皇統主義者=人麻呂が、持統に続き天智の娘が即位することを望んだでしょうか。
このとき、つまり、病にかかり、文武が、母・元明に皇位を譲る気になったとする景雲三(七〇六)年一一月、人麻呂は、四〇半ば、持統即位のときとは異なり、反対するだけの十分な実力もあります。

罪になってから位が上がることはありませんから、佐留=人麻呂は、従四位下の位にあったことになります。
そして、『古今和歌集』真名序は、人麻呂を柿本大夫としています。
従四位下の位にある者の職は、神祇伯、春宮大夫、中宮大夫です。
文武の春宮大夫は、書紀持統一一(六九七)年二月二八日には、路真人が任命されたとされていますから、人麻呂が文武の春宮大夫ではなかったことは確かです。
となれば、人麻呂は、聖武の春宮大夫の職にあったのではなかったか。
自らの老いと幼い聖武を考えれば、成人の暁には、聖武が本当に即位できるか否かの保証もありません。
人麻呂が元明の即位に反対したことは十分考えられます。
しかし、人麻呂が反対したにもかかわらず、元明が即位し、人麻呂は水死刑に処せられたと

文武から元明に皇位が継承されることが決定的となった景雲三(七〇六)年一一月、その五月後の景雲四(七〇七)年四月一五日の山田史御方に学士としての功績により賞揚されたとの記載があります。
森博達著『日本書紀の謎を解く』によれば、この記載は、書紀の神代〜安康の編纂の著述を促すものとしています。
いわゆる天孫降臨神話は、この神代の巻に記載されています。
皇祖神アマテラスから孫のニニギが葦原中津国に遣わした記載は、祖母から孫の皇位継承という持統から文武への皇位継承が投影されているといわれます。
一方、熱烈な皇統主義者=人麻呂は、草壁の挽歌の中で天武の血筋が永遠に葦原の瑞穂の国を治めることを理想としています。
この人麻呂の理想とは懸け離れた記述が載せられる書紀神代巻の編纂が人麻呂失脚後にはじめられたこと、持統六(六九二)年の伊勢行幸と持統最晩年(七〇二年)の三河行幸に同行していないことを考えれば、人麻呂が、持統即位をも快く思っていなかったことの傍証となるのではないかと思います。

725 おそらく... 九州王朝の龍 2003/05/09 23:38

風琳堂ご主人、こんばんは

ハンドルネームですか?
おそらく、ご主人は何か言うかなと思いました。(苦笑)
気にしないでください。深い意味はありませんので。大和王朝の前の九州王朝、さらに出雲......。と興味があるだけですから。

726 柿本人麻呂の死 風琳堂主人 2003/05/11 19:31

 トカゲさんからユニークな「人麻呂考」をいただきました。
 龍さん、こんばんは。今回は、日本に単一かつ絶対王朝しか存在しえなくなった裏話ともなりそうです。

 柿本人麻呂については、これも瀬織津姫と同様に国史から消去されていて、あるいは国史の外に独立していますので、いきおい想像力を駆使して語るしかありません。
 柿本人麻呂(=柿本佐留)は、藤原不比等あるいはヤマトの王朝によって、和銅元年(708)四月二十日に「水死刑」に処せられたという梅原さんたちの仮説を前提に、では人麻呂と不比等との敵対関係はどこで生じたのかということを考えてみたいとおもいます。
 まず、人麻呂によって、皇室関係者への挽歌が歌われた、その対象者と没年を書き出してみます。

@ 草壁=日並皇子尊【没年……持統三年(689)四月十三日】
A 高市皇子尊【没年……持統十年(696)七月十日】
B 明日香皇女【没年……文武四年(700)四月四日】

 人麻呂は亡き妻への挽歌、および自分自身への挽歌も残していますが、正確な歌作の日付は記されていませんので、後年、ミステリアスな想像を呼び込むことになります。
 挽歌対象者の没年がわかる、上記三首のいちばん最後の明日香皇女は天智天皇の皇女です。少なくとも、文武四年(700)四月四日に亡くなった明日香皇女への人麻呂の挽歌が確認できますので、この時点までは、人麻呂は宮廷歌人としてはふるまうことができたわけです。
 明日香皇女の死の二年後の702年12月に亡くなるのが持統女帝ですが、彼女への人麻呂の挽歌はありません。人麻呂は、持統の吉野行幸の歌を残していますので、当初は持統の信任を得ていたことが想像されます。したがいまして、700年4月から702年12月までの、この二年弱の間に、人麻呂は宮廷歌人の座を退いたとみることができます。
 人麻呂は「熱烈な皇統主義者」とされるようです(井沢元彦)。「皇統」という表現が妥当かどうかは保留ですが、万葉集の高市皇子挽歌などをみますと「わが大王」、明日香皇女挽歌の反歌にも同じく「わが大王」という言葉がみられますので、心情的な大王=天皇主義者であったことはたしかだとおもいます。
 人麻呂の「わが大王」は天武天皇を指してはいますが、しかし、天智天皇を無視しているかというと、そうとばかりはいえないようです。次のような天智挽歌あるいは懐旧歌もありますので。

■近江の荒れたる都を過ぎし時、柿本人麻呂の作れる歌
〔前略〕天ざかる 夷[ひな]にはあれど 石走[いはばし]る 淡海の国の ささなみの 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇[すめろき]の 神の尊の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる かすみたつ 春日[はるひ]の霧[き]れる ももしきの 大宮処 見れば悲しも(『万葉集』29)

 この歌では、天智天皇は「天皇の神の尊」、つまり、天智もまた「神」の位相でとらえられています。ちなみに、万葉集の人麻呂歌の最初の歌が、この近江の歌です。このあと、持統の吉野行への随行歌、持統の伊勢行幸の「不」随行の歌とつづきます。持統が伊勢へ「行幸」するのは692年3月のことで、その前年には持統の大嘗祭があって、持統が名実ともに天皇へと変貌したという経緯があります。人麻呂は持統の伊勢行に随行することなく京へ残されたとき、「くしろ著[つ]く手節[たふし]の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ」(41)という謎めいた歌を残しています。この暗いトーンの歌は、書紀の記述とは少し異なりますが、天武四年=676年4月に「罪ありて」(罪の理由は明記されていません)「伊勢国伊良虞島」へ流された「麻続王」の歌──「うつせみの命を惜しみ波にぬれいらごの島の玉藻刈り食[は]む」(24)と呼応する歌と読むことができます。人麻呂は、京にいて、持統行幸を寿ぐのでなく、持統が向かっている伊勢の地のかつての流罪人=大宮人を想像して歌っています。持統の伊勢行幸時、人麻呂は京に留めおかれたことと、この歌の意を合わせて考えますと、両人には蜜月的な関係は消えかかっているとみることができます。
 藤原不比等が、書紀に初めて記されるのは689年2月のことで(記載名は藤原朝臣史[ふひと])、同年4月に天武の皇太子=草壁が亡くなります。持統との距離はできたものの、人麻呂は草壁挽歌を残していますので、まだ宮廷歌人の地位を保っていました。くりかえしますが、人麻呂は明日香皇女の死=700年4月までは宮廷歌人でした。
 700年4月から702年12月の持統の死までの期間に、人麻呂が朝廷からスポイルされた事実は続日本紀は記していません。したがって、ここからは想像の領域にはいりますが、この時期の大きな特記事項といえば、やはり701年に不比等の主導によって「大宝律令」がつくられたことと、それと並行するように、不比等の朝廷政治への台頭ということがあります。不比等の台頭はしかし、朝廷政治の場面でおさまるものでなく、不比等の「血」が皇統=血統内に台頭するということも意味していました。
 不比等は、697年8月1日に文武が即位すると、ほぼ同時というべきですが、8月20日に、「藤原朝臣宮子娘(不比等の娘、聖武天皇の母)」を、文武天皇の「夫人」として送り込みます。そして、701年、「この年、夫人の藤原氏(宮子)が皇子(首[おびと]、後の聖武天皇)を産んだ」とされます。
 一方、人麻呂と文武の関係を歌にみてみますと、「軽皇子(=文武)の安騎野に宿りましし時、柿本人麻呂の作れる歌」なども残していますし、その歌の一首では、文武のことを「君が形見」、つまり、草壁の「形見」として文武をみていることがわかります(45〜49)。
 不比等は自身の権勢を、あるいは持統の信任を背景にして、文武の天皇即位と同時に、皇女の血筋ではない自身の娘を娶わせるという深謀遠慮な辣腕をふるいます。宮子は当初から文武の正妻=皇后という立場ではなかったわけですが、しかし、子(後の聖武)ができたことで事情は一変します。人麻呂が皇太子の「春宮大夫」という職にあったかどうかはわかりませんけど、彼は、少なくとも文武を「君の形見」と歌うという近い関係にありました。その文武が天皇即位と同時に不比等との関係を強く成立させていくことは、人麻呂にとっては、これも持統同様に、文武との関係の距離を広げただろうことが想像されます。
 じょじょに皇室との関係に溝ができつつあるにしても、人麻呂はまだ文武即位の時点=697年、決定的な排外の対象となったわけではなかったでしょう。このことは、文武四年=700年に、天智皇女=明日香皇女の挽歌(最後の挽歌)を歌う関係が確認できることからもいえます。
 太上天皇=持統は、大宝二年=702年に謎の三河行幸から京へもどったあと一月余で亡くなるわけですが(12月22日)、このときには、人麻呂は挽歌を残していませんので、彼はすでに宮廷歌人の地位にはなかったと想像できます。
 不比等による大宝律令の完成→公布は、おそらく、それまでの「わが大王」といった心情的天皇賛美の感覚と相容れない性格があったことが想像されます。なぜなら、「律」という刑罰の思想が盛り込まれた国法であることは、そこに天皇=国家への服属=皇民化を「鞭」によって強制する仕組みが盛り込まれているからです。この刑罰の国家思想が成立するまでは、大王の独断一存で刑罰があったりなかったりと、ある種気まぐれの「刑罰」があったのみというのは、近いところでは持統による大津皇子処断がありますが、記紀全体をみても、いわゆる古典的天皇たちの伝承・創作に随所にみられるものです。
 大宝律令の成立過程を続日本紀にみてみますと、まず701年3月に「新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正した」とあるように、律よりも令が先行していたことがわかります。翌4月には「初めて新令を講釈」と記載されてもいます。同年8月に大宝律令が完成すると、翌年=702年2月に「初めて新律(大宝律)を天下に頒布した」とされます。
 ところで、この大宝律令の成立期は、不比等の絶対権力の固定を意味するということもありますが、続日本紀には、それまでになかった神社祭祀に関する記述が集中してなされるようになってくるのも大きな特徴です。

(701年4月3日)次のように詔した。
 山背(山城)国葛野郡の月読神・樺井神・木嶋神・波都賀司神などの神稲(神田から取れる稲)については、今後は中臣氏に給付せよ。
(702年2月22日)この日、伊太祁曽・大家津比売・都麻都比売をそれぞれの地に分け遷した。
(702年4月3日)賀茂祭の日、民衆が寄り集まって武器を執り、騎射することを禁じた。その国(山背国)の人々だけはこの限りではなかった。
(702年4月10日)従七位下の秦忌寸広庭が、杠谷樹[こうこくじゅ](柊)の鉾のような根をもった、八尋もある大木を献上した。使いを遣わして伊勢大神宮に奉納した。
(702年7月8日)次のように詔された。
 伊勢の大神宮の封庫からの物資は、神の御品である。神事にお供えするものにならって、濫りに穢すことのないようにせよ。
 また山背国音訓[おとくに]郡にある火雷神は、雨乞いをする度に霊験がある。大幣[おおぬさ](祈年祭に際しての幣帛)と月次祭の幣帛を奉ることをせよ。

 こういった祭祀記述の背後には、最初の引用に出てきます中臣氏が存在します。具体的には、藤原不比等の同族であり、伊勢神宮の祭主をかつてつとめていた中臣意美麻呂です。意美麻呂が神祇官の長=神祇伯となるのは、元明時代の708年3月13日のことですが、この日は、藤原不比等が右大臣ともなる日であり、先取りしていえば、この708年4月20日に、柿本人麻呂(=佐留)は水死刑に処されます。
 不比等の律令政治と意美麻呂の神祇政治は両輪として、この大宝律令の制定とともに回転しはじめていることが、引用の神社祭祀の記述の多さに表れています(瀬織津姫が記紀外に登場する中臣祓が完成するのも、この大宝律令制定の頃かとされます…上田正昭)。
 心情的天皇派の人麻呂が、律令というシステムを一方でつかいつつ天皇を絶対化する不比等、しかも自らの「血」を天皇の血統に入れていく不比等とは相容れない関係をつくりだしていったと想像されます。
 続日本紀は、この不比等との確執を秘めた人麻呂の記述を一切していませんが、人麻呂の悲劇は持統の吉野行に随行するといった親しい関係にあったことが、不比等の台頭によって排除されていくという過程をもっていたものとおもいます。
 人麻呂の決定的な悲劇の始まりを想像しますと、それは、おそらく文武時代最後に想定されることは妥当と考えます。
 続日本紀は、文武の最晩年、つまり死の二ヶ月前の707年4月の項に奇妙な記述を並べて載せています。

■文武晩年の奇妙な記述
(慶雲四年=707年)夏四月十三日 日並知皇子尊[ひなめしのみこのみこと](文武の父、草壁皇子)の薨じた日を、はじめて国忌[はて]に加えた。
 四月十五日 天皇は次のように詔を下した(宣命体)。
 天皇が詔であるとして言われるには、汝藤原朝臣(不比等)の、天皇にお仕えする有様は、今だけのことではない。口に出して言うのも恐れ多い天皇(天武・持統)の代々にお仕えし、今また朕の大臣として、明るく浄い心をもって、朕を助け仕えていることの重大でご苦労なことと思う心があるので、功賞をしようとしばらくうかがい見ていると、不都合を避けしのんでいるのに似てきて、そのことを常々気の毒で重大なことと思っていると仰せられる。また難波の大宮にあって天下を統治された、申すのも恐れ多い天皇(孝徳天皇)は、汝の父藤原大臣(鎌足)の仕えた様子を、建内宿禰がお仕えしたのと同じであると仰せられて、地位をあげ物などを賜った。そこで禄令にのせられたことを例として、令の規定のままに、末永く今より代々に与えてゆくものとして、食封五千戸を与えると仰せられるお言葉を、みな承れと申し聞かせる。

 この二つの記述が意味していること、あるいは疑問点ですが、一つは、689年に亡くなった草壁の「国忌」を、18年もたったこの時期に、なぜか唐突に認めていることです。もう一つは、不比等の娘=宮子との間に首皇子=聖武をもうけていた文武によって、まさに遺勅にも等しいタイミングで、藤原不比等への絶対信任を公的に表明していることです(続日本紀の作者は、「食封五千戸」の申し出を不比等は辞退したと、不比等を美化する言葉を添えている)。
 まず、草壁の「国忌」を進言できる人物はだれかとなりますが、これは、かつて草壁の挽歌を歌っていた人物、つまり柿本人麻呂であろうと想像できます。人麻呂は、文武とも親近の関係にあったことは万葉集の歌にうかがえますが、しかし晩年において、文武は、死後の後事を託す人物として、藤原不比等を公的に指名したということになります。
 文武の譲位と死のあと、人麻呂の悲劇は必然ともいうべきものだったと考えられます。
 持統が最初の太上天皇でしたが、それを踏襲するかのように、自身を天皇と位置づけたのが、草壁の皇后であり、文武の母である元明女帝でした。この太上天皇の制は大宝令に明記されていましたから(上田正昭『藤原不比等』)、不比等の先取り的法整備はよほど考えてなされたものとおもいます。
 707年6月15日に文武が亡くなると、阿閉皇女=元明は6月24日、「文武天皇の遺勅によって、すべての政務をとる」と宣言、7月17日には即位し、天智─持統─草壁─文武という皇統を暗に主張するとともに、この即位宣言には、天智が定めたとして「不改常典」という「法」があると述べ、さらに、「また天地と共に永遠に改[か]わることのない掟として、立てられた国家統治の法」つまり大宝律令の永遠性も宣言されます。
 続日本紀の文面だけでは、「不改常典」がどういう「法」なのかはっきりしませんが、要するに、幼少の皇太子の場合は、その母または祖母が過渡的に天皇となって、日嗣の子=系統を絶やさないのだということかとおもいます。おそらく、文武の「遺勅」によって自身が天皇となると言っただけでは不安があったのでしょう、天智時代から定まっていることという継続の保証として使われているのが、この「不改常典」かとおもいます。こういった創作には、元明の背後に不比等の存在を考えてみる必要もあります。おもえば、元明の父は天智であり、不比等の父=鎌足が仕えたのも天智で、元明・不比等両者の心情的志向のベクトルは天智をさしています。つまり、天智への思いを共通項として、また規範のシンボルとして、天智は共有されていたとみることができます。
 ところで、元明時代というのは、天変地異の記録や、大宝律令の影響でしょうが、蝦夷[えみし]、隼人の叛乱→征討の記録が多いです。このこととおそらく関わるものとおもいますが、やたらと「大赦」がなされています。元明の即位宣言のあとの「大赦」の記述を読んでみます。

■元明即位時の大赦
 また皇室のはるかな先祖から始まって、代々の天皇の時代に、天皇が天つ日嗣として高御座[たかみくら](皇位)につかれ、国家天下を撫で慈しまれてきたのは、格別なことではなく、人の親が自分の児を養育するように、お治めになり慈しまれてきたことであると、神として思う。そこで、即位にあたり、先ず天下の公民の上に慈しみを与えるべく、全国に大赦を行なう。
 慶雲四年(707)七月十七日の夜明けより以前の、死罪以下の者を、罪の軽重に関わりなく、すでに発覚した罪も、まだ発覚しない罪もすべてゆるす。八虐の内、殺人の既遂罪・強盗・窃盗、それに律で平常の赦にはゆるされないとしている罪は、この限りではない。配所に送られる罪人のなかで、反逆罪に連座して流罪になったものでないもの、及び本籍地を移す措置をうけたものは、どちらもゆるして帰らせる。山や沢に逃げ軍器をしまいかくしている者は、百日を経て自首しなければ、本来のように罪する。

「天下の公民」への「慈しみ」が罪人の「大赦」だというのが、ほんとうに「天下の公民」にとって「慈しみ」なのかどうかということはありますが、それにしても、この元明の即位時の「大赦」は、ほかの大赦には記述されていない具体例が書かれています。曰く、「配所に送られる罪人のなかで、反逆罪に連座して流罪になったものでないもの」は罪をゆるすという記述です。これは、「配所に送られる罪人のなかで、反逆罪」の首謀者はその限りではないということになります。
 この「配所に送られる罪人」のなかに、柿本人麻呂の姿がみえてくるのではないでしょうか。
 元明即位宣言の九ヶ月後の続日本紀の記述──。

(和銅元年=708年)四月二十日 従四位下の柿本朝臣佐留が卒した。

 人麻呂はたとえば大津皇子のように、「皇子大津の謀叛が発覚して、皇子を逮捕」、翌日「皇子大津に訳語田[おさだ]の舎[いえ]で死を賜った」(『日本書紀』持統称制年=686年10月)などと記されることはありませんでした。心情的天皇主義者である人麻呂にとって、天皇=大王への「謀叛」という意識は微塵もなかったのではないかと想像されます。その意味で、皇子大津もまた、持統の非情の皇統守護の措置の犠牲者でした。
 人麻呂がもし「謀叛」の情を抱いていたとすれば、それは、天皇へのそれというよりも、天皇を取り込み私物化せんとする不比等(たち)への私憤に近いものだったかもしれません。元明は文武の不比等讃歌の「遺勅」を継いで、人麻呂ではなく不比等に加担しただろうことはいうまでもありません。元明の即位宣言は、自身を「神として思う」と、「わが大王」文武もつかわなかった自己=「神」認識が記録されています。この即位宣言を人麻呂が獄中で耳にしたかどうかはわかりません。
 人麻呂の悲劇は、文武の死とともにやってきたわけですが、その遠因まで探ってみますと、かなり早く、つまり持統の天皇即位の時点にまでさかのぼる可能性があります。人麻呂が持統─不比等の国家構想の暗部に気づいたとき、そのときはもう目の前に水底の運命が待っていたというべきかもしれません。
 ちなみに、野津龍『隠岐島の伝説』(鳥取大学教育学部)によりますと、人麻呂の子・躬都良[みつら]は、大津皇子の事件に連座して、隠岐島に配流処分となったと記されています。躬都良は二年後そこで亡くなり、彼の恋仲であった島の娘=比等那姫の手によって、躬都良の遺骨は飛鳥の柿本邸に届けられ、その後、彼女は若狭で八百比丘尼と呼ばれる尼となったそうです。
 この伝承を信じますと、人麻呂の先に躬都良は亡くなっていることになります。人麻呂はかつて、亡き妻へ手向ける、「吾妹子が形見に置ける緑児」ということばをふくむ挽歌も残していましたが(『万葉集』213)、この「形見」の「緑児」が躬都良だったのかもしれません。
 人麻呂は躬都良の運命をなぞるようにして山陰の海へ向かったことになります。

727 見落とし ピンクのトカゲ 2003/05/12 12:14

文武から元明への譲位
こんなもんがまかり通れば、天皇の母は即位できることになり、聖武からその母なんていうことも危惧したのかもしれませんね。
実際には、元明と聖武の中継ぎとして、元正が即位し、聖武からその母の即位は、実現しませんでしたが、

728 見落としの補足(人麻呂考2−大津皇子事件など) ピンクのトカゲ 2003/05/14 17:27

子から母への即位(譲位)、こんなもんがまかり通れば、聖武からその母へ何ていう即位もありえるわけです。
聖武の母=不比等の娘・宮子です。当然皇女でもなんでもありません。
熱烈な皇統主義者=人麻呂が、反対した一番の理由はこれであったでしょうし、これにより不比等=春宮・聖武の外祖父と決定的な溝ができた。
実際には、元明から聖武へは、元正(文武の姉)という中継ぎがあったものの皇位は継承され、聖武からその母への譲位というのは、実現しませんでした。
宮子が亡くなるのが、天平勝宝六(七五四)年七月、聖武が娘の考謙(称徳)に譲位するのが、その五年前の天平勝宝元(七四九)年七月、聖武が亡くなるのが、宮子が亡くなった二年後の天平勝宝八(七五六)年五月でした。
しかし、聖武から宮子への譲位はなかったものの、長屋王の変(七二九年)の後には、不比等の娘・光明子が皇后になります。
聖武には、称徳という娘以外にも安積親王という男子がいましたが、天平一六(七四四)年に一七才の若さで急死しています。
この安積親王の死については、暗殺説があります。
先ほど話したように、長屋王の死とともに既に、不比等の娘・光明子は、既に皇后になっています。聖武の叔母・元正上皇は、安積擁立を画策し、聖武が、これ以上、藤原氏に取り込まれないよう難波遷都をします。
安積親王は、このときに死んでいるのです。藤原氏にとって、あまりにも都合のよい死ということになります。

持統と人麻呂の距離についてですが、人麻呂は、持統四(六九〇)年二月の吉野行幸に随行し
「見れど飽かぬ 吉野の河の常滑の 絶ゆることなく またかへりみむ」の歌を残しています。

伊勢行幸の前年の八月一三日には、大三輪氏をはじめとする一八氏の墓記の提出を命じ、雄略〜天智までの書紀の編纂が命じられています。
人麻呂と持統の蜜月関係に終止符を打った一つの出来事が、書紀の編纂開始だったといえるかと思います。
もう一つ不比等との三角関係?からあげれば、この書紀編纂開始の三月後にはじめられる藤原宮の造営でしょうか。
藤原の姓は、不比等の父・鎌足が死ぬ前日の天智八(六六九)年一〇月一五日に賜ったと書紀には、記載されます。
不比等の姓の藤原の名を持つ藤原宮、この藤原が単なる地名に由来するものだとしても、文武二(六九八)年八月一九日に鎌足の子・不比等以外に藤原の姓を名乗ることが禁じられていることを考えれば、藤原宮とは、レニングラード等と同じく、不比等を記念した建造物ということになります。
藤原宮(不比等宮といってもいいが)の造営が開始された翌年の伊勢行幸には、人麻呂は随行せず、そして、不比等以外に藤原の姓を名乗ることが禁じられた二年後の文武四(七〇〇)年四月に死亡する明日香皇女の挽歌を残した後、持統最晩年の三河行幸には付随せず、持統の挽歌も残していません。
『藤原姓』、『藤原宮』を廻って人麻呂、不比等、持統の三人の力関係が、変わったことを示しているように思います。

さて、持統即位のいきさつについてもう一度整理してみます。
朱鳥元(六八六)年九月九日、天武が亡くなります。書紀は、天武が亡くなると持統が直ちに政務を取ったと記します。
そして、同年一〇月二日に大津皇子の謀反が発覚し、翌日には、大津は死を賜ります。
大津は、持統の同父母姉の子です。いわば、持統の息子・草壁とは、血統的には、同等なわけです。
そして、大津については、書紀天武一二(六八三)年二月一日に初めて朝政を執ったとする記事が載っています。一方、草壁については、天武一〇年二月、皇太子になったと記されています。
大津と草壁は、皇位継承という競争の中で完全なライバル関係にあったといえます。

大津謀反について、書紀は、謀反が発覚しとだけ記載され、その詳しい内容や何故謀反が露呈したかについては書かれていません。また、大津に「欺かれた」八口音橿、壱岐博徳、中臣臣麻呂、巨勢多益須、行心(新羅の僧侶)、礪杵道作ら三〇人を逮捕したとしています。
伊豆に流された礪杵道作は、帳内(とねり)と記載されていますから大津に仕えていたと考えられます。また、礪杵(とき)の名から美濃国礪杵郡(現岐阜県土岐市)の国造系の出自かといわれています。
そして、大津に欺かれたのだから止むを得ないとし、礪杵道作を伊豆に流し、新羅の僧侶・行心は、大津に与したが、忍びないから飛騨の寺に移せとされています。
「懐風藻」には、新羅の僧・行心について天文卜占を能くし、大津に天下を取る骨相だと進言し、大津が謀反に及んだとしています。
また、「懐風藻」には、川嶋がはじめ大津に与んで契りを結んだことから大津が立ったが、川嶋が密告したため事態は急変した旨が書かれています。
また、続日本紀天平一九(七四七)年一〇月三日条に御方大野が姓を授かりたいと願い出たが、許されなかったと記載しています。その理由として御方大野の父は、天武の時代に皇子として連なっていたが、微かな過ちにより皇子の列から除かれたという記載があります。
この「天武の時代に皇子として連なっていたが、微かな過ちにより皇子の列から除かれた」というのは、大津事件に連座したものだという解釈もあります。
この解釈からいえば、書紀の大津事件の「礪杵道作を伊豆に流し、新羅の僧侶・行心を飛騨の寺に移した」とする記述のほかに、皇子の列から除かれた皇子もいたということになります。

大津事件については、謀反発覚のタイミング及び書紀に書けない事情、つまり、持統が草壁擁立するためにでっちあげたものと、考えられます。
しかし、持統が大津事件をでっちあげ、大津を葬り去ったにも関らず、肝腎の草壁は、天武の葬送を終えた持統二(六八八)年一一月一一日の翌年の四月一三日に亡くなってしまいます。
そして、持統は、持統四年一月一日に即位し、「懐風藻」が大津謀反の密告をしたとする川嶋が、持統即位の翌年の天武の命日に死んだことについては、単なる偶然とは思えません。
天武が亡くなってから持統が即位するまでの三年余りの間は、持統が息子・草壁擁立と、草壁の死により自らが即位しなければならなくなった下地を作る期間だったといえます。
そして、その準備が整い持統が即位するとともに、人麻呂と持統の関係は、不比等と持統との関係に比べ、溝ができた。

729 人麻呂と瀬織津姫 風琳堂主人 2003/05/17 10:01

 持統五年(691)九月九日の川嶋皇子の死ですが、懐風藻の記述にあるように、持統による大津皇子謀殺の口封じという疑いが濃厚です。また、この川嶋の死の記述の前後を書紀にみますと、同年八月十三日、有力豪族十八氏の「墓記」を上進させるということと、同年十月一日に新益京=藤原京の地鎮祭、そして、同年十一月一日の大嘗祭(持統の天皇霊憑依の儀式)の記述が並んでいて、持統の新国家体制が新京とともに稼動しようとしていることが読み取れます。
 草壁が皇太子となることを保証する儀式として「吉野盟約」(天武五年=679年)があります。ここに参加して「盟約」を結んでいた面々は、天武を筆頭に、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子、忍壁皇子、芝基皇子、そして天武皇后=持統でした。この吉野盟約において、天武は、「自分は、今日、お前たちと共に朝廷で盟約し、千年の後まで、継承の争いを起こすことのないように図りたいと思うがどうか」と切り出します。皇子たちは「ごもっとも」と応えたあと、草壁によって、「われら兄弟長幼合せて十余人は、それぞれ母を異にしておりますが、同母であろうとなかろうと、天皇のお言葉に従って、助け合って争いは致しますまい」と宣誓がなされ、ほかの五人の皇子も同様に誓ったとされます。また、皇后=持統も「同じように誓いのことばを述べられた」とされ、ここに「千年の後まで、継承の争い」は起こさないことが誓われたわけです。天武はこの盟約の成就によほど感激したのか、「淑[よ]き人のよしとよく見てよしと言ひし芳野よく見よよき人よく見つ」という歌を残しています(『万葉集』27)。
 この吉野盟約の合意に基づいて、草壁が皇太子の座につくのが天武十年=681年2月25日のことです。また、この皇位継承権の順位の表れは、天武十四年=685年1月21日の叙位にもみることができます。曰く、「草壁皇子尊に浄広一位を授けられた。大津皇子に浄広二位を授けられた。高市皇子に浄広二位を授けられた。川嶋皇子、忍壁皇子に浄大[広か]三位を授けられた」──。これは、皇位継承の順番を、草壁→大津→高市→川嶋・忍壁だと公言したことと同じでした。
 天武は、この叙位の年=685年9月10日には、伊勢神宮の謎の式年遷宮の制を「宿願」によって定めてもいます(『異本太神宮諸雑事記』)。そのちょうど一年後になる686年9月9日に天武はこの世を去ります。
 持統紀によりますと、天武の死後、大津の皇太子=草壁への「謀反」の発覚は、686年10月2日と記されていますが、大津が持統によって謀殺されていることを事実としますと、ここには、持統の子=草壁の皇位継承にからむ持統自身の暗鬼の焦燥があったのでしょう。背景に、皇位継承者として、草壁よりも大津の信望が上位にあったというのがなかば定説です。また、書紀には、大津謀反を記録することで、吉野盟約を反故にしたのは大津であるとする意図もあったのかもしれません。
 持統による、謀反の審議なき大津への処断=死は、草壁を含む他皇子たち、および、大津をかつごうとした旧豪族たちの心胆を震え上がらせるに余りある行為でした。
 草壁の煩悶は天武の国忌→葬送の期間、おそらくずっと続いていたものだろうと考えられます。天武を大内陵にやっと葬った688年11月の翌年=689年4月13日、草壁はその死の理由を書かれることなく、「十三日、皇太子草壁皇子尊が薨去された」とのみ記されます。
 本来ですと、吉野盟約における皇位継承の順位からすれば、草壁そして大津亡きあと、天皇位を継ぐのは高市皇子のはずでしたが、それを敢然と無視するかたちで皇位についてしまったのが天武皇后=持統その人でした。これは、持統による、吉野盟約の破棄ということも意味していました。藤原不比等が刑部省の判事として記録されるのは、この草壁の死の年で、また、草壁の愛用の刀(黒作懸佩 [くろづくりかけはぎ] 刀)が草壁の死の床で不比等に手渡されることからも、すでに、皇室の側近的な存在としての不比等の姿が浮かびあがってきます。黒作懸佩刀が不比等に渡されることに持統が立ち会ったことは当然と考えてよいでしょう。
 上田正昭『藤原不比等』によりますと、この黒作懸佩刀は、のちに文武が即位するときには不比等から文武に手渡され、文武が亡くなるとまた不比等の手へ、さらに聖武へと手渡されるという、影の「神器」の感さえある刀です。
 草壁亡きあと、皇位継承の影の認定権はさながら不比等の手にあるということを象徴しているのが、この草壁の愛刀です。天武の悲願でもあった吉野盟約の実質的な反故者は持統でしたが、その裏に、不比等との密契が持統との間で結ばれていたことが考えられます。持統は草壁亡きあと、文武の擁立まで、また擁立後も太上天皇として、稀にみる独裁女帝を演じることになります(不比等は大宝律令に太上天皇の制を明文化します)。
 持統の初期吉野行に随行していた柿本人麻呂は、持統のこの変貌ぶりをその眼につぶさに焼き付けていたことが考えられます。人麻呂の宮廷歌人という職掌は、正確には、所属は雅楽寮であったとみるべきですが、要するに人麻呂は歌の芸をもった宮仕え人でした。したがって、わたしたちが人麻呂の万葉集の公的な歌を読むとき、彼は自由な一歌人として歌っているのではないということも押さえておく必要があります。ただし、人麻呂の根には自由な歌人[うたびと]というコアの部分がありますので、単純な御用歌人でもありませんでした。
 石見国風土記逸文は、人麻呂には二度の配流があったという伝承を載せています。一度めは持統在位のとき、二度めは文武在位のときです。配流先は、最初は「四国の地」、二度めは「東河の地」(東国)ということらしいですが、逸文はまた、人麻呂の子・躬都良は「隠岐島に流されて配所で死去した」とも記していました。人麻呂の配流→終焉の地は石見国というのが定説ですから、ここには伝承の錯綜があります。逸文の出典とされる『詞林釆葉抄』は中世の万葉集の註解書で、人麻呂の時代からするとはるか後年の作ですから、人麻呂伝承はまさに人麻呂「伝説」として一人歩きしている姿がここにはあります。
 隠岐島に伝わる伝承においては、躬都良は大津事件に連座して配流となったと伝えていました。この伝承と、風土記逸文の伝承を合わせてみますと、躬都良の父である人麻呂が、持統による大津処断のとき、無疵ですんだとはおもえず、それが第一回の軽い配流という伝承が語っていることなのかもしれません。しかし、大津事件(686年10月)のあと、689年4月に亡くなった草壁への、人麻呂の挽歌が残されていますので、たとえ人麻呂の配流があったとしても、それは軽微なものか、あるいはなかったと考えるほうがむしろ妥当です。書紀は持統の「勅」として、「皇子大津は謀叛を企てた。これに欺かれた官吏や舎人は止むを得なかった」「従者で皇子に従った者は、みな赦す」と大津外には妙に寛大な記述があります。持統にとっては、大津一人の抹殺が目的だったはずで、それが済めば、あとは余分な怨嗟は無化しておくといった意図がここにはあります。
 持統の奇異な寛大な処置ではありましたが、人麻呂がこの大津事件をどうみていたかはまた別のことです。人麻呂は職務として草壁挽歌を歌いますが、この時期、人麻呂としては、珍しいほどに「己」を表に出した歌も残していました。

■柿本朝臣人麻呂の歌集の歌に曰く
葦原の 水穂の国は 神ながら 言挙[ことあげ]せぬ国 しかれども 言挙ぞわがする 言幸[ことさき]く まさきくませと つつみなく さきくいまさば 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重波にしき 言挙す吾は 言挙す吾は(『万葉集』3253)
 反歌
しき島の日本[やまと]の国は言霊のさきはふ国ぞまさきくありこそ(同3254)

 長歌と反歌がセットとなっているものは、その作歌時期は「持統五年」までのものという万葉集研究があるそうです(大西俊輝『柿本人麻呂とその子躬都良』)。としますと、この歌は持統五年=691年までの作歌とみてよいとなります。ただ、この人麻呂の「言挙」の歌がどのような場面で、いつ歌われたものかは正確にはわかりません。しかし、人麻呂の歌は一回性のものではなく、共感した者によって、なんども繰り返し歌われるものとしてありますから、わたしは、686年10月の大津事件の時期も持統五年までのことですから、ここにはなんらかの呼応する歌の響きがあると考えます。これほど、激情の歌言葉を言挙げしたものは、人麻呂歌にほかに類例がないのではないかとおもいます。「神代の昔から、水穂の国=日本は、言葉は神のものだったが、しかし、その神の言葉をわたしはあえて歌うのだ」といった強い意志表示の歌です。
 いつの時点かはわかりませんけど、持統あるいは藤原不比等が、もしこの歌を耳にして、それが人麻呂作だということを知ったとしたら、彼らの心中に波立たないはずはなかったと想像されます。
 万葉集の編者は、この歌を「相聞」に分類していますので、漫然と読み流せば、遠い恋人への強い恋心の自己表示とも読めないわけではありませんが、それにしては色恋の艶はまったく感じられない歌です。恋の感情とは異質な激情が、「言挙す吾は 言挙す吾は」のリフレーンです。
 人麻呂は、直接的な挽歌ではありませんが、持統によって大津皇子謀殺に利用され、最後は謎の死を遂げた川嶋(河嶋)皇子に関する歌も残しています。タイトルは「柿本朝臣人麻呂、伯瀬部皇女忍坂部皇子に献れる歌」とされますが、編者は歌の後注で、「右は、或る本に曰く、河嶋皇子を越知野に葬りし時、伯瀬部皇女に献れる歌なりといへり」と明かしています。歌の内容は、川嶋に先立たれた伯瀬部皇女の無念の心中を思いやるといったものです。万葉集の編者は、この歌を、草壁挽歌と明日香皇女挽歌・高市皇子挽歌の間においていますので、一連の挽歌群の一歌とみなしていたことがわかります。
 これら草壁・高市・川嶋、つまり吉野盟約に加わった六人の皇子のうちの三人への挽歌の並列は、そのまま天武の悲願、つまり、これから「千年」後までも皇位継承で兄弟が争うことがないようにという、天武の自責を込めた願いの「死」への挽歌でもあったことになります。
 吉野盟約という天武の悲願を実質的に反故にしたのが持統でした。彼女への挽歌を人麻呂が歌わなかったのは、これは人麻呂の意志ではありません。彼は宮仕えの人間ですから、自分の自由意志で歌ったり歌わなかったりする立場ではありませんから、持統挽歌を人麻呂に歌わないようにした、させた人間を考えてみるとき、そこに浮かび上がってくるのは、藤原不比等以外に存在しません。つまり、人麻呂に、持統挽歌を歌わせないようにする、そういった力を行使できる人間は、持統の遺言でもあれば別ですが、生きている人間として、その可能性のある人物はただ一人しか存在しないだろうということです。
 草壁の死と持統の死によって、皇位継承の鍵をにぎる側近中の側近として、不比等という存在はあります。後年、文武から元明へと天皇位の引継ぎ時に、天武の「吉野盟約」は天智の「不改常典」に置き換わります。人麻呂に、天武の吉野盟約を是とする認識があったことが、盟約の三皇子への挽歌を優れた歌に昇華させている理由だとみますと、元明即位時の不改常典の言挙げの作為性をもっともよく知っていた一人が人麻呂でもありました。
 しかし、もし吉野盟約に一点の曖昧性があったとすれば、それは、皇位継承者のトップが早折したとき、そして彼に子がある場合、皇位継承をどうするかということが、盟約条項に入れられていなかったことです。
 この皇位継承の方法を根本的に曖昧化した上で、兄弟が争わないことをそれぞれ誓ったとしても、それがたとえ「千年」の誓いというロマン性をもっていたとしても、原理的には一回限りの「盟約」にならざるをえなかったといえます。
 草壁亡きあと、この曖昧性を根拠に、直系の子の皇位継承路線を強引に敷設したのが持統でした。他皇子および旧天武派の豪族たちは、おそらく有徳の強い皇子が皇位を継ぐという理解だったはずで、そのことを半分は認めていたゆえに、持統は有望の第二皇位継承者=大津を、天武の死とほぼ同時に強引に処断するという行為に出たものとおもいます。
 持統が草壁─文武という皇位の直系継承を正当化しようとするとき、おそらく、いわゆる「万世一系」の思想を「言葉」として具体化する必要を感じたはずです。いいかえれば、「万世一系」を保証するのは「人」であってはならず、皇位を授与することができる「神」が創造される必要がありました。その神の名の元に保証されているのが草壁─文武の「皇統」であるという考えです。この持統の思惑あるいは要請を引き受けた者が不比等でした。
 不比等は、この皇統継続のために自身が実質的な天皇としてふるまう持統のために、その正当性を保証するために「太上天皇」という立場を用意します。これは、実態としては二重天皇制というべきものでしたが、文武の夭折=死のあと、聖武即位のための中継ぎの女帝=元明によって表明されるのが、天智によって定められていたとされる「不改常典」でした。
 しかし、文武のあと聖武が皇位に立つためには、もう一人の中継ぎ女帝を必要としていました。文武の姉=元正女帝です。文武に持統の太上天皇の影がかぶさっていたように、元正にも元明の影がかぶさり、そして悲願の聖武即位となります。ここで「悲願」というのは、持統・元明・元正たち女帝の悲願であった直系皇位の実現という意味と、不比等の孫でもあった聖武の天皇即位の実現という二重の意味があります。
 714年2月、元明は、「国史選修」の命を下しています。これは、712年に実験的に創作・選修された『古事記』への不満足がなさせたものでしょう。720年5月に、この「国史選修」は完成します(日本紀)。この初の国史によって、皇位は神代のときから連綿として現在にまで続いている「歴史」が創造され、一応完成します(原日本紀の完成)。
 皇位の連綿継続ということを保証するものとして日本書紀はありましたが、たとえば聖武即位の時点においては、この書紀の思想はまだ宮廷内外で普遍化されていなかったのでしょう。元正によって譲位された聖武の即位の詔には、ここでもまだ「不改常典」という言葉が使われているからです。
 吉野盟約に代わる不改常典の思想がどういうものか──少し複雑で長いですが、聖武の即位時の「勅」を読んでみます。

■聖武即位時の勅(宣命体)
(神亀元年=724年2月4日)現御神[あきつみかみ]として大八洲を統治する倭根子天皇(聖武)が大勅として仰せられるお言葉を、親王・諸王・諸臣・百官の人たちおよび天下の公民たちに、皆承れと申しのべる。
 高天原に神として留りおいでになる天皇の遠祖の男神・女神が、皇孫の統治すべき国として授けられたことに従い、高天原にはじまる四方の治めるべき国の政治を、いよいよ高くいよいよ広く、天日嗣として高御座[たかみくら]においでになって、大八嶋国を統治される倭根子天皇(元正)が大命として仰せられるには、「この統治すべき国は、口にするのも恐れ多い藤原宮に天下を統治された汝の父にあたる天皇(文武)が、汝に賜った天下の業である」と仰せられるお言葉を承り、恐懼していることを、皆承れと申しのべる。
「このように汝に天下をくだし賜うときに、汝親王の年齢は若かったので、汝には荷が重く堪えられないだろうと思われ、皇祖母にあたられる、口にするのも恐れ多いわが大王(元明天皇)に、天下の業を授けられた。これによって元明天皇は、この平城[なら]の大宮に、現御神として大八嶋国を統治されたが、霊亀元年に、この天日嗣の高御座の業と、天下統治の政を、朕に授け譲られ次のように教えられ勅された。『口にするのも恐れ多い淡海の大津宮に、天下を統治された倭根子天皇(天智)が、万世に改[かわ]ることがあってはならぬ常の典として、立てお敷きになった法に従い、ついにはわが子に確かにめでたくあやまつことなく授けよ』と仰せられた勅に従って、今にも授けようと思っていたところ、去年の九月、天地が賜った大瑞(白亀)が出現した。また四方の統治する国々では、穀物が豊かに実ったと知って、神の身として思ってみると、この大瑞は明らかに朕の世のために現されたものではないと思われる。それは今皇統を嗣ごうとされる皇太子の、御世の名(年号)として、皇太子の徳に応えて現れてきたものであるらしいと思う。そこで今、神亀の二文字を年号に定め、養老八年を改めて、神亀元年とし、天日嗣の高御座と、天下統治の業を、わが子である汝に授け譲る」と仰せになる天皇(元正)のお言葉を、朕は頭上に頂きかしこみ奉持し、御辞退を申し上げるのは恐れ多く〔後略〕(宇治谷孟訳)

 元正の譲位=授与によって即位した聖武でしたが、その即位過程に、元明の遺勅が色濃く影を落としていることがわかります。この「影」の具体が、「口にするのも恐れ多い淡海の大津宮に、天下を統治された倭根子天皇(天智)が、万世に改[かわ]ることがあってはならぬ常の典として、立てお敷きになった法」、つまり不改常典です。「万世に改[かわ]ることがあってはならぬ」という発想は、吉野盟約における千年の誓いと一見通ずるようにもみえますが、この不改常典は天武ではなく、「淡海の大津宮に、天下を統治された倭根子天皇(天智)」によって定められていたとされます。元正は元明の遺勅のままに、ただひたすら聖武に天皇位を引き継ぐために、天皇位を空白としないように努めてきた、それを聖武も承知しているゆえに、こういった入れ子構造の天皇位授与の過程が「勅」として述べられているのだとおもいます。
 また、勅の最初に天孫降臨の話が枕として使われていますので、ここにかすかに日本書紀の、あるいは大祓祝詞=中臣祓の影響をみることができるかもしれません。また、天孫に皇位を授与する神が、「高天原に神として留りおいでになる天皇の遠祖の男神・女神」という男女二神だとされていることにも注意しておく必要がありましょう。書紀にこの男女神をみようとすれば、男神=高皇産霊尊、女神=天照大神ということになりますが、この両神に投影されている天皇はだれかということを考えますと、これは容易に決することはむずかしいです。
 少なくとも、元明においては、不改常典の言挙げをみますと、女神は持統の投影だとしても、男神は天武ではなく、天智であったことが意識されていたとおもえます。元正および聖武にとってもそうだったかどうかはにわかに断定できませんが、遡って、柿本人麻呂の草壁挽歌をみますと、そこには、高皇産霊=高照神=天武、天照大神=天照日女=持統といった投影がみられます。
 草壁挽歌の背後には持統の眼が光っていて、人麻呂はその視線を背に受けながら挽歌を詠んでいます。人麻呂は草壁挽歌において、「天つ水仰ぎて待つに」、つまり寿命を伸ばす水=変若水[をちみず]を待っていたけど、それも虚しく草壁は「日月」の招きによって他界したと締めくくっていました(日月神が、黄泉神として歌われていることに、人麻呂の祭祀認識の片鱗が表れています)。
 人麻呂歌に川神=滝神=瀬織津姫の影をみようとしますと、これは持統の吉野行への随行歌に描かれていた、「川の神も大御食[おおみけ]に仕へまつる」といった、天皇の御代に奉仕する神として描かれていたのが始まりでした。いや、正確にいえば、その前の吉野行の随行歌における、「水激[みずたぎ]つ滝の宮処は見れど飽かぬかも」にみるべきかもしれません。
 瀬織津姫(たち)が伊勢祭祀において改竄されたあととおもえる、人麻呂の持統吉野行の随行歌を読んでみます。

■人麻呂と瀬織津姫の影
やすみしし わが大君 神ながら 神さびせすと 芳野川 たぎつ河内に 高殿を 高しりまして のぼり立ち 国見を為[せ]せば たたなはる 青垣山 山祇の 奉[まつ]る御調[みつき]と 春べは 花かざし持ち 秋立てば もみちかざせり ゆき副[そ]ふ 川の神も 大御食[おおみけ]に 仕へまつると 上つ瀬に 鵜川を立ち 下つ瀬に 小網[さで]さし渡す 山川も 依りて奉れる 神の御代かも
 反歌
山川もよりて奉れる神ながらたぎつ河内に船出するかも(『万葉集』38、39)

 この人麻呂の随行歌は、「やすみししわが大君」=天武への挽歌とも読めますが、しかし、持統吉野行への随行歌にしては持統讃歌がみられない奇妙な歌でもあります。ここには、天武亡きあとの持統の時代になって、山祇に「ゆき副[そ]ふ」川神も「大御食[おおみけ]に仕へまつる」ようになった、そんな「神の御代」となったのだなあという感慨が歌われています。反歌の意にしましても、持統の「船出」は「たぎつ河内」に向けてなされると、読みようによってはかなり暗示的な歌です。
 万葉集の編者でもあった大伴家持も、後年、吉野への随行歌をつくっています。

■大伴家持の吉野歌
み吉野の 芳野の宮は 山からし 貴くあらし 川からし 清[さや]けくあらし 天地と 長く久しく 万代に 変らずあらむ いでましの宮
 反歌
昔見し象[きさ]の小河を今見ればいよよ清[さや]けくなりにけるかも(『万葉集』315、316)

 吉野(宮)は、壬申の乱に参加した天武派豪族たちにとって、山は貴く聳え、川は清[さや]けく流れている絶対聖地だったのでしょう。
 家持はこの自身の吉野歌の直後に、なぜか富士山=不盡山の歌を二首配しています。一人は山部赤人の作とされる歌で、その反歌は「田児の浦ゆうち出[い]でて見れば真白にぞ不盡の高嶺に雪はふりける」というあまりにも有名な歌です。

■山部赤人の不盡讃歌
天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布土[ふじ]の高嶺を 天の原 ふり放[さ]け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不盡の高嶺は
 反歌
田児の浦ゆうち出[い]でて見れば真白にぞ不盡の高嶺に雪はふりける(『万葉集』317、318)

 長歌の方は、「渡る日の影も隠らひ照る月の光も見えず」と常闇のイメージの富士山です。その闇の富士=不盡に、「時じく」から「雪は降りける」ですから、この雪は赤人の心に映っている、いわば幻視の世界に降る雪です。反歌の「明」に対して、長歌の「暗」の対比は際立っています(赤人=人麻呂同人説については、ここでは深入りしません)。
 この闇の富士の次におかれた歌も読んでみます。

■高橋連虫麻呂の不盡讃歌
なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不盡の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も とびも上らず もゆる火を 雪もち消ち ふる雪を 火もち消ちつつ 言ひもえず 名づけも知らず 霊[くす]しくも います神かも 石花[せ]の海と 名づけてあるも その山の 包める海ぞ 不盡河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の やまとの国の 鎮[しづめ]とも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 不盡の高嶺は 見れど飽かぬかも(『万葉集』319)

 不盡=富士の霊神は「霊[くす]しくもいます神」とされ、「その山の水のたぎちぞ日の本のやまとの国の鎮[しづめ]ともいます神」とされています。
 家持が吉野歌の次にまず闇の富士の歌を配し、それに続けて、富士の霊神讃歌を配列している編集意図はなにかと考えますと、これは人麻呂の吉野歌にもみられた「たぎつ河内」への呼応を想定したくなってきます。富士の「水のたぎち」がこの国の「鎮[しづめ]ともいます神」だという認識は、わたしたちの瀬織津姫探求と強烈に関係してきます。
 人麻呂は、「巻向の痛足[あなし]の川ゆ往く水の絶ゆること無くまた反[かへ]り見む」(1100)、「往く川の過ぎにし人の手折らねばうらぶれ立てり三輪の檜原は」(1119)、「古の賢[さか]しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも」(1725)と、「川」に特別の思いを重ね、また、自身の人生を重ねる無常の感覚を歌っていた最初の歌人でもありました。
 人麻呂の吉野歌にみられる奉仕する神=川神という認識は、持統─不比等との関係が距離を広げるにつれ、川は「天の川」にも置き換わります。「ひさかたの天つ印と水無川[みなしがは]隔てて置きし神代し恨めし」(2007)、「天の川安の川原に定まりて神競[かむつきほひ]は時待たなくに」(2033)です。
 人麻呂の現実はしかし、歌人である前にまず官人でしたから、基本的に「世の中を背きし得」ぬと認識していたのかもしれません(210、213)。はるか後年=現代の宮仕え人=サラリーマンの悲哀にも通ずる心を、人麻呂がこの時代に早くも歌っていたのも驚きです。「巻向の山べとよみて行く水の水沫[みなわ]のごとし世の人吾は」(1269)──「世の人」という自己認識は、また大伴家持のそれでもあったでしょう。
 古代の藤原氏を中心にして繰り広げられる権力抗争(天皇あるいは皇太子の自陣への争奪戦)のなかで、人麻呂と家持は二重化されて悲劇の歌人となります。天平十六年=744年1月、不比等の孫にあたる藤原八束(房前の子)に謀殺(毒殺か)された可能性がある聖武の第二皇子=安積親王と家持は、親近の関係にありました。
 後年、人麻呂は「歌神」として絶対化されますが、この「神」としての人麻呂が習合するのは、十一面観音だったり(明石・柿本神社←月照院)、あげくは弁才天であったり(京都・吉祥院)、あるいは琵琶湖の竹生島明神などともされます(大西俊輝、前掲書)。これらの習合仏あるいは神が、瀬織津姫のそれと正確に対応していることは興味深いです。
 人麻呂と瀬織津姫の国史からの消去には、たしかに共通項があります。大伴家持もまたそうでしたし、平安期の菅原道真も加えてみることもできます。彼らに共通している受難の実相はなにかといいますと、それは「反藤原」思想に象徴される庶民の思いでしょうか。ここでいう庶民の思いというのは、現代ふうにいえば、自分たちのリーダーを選択できる権利が、先験的かつ先権的に奪われていること、そして、そこからやってくる生活的受難があり、心的拠り所である神=心の喪失という思いです。人麻呂の上記習合は、神の位相で、瀬織津姫と人麻呂に差はないと人々が受け取っていた心の深層をよく表しています。
 人麻呂の言挙げは、藤原思想と真っ向から抵触する可能性があり、その言挙げを受け継ぐ者にはいつも受難か死が用意されていました。その意味で、優れた歌の集積は、言挙げの「死」の集積でもありました。人麻呂にみられる「歌」の発生は、そのまま日本の「文学」の発生でもあります。言葉が、神から人へ降りてきたことを最初に体現せんとしていたのが人麻呂でしたが、この神の言葉が、いわゆる「言霊」でしょう。藤原思想による「神」の簒奪は、そのまま言葉=言霊の簒奪でもありました。
 中臣=藤原思想によって創られた「神」の言葉に異を唱える歌を残していた第二の歌人こそが、万葉集の編者でもあった大伴家持でした。曰く、「中臣の太祝詞[ふとのりとごと]言ひ祓へ贖[あがな]ふいのちも誰[た]がために汝[なれ]」(4031)──。犯した「罪」に対するに、最後の贖い物=代償は「いのち」だという脅迫宣言が中臣祓=藤原思想の根本にあります。この最後の贖いとしての「いのち」が、何に対する「罪」によって「死」と変じたものかが、最後の最後に問われるべきでしょう。

730 訂正と補足 風琳堂主人 2003/05/20 09:13

 前回、文中「大伴家持の吉野歌」は「大伴家持の父・大伴旅人の吉野歌」のまちがいでした。訂正します。以下は補足の話です。
 元明および聖武即位のときにみられた、天智時代から日嗣の「法」は定められているとされる「不改常典」について──。
 この「不改常典」は、天皇位の日嗣の「法」という性格でしたが、同様に、天智側近=宰相であった中臣鎌足=藤原鎌足にも、宰相=藤原氏の「日嗣」ともいうべき継承の「法」とみなされる「書」の存在があったようです。「しのびごとの書[ふみ]」というそうです。

■称徳女帝(孝謙女帝重祚)の「勅」
(天平神護二年=766年)春正月八日 天皇は次のように勅した(宣命体)。
 今、次のように仰せになる。口に出して申すのも恐れ多い近江の大津宮で、天下を統治された天皇(天智)の時代にお仕えした藤原大臣(鎌足)や、のちの藤原大臣(不比等)に天皇から賜っているしのびごとの書[ふみ](誄[るい]・死者の功績をたたえ、その霊を慰めることば)に、「藤原大臣の子孫の、浄く明るい心をもって朝廷にお仕え申し上げる者を、必ず相応に処遇しよう。その跡継ぎを絶えさせることはない」とのべられているので、いま藤原永手朝臣に右大臣の官を授けよう、と仰せになる天皇のお言葉を、みな承れと申しつげる。(『続日本紀』宇治谷孟訳)

 時代は不比等の孫の代となっていますが(永手は不比等の子=房前の子)、藤原氏の天皇側近の地位は不動だといわんばかりの「勅」の内容です。この天智が「賜」ったとされる、「藤原大臣の子孫の、浄く明るい心をもって朝廷にお仕え申し上げる者を、必ず相応に処遇しよう。その跡継ぎを絶えさせることはない」という「しのびごとの書」の言葉には、「万世に改[かわ]ることがあってはならぬ常の典」=「不改常典」、つまり(天智)直系の子を皇位継承者とする「法」との類縁性が顕著です。これら二つの「書」「典」は、天智と鎌足、いいかえれば、天智皇統と宰相=藤原一族という絶対関係の密約書あるいは密契の「言葉」ともみることができます。
 孝謙=称徳という女帝は、聖武から譲位されたあと、橘奈良麻呂の乱(757年)を内相=藤原仲麻呂とともに鎮定したかとおもえば、その後、仲麻呂にだまされていた、仲麻呂は逆臣であったと、今度は仲麻呂を滅ぼすというように、すさまじい振幅を生きた女帝でした。しかし、たとえ藤原仲麻呂(不比等の子=武智麻呂の子)を滅ぼしたとしても(764年)、それで藤原氏との関係が断絶したわけでないことは、引用の永手の右大臣任命の「勅」に端的に表れています。
 ところで、称徳によって右大臣に任命された藤原永手ですが、彼のこの厚遇の理由を尋ねますと、やはり橘奈良麻呂の乱にまで遡るものかもしれません。この乱の関係者が捕縛されたあと、「天皇はさらに中納言藤原永手らを遣わして(小野)東人らをきつく尋問させた」とありますように、永手は、天皇と仲麻呂に代わって、奈良麻呂以下「乱」の関係者を直接に尋問・自白させ、また獄死させていた張本人でもありました。
 持統の大津皇子の処断は、皇子大津の「謀叛」の動機等を明かすことなく、即「死」が与えられていました。この持統─大津の例と比較しますと、孝謙紀は、奈良麻呂の「謀叛」の動機等がかなり細かく記されていて、書紀・続日本紀を通して、かなり異例な記述だといえます。このあからさまな記述を残したのは、続日本紀の編纂・創作者にとって、孝謙=称徳が、道鏡問題ともからみますが、畏怖崇敬の対象外の天皇だったという事情があるゆえかとおもいます。
 橘奈良麻呂はなぜ「謀叛」を計画したのか──この理由を、続日本紀(あるいは永手の尋問)は、次のように語っていました。

■奈良麻呂の「謀叛」の動機
【佐伯全成の証言】(聖武時代に遡って、「奈良麻呂が言うには」)「黄文王を立てて人民の希望にこたえたい。大伴・佐伯の一族がこの挙に同調すればまさに無敵であろう。近頃、天下は人民が憂い苦しんでいる。都が転々とするために住所も定まらず、道路には生活に苦しむ者の泣き叫ぶ声がたえず、恨みなげく声はまことに多い。こうした事情だからよく相談して謀れば、事はきっと成功するであろう」
「いま天下の政治は乱れて、人心は落ちつくことがない。若し他氏(藤原氏…引用者)が王を立てることがあれば、わが一族はなすこともなく滅亡するであろう。私の願いは、大伴・佐伯の両宿禰の人々を率い、黄文王を立て次の天皇とし、他氏に先んじて万世を支配する基を築くことである」

 続日本紀は、この「尋問が終わった後、全成は自ら首を吊って死んだ」としています。全成の証言によれば、奈良麻呂の「動機」は、人民の憂い苦しみがあること、藤原氏の手によって天皇が立てられることは橘氏の滅亡につながるという危機意識に要約されるでしょう。
 ここで、奈良麻呂自身の「言葉」を読んでみます。引用の「勅使」は藤原永手と読んでよいとおもいます。

■奈良麻呂の「謀叛」の動機と沈黙
 勅使はまた奈良麻呂に尋問した。「謀叛の企てはなぜ起こしたのか」と。答えて「内相(藤原仲麻呂)の政治は、はなはだ無道のことが多い。それでまず兵をあげ、天皇(孝謙天皇)の許しを乞い、彼(仲麻呂)を捕らえ、それから事情を申し上げようとしたのだ」と。勅使はまた尋ねた。「政治に無道が多いというのは、どういうことを指すのか」と。答えて「東大寺の造営で、人民はつらい苦しみをうけた。朝廷に仕えるもろもろの氏人たちも、またこれを憂慮した。また奈羅(平城京と山背との境)に?[せき]を置いたことも、すでに人民の苦労のたねになっている」と。勅使が尋ねた。「言うところの氏人たちとは、どの氏人を指すのか。また東大寺を造るということは汝の父(橘諸兄)の時から始まっている。いまお前は人民が苦労していると言うが、子であるお前の言葉としては不適当ではないか」と。こう追及されて奈良麻呂は、言葉に窮し屈服した。

 奈良麻呂は、藤原仲麻呂の「政治の無道」による人民の苦しみを天皇=孝謙に「申し上げよとしたのだ」と述べています。しかし勅使は、仲麻呂の「政治の無道」を、天皇の「政治の無道」にスライドさせ奈良麻呂を追い詰めていきます。最後の奈良麻呂の沈黙(「言葉に窮し屈服した」)には、おそらく二つの意味が込められています。一つは、奈良麻呂に同調する「朝廷に仕えるもろもろの氏人たち」の名を明かせば「死」の犠牲者が増えるから黙るしかないということ、もう一つは、「子であるお前の言葉としては不適当ではないか」という追及に対する反論の言葉の無さです。後者は、天皇の「子」である「お前」が、天皇=親をさしおいて、人民=子の心配をするというのは越権=不敬ではないかという糾問に対する沈黙です。
 奈良麻呂のこの「言葉」の喪失は、藤原天皇体制に「言挙げ」(人麻呂)することの困難性をよく象徴しています。
 奈良麻呂の乱の類型を近代にみれば、二・二六事件が該当するかとおもいます。死にゆく奈良麻呂の心情と青年将校の心情は、おそらく等価な不条理に直面していたことが想像できるわけです。時代をここまで飛ばさずにみるなら、この不条理の大きな力と対峙せざるをえなかった、アテルイと田村麻呂に象徴される古代東北戦争があります。アテルイとモレの投降と死は、多くの蝦夷同胞を救いましたが、これも藤原天皇体制との大きな戦いだったとみることができます。桓武時代初期の左大臣は藤原魚名、右大臣は藤原田麻呂、その後、右大臣は、藤原是公→藤原継縄と、藤原氏の策謀的擁立によって誕生したのが桓武天皇でした。この藤原天皇体制の一瞬の衰退・空隙に武人=田村麻呂の存在は大きく浮上してきますが、東北征討が桓武の死とともに一段落すると、ふたたび右大臣に名を連ねるのが藤原氏=藤原内麻呂(不比等のひ孫)です。
 文武・聖武ともに不比等の娘を皇后としていましたが、桓武にいたっては、藤原氏は三人の娘をあて、そのうちの一人=乙牟漏(宇合の孫)が桓武皇后となります(→平城・嵯峨を産む)。
 皇統の「血」の濃度を追っていきますと、天皇という表の顔の内側には、藤原氏の血肉が透けてみえてくるようです。あの持統─不比等、あるいは天智─鎌足の密契による、藤原天皇体制をさらに裏で支えるもう一つの闇の氏族が、藤原氏の根に位置する中臣氏です。
 この中臣=藤原思想の暗部に気づいた天皇は、必ず不遇の場に追いやられるのは、花山天皇がよく象徴していますが、あるいは桓武の子・平城もまたそうだったかもしれません。万葉集が、なぜ平城の代に陽の目をみるように成立したかという問題が、ここにはあります。万葉集の編者・大伴家持の「骨」は、藤原種継暗殺事件(785年)に連座して隠岐島に流罪となっていましたが、このとき、万葉集もまた「流罪」となっていたのかもしれません。家持の「骨」が帰京し、家持が「勅により従三位に復する」とされる大同元年=806年3月17日は、平城が即位した日付でもあります。つまり、平城は自身が即位すると同時に、大伴家持の復権を行っています。中臣祭祀への鬱憤表明の書である『古語拾遺』(斎部広成)が成ったのも平城の時代であり(大同二年=807年2月13日)、平城天皇と藤原=中臣思想との「距離」は、ことのほか大きいとみるしかありません。

731 熊野神としての瀬織津姫 風琳堂主人 2003/06/02 12:07

 ようやく「長」の出稼ぎ仕事から遠野へもどりましたら、あまりのタイミングで地震の出迎えを受けました(5月26日18時24分)。
 様子うかがいやお見舞いをいただいた方もあり、あらためてお礼申し上げます。ニュースが伝えているように、地震の大きさにしては被害がとても少なかったのはさいわいでした。
 遠野盆地は巨大岩座の上に載っているような地形で、元来地震には強い地だそうですが、それでもかつてない揺れだったというのは、みなが口をそろえての感想です。「まんずびっくりしたナス」です。
 前回の地震のときは、机の後ろの書棚の上から「独眼竜政宗」の酒瓶が落ちてきて肩にあたりましたので、今回は地震と同時に後ろの書棚の上の「南部鉄瓶」などを押さえるために立ち上がったところ(「独眼竜政宗」は先回処分)、そこへ特に大きい揺れがきて、まったく動けない状態でした。立って棚を押さえているというのが精一杯で、部屋のなかでは、机が踊りだすは、コピー機が揺れながら1メートル近く移動するやら、皿やグラスがあれよあれよという間に割れるはで、こういった激しい揺れは、わたしも初めての経験でした。
 地震が落ちついたところでテレビをつけてみていましたが、遠野の隣の大迫町(先回の地震の震源地)や宮守村、住田町の情報はテレビに映るも、遠野の情報はちっともみえてきません。遠野は市制をかろうじて保っていますが、情報発信の空白地帯であるのは昔も今も変わらないのかもしれません。あとで聞いたところでは、市庁舎の壁が落ちたとか、町の中央部では水道管が破裂して断水となっていたようです。千葉家曲り家では地割れがあったとも、墓石はほとんどが向きを変えたり倒れたりなどという話も耳にはいってきます。
 地震被害をこまかく確認したわけではありませんけど、地震三日目の現在の話ですが、少なくとも遠野に関しては(も)、特に深刻な被害はなかったようです。現在、これをメモしている最中にも余震があったり、地震翌日の震度4の余震を含めて、有感余震だけでもかなりの回数です。

 今回の震源部にもっとも近い陸地が唐桑半島(宮城県)かとおもいますが、ここは、養老二年=718年、瀬織津姫が「熊野本宮神」として上陸した地でもあります。同半島(舞根地区)には、その名も瀬織津姫神社が鎮座しています。
 熊野本宮神は、この唐桑半島から、室根山(895m)へとまつられますが、現在の室根神社の本宮神は伊弉冉命と、瀬織津姫の神名はここでも消えています。しかし、室根村のホームページは、この瀬織津姫消去の不思議には深入りしていませんけど、次のような室根神社の祭祀伝承を「記録」として載せています。

■熊野本宮神としての瀬織津姫
 室根神社に、本宮、新宮の2社あり、本宮は伊弉冉命、新宮には、速玉男命と事解男命を祀っています。
 本宮は、養老2年(718年)鎮守府将軍大野東人が、熊野神の分霊を迎えたのが起源で、いまから1281年前のことです。(新宮は正和二年=1313年、陸奥国守護・葛西晴信の勧請…引用者)
 大野東人は鎮守府将軍として宮城県多賀城にあって、中央政権に服しない蝦夷(関東以北に住んでいた先住民)征討の任についていました。
しかし、蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征服することができなかったので、神の加護を頼ろうと、当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁郡本宮村の熊野神をこの地に迎えることを元正天皇に願出ました。
 東北地方の国土開発に関心の深かった元正天皇はこの願いを入れ、蝦夷降伏の祈願所として東北の地に熊野神の分霊を祀ることを紀伊の国造や県主に命じました。
 天皇の命令を受けた紀伊国名草藤原の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴と、その臣岩渕備後以下数百人は、熊野神の御神霊を奉じてこれを守り、紀州から船団を組み4月19日に船出し、南海、東海、常陸の海を越え陸奥の国へと北航し、5ヵ月間もかかって9月9日に本吉郡唐桑村細浦(今の鮪立)につきました。
 この時、仮宮を建て熊野本宮神を安置しました。それがいまの舞根神社(瀬織津姫神社)です。(室根村HP)

 瀬織津姫は熊野・那智(の滝)神でしたが、この室根神社の伝承では、さらに「熊野本宮神」でもあることになります。養老二年=718年の時点では、のちの熊野三宮にみられるような分祭、そして別々の主祭神をあてる形は成立していなかったことが考えられ、そこには異質細分化される前の「熊野大神」が存在するのみだったとおもいます。
 室根神社のこの「記録」から読み取れることの一つは、当時、朝廷サイドには、タケミカヅチ=鹿島神を異敵征服の最重要、最強力な神とする記紀の発想がまったくなかったということです。これは常陸国風土記においてもそうでしたが、養老二年=718年の時点を考えますと、日本書紀はまだ編纂・創作の途中で、書紀の思想が各地の神社祭祀あるいは社史・誌の表記に影響を及ぼす前だということをよく表しています。書紀の平定神話に記される、最後のまつろわぬ異敵神・星神=香々背男などの討伐に狩り出される鹿島神=タケミカヅチやタケハヅチなどは、書紀完成後において祭祀歴史の上に登場する新しい神だということを、この室根神社の古記録は証言しています。
 鹿島神の話はおくにしても、室根神社の「記録」は、瀬織津姫は熊野神として、さらに蝦夷降伏の祈願神として東北=唐桑半島へやってきたとされます。また、瀬織津姫のこの長い航海への付き添い人は「数百人」とされ、としますと、これは、まるで天皇の行幸なみかそれ以上というべきでしょう。この大規模な航行の様をみますと、瀬織津姫の神威に対する朝廷サイドの認識がよく表れているというべきです。
 それほどの厳重警護によってやったきた瀬織津姫でしたが、室根山へまつられると、いつのまにか、この熊野本宮神はイザナミという神に変更されていること──その奇妙さがよく伝わってくる記録でもあります。
なお、東北側における、瀬織津姫勧請の明確な記録としては、この養老二年=718年9月9日という因縁の日付をもつ時間は最古のものかとおもいます(ここでいう「因縁の日付」とは、かつて伊勢祭祀に手を加えていた天武の命日が9月9日であることと、大津皇子謀殺の持統に利用された川嶋皇子が謎の死を遂げていた日付が、ともに9月9日であることを指します)。
 また、明治22年まで、熊野本宮は熊野川の中州にまつられていましたから、まさに熊野川の川神あるいは守護神としての祭祀がなされていたことは、その鎮座地形が雄弁に物語っていることです。これは、川神=水神としての瀬織津姫がまつられていてまったく不思議のない地形ですし、その主祭神を瀬織津姫と主張する、おそらく日本で唯一の熊野神社(富士宮市井出)の存在もうなずけるというものです。
 ところで、この室根神社の伝承にあるように、瀬織津姫=熊野本宮神が蝦夷征服の祈願神とみなされていたとするならば、その神の名がイザナミに変更される必要はないようにおもいます。朝廷サイドからすれば、蝦夷征服の祈願とその成就がかなえば、瀬織津姫は敬してまつりつづけるべきものとおもいます。しかし、穂積重義たちとともに唐桑半島に上陸し、室根山にまつられると、なぜか、瀬織津姫の名は消え(消され)ます。
 これは、蝦夷征服の祈願神としてその神威を利用されたあと、瀬織津姫は、その名を消去されたということか、上陸後、室根山へ祭祀される過程で、熊野神としての瀬織津姫の名は消去されたのか、そこのところがはっきりしません。いずれにしても、熊野から長い航海をしてきて唐桑半島へ着いたとき、そこには瀬織津姫神社が存在しますから、この上陸時点までは瀬織津姫の足跡を確認できるとはいえます。
 瀬織津姫を、蝦夷征服の祈願神という、中央サイドからみた「ご利益神」の側面だけでとらえられるならば、瀬織津姫は室根山にまつられつづけてしかるべきで、しかし、山上に至ると瀬織津姫の名は消えるという事実があります。どうやら、瀬織津姫を、単純に「蝦夷征服の祈願神」とみなすには無理があるのかもしれません。
熊野から、この東北への遠征航海には、その後の瀬織津姫消去の事実をみますと、そこには瀬織津姫流罪=配流のイメージも喚起されてきます。瀬織津姫が長い航海を行うこの718年の前年の養老元年=717年には、白山地主神としての瀬織津姫消去がすでに具体化されていました(囲炉裏夜話710「白山神とはなにか」参照)。こういった、かつての人麻呂とも重なる流罪=配流刑となった瀬織津姫のイメージもあるわけですが、では、だれがこの遠流刑を指示したのか──。室根神社側の伝承は、そこに最高位の人物として、元正天皇の名を刻んでいます。
 白山と室根の祭祀に共通して関わる女帝として元正(草壁皇子と元明女帝の娘、文武の姉)がいます。白山祭祀の改竄の勅命を出したのも元正、室根山に蝦夷降伏の祈願神として熊野神を送り込んできたのも元正ですが、しかし、この女帝の一存で、これらの「勅」が出されていたとは考えにくいです。この養老時代初期、元正は事実上、名目的な天皇であったこと(首皇子=聖武へ天皇位を引き渡す中継ぎの役目をもった仮の天皇であったこと)を考えてみる必要があります。つまり、元正の背後には、実権を手放さない前天皇=元明(天智の娘)が太上天皇として存在しており、さらには、右大臣の藤原不比等の存在を考えてみる必要がありそうです。
 不比等は元明よりも二歳上でしたが、ほぼ同年齢といってよいでしょう。持統女帝から、天皇を中心とした律令国家構想の全権委任を引き受けたのが不比等であり、その「天皇」を天智系の皇統として、次代へ引き渡す役目を引き受けたのが元明でした。この不比等・元明の強力コンビが、元正の背後に厳然とあります。したがいまして、はるか西、壱岐の香椎宮であった聖母宮の祭祀干渉や、宇佐祭祀に法蓮を登用するなど、また東では泰澄をつかって白山祭祀を改竄したり、さらに、瀬織津姫を熊野神として東北へ送り込んでくるといった、神々の祭祀(改竄を含む)に真に関わっていた人物は、「勅命」を出した名目上の天皇=元正というよりも、実態は、不比等および元明太上天皇であったとみることができます(瀬織津姫が唐桑半島に上陸した時点=718年9月9日には、不比等たちはまだ健在でした。不比等が亡くなるのは720年8月、元明が亡くなるのは721年12月)。
 元明天皇の時代に(708年)、柿本人麻呂は不比等によって流罪→刑死された可能性が高いこととおそらく関わることに、養老六年=722年1月に、佐渡への流罪刑となった穂積朝臣老がいます。室根神社の伝承においても、この穂積氏の名があります(瀬織津姫=熊野神を奉祭して共にやってきた「紀伊国名草藤原の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義」)。
 穂積氏は物部氏と同族ですが(宇麻志麻遅を同祖とする…古事記)、中央側の記録として印象深い穂積氏として、天皇を名指しで「非難」したため、あわや斬刑に処せられそうになったとされる、この穂積朝臣老がいます。老は、首皇子(後の聖武)の「助言」によって罪一等を減じられ、彼は佐渡島へ流刑処分にされます(佐渡島への流刑人第一号でもある)。続日本紀の該当記事を読んでみます。

■天皇批判をした穂積朝臣老
(養老六年=722年)正月二十日 正四位上の多治比真人三宅麻呂は、謀反の誣告(いつわりを告げる)をした罪により、また正五位上の穂積朝臣老は、天皇を名指しで非難した罪により、それぞれ斬刑に処せられることになった。しかし皇太子(首皇子)の助言により、死一等を減じて、三宅麻呂は伊豆の島に、老は佐渡の島に流された。(『続日本紀』宇治谷孟訳)

 穂積朝臣老は、「天皇を名指しで非難した」と書かれていますが、その「非難」の内容は明かされていません。老が「死一等を減じ」られて佐渡へ配流となった養老六年=722年には、すでに不比等はなく、また影の天皇であった元明も前年に亡くなっていて、この斬刑処分を命じた者は「名指しで非難」された天皇=元正が一応考えられますが、後年(聖武時代)、老が佐渡から帰京しますと(740.6.15)、元正上皇の中宮西院の雪かきをする老があり(梅原猛『山部赤人』)、こういった関係が成立することを考えますと、老の「斬刑」命令を出した者は、ここでも元正ではない可能性があります。不比等も元明もすでに亡くなっていて、では、元正の背後にはだれがいたのかということになります。
 続日本紀は、この穂積事件の前年、つまり721年10月24日の項に、元明太上天皇の遺勅あるいは遺言ともいうべき記事を載せています。

■不比等のあとを継いだ房前
(養老五年=721年)十月二十四日 (太上天皇=元明が)次のように勅をした。
「およそ家の中に久しく癒らない病気があるときは、何かと平安でなく、不意に悪い出来ごとが起こるものである。汝(藤原)房前はまさに内臣[うちのおみ]となって、内外に渉ってよく計り考え、勅に従って施行し、天皇の仕事を助けて、永く国家を安寧にするように」と。

 元正が天皇位を継いだのは715年のことでしたが、それから6年たっても、元明上皇の力が隠然と働いている「勅」です。元明はこの遺勅のあと、十二月七日に亡くなります。不比等の亡きあと、元明は自らの死に臨んで、国家安寧の大任を不比等の次男=房前に託したということです。この遺言の時点の右大臣は長屋王でしたから、元明は右大臣を無視して、あえて藤原房前一人に「内臣となって、内外に渉ってよく計り考え、勅に従って施行し、天皇の仕事を助けて、永く国家を安寧にするように」と命じたのでした。これは、のちの729年に長屋王に「死」が与えられる伏線の話として記憶してよい記事かとおもいますが、ここでは脇道となりますので深入りしません。
 ここで、特権的職掌のように語られている「内臣」ですが、これは孝謙時代には藤原仲麻呂にもみられるものです。あるいは、遡って、天智時代の中臣=藤原鎌足をいうべきかもしれません。律令制度下における官僚機構にこの「内臣」という職掌はないことから、影の権力機構としての「内臣」について、梅原猛さんは同記事の引用のあと、次のような鋭い指摘をしていました。

■内臣という影の権力機構
 房前は内臣となって、勅に准じて、内外に命令する大権を付与されたのである。内臣は祖父鎌足がついたという官であるが、律令にはそのような官はない。それは一種の秘書役である。天皇のそばにいて、天皇の名において政治を支配する。私は、元明上皇は房前に、元正帝を助けて政治の大権をとることを命ぜられたのであると思う。とすれば、妙なことになる。太政官という正式の権力機構以外にもう一つの権力があることになる。(梅原猛『山部赤人』)

 房前は、その父・不比等および元明が健在のときはあからさまに表に出てきませんけど、元明のあと「天皇の名において政治を支配する」「内外に命令する大権を付与された」わけで、この房前が握っている「大権」「もう一つの権力」こそが、藤原氏の政治支配の要にある権力思想の実態でしょう。穂積朝臣老の「斬刑」の命は元正の名において出されたものの、その命の実質的発令者は、内臣=藤原房前であったとみなすことができます。
 元正時代における一連の神々の祭祀の改竄についても、これは不比等─房前へと受け継がれている「もう一つの権力」「大権」のなせるものとみるべきです。
 穂積氏は、本貫は山辺郡穂積邑(現在の天理市)でしたが、紀伊国においては、熊野神祭祀に深く関わる一族でもありました(後年=平安期のこととおもいますが、熊野新宮=速玉大社の禰宜職を世襲し、同族の和田氏は熊野本宮の神職をつとめています)。穂積氏は、熊野本宮神=瀬織津姫を東北へ奉祭してやってきますので、あるいは、穂積一族による熊野神祭祀は養老二年の時点(それ以前)にまで遡ってみることができるのかもしれません。
 いずれにしても、穂積氏は瀬織津姫という神をよくよく認識していたことはまちがいなさそうです。元正の勅命によって、「船団」を組んで、熊野から唐桑半島へ瀬織津姫を奉祭してやってくる「数百人」の責任者として、穂積氏の名があることは重要です。そういった穂積氏の一人、中央の要職にあった一人が、穂積朝臣老です。その老が、天皇批判(理由不載)による配流刑のときに詠んだ歌が残されています(『万葉集』3240、3241)。

■穂積朝臣老の万葉歌
大君の 命[みこと]かしこみ 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木積む 泉の川の 速き瀬を さをさし渡り ちはやぶる 宇治の渡[わたり]の たぎつ瀬を 見つつ渡りて 近江路の 相坂[あふさか]山に 手向けして わが越えゆけば さざなみの 志賀の辛崎 幸[さき]くあらば また還り見む 道のくま 八十くまごとに なげきつつ わが過ぎ往けば いや遠に 里離[さか]り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ 劔刀[つるぎたち] 鞘ゆ抜き出でて 伊香胡[いかご]山 いかにかわが為[せ]む 行方知らずて
  反歌
天地を嘆き乞ひのみ幸[さき]くあらばまた還り見む志賀の辛崎
 右二首。但、この短歌は、或書に云はく、穂積朝臣老の佐渡に配[なが]さえし時作れる歌なりといへり。

 老は、この配流時の歌のほかにも、「わが命し真幸[まさき]くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白波」(288)を残しています。天皇=大君の命令で自分は流罪となって配地へ向かうが、それにしても「見れど飽かぬ」ものとして、「泉の川の速き瀬」「ちはやぶる宇治の渡[わたり]のたぎつ瀬」「さざなみの志賀の辛崎」などを挙げています。
 歌中「泉の川」は現在の保津川ですが、「宇治の渡[わたり]のたぎつ瀬」は明らかに宇治川の滝神=渡神=瀬織津姫を歌っています。また「志賀の辛崎」とは琵琶湖の唐崎のことで、ここは巨きな這松の景勝地ではありますが、天智時代からの祓所でもあり、当然ながら瀬織津姫ゆかりの地です(湖北の唐崎神社の主祭神として瀬織津姫の名が確認できる)。老はこれらの地を記憶に刻み、「幸[さき]くあらばまた還り見む」、つまり、運がよければ、いつか還ってきてまた見るだろうと歌っています。
 瀬織津姫と小野氏との密接な関係にも通じるのかもしれませんが、穂積氏と瀬織津姫もまた、浅からぬ関係にあることが考えられます。武蔵国小野神社の祭神として瀬織津姫はまつられ、また小野篁の配流先の隠岐には壇鏡の滝神として瀬織津姫がまつられています。穂積朝臣老は配流先の佐渡で物部神社を創建していますが、しかし、なぜかこの佐渡にもまた瀬織津姫がまつられています。特に、後者が偶然のことかどうか、ここで語るには、また洗い出すには限界がありますので、今はメモだけしておきます。
 老が「天皇を名指しで非難した」理由ですが、これは仮定としていうしかありませんけど、考えられることは、藤原房前の言いなりとなっている元正女帝の無力への苦言だろうということでしょうか。こういった苦言・非難を房前が知れば、これは藤原の支配思想の根幹にふれる苦言ともなりますから、当然、房前の逆鱗にふれます。皇太子=首皇子(後の聖武)の「助言」によって「斬刑」を免れた穂積朝臣老でしたが、しかし彼は佐渡島で18年もの間、流人生活を余儀なくされます。老が聖武の大赦によって帰京することになる天平十二年=740年6月15日の時点には、すでに房前ら藤原四兄弟は737年の天然痘の猛威のなかで亡くなったあとで、つまりは、藤原権力の衰弱時代における帰京ということになります。
 老が帰京した三ヶ月後の天平十二年九月には、この藤原権力の衰弱の焦りから、藤原広嗣(宇合の子)が九州で反乱を起こします。歴史の皮肉かどうか、この広嗣の乱を平定したのは、朝廷に蝦夷降伏の祈願神の招請依頼を行った、あの大野東人でした。もっとも、このときの広嗣鎮定の祈願神は熊野神ではなく、伊勢大神と宇佐八幡神でしたが、伊勢の元つ神、そして宇佐八幡神の比売大神が、これも瀬織津姫であることを想起すべきでしょうか。
 瀬織津姫の名は出さないが、その神威だけはいただこうとする中央=中臣祭祀の姿がここにはあります。室根神社の特別大祭は東北有数の荒祭りとして知られます。世の荒祭りは、自然な祭祀法に外からいびつな力が加わり、つまり、その祭祀の根幹に「歪み」あるいは「改竄」が強制されていることが因となって、「荒祭り」化するのではないかとわたしは考えています。
 室根神社の特別大祭は、熊野神が室根山に鎮座する過程を模したものとされますが、一方、謎の「奥の院」の神への鎮魂の意味も込められているのかもしれません。
 この大祭のなかで、奇異ともいえる話がありますので、次に紹介しておきます。

■御袋神社背負騎馬
 烏帽子、直垂の装束で神輿を背負う騎馬の神役で、養老2年神社勧請のとき供奉して紀州より来た湯浅権太夫が勅諚によりこの地に住んでいましたが、その母堂高齢でありながら深く熊野権現を信仰し、南海を同行の途中病死しました(当時87才)。その遺言によって、一夜のうちに布を織り、11面観音の御尊像に御鏡を添えて流しました。ところが折壁の湊に止まって流れません。神霊に伺ったらこの地に留まって郷民を利益するようにとあり、よって養老4年9月17日勧請して御袋大権現と崇められることとなりました。以後、別当が背負って祭りに加わりますが、山には昇らない古例を伝えています。(室根村HP)

 この御袋大権現には、湯浅権太夫の母堂(の霊)と、十一面観音としての熊野権現が一体化されています。熊野権現を主とみれば、そこに十一面観音に習合する神、つまり熊野神=熊野那智神が透けてみえますが、しかしこの「御袋大権現」は、大祭当日、室根「山には昇らない古例」だとされています。これは湯浅権太夫の母堂の死穢を室根神=熊野神が嫌うとみることもできますが、しかしむしろ、瀬織津姫とは異質な熊野神が「山」に鎮座しているゆえに、そこに熊野の「本地」神が出向くことを忌避していることが、「山には昇らない」ことの理由だと考えられます。熊野神(那智滝神)=瀬織津姫は、もとより「和光同塵」の神であり、死穢塵埃を厭わないことに、その神の本質も魅力もあります。室根の新しい熊野神=イザナミとは似て非なるもうひとつの熊野神があること、それが瀬織津姫です。白山の改竄祭祀においても、その地主神=白山瀬織津=瀬織津姫を隠祭するときに登場させられていた神も、またイザナミでしたが(のちに菊理媛の名も加わる)、このイザナミの共通性は偶然の一致ではないということです。
 現在、紀州の本家の熊野本宮神は、「家都美御子大神」とされています。室根神社は熊野本宮神を勧請したことを、長く、その特別大祭とともに伝えてきているわけですが、室根神=熊野神はイザナミに変更されるも、その本家がイザナミを熊野本宮神と認めていないわけです。こういった奇妙な祭祀現実をもたらした淵源に、中臣=藤原祭祀の方法・思想が横たわっています。
 瀬織津姫が唐桑半島に上陸した地=鮪立[しびたて]には、これも瀬織津姫を本来の祭神としていた可能性が濃厚である「業除[ごうのけ]神社」があります。祭神はどうなっているかといいますと、神ではなく大聖不動明王をまつっています。瀬織津姫が不動尊と習合するのは早池峰・遠野郷の特色ですが、社名の「業除[ごうのけ]」自体に、瀬織津姫がもっている罪穢れ=「業」を祓う=「除」けるといった意をみることができます。
 瀬織津姫は唐桑半島に上陸後、室根山へまつられることがなかったとしますと(あるいはまつられるも、その後消去されたとしますと)、では、瀬織津姫の信仰は、その後どうなったかということも考えてみる必要がありそうです。
 ここで想起されるのが、室根山から約60キロ真北に聳える早池峰山です。遠野郷は、室根山と早池峰山のちょうど中間に位置していますが、早池峰信仰圏の沿岸部の南限がちょうど唐桑半島の付け根あたりになります。室根山(895m)は航海の目印の山として沿岸の海の民の信奉がことのほか厚い山ですが、同等あるいはそれ以上に海の民の信奉を一身に引き受けているのが早池峰山(1917m)です。
 養老二年=718年の時点を考えますと、室根山以北の、たとえば遠野盆地あたりは、中央=ヤマトからはまったくの認識外=化外の地であったことはまちがいありません。ただし、続日本紀の715年10月29日には、昆布の貢物を国府に届けるには遠いので、「閇村[へのむら]」に郡家を建ててほしいと「言上」する蝦夷・須賀君古麻比留[こまひる]の記事があり、沿岸部のヤマト化はかなり北上してきていることがうかがえます。この「閇村[へのむら]」をどのあたりと比定するかは定説がありませんけど、わたしは唐桑半島以北のそう遠いところではない地域、いわゆる延喜式神名帳陸奥国に出てくる気仙郡あたりを指しているのだろうとみています。
 瀬織津姫が早池峰山にまつられる経緯は複雑ですが、遠野郷に瀬織津姫がまつられる最古の記録は、桓武あとの平城天皇時代の大同年間(806〜809年)とされます。坂上田村麻呂による北上川流域=内陸部平定の戦いはアテルイの降伏→死によって一段落します。田村麻呂(たち)=ヤマトの遠野郷への平定経路は、北上川の支流・猿ヶ石川を遡行するようにして遠野盆地へと至る経路が主路かとはおもいますが、しかしもう一つ、海岸部からもあったとみなすことができます。これは、田村麻呂の「鬼」討伐伝承が、室根山と遠野郷の中間にあたる海岸部の気仙地域に色濃く残っていることからもいえますし、その気仙地域に鎮座する氷上神社(陸前高田市)にはかつて瀬織津姫がまつられていたことをも傍証とすべきかもしれません(江刺市の分社・氷上神社の祭神は現在も瀬織津姫)。
 唐桑半島に瀬織津姫が刻印される養老二年=718年から、田村麻呂伝承とともに遠野郷に瀬織津姫がまつられる大同年間までには、約90年、約1世紀の時間差があります。実際のところ、8世紀は、瀬織津姫祭祀を明かそうとすとき、謎の多い時間帯だといえます。
遠野郷あるいは早池峰信仰圏においては、瀬織津姫が滝神として認知されるとき、そこに熊野神(那智滝神)の姿は浮かんできますが、室根神社の伝承にみられる熊野本宮神という要素は消えます。ましてや、当時のヤマトの思惑であった「蝦夷降伏の祈願神」といった姿も消えます。瀬織津姫=早池峰大神は、航海の守護神かつ水神であり、また養蚕神でもあるといった、いわば「生活」に密着した神以上でも以下でもありません。これらは、そのまま白山(地主)神の性格でもありますが、遠野郷にとっては、さらに、早池峰山は祖霊が住む山、あるいは亡くなった霊が「帰る=還る」山とみなされています(山への入口・通路にあたるのが又一の滝…阿部ヤヱ)。白山における瀬織津姫は、三途川を無事に渡らせる神でもありましたから、その意味でも、早池峰山と白山は等質の山であることがいえます。両山の神に付与された本地仏が、ともに十一面観音であることも、その神の等質性を表しています。
 時代は下りますが、室根神は、鎮守府将軍=藤原秀衡の手に、その朝廷祭祀=勅祭の全権が移されたとされます。秀衡は、この室根神を特別に厚遇しつづけます。また、秀衡は、天平元年=729年からはじまった室根神社の祭りを「前例」を廃して改めたとされますが、その改変の経緯は残念ながらわかりません。室根神社は、祭祀当初における、その大規模な遷祀過程にみられるように、勅祭の対象社、重要社でした。しかし不思議なことに、延喜時代、つまり10世紀初頭のことですが、室根神社は「式内社」としては除外されていました。こういった小さな事実にも「刺」のような疑問が付着しています。
 おそらく白山神を理解・認識していた秀衡にとって、室根神を特別に厚遇するのは、それなりの理由を認めていたからだとみるべきでしょう。秀衡は熊野詣でのとき、那智にわざわざ桜(山桜)を植樹しています。また、彼は、蝦夷=安倍氏の末裔でもある祖父・清衡が、平泉中尊寺の鎮守神として勧請した白山神をことのほか信奉していましたから、それゆえに白山へ虚空蔵菩薩等の寄進を行ったものとおもいます。つまり、秀衡は、熊野神と白山神をよく認識していたことが想像されます。室根神=熊野神がイザナミかどうかといった問題ではなく、室根神=熊野神=白山神という等号の背後の神を見据えることができた人物こそ、藤原秀衡でした。秀衡が瀬織津姫をよく認識していたことのさらなる傍証を挙げておきますと、秀衡によって奥州一ノ宮と位置づけされた荒雄川神社(宮城県鳴子町)の存在があります。この荒雄川神社の神(荒雄岳の神)もまた瀬織津姫でした(囲炉裏夜話301「日高見川=北上川の水神」参照)。
 なお、鳴子町には鬼首[おにこうべ]という地名があります(鬼首温泉も)。この地名は、鳥海山の神(荒雄岳の神と同神。三本足の霊鳥=烏を使いとして人々の苦しみを救った伝承から、これも熊野神とみられる)の使いの霊鳥が平安期には「鬼」とされ、その首が飛んだところという地名譚をもっています。室根山(前名は熊野・牟婁郡→牟婁峯山。秀衡が室根山と改める)の旧名も「鬼首山」でした。また、太平洋側の気仙地域には「脚岬」「首岬」「死骨岬」と、まつろわぬ「鬼」の切り刻まれた遺骸にちなむ岬名もみられます。ヤマト軍=官軍と「鬼」と呼ばれた蝦夷軍、その累代の戦いの死者双方の鎮魂のために創建されたのが中尊寺でした。その鎮守神が白山神であることを考えますと、やはり「蝦夷降伏の祈願神」=瀬織津姫といった単純な把握は、認めることがむずかしかろうとなります。

(追伸)
 旧パソコン(Me)があまりに調子がわるくて、XP搭載の新機種に変更しました。ところが、今度は遠野でうまく設定できなくて、通信関係がずいぶんとご無沙汰になってしまいました。主人のパソコン素人は相変わらずです。新機に対応できるTAがなくて、まだ仮接続の状態です。それと、旧機のモバイル機能がXPに対応していないなど、どうしてこうも変更→更新がうまくいかないのか、ほんとうに不思議です。各メーカーの対応の不誠実、問題多しです。

732 無事で何より サクラs(*^-^)ノ☆ 2003/06/03 00:07

ご無沙汰しております。
ご主人、御無事で何よりです。
前回の地震では「独眼竜政宗」の酒瓶が無事だったのかを知りたいところですが、今回は南部鉄瓶が凶器に変わらなかったのは何よりで御座いました(^^)

このところ多忙でしたがやっと落ち着いてきましたので、今もご主人とトカゲさんの怒涛のレスを打ち出したところです。

あは!またまた楽しみ(^^)です。
では、遠野よりの書き込みを楽しみにしておりますね。

733 弁天に守られる漁村 風琳堂主人 2003/06/08 12:46

 さくらさん、レスが遅れてすみません。
 久しぶりに三陸の海へ釣三昧に行ってきました。三年ぶりです。
 考えてもラチがあかないときは考えるなということで、では考えないためにはどうするかと考えたら(?)、釣にいくのがいちばん、というわけで、釜石の北にある隠れ里のような漁村の岩場で釣三昧してきました。この漁村は釜石市仮宿[かりやど]といって、東対面に、ひょっこりひょうたん島のモデル説ともいわれている三貫島があります。
 仮宿集落の守護神は、三貫島神社で、現在の祭神は市杵嶋姫ですが、これは明治以降のこと。ここでは神名云々は関係なく、弁天さん以上でも以下でもありません。宗像神が海と縁深い神であることから、江戸期までの弁才天が通例に準じて市杵嶋姫とされたようです。仮宿の弁天さんは、集落の小高いところで漁港全体をみていますし、はるか沖合いの三貫島と対面するようにまつられています。
 さて、釣果はいかにですが、これが弁天さんの贈り物なのでしょう、三陸への釣行ではかつてない大きなあいなめを釣らせてもらいました。正確に測ったわけではありませんけど、手測で50センチほどの大きさです。70メートルほど沖に顔を出している岩と岩の間にいた「主」なのでしょう。
 三貫島(無人島)では、67センチという大きなあいなめが釣れた話を、釣具店の主人がきかせてくれましたが、そういった噂が釣り人にも伝わっているらしく、関西からわざわざこの島までやってくる人もいるようです。釣りキチの執念は常識を超えています。
 仮宿の岩場へはわたしは何度か通っているのですが、この岩場の登り口の下に、丸い石が無雑作に積み上げられています。貝殻などが付着していますので、おそらく漁の網にかかった石だとおもいます。こぶしより少し大きな石が多いですが、どれも角がとれた楕円形や円形の石です。漁師たちは、これらの石を捨てずにここに積み上げているわけですが、たしかに捨てるには惜しいといいますか、みないい形をしています。
 熊野本宮神は船霊神でもあり、その船霊が宿る石が、あるいはこの丸石かなと想像しています。特別にまつるわけではないが、かといって「捨てられない」ということなのでしょう。「神」をおもう意識の濃度はどんどん希釈されてきていますが、その最後の断片を、これらの丸石の小山が表しているのかもしれません。

734 たまには実家の周辺など。 GOTO 2003/06/10 12:09

ご主人、ご無沙汰しております。
久しぶりに実家に帰って散策などしておりました。
それまで地元の神社についてはほとんど興味が無かったのですが、
こちらにお邪魔するようになってから妙に気になり始めたのが
久伊豆神社(埼玉県越谷市)です。この名前、
伊豆から久しい場所にある神社?と読めなくもないですし、
国学者平田篤胤が一時期滞在した地でもあります。
そんなわけで、なかなか興味深い散策になりました。(^^)

社務所で買った「ひさいづ暦」に記載されているところでは、

久伊豆神社
御祭神:大国主命、事代主命
配祀:溝咋姫命、天穂日命、高照姫巫命
御由緒:創立年代不詳、約千二・三百年に遡り、特殊の信仰に栄えていた
神社と云はれ、中世には武蔵七党の一つである私市党の尊敬をあつめ
室町時代に入り領主宇佐見重之又深く尊崇し古刀を奉る、江戸時代には
二代徳川秀忠、三代家光鷹狩に際し参拝休憩し、また代々尊信厚く
奥州日光街道の宿場として古くから開け、一国大郷の総鎮守として
敬仰されてきた。

とあります。で、更に調べると、久伊豆神社の本社は不明ながら、
式内社である埼玉県騎西町騎西の玉敷神社がそれなのだそうです。
なにせ玉敷神社は江戸時代までは久伊豆大明神と称していたそうですから、
不明も何もないだろ!と思うのですが‥(^^;
何故名前が変わったのかはわかりませんでした。不思議です。

玉敷神社、久伊豆神社が散在する地域は
旧・荒川(現在は元荒川)と旧・利根川(現在は古利根川)に
挟まれた地域で、水の豊かな、水に縁の深い地域でもあります。
信仰域から考えても荒川水系の氷川神社と、
新興勢力である千葉・香取神社の信仰域に挟まれた、
古い信仰が残っていた地域だそうで、久伊豆大明神本来の姿とは
どんな姿だったのだろうなぁ、としみじみと思ったしだいです。

だらだらと取り留めの無い文章で失礼しました。それでは、また。

736 最北の延喜式内社が語ること 風琳堂主人 2003/06/14 01:28

 GOTOさん、おひさしぶりです。
 久伊豆大神の「伊豆大神」がやはり気になりますね。
瀬織津姫をまつる遠野最古の伊豆神社=来内権現の鳥居横の石碑には、立派な書体で実に大きく「伊豆大神」と刻まれています。
 一昨日、日本最北の延喜式内社とされる志賀理和気神社(岩手県紫波郡紫波町桜町。北上川に面し、北上川を拝するように社殿が建てられている。その延長上に早池峰山が位置する)の宮司さんと話をする機会があり、とても興味深い話を聞かせてもらいました。
 かつてこの囲炉裏夜話で、宮城県の伊豆権現=志波姫神社についてふれたことがあります(298「水神の化身としての桜」)。現在、志波姫神社は宮城県に三社存在していますが、志賀理和気神社の宮司さんの宮司仲間の話では、そのうち二社が主祭神はほんとうは瀬織津姫であるとのことで、表向きの祭神表示(二社は天鈿女命、一社は木花開耶姫命)とはちがっていますが、やっぱりそうかという思いでした。
 志賀理和気神社の現在の祭神は、経津主之大神、武甕槌之大神、猿田彦之大神、保食之大神、少彦名之大神、大己貴之大神、船霊之大神の七神とされます(神社パンフ)。
 全七神が横並びにみえますけど、最古の神は「船霊之大神」とのことです。志賀理和気神社は、通称は赤石神社ですが、この最古の神をやはり大事にしたい気持ちから、案内パンフレットには、同社の異称として「志賀理和気船霊神社」と明記しています。
 この船霊神は「河川、海上安全、交通安全、船旅、航空旅安全守護神」というのが現在の性格です。ここで「河川」の守護神とみなされていることは、その鎮座地形からも、要するに、陸奥国の大河・北上川を司る神であるということを表しています。また、この船霊神は「女神」としても伝えられていて、「志賀理和気船霊大神」と記した女神像を描いた掛け軸もみせていただきました(写真を撮らせてもらいましたので、ご覧になりたい方は連絡ください)。
 これまで、「日高見川=北上川の水神」(囲炉裏夜話301)や「最北の延喜式内社と瀬織津姫」(同305)で、北上川の川神は瀬織津姫であることにふれてきましたので、その概要を話しましたところ、志賀理和気船霊大神が瀬織津姫であることはじゅうぶんに考えられるという納得をいただきました。
 それを証明できる関係資料がないということで、これは9割(以上)の可能性として、瀬織津姫を当該の神とみなすということです。
 ただし、いただいた氏子通信「赤石さん」をめくっていましたら、郷土史家の工藤隼人さんという方が、江戸期、つまり神仏混淆時代のこととして、同社の神宮寺・遍照寺(石鳥谷の光林寺の末寺)の記録を再録していて、そこには、遍照寺別当は「七社堂」を奉祭していたとされます。この七社堂の神が明治期に現在の七神となるわけですが、以下にこれらを書き出してみます(宝暦九年=1759年の記録。出典は「赤石さん」24)。

■遍照寺の七社堂
@赤石大明神=一間四面・ご神体は赤石・釈迦弥勒像の金丸鋳付。
A稲荷社=三尺四面の社堂・ご神体は白狐の絵板。
B八幡宮=三尺四面の社堂・ご神体は長さ五尺の大石。
C愛宕堂(愛宕権現)=三尺四面の社堂・ご神体は勝軍地蔵絵板と長さ五尺の大石。
D熊野堂(熊野三所)=三尺四面の堂・ご本尊は阿弥陀如来立像で高さ五寸の金仏。
E新宮(薬師社)=三尺四面の堂・ご本尊は高さ三寸五分の薬師座像。
F那智(観音・船霊社)=一間四面の堂でご本体は三尺三角の二面の大石に観音の梵字。

 この江戸期の記録をみますと、香取神=経津主之大神、鹿島神=武甕槌之大神などが正規=表向きの祭神とされるのは明治期のことかという問いも生じてきますが、ただ、ここでも大事な証言記録としては、やはりFの「那智(観音・船霊社)」があります。つまり、船霊大神は那智神であり、それは「観音」(おそらく十一面観音)と習合する神だということです。ここに那智(滝)神が船霊大神と同神とみなされていることは、同社の元の祭神が瀬織津姫であったことを示唆して余りあるというべきです。
 囲炉裏夜話305でもふれましたが、北上川本流域における「桜」関係社、しかも戦前において「祭神不詳」とされていた神社は四社中三社でした(『岩手県神社事務提要』昭和14年)。

■北上川本流域にまつられる「桜」関係社(岩手県、戦前)
@[無格社]小清水神社 【祭神=不詳】      所在地…岩手郡大更村字桜清水
A[県社]志賀理和気神社【祭神=不詳】      所在地…紫波郡赤石村桜町字赤石
B[無格社]滝清水神社 【祭神=不詳】      所在地…稗貫郡花巻町下根子字桜
C[郷社]桜松神社   【祭神=瀬織津姫命】   所在地…二戸郡荒沢村荒屋字高畑

 今回、Aは瀬織津姫であったことがはっきりしてきましたので、桜神としての瀬織津姫の可能性はさらに高まってきたといえそうです。さらに、ダメを押すような話ですが、Bの滝清水神社は、Aの志賀理和気神社の分社とのことです。@は現在確かめていませんけど、瀬織津姫はもともと滝神でもありますから、滝清水神=志賀理和気船霊大神が瀬織津姫であることは「確定」とみなすことができます。そして、桜神としての瀬織津姫につきましては、志波姫神社の木花開耶姫(桜神として通例理解がなされている)の背後の神が瀬織津姫であることを考えますと、桜神=木花開耶姫(あるいはその姉神=磐長姫)の背後には、瀬織津姫が隠祭されていることも、ほぼまちがいないといえます。宮沢賢治の里=花巻の「花」は北上川の川面に渦を巻く桜の花です。花巻の地名由来譚にも瀬織津姫が深く関わっていることになります。
 このように、周辺の話を総合しますと、最北の延喜式内社=志賀理和気船霊神社の神が熊野・那智の瀬織津姫であること、また、北上川の川を司る神としてまつられていたことは特別に大きな意味があるといえます。
 なお、志賀理和気神社の現在の「由緒」は、下記のようになっています。

■志賀理和気神社「由緒」
人皇第五十代桓武天皇延暦二十三年(約1,200年前)坂上田村麻呂勅命を奉じて東夷征討のため下向に際し領内の守護神として武神の下総の国(千葉県)の香取の神、常陸の国(茨城県)香島の神の二神を勧請武運長久を祈願したといえり。〔後略〕(神社案内パンフレット)

 遠野の伊豆神社もそうですが、東北の古い祭祀伝承に登場する筆頭に坂上田村麻呂の名があります。この「由緒」の記述を信用しますと、香取、香島=鹿島の神が主神に座る前には志賀理和気船霊大神=瀬織津姫がまつられていたことになります。
 ところで、志賀理和気神社が鎮座する紫波郡には、やはり田村麻呂伝承をもつ古社=熊野神社が同郡佐比内地区に鎮座しています。この熊野神社は延喜式神名帳からは除外されていますが、室根神=熊野神の話とも関わりますので、社頭の掲示板から、その「由緒」を書き写しておきます。

■熊野神社(岩手県紫波郡)の「由緒」
(祭神)伊奘諾命、伊弉册命
(鎮座地)岩手県紫波郡紫波町佐比内字神田17
(由緒)
延暦二十年、坂上田村麻呂征夷大将軍として東下し、神田山の丘に陣営せしが、当地大峰の丘にお熊様と称するあり。将軍、同地に神殿を造営し二柱の神を共に合祀せり。〔後略〕

 さりげない「由緒」の記述のようにみえますが、熊野神が伊奘諾命、伊弉册命と、現在のように表示される前に、すでに大峰神(=天河神)=「お熊様」と呼ばれていたもうひとつの熊野神が鎮座していたことが書かれています。ここには、志賀理和気神社もそうですし、また室根神社もそうですが、あとから合祀された神が主神の座に座ったことが記録されています。
 最後に、志賀理和気神社の元社はどこかということですが、それは、筑前国志賀島の志賀海神社とのことです。瀬織津姫が「君が代」の古歌を伝える志賀海神社に関わってくることになります。志賀理和気神社の「理」は、あるいは「海」の誤転記であった可能性もありそうです。

(追伸)
「熊野神としての瀬織津姫」(囲炉裏夜話731)で、引用の書名『山部赤人』はまちがいで、『さまよえる歌集──赤人の世界』が正確な書名でした。訂正します。
 岩手を中心に、あと少し気になる神社をまわってみるつもりです。そのあと、秋田の日住白山神社(瀬織津姫を主祭神とする)→鳥海山→佐渡→立山→白山を主ルートに、日本海側を歩いてみようかとおもっています。パソコンのモバイル機能がうまくつかえるようになるといいのですが。

739 桜の滝清水神 風琳堂主人 2003/06/16 19:15

 志賀理和気神社の分社とされる滝清水神社(花巻市桜町)へ寄ってきました。
 ここは、戦前、志賀理和気神社ともども「祭神不詳」とされていた神社でしたが、現在は下記のような「由緒」とともに、それらしい「祭神」名が記されています。社頭の掲示板から転写しておきます。

■滝清水神社「由緒」
(祭神)稲荷大神、水神(北上川の龍神)
(鎮座地)岩手県花巻市桜町三丁目四七番地
(由緒)
 当神社は北上川と豊沢川の合流点を見降ろす高台にあり、数十本の桜の古木が繁茂し、春秋の景観が良く、従ってこの一帯を「桜ヶ丘」という。神社の崖下より清水が滝のように湧き出ずるところから「桜の滝清水」ともいい、又「桜のお明神さま」と云って広く信仰を集めている。ご創建は、代々此の地に住み百姓の傍ら北上川で海運業を営む「伝七」という人が、稲荷の小祠を建て守護神として信仰していたが、ある夏の午後境内の木陰で昼休みをしていると、紫波の赤石明神の王子が龍神に乗ってお渡りして来る夢を見た。夢から覚めた伝七はこれを稲荷の神のお告げと受け止め、北上川のお蔭を得て川舟で生計を立てていながら今までその恩恵を感じなかった自分の不徳を恥じ、寛延三年(一七五〇)村民の合力を得て小祠を建て厚く尊崇した。そして、伝七の子孫が代々俗別当として今日までその管理を努めてきた。花巻の俳人・伊藤鶏路がこの桜明神の地に庵を結び入門する者に俳諧を説き、この地方の文化の向上に尽くしたことは有名である。

 滝清水神社の祭神「水神(北上川の龍神)」は、「稲荷の神のお告げ」によると、赤石明神=志賀理和気神社から「龍神」に乗ってやってきたとされます。その龍神に乗ってやってきたのが「紫波の赤石明神の王子」といわれますと、一見それは男神のように受け取れますが、その本社が「船霊神」を那智神かつ女神と伝えていますので、こういった「由緒」は話半分に受け取るべきでしょう。
 神社の管理人氏は留守で、残念ながら詳しい話は聞けませんでしたが、この謎の滝清水神=「水神」はカッコつきながら「北上川の龍神」であり、また「桜のお明神さま」とも呼ばれているようです。
 戦前において、水神ならば罔象女神とでも(国へ報告=申請)してよさそうなものでしたが、それをあえて「祭神不詳」としていたのには、氏子の方の、やはり「思うところ」があったものとおもいます。
 瀬織津姫の「現在」が、よくもわるくも、みえるような「由緒」です。いいかえれば、北上川の水神=川神かつ桜神かつ滝(清水)神である瀬織津姫の蒙っている多難が、とても近い時間のなかで、あらためて想像できる「由緒」というべきかもしれません。

(追伸)
 削除「書き込み」について──本人は、この掲示板を読むセンスも余裕もないはずですから、いちいち応答あるいは「説教」はしません。今回は前回とちがって、即着信拒否としました。あかねさん、気にせず元気だしてくださいね(トカゲさんはだいじょうぶ[のはず]です)。時間がたてば笑い話です(滝清水神=瀬織津姫もそう言ってました)。

740 宇奈己呂和気神とはなにか 風琳堂主人 2003/06/25 10:19

 全国の延喜式内社(全2861社、3132座)のうち、「明神大社」にまつられる別格の神が全国に492座あります。陸奥国に絞ってみますと、延喜式内社の神は、全100座、また明神大社の神は全15座とされます。
 明神大社の「明神」とよばれる神は、「全国の神社の中でも特に霊験があり、由緒正しいとされる神。『延喜式』には社格の一つとして見え、官国幣社の中から選ばれて臨時祭に奉幣された」と定義されます(『あさかの神社誌』福島県神社庁郡山支部)。
 福島県郡山市に、こういった破格・別格扱いの「明神」として、瀬織津姫の名を伝えつづける明神大社があります。宇奈己呂和気[うなころわけ]神社といいます(瀬織津姫を主祭神と表示する全国唯一の明神大社)。
 瀬織津姫が熊野本宮神として東北・唐桑半島へやってくるとき、その護衛は「数百人」とも伝えられていますので、この伝承一つをみても、瀬織津姫がヤマトによって無視できなかった神だということがよくわかります(囲炉裏夜話731「熊野神としての瀬織津姫」)。
 全国的視野でいっても、瀬織津姫が「明神」として遇されることはもっとほかにもあってよいわけですが、しかし、それらはことごとく、その祭神名を変えての祭祀となります。したがいまして、宇奈己呂和気神社は、かなり特異な神社、あるいは、中央からの祭神変更の要求に屈しなかった勇気ある神社だとみることができます。この例外的な瀬織津姫祭祀を貫いた理由は考えてみるに値します。
 東白川郡に鎮座する明神大社かつ奥州一ノ宮とされるのが都都古和気[つつこわけ]神社(祭神…味耜高彦根命[あじすきたかひこねのみこと])ですが、こちらは戦前の社格は「国幣中社」でした。同じく明神大社で奥州二ノ宮とされるのが宇奈己呂和気神社ですが、こちらは、なぜか戦前までの社格は「郷社」で、その露骨な格差に祭神表示の問題が潜んでいることは、これも早池峰神社問題と同様だろうと想像できます(『エミシの国の女神』参照)。社格よりも、その祭神の正当性を選択した宇奈己呂和気神社に、わたしは「勇気」をみています。
ところで、宇奈己呂和気神とはどんな神かということで、次のような記述が眼にとまりました(『郡山の歴史』郡山市)。

■宇奈己呂和気神は八幡神
 安積にはもともと延喜式内社として、宇奈己呂和気・飯豊和気・隠津島の三社がある。宇奈己呂和気神社(美穂田町八幡)は安積八幡と呼ばれ、安積郡総鎮守として崇敬を受けていた。土地神であるこの神社に、新しく移された伊豆権現・春日明神の二社が合祀された。

 これだけを読みますと、瀬織津姫は伊豆権現でもありますので、「合祀」された瀬織津姫が宇奈己呂和気神として首座についたのかという疑念が生じてくるのですが、宇奈己呂和気神社の境内末社として現在も伊豆権現=伊豆神社がまつられていますので、本社祭神はやはりもともと瀬織津姫でした。
 宇奈己呂和気神社が「安積八幡」と呼ばれていることは、その鎮座地名(美穂田町八幡)にも表れていますが、このことは、『郡山の歴史』の次のような記述からもいえます。宇奈己呂和気神社の分社=分霊の記述です。

■宇奈己呂和気神社の分社
 郡山市街の中心にある安積国造神社は、「八幡様」の名で親しまれている。前記の美穂田町の「安積八幡」の御分霊という。

 安積国造神社は、現在の祭神を、和久産巣日神、天湯津彦命、比止禰命、誉田別命、倉稲魂命の五神としていて、八幡神=誉田別命がたしかにまつられています。なお、天湯津彦命は饒速日の降臨時の供神で、その末裔の初代安積国造が比止禰命とされます。八幡神=誉田別命の祭祀地に、その他の神々が合祀されて安積国造神社を名乗るわけですが、その元神にまつわる根強い伝承ゆえに「八幡様」の親称を今に伝えているのでしょう(『あさかの神社誌』)。
「安積八幡」=宇奈己呂和気神社は、その主祭神を瀬織津姫としていますが、相殿神に誉田別命をもまつっていますので、たしかに八幡神の本社と分社=分霊の関係の整合性はあります。
 ところで、宇奈己呂和気神について、郡山の郷土史家・田中正能さんは、「あさかの神々」で次のような「社伝」を再録し、瀬織津姫に関する「解説」を加えています(『あさかの神社誌』所収)。

■宇奈己呂和気神社の「社伝」
 宇奈己呂和気神社の社伝には、欽明天皇十一年(550)安積郡高旗山頂に瀬織津比売命(セオリツヒメノミコト)の垂跡があって祭祀され信仰が続いた、とある。この神は伊邪那岐命が黄泉の国から帰られ筑紫、日向の橘の小門の阿波岐河原にて禊祓のとき、河の中ツ瀬にて禊祓のとき降誕の八十禍津日命(ヤソマガツヒノミコト)と名付けられた神で、世の中の罪とけがれを清め、凶事を除き去る神として伊勢皇太神宮の荒御魂であるが、反復常ない陸奥国における政策として祭祀になったものであろう。同じく社伝に延暦三年(784)、大伴国道(767〜828)が高旗山より現在地の美穂田村八幡字山崎の地内に遷座された、とある。

 内宮荒祭宮神=瀬織津姫についての「解説」は、記紀と『倭姫命世記』の記述に拠ったもので、いわゆる辞典的解釈が踏襲されていて目新しいものではありません。しかし、瀬織津姫祭祀の開始を「欽明天皇十一年(550)」としているのは、それが事実としますと、全国的にみても、これはかなり古く遡る「伝」となります。
田中正能氏は、宇奈己呂和気神社には「相殿八幡文書」なる社家文書があること、および、八幡神祭祀の開始時期と理由への考えを、次のように記しています。

■宇奈己呂和気神社の「相殿八幡文書」
 郡山の神社の歴史をたどる記録文書史料は非常に少ないが、安積惣社として続いた宇奈己呂和気神社の社家大原家伝来の社家文書は、明治以来「相殿八幡文書」として、当地方歴史資料として学術的価値が注目され、貴重視されている。
 宇奈己呂和気神社は、欽明天皇十一年(551…550の誤記)、下守屋高旗山に垂跡と伝わる。(瀬織津姫祭祀の記述が入る。前出と重複するので省略)
 陸奥国の古社、安積郡の明神大社として崇敬され「続日本紀」に見られる。宝亀十一年(780)三月、陸奥国に伊治公呰麻呂(アザマロ)の反乱が発生して、陸奥出羽按察使紀広純を討ち取る騒ぎが天下を震わす。天応一年(781)一月に藤原小黒丸が後任を命ぜられ下向し、翌延暦一年(782)六月、大伴家持と交替、八月に都に凱旋しているが、陸奥国の蝦夷反乱はこのあとも坂上田村麻呂、百済俊哲などまで、永い年月を要するに至り鎮定することなく続く。この間は陸奥出羽の諸社に神階奉幣がさかんに行なわれた時代であった。
 当社の伝承に、藤原小黒丸が延暦三年(784)現在地に高旗山上より勧請とあるが誤りで、藤原小黒丸の赴任下向時のことであろう。現社に祓川、化粧坂などの伝承、祭礼毎に社人が高旗山上の古祠に奉幣行事が伝わっている。昔から安積郡の総社として国司、領主の崇尊と保護を受け、古い安積郡地域全般住民の信仰をあつめた神社である。祭神に応神天皇が祀られ、俗に八幡様と呼ばれ、地名も八幡と称する時期は何時からかと問題も考えられるが、「中野幡能編 八幡信仰」にみられる天平十八年(746)、応神天皇即八幡神(宇佐八幡宮)の贈位もみられ、対朝鮮半島放棄、外的対抗神的性格が夷敵調伏として、この頃に勧請と共に合祀されたものでなかろうか、と考えられる。(「あさかの神々」、『あさかの神社誌』所収)

 宇奈己呂和気神社に伝わる「相殿八幡文書」にどんな記述があるのか、残念ながら未見でなんともいえないのですが、田中氏は、瀬織津姫と八幡神は異神であるという先験的認識を崩していないようです。天平十八年(746)という時代は聖武天皇の時代ですが、この年の六月には、筑紫に配流(745)となっていた玄ムが、藤原広嗣の怨霊によって殺されたとの噂がわざわざ続日本紀に記されています。藤原広嗣の乱(740)の鎮定祈願神こそが宇佐八幡神でした。
 ここで、当の宇奈己呂和気神社自身に、自らの由緒を語ってもらうことにします(出典は『あさかの神社誌』、記述の配列・形式は一部変更)。

■宇奈己呂和気神社「由緒」
(祭神)瀬織津比売命、誉田別命
(鎮座地)郡山市美穂田町八幡字上の台76
(社格)延喜式明神大社、奥州二ノ宮、安積三十三郷総社
(由緒)
 当社旧記によれば、宇奈己呂和気神社創草は第49代光仁天皇代、陸奥国の蝦夷はびこり騒がしきために朝廷は天応元年(781)1月、陸奥出羽按察使として藤原小黒麿を任命し下向させるが実効なく、翌年延暦元年(782)6月、新たに即位した桓武天皇は、新しく大伴家持を陸奥出羽按察使兼鎮守府将軍に任命下向させたが、蝦夷の勢いたくましく盛んのため、家持は高旗山頂に登り潔斎神々を祀り祈念するや神霊顕われ、安積郡の山々八ツ旗山の奇瑞を現わす。家持神験を得て雄々しく蝦夷平定の軍を進め、更服常なき蝦族を威服させ、陸奥、出羽の騒乱を鎮め民心安穏を得ることが出来た。家持神恩を感じ高旗山頂に荘厳な社殿を構築鎮守神として崇めたが、時経るの間に荒廃に至り、その後、山崎の地(現在地)に宮殿は移されるに及んだ。

 田中氏が「社伝」として再録していた、瀬織津姫祭祀の開始時期を欽明時代とすることについては、宇奈己呂和気神社自身は消去しているようです。宇奈己呂和気神の祭祀開始は平安時代の初め、その祭祀に関わるのは、万葉集の編者ともされる大伴家持だと記しています(「家持は高旗山頂に登り潔斎神々を祀り祈念するや神霊顕われ、安積郡の山々八ツ旗山の奇瑞を現わす」「家持神恩を感じ高旗山頂に荘厳な社殿を構築鎮守神として崇めた」)。
 同社のこの「由緒」においても、宇奈己呂和気神と八幡神との関わりについては言及されているわけではありません。祭神表記において、「瀬織津比売命、誉田別命」と併記するのみで、宇奈己呂和気神が「安積八幡」「八幡様」と親称されるのは、八幡神=誉田別命(応神天皇)という通常理解に任せるという、ある種、祭祀経緯を語ることの「放棄」がここにはあります。
 ところで、ここで、八幡神はもともと誉田別命(応神天皇)とされる男神一神ではなく、男女神二神であったことを想起すべきでしょう。東大寺大仏の完成式に向かう八幡神、およびその有様を記述する、続日本紀の該当記事を読んでみます。

■平城京に招かれた八幡比盗_の存在
(天平勝宝元年=749年)十一月十九日 八幡大神は託宣して京に向かった。
十一月二十四日 参議・従四位上の石川朝臣年足・侍従・従五位下の藤原朝臣魚名らを遣わして彼らを迎神使とした。路次の諸国は兵士百人以上を徴発して、前後を固めて妨害を排除させた。また八幡大神の通過する国では殺生を禁断した。その八幡大神の入京に従う人のもてなしには、酒や獣肉を使用せず、道路を清掃してよごれやけがれをさせなかった。〔中略〕
十二月十八日 五位の官人十人、散位二十人、六衛府の舎人それぞれ二十人を派遣して、八幡神を平群郡に迎えさせた。この日、八幡神は京へ入った。そこで宮の前の梨原宮において、新殿を造って神宮とし、僧四十人を請じて、悔過[けか]の行を七日間行なった。
十二月二十七日 八幡大神の禰宜尼・大神朝臣杜女〈分注。その輿は紫色で、天皇の乗物と同じである〉が東大寺に参拝した。
 天皇(孝謙)、太上天皇(聖武)、皇太后(光明子)も同じく行幸された。この日、百官および諸氏の人たちすべてが寺(東大寺)に参集した。僧五千人を請じ、礼仏読経させ、大唐楽・渤海楽・呉楽と五節の田?・久米?を上演させた。その上で大神に一品、比盗_に二品を奉った。(宇治谷孟訳)

 大仏(盧舎那仏)の開眼供養(天平勝宝四年=752年4月9日)には八幡神の記載はありませんが、それにしましても、平城京へのこの上京の様は、道中および畿内の人々に、八幡神の存在を圧倒的に知らしめたことはまちがいありません。造仏成就・完成への協力の申し出・託宣をした神とはいえ、八幡神のこの遇され方は尋常ではありません。
 この異様ともいえる神迎えの記述は、あの熊野本宮神=瀬織津姫を、熊野から唐桑半島へ奉遷するときの大規模な随行の様と、優るとも劣らないでしょう。
 ともかく、ここで重要なのは、奈良・天平時代、八幡神は一神でも三神でもなく、八幡大神と八幡比盗_の二神であったと続日本紀が記録していることです(平安期に神功皇后が祭神追加され、八幡三神となる前の姿が、ここにはよく描かれています)。
 このように、男女神二神というのが「八幡様」の構成実態であること──、このことは、実は、宇奈己呂和気神社にも投影していることが考えられます。八幡比盗_が瀬織津姫であることについては、これまでに幾度か言及してきましたが、ここでは、同じ福島県の古殿町に伝えられている「他見堅無用」の文書「鎌田家文書」が、八幡比盗_が瀬織津姫であることを証言している事例を挙げるだけでじゅうぶんでしょう(囲炉裏夜話423・424「駒形神社の秘神」)。
 宇奈己呂和気神社の現在の「由緒」は、その主祭神の瀬織津姫(表記は瀬織津比売命)が八幡比盗_であることを明瞭に語ることを避けていますが、同社の「姉宮」を自称する八幡神社がこのことをよく証言していますので、以下に、そちらの「由緒」も写しておきます(『あさかの神社誌』)。

■宇奈己呂和気神社の「姉宮」を自称する八幡神社
(祭神)誉田別命、武御名方命
(鎮座地)郡山市美穂田町駒屋字四斗蒔106
(社格)旧村社
(由緒)
 神教延暦3年4月3日高?山より神宝奉遷のところ宇奈己呂和気神社御造営成らず、暫く駒屋村に奉安し9月19日御遷座奉成也。駒屋にて御休座の跡地に社を造営し姉宮と唱え奉り鎮守神として現在に至る。
 大正元年10月9日、元柳田角に鎮座の諏訪神社(御祭神武御名方命)を合祀し奉る也。

「姉宮」八幡神社の由緒伝承は、宇奈己呂和気神=八幡神が高?山=高旗山に鎮座していたことを語っています。郷土史家・田中氏は、美穂田町八幡の地に、高旗神=宇奈己呂和気神=瀬織津姫が、あとから鎮座してきたという「社伝」を記していましたが、そうではなく、瀬織津姫は最初から八幡神(の比盗_)だったということです。美穂田町駒屋の八幡神社は宇奈己呂和気神社の「兄宮」ではなく「姉宮」だというのは、やはり正当な伝承だとみるべきでしょう(同社の主祭神も瀬織津姫であった可能性が濃厚)。
 ところで、大仏完成式に宇佐八幡二神が京へ招かれたときの左大臣は橘諸兄(光明皇后の異父兄)でしたが、奇しき縁か、橘諸兄=葛城王はかつて、この陸奥国に派遣されていたことが万葉集に記載されています。

■ある采女の安積の「山の井」の歌
安積香[あさか]山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに
 右の歌は、伝へ云へらく、葛城王[かづらきのおほきみ]の陸奥国に遣さえし時、国司の祗承[つか]ふること緩怠[おろそか]にして異に甚し。時に、王の意[こころ]悦[よろこ]びず、怒の色面に顕れ、飲饌[みあへ]を設[ま]けしかども、あへて宴楽せざりき。ここに前[さき]の采女あり、風流[みや]びたる娘子なり。左の手に觴[さかづき]を捧げ右の手に水を持ち、王の膝を撃ちて、この歌を詠みき。すなはち王の意解け悦びて、楽飲すること終日[ひねもす]なりきといへり。(『万葉集』巻16、3807)

 葛城王(=後の橘諸兄)は、陸奥国国司の接待が「緩怠[おろそか]」だったことに怒り、その怒りを解くために、「風流」の心得のある「采女」は「左の手に觴[さかづき]を捧げ右の手に水を持ち、王の膝を撃ちて、この歌を詠」んだとされます。結果、諸兄は機嫌を取り直したということらしいですが、采女の「右の手に水を持ち」という仕草は、歌の「山の井」の「水」と連動していることが考えられます。この風流の妙に、諸兄は感心したということなのでしょう。
 万葉集の編者でもあった大伴家持が、この采女の歌を採録していた真意は測りかねますが、家持が宇奈己呂和気神=瀬織津姫を高旗山の頂で受感したことと妙に呼応している印象があります。わたしがこうおもうのは、安積の地において、瀬織津姫は八幡比盗_でしたが、しかし、その原型的性格はまさに「水」と「井」の神でもあるからです。采女は地方豪族の服属の証のために中央に差し出された、いわば人質みたいなものでしたが、ここでの采女は「前の」とありますので、かつて采女奉公をして帰ってきた女性なのでしょう。また、巫女的な素養をもっていたのかもしれません。この安積の采女は、怒る諸兄に、瀬織津姫を「水」に託して捧げ、かつ暗に歌ったともみることができるのではないか──。
 橘諸兄の指示で大伴家持が原万葉集の編集を行ったというのは、万葉集研究の半ば定説ですが、諸兄にしても家持にしても、水神=八幡比盗_としての瀬織津姫をよく認識していたことが考えられます。当時の国司の仕事は、まず土地神の祭祀を第一としていました(「時の政治が道理に背き、民の心が愁いうらむようになると、天地の神々はこれを責めて、鬼神が異状を表す」…727.2.21の聖武の勅)。諸兄が国司に対して怒ったのは、自身への接待の怠慢もあったでしょうが、その怠慢に対する怒りには、「朕は卿らを選んで国司に任じたが、法律を遵守しているものは僅か一、二人しかいない」(736.11.21の聖武の勅)といった、国司の怠慢が常態となっていた状況が背後にあったものとおもいます。
忠君の臣である諸兄の怒りには、私利に走り、また陸奥国の地神祭祀を「緩怠[おろそか]」にしている国司への怒りも二重化されていたのでしょう。安積の采女は、そんな諸兄の「意」を汲んで「水」を捧げる行為をし、また、それを明らかに告げる「山の井」の歌を詠んだというのは、わたしの深読みでしょうか。
 郡山には、「奥州草別大神」とともに、この万葉集の歌にみられる橘諸兄=葛城王と、謎の采女をまつっている神社があります。延喜式内社ではありませんけど、地元での信仰はそうとうに強いようです。王宮[おうのみや]伊豆神社といいます。ここでは、諸兄は土地の開拓に寄与した人物として、京での死後、本殿の裏に「奉葬」されたと伝承されています。橘諸兄は、安積の地においては、まさに「神」としてまつられています。

■王宮伊豆神社
(祭神)葛城親王、奥州草別大神、安積采女命、伊豆大神、箱根大神、三嶋大神
(鎮座地)郡山市片平町王宮17
(由緒)
 社伝によれば、古くより奥州草別大社として官民の尊崇を受ける。奈良中期我が安積片平は塩の入の郷と称し、民家八百戸を数えた云々…。
 今を遡る1280有余年前、人皇30代敏達天皇4世の孫美奴王の御子、従四位下葛城親王が和銅4年阿尺国按察使兼班田使に任ぜられ、当安積地方を開拓し今の片平の基礎を築かれたのである。のち、天平宝字元年正月74歳にて崩御、後に王の御徳を慕い、逢瀬川の清流を眼下に安積全域を一望できる景勝地(現境内)に御尊体を御本殿裏(現)に奉葬の後、この聖域は一般の立入を禁じ里人等が創宮し、奉祀された。
 降って鎌倉時代、源頼朝公が奥州征伐の折、家臣工藤祐経は戦功により安積45ヶ村を拝領、安積郡地頭職に任ぜられ、その子祐長を下向させた。上舘に本城を築き故郷の氏神「伊豆大権現」「三嶋大明神」「箱根大権現」を勧請し当社に合祀され、王宮伊豆大権現と称し崇敬された。

 王宮伊豆神社の神々の祭祀過程は、最古の奥州草別大神にはじまり、葛城親王(=橘諸兄)、安積采女命(ここまでは古代)、そして、伊豆大神、箱根大神、三嶋大神(以上は中世)が合祀されたというのが「由緒」が語ることです。王宮伊豆神社という社名の「王宮」は葛城親王(=橘諸兄)に由来し、「伊豆神社」は伊豆大神に由来しています。では、奥州草別大神とはなにかという問いが滓のように残りますが、「由緒」はそれを明かす言葉をもっていないようです。
 工藤祐経・祐長は伊豆半島の伊東を本貫としていましたので、工藤氏は当地では安積伊東氏を名乗ります(宇奈己呂神社由緒)。伊豆半島の伊東は伊豆山神社の祭祀エリアに含まれます。したがって、この伊豆大神は、遠野の伝承からいえば瀬織津姫となりますが、安積の地では「伊豆大神」以上に語られることはないということなのでしょう。あるいは、伊豆大神は奥州草別大神に二重化されているのかもしれません。
 伊豆山神社は、この王宮伊豆神社と同じく、宇奈己呂和気神社にもまつられています。ただし、宇奈己呂和気神社は「合祀」という主祭神の曖昧化をしていません。宇奈己呂和気神社由緒は、このことを、「工藤祐経も、伊豆国三社伊豆、箱根、三島の大社を奉遷し、いきなり相殿とせず、境内末社に祭祀、民心安定策をとり、信仰の定着を計る政策を行った」と述べています。宇奈己呂和気神社は、中世の工藤祐経・祐長の祭祀策を現在にまで変えておらず、そういった毅然たる見識が引用の言葉を書かせている由縁だとおもいます。宇奈己呂和気神社主神=瀬織津姫の「相殿」の神は、八幡神=誉田別命一神に留めているということです。
 ところで、「相殿」とはなにかという基本的なことにふれておきますと、それは、「主祭神のほかに二柱以上の神を合祀した社殿。その神を相殿神というが、主神に対する配祀の神の称である」とされます(『あさかの神社誌』)。神社用語の解説のような話になってきましたが、では、ここでいいかえられている「配祀[はいし]の神」とはなにかといいますと、「主祭神とともに祀られている神をいう。神社に祭神を勧請する際に奉祭される。柱数も一柱から数十柱におよぶ例もあるが、ほとんどは主祭神に由縁深い神が選ばれる」(同前)となります。
 宇奈己呂和気神社には「相殿八幡文書」が伝わっているわけですが、同社の主祭神は瀬織津姫、そしてその主祭神の「相殿」神として「配祀」されているのが誉田別命=八幡神です。神社用語の解説に照らして繰り返せば、宇奈己呂和気神社の相殿=八幡神は「主祭神(=瀬織津姫)に由縁深い神」だとなります。瀬織津姫が八幡神と「由縁深い神」というのは、これまでの日本の祭祀史において八幡比盗_の「真」がずっと伏せられてきましたので、これはまさに、八幡比盗_を瀬織津姫とみなしてこその「由縁」の深さだというべきでしょう。
『郡山の歴史』に「安積郡の人々は、安達太良山を神霊のやどる山として崇敬した」、「安達太良は、郡山地方の心のよりどころであり、またその生活を支えてくれる豊かな資源の山」という記述があります。先年、宇奈己呂和気神社宮司の大原康朝さんから、宇奈己呂和気神は安達太良山の神でもあるという話をうかがったことがあり、そのときはまだ瀬織津姫とはどういう神かを暗中探索の最中で、その話をゆっくりとお聞きする余裕がないまま辞したということがあります(大原さんは昨年亡くなられたとのこと)。安達太良山の神と宇奈己呂和気の神が同神だとしますと、瀬織津姫は「郡山地方の心のよりどころ」の神ともなってきますので、これはていねいにふれておく必要もありそうです。
 安達太良山の神をまつるのが安達太良神社(安達郡本宮町)ですが、同社の現在の「由緒書」によりますと、高皇産霊[たかみむすび]神、神皇産霊[かみむすび]神、飯豊和気[いいとよわけ]神、飯津比売[いいつひめ]神、陽日温泉[あさひいでゆ]神、禰宜大刀自[ねぎおおとじ]神の諸神とされます。谷川健一編『日本の神々』によりますと、これらのなかで、最初の二神(高皇産霊神、神皇産霊神)が宇奈己呂和気神だそうです。瀬織津姫はどこへ行った?というような記述ですが、それは措くとしても、たしかに宇奈己呂和気神は安達太良山の神とみなされているようです。また、安達太良神社の鎮座地は、阿武隈川と安達太良川の合流部=川合の小丘陵部に位置し、やはり「川=水」を意識したものとみることができます。
 安達太良神社由緒書は、「当社は久安二年(1146年)四月朔日近衛天皇の御代、安達太良山に鎮座されていた飯豊和気神、飯津比売神、陽日温泉神、禰宜大刀自神、俗に甑明神、矢筈森明神、剣山明神、船明神と、大名倉山に鎮座されていた宇奈己呂和気産霊二神、俗に宇奈明神とを合わせ祀って安達太良明神と称し奉り、本目村を本宮と改め、安達郡総鎮守として尊崇され、現在におよんでいる」としています。
 宇奈己呂和気神は「産霊二神」であり、これは先にふれた、八幡大神、八幡比盗_の二神に対応しているはずです。また、宇奈己呂和気神は「宇奈明神」とも呼ばれていたようです。
 この由緒書で少し混乱させられるのは、安達太良山頂部には飯豊和気神ほかが鎮座し、宇奈己呂和気神は別峰(大名倉山)に鎮座していることでしょうか。ここで、安達太良山の主神とされる飯豊和気神ですが、これも、元は宇奈己呂和気神社同様に、陸奥国朝積郡三座の一社である延喜式内社・飯豊和気神社の神です。安達太良神は総称神であり、宇奈己呂和気神や飯豊和気神は元の鎮座地から「安達太良明神」として遷移祭祀されているということなのでしょう。
 安達太良神として主峰に座る飯豊和気神社の由緒も読んでみます(『あさかの神社誌』)。

■飯豊和気神社「由緒」
(祭神)御饌津[みけつ]神
(鎮座地)郡山市美穂田町下守屋字飯森山1
(由緒)
 飯森山(妙見山)標高770m余りの嶺に鎮座する飯豊和気神社は、五穀養蚕の守護の神であって神亀元甲子年9月勧請による延喜式内安積(現郡山市)三社の二の宮と称せられる最古社である。〔後略〕

 神社「由緒」は語ることを遠慮していますが、「五穀養蚕の守護」の神徳をもつ御饌津神は伊勢外宮神(現在の表示は豊受大神)の異名とされます。宇奈己呂和気神と飯豊和気神がそろって「安達太良明神」を構成するものの、安達太良山の主峰に鎮座するのが飯豊和気神だとされるのは、それは、同神が伊勢外宮神であるという別格的「神格」の高さの認識があるからだと考えられます。これは詰めていけば、宇奈己呂和気神(=内宮荒祭神)と飯豊和気神=外宮神は同神ですから、あまりこういった「格」の優劣にこだわることは意味がないのですが、伊勢=二所皇大神宮を中心とする祭祀序列の規範にとらわれるかぎり、このような序列が発生することは一人安達太良山に限るものではありません。
 安達太良神社は宇奈己呂和気神の異称を「宇奈明神」としていました。おもえば、「ウナコロ」という社名の言葉は不思議な響きをもっています。「宇奈明神」という呼称をみますと、あるいは「ウナコロ」は一語ではなく分解できるものなのかもしれません。としますと、ウナ=「宇奈」は「海」に通じ、コロ=「己呂」は「来」に通じるものかもしれません。海来→宇奈己呂かななどともおもったり、あるいはコロはオロの転とみれば、海蛇・海竜かなどとも考えたりしますが、これは自信ありません。
 あるいは、国造の名にも「コロ」がみられますので、参考までに挙げておきます。
 熊野本宮神=瀬織津姫が唐桑半島へやってきたとされる養老二年=718年は、その五月二日の項に「陸奥国の岩城・標葉・行方・宇太・亘理・常陸国の菊多の六郡を分離して岩城国を設置した。白河・石背・会津・安積・信夫の五郡を分離して石背国を設置した」と記されています(続日本紀)。これは、それまでの陸奥国の南域を岩城国と石背国として独立させたということでもありますが(後にまた陸奥国にもどる)、この新しい岩城国の中心地はその国名に表れているように旧岩城郡でした。この国⇔郡は変転しますが、『先代旧事本紀』(巻第十「国造本紀」)によりますと、岩城国造の項に「志賀高穴穂朝の御世に、建許呂命を以て、国造に定賜ふ」とあり、「建許呂命」の名がみえます。また、隣の石背国にも「建許侶命の児・建弥依米命」と、建許呂(侶)命が重複してみえます。宇奈己呂和気神社のウナコロは、あるいは、こういった国造名となんらかの関係があるのかもしれません。
 山の威容ということだけでいえば、宇奈己呂和気神=八幡神が最初に鎮座した高旗山に比べますと、その北方に聳える安達太良山に圧倒的な存在感があります。宇奈己呂和気神および飯豊和気神の、この「北」への移動は、ヤマトの北進の姿と重なるようです。
 宇奈己呂和気神社は、これまで、瀬織津姫の名をよく消さずに伝えつづけてきたものと、あらためておもいます。これは、瀬織津姫が、福島の安積=郡山地方の神に留まるものでなく、全域にかつてまつられていたことと関わるはずで、その信奉の強さが、瀬織津姫の名を現在に残す理由だったのだろうと想像するしかありません。
福島の地には、ざっと拾っただけでも、瀬織津姫の痕跡はいたるところにみられます。
 これまでの瀬織津姫由縁のキーワードを、この福島の地にあてはめてみますと、たとえば、福島の三春大神宮(かつての神明宮)の鎮座地には「桜谷」、そこを流れる川は「桜川」、また、延喜式内社として登録されている信夫郡の白和瀬神社(現祭神…神日本武尊)の鎮座地の字名は「折戸」(祭神の性格は川上神=水神、近くの地名は「桜水」)、また「渡神」としての瀬織津姫からいえば、三渡神社、鬼渡神社、荷渡神社などの「渡」の社が集中するのが福島県です。
 瀬織津姫は、陸奥国の北の大河である日高見川=北上川ばかりでなく、南の大河である阿武隈川の川神でもあった可能性があります。これは、同川の最上流部が大白森・小白森であること、つまり白山神・オシラ神と関わる源流山名をもっていることからも想像されるところです(囲炉裏夜話710、711「白山神とはなにか」)。
 末筆となりましたが、郡山=安積の関係資料をお送りいただいた小針さんに、あらためてお礼申し上げます。

(追伸)
 一国の大統領・総理大臣の痴呆的妄想の論理、それをまったく相対化できていないマスコミ・ジャーナリズムの判断放棄の言説が万延してきています。比喩的にいいますと、「日本」の水面下の現在は、瀬織津姫をタブー視する思想が「常識」の蓑を着て、まるで旧知の友人の顔をして、いつのまにか隣に座っているといったところでしょうか。今、この「愚かな日本」、あるいはわたしたちを笑える神は、おそらく一神しか存在しません。心して、想像力と言葉を、そして心自身を鍛えておくしかないようです。ネット世界の狭い関係空間を「世界」と錯覚しないようにいきましょう。

743 宇奈己呂和気神から物部神へ 風琳堂主人 2003/07/08 14:44

 宇奈己呂和気神の関連資料ということで、福島の小針さん・三浦さんから新たな資料のご送付をいただきました。ありがとうございます。
 お送りいただいた資料の一つは、大正12年発行の『福島県下諸社祭神』(福島県神職会)、もう一つは、『古里の神々──旧伊達郡神社銘鑑』(福島県伊達郡神社総代会)といいます。
『福島県下諸社祭神』は、戦前の各社祭神の公的登録の一覧というべきものですが、社格ごとの分類をしているものの、村社の下の「無格社」は除外されています。この無格社に、よく生き延びたなという神々が確認できる可能性があります(現在に瀬織津姫の名を伝える大滝神社二社などはこの類です)。とはいえ、村社以上の神社が網羅されていることで、『福島県下諸社祭神』は一級の資料・史料であることはいうまでもありません。たとえば、山間の小さな村社ゆえにというべきでしょうか、荒脛巾神社の名もあります(旧・北会津郡湊村大字赤井)。戦前当時、祭神は「塩椎神」と登録されていたようです(現在もですが)。
『古里の神々──旧伊達郡神社銘鑑』は、そのサブタイトルが示しているように「旧伊達郡」の神社を社格と関係なく拾い出していて、地域限定ではありますが、これはこれで興味深い記録集です。福島県において(も)、瀬織津姫は滝神としてまつられる例が多いのですが、「旧伊達郡」の滝関係社からは瀬織津姫の名は出てきません。
 具体的には「御瀧神社」(伊達郡国見町大字光明寺字瀧沢19)の祭神は「稲倉魂命」、「九瀧神社」(伊達郡梁川町大字舟生字明神前43)も同じく「稲倉魂命」と表示されています。
 前社は、旧号「御瀧大明神」で、その祭神の性格は「五穀の神、養蚕の神」、境内からは「福島の水三十選」に選ばれている清水が湧出し、眼病に効くという根強い信仰があるとのことです。
 後社は、阿武隈川の難所である「九つの滝」を社名の由来としていて、由緒は、阿武隈川舟運の守護神として「稲荷の大神」をまつったとしています。
 明治期、渡神(=瀬織津姫)が稲荷神に変更された例は田村郡にみられますが(囲炉裏夜話294「三春滝桜と瀬織津姫」)、こういった滝神かつ船霊神としての瀬織津姫についてはすでにふれてきましたのでくりかえしません。
 この『古里の神々』には、瀬織津姫の痕跡をもう少しはっきりと伝える神社が収録されています。伊達郡保原町に鎮座の神明宮です。

■神明宮「由緒」
(祭神)撞賢木厳之御魂天疎向津比売命、誉田別尊、武甕槌命
(鎮座地)福島県伊達郡保原町字宮下1
(由緒)
 昔、上保原字三日市に三日市次郎太夫という国学者がいた。乞われて神宮の神官となったが、郷土を想う念あつく、願をたて、三日市と流町に内宮と外宮を、その中間に相の森を築き、星の宮を遷座したという。ところが、ある年の阿武隈川の洪水の時、古川も氾濫し、三日市の神殿が流されて九丁目の医者伊藤松庵宅に流れついた。不思議なことに、御神体は少しも濡れていなかった。奇異を感じた村人は、その神威に感じて現在地に祀ったという。
 古くからの記録は、度々の火災により失っているが、当社は保原郷草分けの神社で、古くは東裏にあり、境内は百間四方もあったという。熊野大権現と並んでいたが、中島の城主のとき、熊野大権現は廃社され、神明宮も十間四方に縮小された。その頃は白蚕神明宮と呼ばれていた。境内に桑木が多く、拝殿で白繭の蚕をはじめて飼ったのでその名がでたという。〔中略〕
 現在の社殿は明治二年に造営された。〔後略〕

 まず、その祭神名の「撞賢木厳之御魂天疎向津比売命」ですが、これは日本書紀に最高の祟り神として記されている名でもあります。書紀は、この長い神名をもつ神を天照大神荒魂とも記していましたが、これは瀬織津姫の異名です。神明宮=伊勢と関わる瀬織津姫祭祀を考えますと、保原町の神明宮は、内宮の元宮ともいうべき荒祭宮が「本家」となります。
 なお、荒祭宮のさらなる「本家」をいえば、それは磯部氏の祭祀となる志摩国の伊雑宮(瀬織津姫が元神(の一神)…『エミシの国の女神』参照)へ、さらにたどれば、志摩国一ノ宮・伊佐波神社(現祭神…宗像三女神)へとつながっていきます。要するに、瀬織津姫は九州の宗像へとつながっています(少なくとも、宗像三女神の一神・湍津姫と瀬織津姫は同神)。これが、宗像大社が「裏伊勢」を自認・自称してはばからない理由です。蛇足ながら、磯部氏が関わる常陸国・礒部稲村神社の中心の主祭神は天照大神(男系太陽神)と瀬織津姫ですし(同国の稲村神社の祭神はニギハヤヒ)、上野国一ノ宮・貫前神社(現祭神…経津主神、比売大神)の祭祀に関わるのも物部姓磯部氏とされますから、これまで謎とされてきた「比売大神」も瀬織津姫とみなすことができます(同社由緒によれば、この比売大神の神徳は「養蚕機織の神」)。
 瀬織津姫は、伊勢においては古川(=布留川で、現在は外城田川)の川神でもありました(囲炉裏夜話707「水主神とはなにか」)。その同じ川名がここ保原町にも確認できます。また、瀬織津姫は養蚕神かつ織姫でもありました(『エミシの国の女神』)。保原町の神明宮が「保原郷草分けの神社」であり、その親称が「白蚕神明宮」だというのも、これも不自然でない記録です。
 ただ、一社一ページという限定紙面のため、ここにはまだ貴重な由緒・伝承が割愛されているようです。その最たるものは、「古くは東裏にあり、境内は百間四方もあったという。熊野大権現と並んでいたが、中島の城主のとき、熊野大権現は廃社され、神明宮も十間四方に縮小された」という記録です。この廃社問題と社地縮小の問題は、上記の記述からだけでは推し測ることは不可能です。
 この「保原郷草分けの神社」とされる神明宮は、戦前までの社格は「郷社」であったことが『福島県下諸社祭神』からわかります。社格だけでいえば、宇奈己呂和気神社と同格でした。わたしがこの小さな由緒抜粋から「?」とおもったのは、熊野大権現廃社問題のほかに、「現在の社殿は明治二年に造営された」という一行です。写真をみるかぎり、ここはとても豪壮な拝殿を有しているようです。由緒によりますと、本殿外の付属施設としては、「拝・幣殿」「御神馬舎」「神輿庫」などがあり、明治初頭の大混乱期に、これだけの設備を構築できたということは、まさに保原郷の中心社だということもありますが、そこには保原一郷以上の関与がなされたのではないかと想像されるわけです。しかも、ここは伊勢に準じて「遷宮」を行っていることが由緒外の注に記されていて、明治期・近代日本の国家神道の中心社としての伊勢神宮を、正確に模していることがわかります。
 わたしがこの保原・神明宮で感心するのは、明治期にその祭神表示を、全国に準じて「天照皇大神」などとせずに、瀬織津姫の異名とはいえ「撞賢木厳之御魂天疎向津比売命」の名をよく譲らなかったなとおもえるからです(『福島県下諸社祭神』にも同祭神名の記載がある)。瀬織津姫の名はストレートに表に出すことは控えるが、その異名だけは譲らないという氏子の総意と意志があったことが想像され、なるほど、福島は自由民権運動の一大根拠の地でもあったなと重ねて想像もしたりしています。

 ところで、宇奈己呂和気神社の鎮座地ですが、現在は「郡山市美穂田町八幡字上の台76」、大正12年の時点では「安積郡穂積村大字八幡」でした(『福島県下諸社祭神』)。
 穂積村は穂積氏と関わりあることが考えられます。穂積氏および小野氏と瀬織津姫には濃厚な関係があることについてはすでにふれました(囲炉裏夜話731「熊野神としての瀬織津姫」)。小野氏は妹子の前がはっきりしませんけど、水神を奉戴していた一族と考えられ、また穂積氏は物部氏の有力同族です。
 瀬織津姫の隠祭を含めますと、瀬織津姫祭祀の全国分布は、物部氏の分布、および銅鐸出土地の分布と色濃く重なっているようです。銅鐸は「物部王国のシンボル」と明かしたのは谷川健一さんでした(『白鳥伝説』)。また、銅鐸は雨乞いの祭具として使用された例は早くから柳田國男によって指摘されていました。
 谷川健一『白鳥伝説』によりますと、物部氏の氏神は高良神(高良玉垂神)であると最初に指摘していたのは太田亮とのことですが、谷川さんもこの太田説を継承しています。
 高良神(高良玉垂神)は宗像神の可能性が高く、かつその神の性格は「水神」であることについては、断片的ですがこれまでにもふれてきました(囲炉裏夜話373「老松宮と水天宮」、559「青と赤の話」、606「筑紫中津宮と宗像神」、620「高良玉垂神と宗像神」)。
 福島県には、荷渡神社、三渡神社、鬼渡神社など、「渡」を社名にもつ神社がとても多く分布していますが、この渡神が水源神=水神であり、同神が瀬織津姫であることについてはすでにふれました(294「三春滝桜と瀬織津姫」)。今回、『福島県下諸社祭神』を通覧していて、「高良玉足命」を主祭神とする二羽渡神社(旧・相馬郡新地村大字小川)の存在を知りました。
 福島県下で、この高良神をまつる神社があと一つあります。白旗神社といいます(旧・安積郡豊田村大字川田)。白旗神は八幡神ですから、八幡比売神に「高良玉垂命」が充てられていることは重要な表示というべきです。また、白旗神社の祭神として「菊理比盗_」を充てているところもあります(旧・西白河郡古関村大字河東田)。菊理比盗_は白山神とされていますが、白山(地主)神もまた瀬織津姫でした(710、711「白山神とはなにか」)。
 これらの祭祀状況を総合しますと、八幡比売神=宗像神=高良神=白山神といった等式が成立します。これらの等号式にはまだ熊野神ほかを追加できますが、ともかく、これらの等号式の背後の神として認定できるのが瀬織津姫です。
 こういった隠祭まで含めた全国祭祀をみますと、その広範囲な祭祀に関わる基幹あるいは母胎氏族として、物部氏の存在がみえてきます。
 しかし、ヤマト化した物部氏(斎部広成『古語拾遺』にならえば「内物部」)の文書である『先代旧事本紀』は、書紀の神代記をなぞるばかりで、瀬織津姫の名を確認することはできません。石上神宮(奈良県天理市)の祭神の性格は布留川=古川の水神をまつる伝承があるものの、そこにはフルの霊神あるいはフツの霊神以上の表示がみられないことと対応しているようです。ただし、布留川上流には石上神宮の「元社」を自認し、また、滝(桃尾滝)をご神体としているとみてよい古社=石上神社(現祭神…石上大神)が鎮座しています。ここはかつて桃尾御前社の異称をもっていました。江戸期にはすでに祭神不詳とされていましたが、滝神=瀬織津姫と物部氏が鋭く交差する神社だといえるかもしれません。
 物部氏の氏神としての高良神=水神という、太田亮、谷川健一諸氏の仮説・指摘は説得的です。
物部氏と水神の関係を実証できそうな具体例はほかにないものか──。
 荒脛巾神社が鎮座する地(旧・北会津郡湊村)には、「物部守屋大連」を祭神とする守屋神社が確認されます(旧・北会津郡湊村大字原)。湊村という同村内に、物部氏ゆかりの二社が並存していること──、これは物部氏(の同族)の同地への開拓進出をうかがわせます。
 物部守屋は崇峻二年=587年に蘇我馬子・聖徳太子軍によって滅んでいますが、このとき、物部軍はいわば「賊軍」でもあります。その大将ともいうべき守屋がまつられているのが、戊辰戦争時の、やはり「賊軍」とされた会津の地だというのも、歴史の因縁を感じさせます。
 書紀は、この蘇我・物部戦争において、守屋の一族は「あるいは葦原に逃げ隠れ、姓を改め名を変える者もあった。あるいは逃げ失せて逃亡先も分らなかった」と記しています。
 物部氏の大和における最初の敗亡と流亡は四世紀初頭のことでしたが(谷川健一『白鳥伝説』)、この物部守屋一族の敗亡と流亡は、物部氏を襲った二度目の大受難であったといえます。
 物部守屋の次男に真福[まさち]という人物がいたらしいのですが、彼は三河国で村積神社を創建しています。後の大宝二年=702年、ときの太上天皇=持統は三河国へわざわざやってきて、この村積神社のある山(村積山)の麓に枝垂れ桜を植えています。物部氏が創建した神社ですから、ニギハヤヒとかウマシマジ、あるいは高良神=水神といった物部氏ゆかりの神をまつったものとおもいますが、同社の現祭神は木花開耶姫命、大山祇命、大己貴命の三神とされています。村積山は山桜の咲き誇る山で、そのため「花園山」の別称や、その富士山型の山容から「三河富士」の異名があります。祭神の木花開耶姫は、桜や富士の神を意識して表示されていることは想像にかたくありません。持統はなぜわざわざこの地にまで足を運んだのかという問題はとても重要で、三河国の彼女の足跡地には瀬織津姫祭祀地という共通項があります(詳しくは『エミシの国の女神』を参照ください)。
 物部真福が創建したのが村積神社でしたが、実は、彼は神社だけでなく寺も創建していました。真福寺といいます(愛知県岡崎市真福寺町字薬師6)。同寺の鎮守神が村積神です。案内書を読んでみます。

■真福寺「由緒」
(名称)霊鷲山降劔院真福寺 天台宗所属
(建立)聖徳太子建立 三河国最古寺院
(本願施主)物部の大将守屋の次男 真福
(起源)
 人皇二十五代仁賢天皇の御代八年六月朔日に八尺八の利劔天降り、その後年を経て人皇三十四代推古天皇の御宇、物部守屋の次男真福が本堂山より霊光かがやき瑞雲たなびくを見て不思議に思い、訪れ来た山上に滾々と湧出る泉を発見し、珍しさに眼をうばわれそのかたわらにたたづんでおられた処、突如として日頃の信仰仏、薬師如来が水中より眼前に出現せられた。有難さのあまりひれ伏すことしばし、やがて「是好良薬、今留在此」の誦音と共に水中に納まりたまうのを拝された。真福は感得した霊顕を広く末代まで伝えるために一宇の仏寺建立を思いたち、千四百年前の威容を現したのが真福寺本堂の始まりであり、本尊を水体の薬師様と称する所以であります。これより後、三河の国最初の寺院として広く庶民の崇敬の的となり、身体健康、眼病を治す仏様として信仰をあつめてまいりました。〔後略〕

 霊鷲山降劔院真福寺の「降劔」に、剣霊を奉戴する物部氏「らしさ」が出ているといえばいえます。また、同寺の本尊は「水体の薬師」とされ、同寺ホームページによれば、本堂直下の井戸の「水」が「本尊」とのことです。「水」そのものを本尊とするというのは、他にない特徴で、それが物部氏と関わっているのが興味深いところです。
 こういった「水」の発見から祭祀がはじまるというのは、一般的には、寺ではなく神社の創祀譚として語られるはずです。また、「水」の霊神が仏と習合するときには、やはり薬師というよりも観音、それも水神の化身としての十一面観音かとおもいますが、真福寺は、これらを一体化して「水体の薬師」と称しています。
 ともかく、水神と物部氏の濃い関係が、真福寺にみられます。「山上に滾々と湧出る泉」を本尊とする物部氏創建の寺──これは足を運び一見するに値するとおもい、先日、車を走らせました。しかし、同寺の本尊である「水」は秘仏とのことで対面は不可とのこと、また、若い住職は、物部氏の祖神であるニギハヤヒの名も知らないということで、あまり質問してはいけないようでしたので、本堂周辺を散策してみました。すると、本堂の鬼門=東北の方角に八所神社なる神社が鎮座しています。同社の前の石碑に刻まれた由緒がふるっています。以下に転記します。

■真福寺の元は白山社
(社名)八所神社
(祭神)五男三女神、大物主命、素佐之男命、加具土神(白山比当ス)
(鎮座地)岡崎市真福寺町字薬師山一番地
(由緒)
 創立年代は明らかでない。真福寺創建以前すでに御霊を祀った祠があり、その祠を八所権現と称し白山比唐祀る白山社を、奥の院と称した。徳川家康の崇敬厚く御朱印をもって社領とした。古い棟札によると慶長十七年(1612)拝殿が建立され宝暦五年(1755)に白山宮が災害により大破したので真福寺学頭の協力を得て再建されたという。
 その後の営繕管理は真福寺が行ってきた。明治維新後には八所権現を奥の院と称する白山宮へ遷座し八所神社と称するに至る。金毘羅社、秋葉社、津島社の三社を相殿として合祀した。

「加具土神(白山比当ス)」という祭神表示には混乱がみられますが、「真福寺創建以前すでに御霊を祀った祠があり」という記述は重要です。由緒は、この「祠」を八所神=五男三女神(アマテラスとスサノヲの「誓約」による誕生神)と記していますが、これは記紀以降の発想で、真福時代(6世紀)には成立しません。この「祠」はやはり「奥の院」と称された白山神とみるべきでしょう。白山神は水神の最高神でもありますから、本堂真下の「井」の水神こそが、白山社=白山宮の祭祀の始まりに関わるはずで、そこに寺があとから創建されると、白山神は、ご神体の「井」あるいは「井の水」を「水体の薬師」に譲って、まさに「奥の院」として後方へ退いたものとみることができます。
 この譲渡がいつのころなされたかについては、寺伝も社伝も、ともに語る言葉をもっていないようです。ただ、寺伝は、中世の鎌倉時代には、「聖徳太子建立四十六箇寺の一つとして、大阪の四天王寺、信濃の善光寺、奈良の法隆寺と肩をならべ、その寺名を天下にとどろかせた」と記していますので、古代のかなり早い時期に、白山神はその神体である「井」を「水体の薬師」に明け渡したことが考えられます。
 なお、村積山は真福寺の山=薬師山の北方背後にそびえ、そこに真福寺の鎮守神として木花開耶姫ほかがまつられています。真福寺の鎮守が村積神社であることを事実としますと、村積神社と真福寺は一体の関係にあるといえるわけで、そうとしますと、村積神と真福寺の地主神が異神とみるのは不自然です。ここでも、桜神と水神に共通する神を想定できるものとおもいます。
 さらに、両社寺が一体であることを考えますと、持統女帝が背後の村積山・村積神社まで出向き、同じ物部真福創建の真福寺を無視したとはやはり考えにくいです。ここでなによりも重要なことは、持統の時代、本家の白山神は、まだ瀬織津姫であったことです(瀬織津姫の名が白山から消去されるのは、持統あとの奈良朝・元正時代のこと)。つまり、持統が三河国を歩いていた時代(702年)、真福寺の水神=白山神は瀬織津姫であったということです。
 これは仮定としていうしかありませんけど、物部真福は、当初、白山神の名でまつったかどうかはともかく、明らかに「水神」をまさに物部氏の氏神とみなして、ここへ真福寺を創建したのではなかったかということが考えられます。なぜなら、物部氏の氏神は、高良神という水神の可能性が濃厚だからです。この仮説に無理がないものとしますと、白山神=高良神という等式がここでも確認できますし、また、真福は、日本で最初の神仏混淆を実行した人物だとなります。真福寺が聖徳太子の創建だというのは、古代のある時期の付会というべきで、これは信ずることは不可能です。
 持統女帝は、この村積山への「行幸」を含む三河行を終えて帰京すると、約一ヶ月後に亡くなります(大宝二年=702年12月22日)。続日本紀の同年末の記載は、意味深長というべきです。

■持統の死と大祓の中止
(大宝二年=702年)十二月二十九日 太上天皇(持統)の遺体を仮りに西殿の庭の殯宮に安置した。
十二月三十日 十二月晦日[みそか]の大祓を中止した。しかし、東西の文部[ふひとべ](東文直[やまとのあやのあたい]と西[かわち]文首[おびと])が祓詞を奏するのは平常通り行なった。

 この「十二月三十日」の記述はとても奇妙なものです。一方で「平常通り」行われた祓詞の奏上があるかとおもえば、なぜか「十二月晦日の大祓」は「中止」されたというのです。この二つの祓いの祝詞の大きな違いは一つしかありません。それは、中止された「大祓」の祝詞の中心の神は瀬織津姫で、「東西の文部[ふひとべ]」が奏上する祝詞には当該の神は出てこない、つまり形骸的といってよい儀礼的なもので、たとえ奏上しても毒にも薬にもならない祝詞だということです。
 ここには、持統の三河行幸の目的あるいは意味が、端的に語られていると読むことができます。持統の周辺の朝廷権力者たちにとって、持統の三河からの帰京後の急死に近い死は、なにものかの「祟り」と受感したはずで、その「祟り」と関わる神が主役で登場する「十二月晦日の大祓」を例年通り行うことはありえず、その中止は必然だったというべきでしょう。
 明治・近代にまで継続される瀬織津姫隠祭の歴史は、天智時代にその萌芽があり(大祓祝詞の初期創作=669年)、壬申の乱(672年)後の天武・持統の時代から本格化します。天武・持統両帝の死に共通して関わっているのが瀬織津姫です。中央の祭祀権力者たち(中臣=藤原氏たち)は、伊勢の元神の改竄および社殿の破壊(式年遷宮の開始)→アマテラス=皇祖神=内宮の創造という、自分たちの一方的な国家構想の根拠づけの所業は棚に上げ、これ以上はないという独善性のもとに、瀬織津姫を一方的に「祟り神」として強く認識したことが考えられます。記紀の最高の祟り神として、天照大神荒魂=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命が記載される理由の半ばは、この両帝の死を身近にみたものの認識の内に胚胎したこととおもいます。
 ちなみに、物部真福は、真福寺東北にある「御池」で入水自殺をしたというのが、同寺の伝承です。御池には真福の供養塔が建っているそうですから、これはかなり信憑性の高い伝承だとみなせます。としますと、真福は父・守屋の敗死に殉じたものかとおもいます。「剣」ではなく、「水」に自らの生を放り込んだ真福の死のイメージは、あらためて物部氏と水霊神との濃厚な関係を暗示しているとみることができそうです。

748 桜について 岩手のGO 2003/07/29 22:15

お久しぶりです。無事に退院しましただ(^^)

ところで桜を調べていたら、樹齢が人間の寿命に近いものであるから人間の移し身として桜が存在していたようですね。例えば我が身の寿命を桜に委ねるとか、自分にかかった呪いを桜に移して封じ込めるとか。つまり桜というものは人間の生命やら呪いやらと、穢れや罪を吸収する移し身という存在・・・。神社仏閣に植えられているものは杉と松と桜。特に桜は先程述べたように、樹齢が人間の寿命に近いものであるから、丑三つ時の呪いのわら人形を打ち付ける樹木としては最適だったみたいです。そして神域に植えられた桜が傷つくのを嫌がる神は、呪いの相手を犠牲にしてまでその呪い主の願いを成就させるもののようです。

そして川が氾濫するという水害時に死人が多く出た場合、その対策として川沿いに桜を植えるというのは根が深く、水をよく含んでくれるからというだけではなく、人間の死によって穢れたものをも吸収するという意味合いから桜を植えていたみたいですね。

以前、瀬織津姫は桜の神でもあるとお聞きしていたので、穢れ祓いのシステムから当然桜というものは重要な役割を果たしていたんだなぁと・・・。つまり死であれ愛のもつれであれ、様々な罪や穢れを桜が吸収し溜め込んだものを川に流してやり、それが海へと流れ根の国・底の国へと…という穢れ祓いのシステムに桜かかせないものだったのですね。だから当然、瀬織津姫が桜を奉る神であるのも納得しました。

過去ログを読んでいないもので、既に公になっているとは思うのですが、自分自身でなんとなく一連の流れが見えたので嬉しく思い、書き込んだ次第でした。それでは(^^;

746 初心をおもう──囲炉裏夜話の考え方V 風琳堂主人 2003/07/19 06:27

 囲炉裏夜話745「初めてのパソコン」は、ご本人から、誤って送信ボタンを押してしまい、削除の仕方がわからないため、当方で削除をとの連絡をいただきました。この「削除の仕方がわからない」というのはわたしも一緒で、こういうときは、風琳堂のパソコン師匠・サコウさんにいつも「削除依頼」をして処理してもらっています。
 パソコンの基本(以上の)機能を平然とつかいこなしている人たちが「異星人」にみえるときがあります。このネット世界に二年ほど上半身を突っ込んでいますけど、どうも足は地上から離陸しないまま時間が経っているようです。
 ところで、この小さな誤投稿で、少し考えることがありましたので、それを以下に書いておきます。今回は、瀬織津姫の話題とは直接に関わりませんけど、また無縁でもないという周縁の話です。
 ふりかえりますと、自分も「掲示板」へ初めて書き込むときは、不安と緊張が縞々パンツの心模様といった経験をしたなと思い出されます。
 こういった不安と緊張は、公的な空間に自分の言葉を初めてさらす、いわば、未知の世界へ初めて自分を押し出すところからやってくるのでしょう。いわば、「初心の不安」です。そして、この不安、畏れといった最初の感覚は、とても大事じゃないかと、今回、あらためておもったのでした。
 書き込み、あるいはパソコンに慣れてきて、馴れすぎてきて、つまらない利用法に習熟してしまう人もたくさんいます。
 これから投稿をいただく皆さんに、ここで、一つお願いがあります。
 それは、この「囲炉裏夜話」へお寄せいただくすべての「話」は、たとえば、曲り家かなんかで、夜、囲炉裏の火を囲んで、その「話」を「見ず知らずの人たち」が聞いてくれているといったイメージを、いつも頭の隅に置いておいてくださいということです(この例え、たしか前にも書きましたが)。
 メールで足りる「話」はメールでしていただき、もし私信を越える話を寄稿されるときは、上記イメージと対話した上で送信してください。また、最低でも、ご自身のメールアドレスは表示いただくことを、これからの「投稿」の条件といたします。うっかりミスはともかく、アドレスを意図的に匿名化したものは、その内容を問わず、原則、削除の対象となります。ハンドルネームという匿名性に重ねて、その所在も匿名化して、どう自分あるいは自分の言葉に責任をとるんだということです。
 最近、匿名の悪意の連鎖(ネットワーク)、ズルが、あちこちで隠見されましたので、「囲炉裏夜話」の基本的な考えを、649につづいて書かせてもらいました。
「囲炉裏夜話」は、ネット世界の内外ともに、徒党を組む発想・思想とは対極の場所で運営されています。「徒党」と無縁であろうとする心をもつ個人、いいかえれば、本質的な他者=読者の視線に鈍感な(迷惑な)投稿は受け付けないことを、ここに再確認しておきます。
 駅前の伝言板と同様に掲示板をみなすことと「言葉の自由」は異なります。持統ババアと不比等ジジイ(囲炉裏夜話151、156)と、ガキの投稿はお断りといったところでしょうか。
 どんなことでも、「初心」は、やはり大切なのだとおもいました。自戒を込めて──。

749 桜神と大井大神 風琳堂主人 2003/07/31 17:13

 GOさん、冥界から無事に帰還されたようでよかったです。
 退院記念の桜(神)考をありがとうございました。
「穢れ祓いのシステム」としての桜、あるいは桜神の存在ですが、この桜神に瀬織津姫を重ねますと、たしかにこういった祓いのシステムが「桜」に内蔵されているだろうとおもいますね。
 ただ、これはわたしの考えですが、この祓いと関係する桜のイメージは、瀬織津姫が、やはり大祓の神として設定されたあと(7世紀後半以降)のことではないかとみています。では、その前はといいますと、桜はもっとシンプルに、水神の化身木としてみられていたのではないかと考えています(囲炉裏夜話298「水神の化身としての桜」、304「和泉式部と瀬織津姫」ほか参照ください)。
 静岡県島田市に鎮座する大井神社(本社)ですが、ここの「飛び地境内末社」に鎮水神社(向谷[むくや]水神社)があります。同社は大井川に面した丘陵部に鎮座していて、やはり桜の古木が植えられています。その社名が端的に明かしていますが、大井川の暴れを鎮める神をまつる、つまり大井川の川神をまつるものとみてよく、この末社の祭神は瀬織津姫とされています。
 大井神社本社は、同社もまた大井大神をまつるとしているのですが、同社の水の主神は弥都波能売[みづはのめ]神という表示をしています。要するに、瀬織津姫の名を表示することを避けていますが、同社では、この弥都波能売神を瀬織津姫と同神と認識しているようです。
 このことは、大井神社境内の「神井戸」(現在、この井の上に祓戸神社がまつられている)の神が祓いの神であり、この神こそが「大井の大神」であるとする由緒案内の文面によく表れています。

■大井神社「由緒」
(祭神)弥都波能売神、波迩夜須比売神、天照大神
(鎮座地)静岡県島田市大井町2316
(御祭神の御神徳)
 古来大井の大神様として崇められ大井川鎮護の神、水を恵み大地を治める神として偉大な霊力をもって我々を御守護下さる神々である。生命生産の守護神として崇敬されると共に穢を祓い災いを退ける清めの神様としても広く仰ぎ尊ばれている。

「大井の大神様」はまず水神(大井川鎮護の神)であり、そして「穢を祓い災いを退ける清めの神様」とのことで、これは弥都波能売神というよりも、大祓の神である瀬織津姫を表しています。また、大井川上流部の大井神社、および八幡社などに合祀されている大井神社の数社が、瀬織津姫単独祭祀を証言していますので、「大井の大神様」は、瀬織津姫と断定してよいということです。
 水霊神としての瀬織津姫はしばしば「白蛇」として化現することは各地にみられるものですが、ここ大井神社においても、それはいえるようです。
 同社に伝わる瀬織津姫に深く関わる伝説を紹介します。

■大井神社白蛇[しろへび]伝説
 むかし、大雨で大井川がはんらんして、島田の町が大こうずいになってしまいました。水はどんどんふえつづけて、町人[まちびと]がもうだめかとあきらめかけたとき、赤い目をした白い大きなヘビ(大蛇)があらわれて大雨の中を、しずかに町の下[しも]の方へすすんで行きました。大蛇は高島[たかじま](いまの六合駅から旭町のあたり?)の堤防まで行くと、ひと暴れして、大きなしっぽではらい、堤防をこわしました。あふれていた大水は、見る間にひいて、町は洪水からのがれることができました。水がひいたのを確かめると、大蛇は白いきものすがたの美しい女になり、町のうらどおり(いまの新田町)を通って大井神社にもどって行きました。このとき「なんていい女だろう」などと、へんな目でこの女性をながめた男たちは、ねつを出して寝込んでしまったそうな。また、この白い大蛇の赤い目は、良く見ると片方が小さかったそうで、島田の人々は必ず片方の目が小さいのだそうな。
 昔から大井神社のご神体は、白い蛇の姿をしているといわれ、今でもご本殿には六尺(2mくらい)ほどの蛇が住んでおり、見かけたひとが手を合わせて「どうぞお帰りください」と唱えると、ご本殿に帰ってゆくのだそうです。(大井神社配布の案内)

 大井神社の神は「白い蛇の姿」をしていて、人の姿に化身するときは、「白いきものすがたの美しい女」となるそうです。こういった白蛇─美女伝説は目新しい話ではありませんが、それが大井神社の本殿の主、つまり主神と同体と伝承され、しかも、洪水を鎮めたとされていることで、前述した「鎮水」神=瀬織津姫と過不足なく重なってくることがわかります。
 大井神社本殿の祭神表示をやんわりと訂正するような、大井川の鎮水神の話です。この鎮水神社は現在、そこを訪れても、ここの神が瀬織津姫であることがみなにわかるようには表示されていません(大井神社の宮司さんは瀬織津姫と認めていますが)。この鎮水神が桜の古木とともに、丘陵部から大井川を鎮護している立地をみますと、瀬織津姫の沈黙の時間が、まさに大井川の水のように、今も絶えることなく流れつづけていることがよくわかります。
 大井神社よりいただいた「向谷水神社(鎮水神社)」という案内(筆者は杉本洋一氏)には、「近代島田はここ向谷水神社の築堤により出来た」、「現在の旧市内の島田の大部分の川の水は向谷水神社付近からの取入用水である」といった見出しがみられ、島田にとって、この鎮水神社=向谷水神社は同市の「水」を司る要の社であることがわかります。大井神社本社社域は実に行き届いた手入れがなされていますが、この「飛び地境内末社」=鎮水神社は、放置にも等しい「荒れ」がみられます。本社と同様に、もう少し手厚く遇しても、おそらくバチはあたらないだろうとおもいます。

(追伸)
 今出先で長い話が書けませんが、藤原不比等が、瀬織津姫関係神社の祭神変更に特別に関与していた可能性がみえてきましたので、これは後日またということで──。

751 不比等の関与 岩手のGO 2003/08/05 10:51

>今出先で長い話が書けませんが、藤原不比等が、瀬織津>姫関係神社の祭神変更に特別に関与していた可能性がみ>えてきましたので、これは後日またということで──。

以前「穢れ祓いのシステムは、元々瀬織津姫一人だった…。」と教えてくれましたよね。それが四神に増えたのはやはり、藤原家の政治哲学なのでしょうか?寄生植物である”藤”を名字に採用した時点で、藤原家の恐ろしさを感じてしまいます。文武二年に不比等の子孫だけに藤原を
名乗らせ、意美麻呂などを元の中臣姓に戻らせたのも、いろいろなシステムを細分化して一族を配置していく事により、藤原一族そのものを目立たなくする為だったのでは?と考えてしまいます。

とにかく不比等の関与の話、楽しみに待っています!

753 はじめまして セオリツ 2003/08/09 14:52

瀬織津比賣を追っていらしゃるそうですが、こちら、宮崎県の延岡市大門町(おおかど)の御陵神社に祀っております。宮崎県指定第16号古墳の上に建つ小さな神社ですが、ご存知の通りお祓いの神さまでその力は凄いものを参拝者に今、見せております。機会がありましたならば、小さな神社ですがいらしてください。ホームページもありますが現在パソコン故障中のため見ることができません。
しかし、瀬織津比賣の力の凄さは想像以上のものですね。

754 藤原思想と瀬織津姫 風琳堂主人 2003/08/10 22:45

 GOさん、藤原不比等の神社祭祀「関与」については、現在、遠江国の津毛利神社(浜松市、天竜川河口)と近江国の沖津嶋神社(近江八幡市、琵琶湖南岸部の沖島)の二社の可能性があります。
 琵琶湖の沖津嶋神社については、以前に、次のようなメモをしたことがあります。

■琵琶湖の沖津嶋神社と不比等
 藤原不比等が直接からんでいる神社創祀の伝承をもつということで、わたしも琵琶湖の沖津嶋神社は要注意とおもっています。ほかに不比等創立とされる神社は寡聞にして聞いたことがなく、ここはとても大きな意味をもっている神社であることはまちがいありません。
 その創建年なのですが、「和銅五年藤原不比等、勅命を奉じて創立すると伝える」(『滋賀県神社誌』)の「和銅五年」=712年というのは、古事記が完成・奏上された年にあたります。宗像の女神が三神化された、つまり曖昧化された表現=古記は古事記を遡れないはずとわたしはみています。不比等は、この古事記の創作に整合させる意図があって琵琶湖へ赴いた可能性があります。
 そして遡ること20年ほど前の持統五年=691年の不比等の歌「天降の神の誕生の八幡かも日牟礼の社になびく白雲」ですが、この年は持統が大嘗祭をおこなった年で、名実ともに女帝=持統の時代がはじまったのでした。歌にある「天降の神の誕生」が、八幡神の改竄(八幡大元神の比売大神という抽象神化)+創作の意図とともに、持統女帝の「誕生」をも含意していることが考えられます。前年の690年には、伊勢神宮における第一回遷宮がおこなわれたこと──これは、伊勢神宮の現在の形式が確定→立ち上げがなされたということでもありました。(囲炉裏夜話489「香取から鹿島へ」)

 不比等が、その「神社創祀」に絡んでいる二社めが、天竜川河口に鎮座する津毛利神社です。この津毛利神社と沖津嶋神社の二社において、少なくとも前社は単純な神社創祀ではなく、「その前」があります。津毛利神社は養老時代(715〜724)に、不比等と舎人親王が勅命によって住吉神をまつったというのが祭祀の始まりだとするのが現在の由緒表示ですが、江戸期の文書には、そこにはすでに(天武時代=白鳳時代)、饒速日尊をまつっていたとされます(『遠淡海地志』)。
 また、明治六年の時点まで、摂社として荒祭社(当時の祭神…枉津日命)の名が記録されています(津毛利神社文書)。荒祭神はいうまでもなく瀬織津姫ですし、明治期に「枉津日命」とされた神も瀬織津姫の貶められた異称です。しかし、この明治六年の記録を最後に、現在、荒祭社の存在は消えていて、その代わりというべきか、祭祀経緯が不明の「境外末社」として、本社から数十メートル南に、御手洗水神社(祭神…水速女命)があります。同社には御手洗池という神水の湧き出す池があります(現在はゴミ捨場のような放置状態ですが、氏子総代の方は「みんなと相談して、なんとか元にもどしたい」ということです)。
 神社由緒書によりますと、御手洗水神社は「御手洗水神森」と呼ばれ、そこは「津毛利神社の神幸地」、また「神社破損し其のまゝとなつていたが、御神威著で崇敬者多く大正四年六月に再建」とあります。明治六年のあと消えた荒祭社があり、その後の大正四年に「再建」されたのが御手洗水神社です。御手洗水神=水速女命は、まさに「速川の瀬に坐す瀬織津比唐ニいう神」(大祓祝詞)を具体化した神名ですし、下鴨=賀茂御祖神社の御手洗神は瀬織津姫でもあります。この御手洗水神社が、かたちを変えて復活した、かつての荒祭社だとみなすことができそうです。
 このように、不比等祭祀を伝える二社のうち、少なくとも一社は、伊勢の元神ともいうべき日神と水神の祭祀がすでになされていた可能性があり、としますと、琵琶湖の沖津嶋神社も「その前」の祭祀があるのではないかという疑念が生じてきます。そこまで調べてから、持統から不比等へと継承される、瀬織津姫祭祀の改竄問題=隠祭問題にふれるというのが現在の構想です。
 今、琵琶湖へ行く機会をどうつくりだすかといったところです。

 現在、大祓神=祓戸大神は四神(三女神、一男神)とされますが、天智時代(669年)に、大祓祝詞=中臣祓が創作された伝承をもつ社が、琵琶湖から流出する瀬田川の川辺にある佐久奈度神社(大津市)です。同社は延喜式内社でもありますが、この延喜式神名帳においては四座=四神ではなく一座とされています。また、近江国風土記逸文には、「八張口[やはりぐち]の社。すなわち伊勢の佐久那太李[さくなだり]の神を忌んで祀っているのは瀬織津比唐ナある」とあり、この「八張口の社」が現在の佐久奈度神社の元地の社です。以上が、佐久奈度神=大祓神はもともと瀬織津姫一神だと考える理由です。
 大祓祝詞が現在のように「完成」するのは大宝律令の頃(701年頃)だろうとみなしていたのは、上田正昭さんです(『藤原不比等』)。わたしも同様に考えますが、大宝律令の制作に深く関わっていたのが藤原不比等でした。彼が大祓祝詞の「完成」に無縁であったとみなすことは不可能です。持統時代から元正時代にかけて、瀬織津姫祭祀の改竄は、白山祭祀の改竄が象徴していますが、そのやりかたは実に巧妙です(囲炉裏夜話710・711「白山神とはなにか」)。大祓祝詞の創作は、不比等の同族である中臣金(壬申の乱のとき、近江朝の右大臣)によってなされましたが、その背後には、不比等の父である中臣鎌足が「内臣」として存在していました。
 大宝律令制定時代に大祓祝詞が完成されたとき、当時の祭祀権力者たちは、この祝詞に整合させるように、佐久奈度神社も祭神変更(一神→四神)をすべきでした。それをしなかった、あるいはできなかったのは、佐久奈度神社が天智朝親近の社であったというのが理由かもしれませんが、これは不比等たちの瀬織津姫祭祀改竄の暗黙の鉄則上、大きなミス=チョンボでした。
 大祓神とされた瀬織津姫は、大祓祝詞が完成する大宝律令の制定時代に、三女神化されたとしますと、この三女神化の作為は、当然ながら、宗像三女神の問題にも連関していることが考えられます。
 これも囲炉裏夜話でふれたメモですが、宗像三女神の中心の神としての湍津姫についてふりかえっておきます。

■湍津姫から三女神へ
 大分県の速見郡日出町に、湍津姫ゆかりの神社である八津島(嶋)神社があります。ここの縁起に「宮川霊地ハ昔、湍津姫ガ降臨シ、影向ノ旧跡ナリ」とあります。また、「八霊石」が天空から落ちてきて「五男三女」が鎮座したというのです。この「五男三女」鎮座の話は、アマテラスとスサノウの「誓約=うけひ」を反映させたものとみることができます。また、この記紀の話への追随伝承は、八津島神社の「八」の表示にも反映しています。なぜなら、ここの祭神表示は、「津嶋大明神」ですから、なにもわざわざ「八」をつける必要はないのです。
 社名のことはおくとして、この縁起のポイントは、湍津姫降臨のあとに三女神の鎮座を伝えていることでしょう。湍津姫は、いわば祖神であり、しかし、記紀に付会したために、湍津姫は三女神の一神の名でもあるという奇妙なことになっていきます。こういった矛盾をそのまま伝えていることが、この八津島神社の縁起の大きな価値といえます。
 ところで、この矛盾パターンは、実は、遠野の三女神伝承とまったく同じなのです。瀬織津姫は、遠野三山の女神の母神であると同時に、その子神である三女神の一神でもあるのです。
 実に奇妙な矛盾した伝承ではありますが、中心の神が遠野では瀬織津姫であり、宗像では湍津姫ということはまちがいないでしょう。
 弁財天へと変容していく、させられていくのは、次の段階ですが、宗像三女神の中心あるいは総称神、あるいは「同体」の神が湍津姫であることをメモしておきます。(囲炉裏夜話57「湍津姫の誕生」)

 熊野本宮大社の境内摂社に滝姫神社がありますが、そこの祭神は「瀬織津姫命(湍津姫命)」とされ(HP「幻松子の記憶」)、湍津姫と瀬織津姫は同神とみなされています。このことは、闇無浜神社(大分県中津市)や厳島神社(鹿児島県出水市)において、その祭神の宗像三女神のうち、湍津姫の代わりに瀬織津姫を表示していることにもよく表れています。
 湍津姫の「湍」は「タン、はやせ」のことで、これは「早瀬」と理解できます、瀬織津姫は大祓祝詞においては、「速川の瀬に坐す神」でしたから、これはそのまま、早瀬の神=湍の神=湍津姫へと転じることが可能です。
 また、先代旧事本紀は、「湍」の字を「セ」と訓じていて、要するに湍津姫=セツヒメと訓ませています。該当個所を引用します。

■湍津姫[せつひめ]という神
素戔烏[ママ]尊
此尊は天照大神と共に誓約[うけひ]て、即ち、生所[うみませる]三女[みはしらのひめがみ]是[これ]爾児[いましがみこ]とせよとのたまふ。号[みな]は田心姫命亦名[またのみな]は奥津嶋姫命亦は瀛津島姫命。宗像の奥津宮に坐[いま]す。是遠瀛島[とほきおきつしま]に居所者[ましませるもの]なり。
次に市杵嶋姫命亦狭依姫命亦中津嶋姫命と云ふ。宗像の中津宮に坐[いま]す。是中嶋に居所者[ましませるかみ]なり。
次に湍津姫[せつひめ]命亦名は多岐都姫命亦名は遺津嶋姫[をきつしまひめ]命。宗像の辺津宮に坐[いま]す。是海浜[わたつはま]に居所者[ましませるかみ]なり。(『先代旧事本紀』巻第四「地祇本紀」大野七三訓訳)

 辺津宮の神は、「湍津姫[せつひめ]命亦名は多岐都姫命亦名は遺津嶋姫[をきつしまひめ]命」とされ、その音からもセオリツヒメとの酷似がみられます。旧事紀のこの宗像三女神の誕生は記紀を踏襲したものですが、辺津宮の神を、記紀とはちがって「遺津嶋姫[をきつしまひめ]命」とも表示していることは意味ある破綻表記だというべきでしょう。琵琶湖の沖津嶋神とも重なってくるからです。
 ここで、宗像三女神の祭祀講造についてふれておきます。陸地側からみますと、辺津宮→中津宮→奥津宮といった三宮配置が現在の宗像神祭祀のイメージですが、この構図は、大祓祝詞における、三女神の配置とあまりに酷似しています。つまり、罪・穢れが「速川」の神=瀬織津比唐ノよって河口まで流されると、その先は速開都比唐フ分担で、さらにその先は速佐須良比唐フ分担だという図式です。
 この大祓の構図を宗像祭祀にあてはめてみますと、辺津宮=瀬織津比刀A中津宮=速佐須良比刀A奥津宮=速佐須良比唐ニいうことになります。
 以下に、大祓三女神を宗像三宮に重ね、その上で記紀の三宮神をみてみます。

(1) おきつみや=速佐須良比盗_
奥津宮[おきつみや]=多紀理毘売命=奥津島比売命……古事記
遠瀛[おきつみや]の神=市杵島姫命……紀一書[第二]
奥津島比売命(古事記)=瀛津島姫命……紀一書[第一、三]

(2) なかつみや=速開都比盗_
中津宮=市杵島姫命=狭依毘売命……古事記
中瀛[なかつみや]の神=田心姫命……紀一書[第二]

(3) へつみや=瀬織津比盗_
辺津宮=田寸津比売命=多岐都比売命……古事記
海辺[へつみや]の神=湍津姫命……紀一書[第二]

 現在の宗像大社は辺津宮の位置にあり、その主祭神は市杵島姫神としていますが、記紀および旧事紀すべてが、辺津宮神を湍津姫(=田寸津比売=多岐都比売)としています。わたしたちはすでに湍津姫と瀬織津姫が同神であり、さらに、宗像三女神の「母神」あるいは中心の神が湍津姫であるということもみてきました。宗像大社は、自社の中心神、つまり、要の神である瀬織津姫を境内社の「祓方神社」の神としています。こういった作為がなかば強制されていることは、一人宗像大社に限るものではなく、全国の神社祭祀にみられるというべきで、そういった強制の思想こそが藤原=中臣の祭祀思想でもあります。
 近代=明治日本は、この藤原思想をさらに全国へ徹底化して、つまり瀬織津姫を祭神表示する場合、それは「祓神」と限定することを強制していきます(顕著な例としては、瀬織津姫を主祭神とする大隈国総社かつ一ノ宮であった守公神宮[鹿児島県国分市]は、明治期に祓戸神社と社名が変更される、など)。瀬織津姫隠祭の「現在」を問うことは、明治国家および藤原=中臣の祭祀思想を問うということでもあります。
 なお、現代の話を一つ──。天白川の上流部に位置する日進市(愛知県)に白山宮(戦前の社格は郷社。現祭神は、菊理媛命、伊弉册尊、大己貴命)があり、同社境内入口付近に大きな祓戸大神の石碑が建っています。いただいた『白山宮誌』には、「平成二年、今上陛下の御大典を奉祝して、〔中略〕『祓戸大神』碑を建立する」と書かれています。なぜ、「今上陛下の御大典」に時を合わせて「祓戸大神」の石碑が建てられる必要があるのか? わたしたちは、白山地主神が瀬織津姫であり、かつ伊勢の元神(の一神)であることを知っていますので、瀬織津姫のこういった祓神化の定着が、天皇家の祖神をまつるとされる伊勢神宮の安泰につながるといった、藤原=中臣思想の「現在」の発想を、ここに読むことができるわけです。
 壬申の乱のとき(672年)、天武は伊勢の天照大神を遥拝し、乱の戦勝祈願をしていましたが、おもえば、古代最大の対外戦争=敗戦である白村江の戦い(663年)へ赴く倭国の船団は、宗像の沖ノ島をどうみていたかは書紀に記載がありません。沖ノ島の神は、この「天智倭国」の戦いに「否」を示したと逆読みも可能なのかもしれません。あるいは、宗像神がクローズアップされるのは、やはり7世紀末の伊勢=アマテラスの創祀とリンクしているとみるべきでしょう。伊勢の元神として、日神とともに、宗像女神=荒祭宮神=瀬織津姫がすでにまつられていたことは重要なことです。
 ところで、藤原の姓ですが、これは、不比等の父とされる中臣=藤原鎌足の「藤原」が最初で、この姓は、かつての大和国高市郡明日香村大原の通称「藤井原」を略した「藤原」が創姓の根拠のようです(藤原京の名が象徴しています)。鎌足が常陸国(鹿島)ではなく、大和国の地(「藤井原」の地)で誕生したというのは、『扶桑略記』にも記載があります(「大臣(=鎌足)是大倭国高市郡人也」)。鎌足は、その死に際して、天智から「藤原」の姓を贈られるわけですが、しかしよく考えてみますと、「藤井原」の「井」を削除して「藤原」となった経緯に、はからずもというべきか、「井」の神の、その後の削除過程が重なってくるなというのが、わたしの藤原姓についての「想像」です。
 この藤原累代の瀬織津姫「削除」の思想に、その後「ノン」とする同族直系の者が登場してきます。『扶桑略記』(元は「扶桑皇統記」か)の作者・阿闍梨皇円(藤原重房の子・重兼の子)です。皇円の弥勒思想を仮装する「死」を賭した守護によって、現在まで、瀬織津姫を主神として、大規模な神事(納櫃祭)を行っているのが、桜ヶ池を神体とする池宮神社(静岡県浜岡町)です。桜ヶ池と諏訪湖が、その底が通じている伝承については、すでに「諏訪縁起と瀬織津姫」(囲炉裏夜話498)でふれましたが、皇円と、不比等を代表とする藤原=中臣による瀬織津姫祭祀の改竄問題にふれるには、琵琶湖・諏訪湖・天竜川・桜ヶ池を総体として視野におさめて語る必要がありそうです。これらの湖沼河川の水霊神はなにかという問いについては、途方もない話ですが、しかし、わたしは同一の水神の可能性を考えています。
なお、池宮神社資料館には、明治の「藤原不比等」というべき、伊藤博文による直筆の手紙が展示されています。じっくり読む時間がなく、走り読みでしたが、わたしの誤読でなければ、伊藤博文は、この池宮神=瀬織津姫に「神風連の乱」(明治九年=1876年)の鎮圧祈願を行っていたようです(その礼状の文面と読みました)。神風連の乱は、「敬神党」という明治政府以上の過激な国粋思想を標榜する熊本の不平士族の反政府行動とされますが、ときの政府は開明思想を標榜していたものの、その水面下、つまり神社祭祀の現実においては、国粋思想=国家神道を策定する行為をしていましたから、神風連=敬神党と明治政府両者の国粋思想の差異については丁寧に語られる必要があります。ともかく、一方で瀬織津姫祭祀の改竄を行う明治国家が、一方で、反政府行動の鎮圧を祈願せざるをえなかった池宮神社の存在をメモしておきます。
 調べることが、時間・空間枠を越えて拡大・錯綜としてきていますが、今考えていること、気になっていることの「要点」のみ記しました。
 その他、瀬織津姫を探る=明かすときのキーワードの可能性がある「折戸」「桜谷」という地名の問題もあります。どんな小さな疑問でも、その真相を明かすには、やはり「足」をつかわないといけないようです。

 セオリツさん、はじめまして。
 瀬織津姫の神威がスゴイというのは、これまでにも読者から耳にしています。九州については、いずれ訪れるつもりでおります。宮崎にもうかがう予定ですので、その折はお話をおきかせください。楽しみにしています。

755 神社本庁「神社基礎データ」 GOTO 2003/08/11 11:01

ご主人、こんにちは。夏休みの課題というわけでないですが‥(^^;

8月9日(土)の産経新聞の記事ですが、昨年末に
神社本庁総務部が「神社基礎データ」というデータベースを完成させたそうです。
末社などの宗教法人格を持たない神社は除くという点は残念ですが、
記事中に幾つかのデータが掲載されていました。例えば‥

総数79,116社のうち、神社名は18,680種。
その上位は‥
1、八幡神社(4812)
2、稲荷神社(2675)
3、熊野神社(2125)
4、神明社 (1968)
5、諏訪神社(1890)
6、白山神社(1559)
7、天満神社(1291)
8、八幡宮 (1236)
9、神明神社(1148)
10、八坂神社(1066)
になる。

更に「八幡」名の神社が一番多い県は岐阜(451)。
次いで、愛知(427)、広島(424)、石川(407)と続くそうですが、
県内の神社数に占める「八幡」名の神社のパーセンテージは
山口30%(222)、石川・岡山の21%(348)が際立っているそうです。
ちなみに「八幡」名神社の全国平均は11%だそうです。
岐阜は14%、愛知は12%で割合としては平均的。
実数、割合ともに意外と少ないのは九州地方だという結果も興味深いものでした。

東西の違いがハッキリしたのが「天満」と「稲荷」。
九州各県で「天満」は数、割合も高く、逆に「稲荷」は少ない。
東北・関東の各県では「稲荷」が多く、「天満」は低い。

「諏訪」名神社は長野、新潟、山梨に多く、
「浅間」名神社は静岡、山梨に多い。
「白山」名神社は福井、石川、岐阜に突出して多い。

「神明」名神社は天照大神を祭神とし、三重県を境に以東に顕著。西には極端に少ない。
また「神明」以外に天照大神を祭神とする神社名は「神宮」「皇大」「伊勢」「天祖」等々
多く存在している。特に「天祖」神社は東京に集中(66)していて「神明」名神社をしのぐ。

‥といったところでした。
ぜひIT技術を有効に利用して欲しいところですが「公開の予定がない」というのが、いかにもお上の仕事っぽいですね。
本当はそこから導かれる「何か」を恐れているとしか思えないのですが。

756 国体思想と瀬織津姫 風琳堂主人 2003/08/15 01:26

 GOTOさん、神社本庁総務部「神社基礎データ」の紹介をありがとうございました。
 現在まで生き残っている神社という限定条件がつくものの、神社データの社別分析は興味深いです。それにしても、現在のこの神社(数)となるまでに、どういった神社が消えてきたか(消されてきたか)、つまり、このデータが「末社などの宗教法人格を持たない神社は除く」としていることについては、わたしもGOTOさんと同じように「残念」におもいます。このデータの「公開の予定がない」点については、神社本庁が半公的な組織だけに、これは是正してほしいところです。もし公開されるならば、瀬織津姫を、たとえば天照大神荒魂、滝祭神、八十禍津日神、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命、祓戸大神などの異名で、きっとまつっている神社が判明するはずです。
 ところで、神社本庁とはにかということで、同庁ホームページは以下のように自己紹介しています。

■神社本庁
 神社本庁は、伊勢の神宮を本宗(ほんそう)と仰ぐ全国約80,000社の神社を包括する宗教団体です。その目的は、包括下の神社の管理と指導を中心に、伝統を重んじて祭祀(さいし)の振興(しんこう)や道義(どうぎ)の昂揚(こうよう)をはかり、祖国日本の繁栄を祈念して、世界の平安に寄与することにあります。(神社本庁HP)

 神社本庁は、厳密にいえば「お上」ではなくて(「管理と指導」をされる神社にとっては「お上」かもしれませんが)、一般的にいう「お上」に対する、ある種の圧力団体といった性格を一方でもっています。このことは、「神社本庁と表裏一体の関係にある団体」(同庁HP)とされる「神道政治連盟」の存在によって、そういった性格づけをみることができます(近いところでは、森前首相の「天皇を中心とした神の国」発言の場が、神道政治連盟国会議員懇話会の場であったことが想起されます。森は「神社本庁のご指導のもとに」という発言もしていました)。
 神社本庁ホームページによりますと、神道政治連盟は「神道精神を国政の基礎に」という趣旨で結成された「神社界を母体とする団体」で、「皇室の尊厳護持」「正しい政教関係の確立」「教育の正常化」等の活動をおこなっているとのことです。
 神社本庁は「伊勢の神宮を本宗と仰ぐ全国約80,000社の神社を包括」しているとされます。ご紹介の「神社基礎データ」によれば、「総数79,116社」とあり、「全国約80,000社の神社を包括」という言葉とほぼ整合しています。神社本庁は、規模が大きな「宗教団体」ですが、しかし、全国の神社を網羅的に「包括」しているわけではありません。ただし、神社本庁の「包括」外の神社がどれくらいあるのか、その正確な数字については、寡聞にしてわたしは知りませんが、ある町誌に、次のような記述がありましたので、参考までに引用します。

■明治末年、全国の神社は十一万余社
 明治三十九年、政府は各府県に対して神社整理を奨励したため、同四十一・二年にかけて、整理(合併)が盛んに行われた。その結果、全国で二十万近くあった神社は十一万余社となった。中でも三重・和歌山両県は神社整理が最も徹底して行われ、その九割までが合併整理された。(『日進町誌』)

「神社整理」は江戸期にも、また明治初期にもなされていましたが、この引用にある明治末年の大規模な「神社整理」(二十万社→十一万余社)は特記される政策でした。この「整理」後の「十一万余社」がそのまま戦後にまで残っていると仮定しますと、3万余社くらいは神社本庁「包括」外の神社数となります(知り合いの神官は、全国の神社数は約12万社かと言っていましたので、としますと約4万社が「包括」外)。
 ところで、この町誌の記述に、「中でも三重・和歌山両県は神社整理が最も徹底して行われ、その九割までが合併整理された」とあり、そのすさまじい廃社→合併の嵐が想像されます。南方熊楠たちの「神社整理」=神社合祀への反対表明もまったく一顧だにされませんでした(熊楠は和歌山の人)。神社整理が露骨になされた三重県は伊勢神宮の本拠県であり、和歌山県は熊野神や日前神の地であること、いいかえれば、伊勢の元神が潜在奉祭される地であったことが、両県の露骨な神社淘汰に関係しているとおもわれます。
 また、この「整理」時に、つまり、境内社化あるいは合祀時に、さらなる祭神変更もなされた可能性があります。このことは、浜松市の津毛利神社摂社の荒祭社の消去のこと(明治六年までは存在していた)に、次の事例を加えることで、よりはっきりとみえてくるものとおもいます。
 愛知県日進市にある白山宮の境内末社「別山宮 白山同神」の名は、明治五年まではあったものの、明治末年から大正初期のものとされる「神社明細帳」においては、「事代主社 祭神 事代主命 伊弉册命」と社名・祭神名が変わっている──(『白山宮誌』)。こういった事実を、さらなる具体例として挙げることができるわけです。ちなみに、日進市の別山神は、天保七年=1836年の時点で、すでに祭神名は「伊弉册尊」とされていましたが(『白山宮誌』)、その大元の白山においては、8世紀初めまで、別山神は白山地主神=白山瀬織津=瀬織津姫でした(囲炉裏夜話710・711「白山神とはなにか」)。
 この明治期の「神社整理」の嵐の直撃を受けた神の筆頭が、まさに瀬織津姫でした。もっとも、これは、それまでの消去・隠祭過程の延長にあるものでしたが、しかし、瀬織津姫の由緒痕跡を消す、いわばダメを押すといった施策であったとみなせます。
 佐久奈度神社によれば、「明治時代になり、国家の管理となった神社界において新たに祝詞が制定されました。それが『中臣大祓詞』より抜粋された『大祓詞』なのです」とされ(同社HP)、瀬織津姫は国家の意向によって祓神化が促進・強化されます。
 現在、瀬織津姫の名をかろうじて残している全国の神社のなかで、その祓神化の割合がもっとも高いところが東京だというのは、これも特記しておいてよいでしょう。東京の瀬織津姫祭祀社を再掲します。

■東京の瀬織津姫祭祀社
@水神社【豊田神社境内社】…江戸川区東瑞江2丁目
A日比谷神社…港区新橋4-13-9
B祓戸神社【土支田神社境内社】…練馬区土支田4-28-1
C祓戸社【神明宮境内社】…杉並区阿佐谷北1-25-5
D祓戸神社【八幡神社境内社】…杉並区上荻4-19-2
E祓戸神社【天祖神社境内社】…世田谷区中町3-18-1
F祓戸神社【玉川神社境内社】…世田谷区等々力3-27-7
G祓戸神社【八幡神社境内社】…国分寺市西元町
H小野神社…多摩市一ノ宮917
I小野神社…府中市住吉町
J大国魂神社…府中市宮町3-1
K稲荷神社…府中市若松町(同社境内社・祓戸神社も瀬織津姫)

 Aの日比谷神社は大祓神四神をまつっていますので(祭祀当初から四神か?)、全12社のうち8社が、瀬織津姫に対して「祓神」の規定をおこなっていることになります(ちなみに、岩手県においては、瀬織津姫祭祀社全40社のうち、祓戸関係社は1社)。東京の、この異例の高割合は、政府および皇居を抱える首都だということが、その大きな理由であると考えられます。皇居=天皇家の祖神をまつるとされる伊勢神宮を、根本的に相対化してしまう瀬織津姫の存在は、その名をもし残すとするならば、伊勢との関係(伊勢の元神かつ男系太陽神=日神との関係)の痕跡を消去し、単独の、あるいは他の三神とともに「祓神」として限定せよということです。

 1937年=昭和12年5月、「文部省編纂」、発行元「内閣印刷局」とする冊子『国体の本義』が初版20万部で発行されました。同年7月7日には盧溝橋事件が起こり、日本は日中戦争を展開し、これは太平洋戦争へと拡大していきます。前年の1936年には「二・二六事件」が起こり、緊迫した社会情勢のなかで、この『国体の本義』が発行されたのでした。瀬織津姫は、ここでも祓神として、同書に、その名が刻印されています。
『国体の本義』編纂の言葉の一条には「本書は国体を明徴にし、国民精神を涵養振作すべき刻下の急務に鑑みて編纂した」と記され、本文「緒言」には「『国体の本義』を編纂して、肇国の由来を詳にし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て国民の自覚と努力とを促す」と、要するに、「国民精神」を戦時体制に「動員」する意図=目的が書かれています。本書は最終的に300万ほどの読者を獲得したとされ、その意味で、戦前における、空前のベストセラー書でした。中等学校では副読本とされましたので、その影響の深さは潜伏期間を経て、後々、「滅私」の象徴ともいうべき玉砕、特攻隊の思想にも結果していくことが想像されます。
 同書は「国体の国史に顕現する姿」の祖述を記紀の記述に全面依拠しています。また、天皇については、「天照大神の御子孫が代々この(天皇の)御位に即かせ給ふことは、永久に渝ることのない大義」だとして、「現御神(明神)或は現人神」「皇祖皇宗と御一体」「皇祖皇宗の神裔」といった言葉を並べています。その上で、「神社は国民の郷土生活の中心」、「神社は国家的の存在であるのを根本義とする」、「皇大神宮は我が国神社の中心」と、伊勢神宮=皇大神宮の絶対化が復唱されていきます。極めつけは、「すべての神社奉斎は究極に於て、天皇が皇祖皇宗に奉仕し給ふところに帰一するのであつて、こゝに我が国の敬神の根本が存する」、この「敬神崇祖の精神が我が国民道徳の基礎」であると、まさに神社=国家神道の宣揚が露骨に語られていきます。
 こういった文脈のなかで、瀬織津姫(たち大祓の神々)は、国民の天皇「帰一」の心、つまり「明き清き心」のために「奉仕」させられることになります。当該個所を、引用します(引用データの元はHP「J-TEXTS」日本文学電子図書館)。

■黒き心、穢れたる心を祓う神
明き清き心は、主我的・利己的な心を去つて、本源に生き、道に生きる心である。即ち君民一体の肇国以来の道に生きる心である。こゝにすべての私心の穢は去つて、明き正しき心持が生ずる。私を没して本源に生きる精神は、やがて義勇奉公の心となつて現れ、身を捨てて国に報ずる心となつて現れる。これに反して、己に執し、己がためにのみ計る心は、我が国に於ては、昔より黒き心、穢れたる心といはれ、これを祓ひ、これを去ることを努めて来た。我が国の祓は、この穢れたる心を去つて活き明き直き本源の心に帰る行事である。それは、神代以来国民の間に広く行はれて来た行事であつて、大祓詞に、
〔略…瀬織津比盗_、速開都比盗_、気吹戸主神、速佐須良比盗_が登場する大祓祝詞の言葉が引用される〕
とある。これ我が国の祓の清明にして雄大なる精神を表したものである。国民は常にこの祓によつて、清き明き直き心を維持し発揚して来たのである。(『国体の本義』「三、国民性」)

 瀬織津姫たちが封印された「大祓詞」を「国民は常にこの祓によつて、清き明き直き心を維持し発揚して来た」とみることは詭弁で、もともとは朝廷とそこに仕える官官の者に限定された「行事」でした。こういった小さな詭弁を弄しながら、国民(精神)を「忠君愛国の道」「皇軍の精神」へとたくみに誘導していくというのが、『国体の本義』がもっている思想的本質とみることができます。
 神道政治連盟および同国会議員懇話会の思想的根拠ともいうべき書が、この『国体の本義』かとおもいます。全文が批評・批判の対象となる内容ですが、瀬織津姫に関係する個所をもうひとつみておきます。

■和魂・荒魂という区分け
 我が国体の再現は、軍事についても全く同様である。古来我が国に於ては、神の御魂を和魂・荒魂と分つてゐる。この両面の働の相協ふところ、万物は各々そのところに安んずると共に、弥々生成発展する。而して荒魂は、和魂と離れずして一体の働をなすものである。この働によつて天皇の御稜威にまつろはぬものを「ことむけやはす」ところに皇軍の使命があり、所謂神武とも称すべき尊き武の道がある。

 神の「荒魂」が登場し、「皇軍」に奉仕するというのは、記紀の神功皇后条の表現を遡るものではありません。また、天照大神荒魂についてみますと、これはいうまでもなく、内宮第一別宮とされる荒祭宮の祭神表示でもありますが、記紀においては、もし不当な扱いをされれば、天皇(仲哀=神功の夫)たりとも「死」に追いやる力があることも記述されていますので、単純に「皇軍の使命」に奉仕する「働」のみが、荒魂の性格ではありません。もう少し正確にいいますと、不当な扱いをされた神が「祟る」と当事者たちに受感されたとき、その神は荒魂化するというべきで、自然の猛威・暴威が、そこに二重化されているというのが、荒魂の総合的性格でしょう。「天皇の御稜威にまつろはぬ」荒魂も存在することを、『国体の本義』は捨象しています。
 祓神としての瀬織津姫の名は記述するが、(天照大神)荒魂としての瀬織津姫の名はここでも隠蔽されていて、あらためて藤原思想の射程の長さと、その影響力がみえてくる一書です。

(追伸)
 前回「藤原思想と瀬織津姫」で、琵琶湖沖島の神社名を「沖津嶋神社」と記しましたが、地図帳をみましたら、奥津島神社と表記しているようです。なお、柿本人麻呂は「淡海の海奥津島山奥まりてわが思う妹のこと繁けん」なる歌を残しているようです(HP「沖島の歴史のページ」)。
 不比等の歌「天降の神の誕生の八幡かも日牟礼の社になびく白雲」の「日牟礼」の地には、現在、日牟礼八幡宮が鎮座しています(近江八幡市宮内町)。しかし、ここには、もともと大嶋神社が鎮座していたか、大嶋神社が八幡宮となったようです(囲炉裏夜話487、kokoroさん「琵琶湖と淡海公」)。
 大嶋神社(現祭神…大国主命)は式内社でもあり、現在、同社は「大嶋神社・奥津嶋神社」(近江八幡市北津田町)と、社名表記は二社併記、神座は同殿という不自然な渾然祭祀がなされているようです(奥津嶋神社の現祭神は奥津嶋比売命)。不比等が神社創祀あるいは祭祀に関与していた奥津島(嶋)神と、この大嶋神はそもそも異神なのかどうかという疑問もありますが(異神ならば、宗像の消えた男神の可能性もある)、さらに、大嶋神の元地にあとから鎮座したとされる日牟礼八幡宮にも、不比等の歌から、その祭祀関与の可能性が伝わってきます。日牟礼八幡宮の伝承、および、同社と大嶋、そして奥津嶋=沖島が、宗像三宮(辺津宮→中津宮→奥津宮)と見立てられていた可能性を探った、kokoroさんの「琵琶湖と淡海公」もぜひ参照してください。
 この三社──どうも単純な祭祀変遷・改竄ではなさそうです。kokoroさんとは少し別の角度から洗い出してみたいところです。

757 8月19日 風琳堂主人 2003/08/18 00:42

 下記のようなメールが届きました。アルチェという会社らしいです。どうやら掲示板「囲炉裏夜話」は一日お休みのようです。
 読者の方に、前もってお知らせしておきます。

■8月19日(火)
先日メールにてお知らせ致しましたように、下記の日時に新ネットワークならびに新サーバーに移行するためサービスを停止致します。その期間掲示板の閲覧・書き込み・管理等OTDのすべてのサービスがご利用できなくなります。



日時:2003年8月19日(火) 午前5時より終日

(追伸)
 この「休日」を含む週頭から、琵琶湖周辺ほかを歩いてみるつもりです。
 訪問の対象は、関係社寺と氏子(総代)の方々、および図書館・資料館・書店です。これは、出版営業・挨拶を兼ねたもので、本づくり=編集の仕事がオフのときは、これまでにも、このように各地を歩いてきています。
 不比等の祭祀関与が考えられる、近江八幡市の奥津嶋神社・大嶋神社・日牟礼八幡宮の三社、また竹生島=都久夫須麻神社と宗像神・伊豆神の問題、天智時代に琵琶湖(近江国)四箇所に配されたとされる「祓殿」の存在(荒神山神社伝承)、天智・天武・持統の産湯伝承をもつ「御井」=三井寺と謎の日御前神社ほか、琵琶湖周辺を探索しながら歩く下地はすでにkokoroさんがつくってくれていますので、あとは「おまけの話」をうまく拾い出せれば上々といったところでしょうか。壬申の乱(672年)の前は天智─鎌足・金、後は天武─持統から不比等へと、その祭祀改竄の主体が移行します。このなかで、「日本」の原型イメージを決定づけた、いわば知的遠謀を画策したトップといえば、やはり藤原不比等というべきで、この表になかなか出てこない人物の「生身」がかいまみえる琵琶湖行は、半ば楽しみでもあります。
 ところで、モバイル機能がうまくつかえないままの「旅」になり、レス関係が少し滞るかもしれませんが、よろしくお願いします。

758 お久しぶりです。 kokoro 2003/08/18 19:13

 風琳堂主人さん、こんにちは。

> この三社──どうも単純な祭祀変遷・改竄ではなさそうです。kokoroさんとは少し別の角度から洗い出してみたいところです。

 ぜひ、お聞かせください。(^^)

 それと、これは、ただの思いつきだと思って聞き流してください。512で話題にした荒神山神社のことです。

  ●荒神山神社  滋賀県彦根市清崎町1501
  ・主祭神:火産霊神、奥津日子神、奥津比賣神
  ・配祠神:瀬織津姫神、速秋津比賣神、気吹戸主神、速佐須良姫神

 512と562の投稿内容と重複しますが、『志賀県神社誌』にある当社の由緒は次のようなものです。

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 社伝によれば、起源は天智天皇の御宇、近江国に四ケ所の祓殿が設けられた。『近江輿地志略』によると「荒神山、上平流村、下平流村の中間にあり。(中略)中世当国四所の祓殿というは南三郡は韓崎、西二郡は白鬚社前、北三郡は木本中四郡は此荒神山なりといふ」とあり、犬上、愛知、神前、蒲生の中四郡の祓殿であった。<中略> また同書に「平流山奥山寺、荒神山にあり、寺記に曰く行基菩薩御老年に至り犬上郡四十九院の宿より始めて此処まで四十九の伽藍を建立し、奥山寺を奥の院とす。故に奥山寺の名あり。」また「『三国伝記』にも此事あり。本尊大日如来、左右に文殊、不動を安置す。奥山寺とも仮殿寺ともいう。寺院四坊あり。千手寺、念仏寺、勝正寺満蔵院是也。」と記している。これらの寺院が建立されたとき、三宝荒神を勧請し、竈の神が奉斎されたことが、当社の始まりとされている。<後略>
・『志賀県神社誌』P74〜75

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 512で私は、「この神社があるのは、彦根市西部にある荒神山の頂上で、この山は湖水から1〜2qしか離れていなくて、しかも周囲は一面の田圃に囲まれ、北麓は大きな沼だから、昔は島だった感じがする。沖津嶋神社や日牟礼八幡神社へも南西に約15qほどで、竹生島や沖津嶋のような琵琶湖の島々に鎮座する神社が、しばしば市杵島姫命を祀っており、しかも、それが瀬織津姫神のことを連想させることを考えると興味深い」というようなことを書きました。

 これに対して風琳堂主人さんからは、515で、「荒神山はかつて「島」であったとしますと、たしかに宗像神の匂いがします。」という感想をいただいております。

 当社の主祭神は現在、竈神である三宝荒神(火産霊神、奥津日子神、奥津比賣神)で、上記社伝から、ほんらい祭神であった感じをうける祓戸神は、主祭神ではなく、配祠神のかっこうになっています。しかし、ではどうして、当社には三宝荒神が勧請されたのでしょうか。
 憶測ですが、荒神山神社はもともと、宗像神の奥津嶋姫命=市杵島姫命≠祀っていたのが、後世、単純な誤解から、神名の似る三宝荒神の奥津比賣神≠ェ附会されたのではなかったでしょうか。だとすれば、この神社の神格には、あきらかに祓戸の神としてのそれがあるわけですから、瀬織津姫神と奥津嶋姫命が、かつてここで習合していた可能性がでてきます。どんなものでしょうか。

> この「休日」を含む週頭から、琵琶湖周辺ほかを歩いてみるつもりです。

 いい旅を、お気をつけて。(^^)

759 記紀成立考2(書記は、天智の出自を隠すために編纂された) 穂国幻史考管理人・柴田晴廣 2003/08/22 17:41

では、天武朝に記録校定が命ぜられた帝記及び旧辞とは、どのようなものであったかを考えてみたいと思います。
繰り返しになりますが、天武朝の帝記及び旧辞の編纂は、「記録校定」の文言から、大掛かりなものであったとは思えません。
そして、古事記序文第二段では、「諸家が、帝記や旧辞を持っている」旨が書かれています。この「諸家が持っている帝記や旧辞」は、推古朝に編纂された『天皇記』、『国記』の写しのようなものであったと思われます。そして、推古朝に編纂された『天皇記』、『国記』のうち、『天皇記』は蘇我蝦夷の自害の折に焼失し、『国記』は、かろうじて焼失を免れ中大兄に献上されたと書紀は記載します。
そして、蘇我蝦夷の自害の後、三十数年経って、「諸家が持っている帝記や旧辞」の記載がまちまちになったから、一本化しようとし、天武は、校定を命じたと考えられます。つまり、記録校定のうち校定の作業は、帝記及び旧辞の一本化あるいは推古朝の天皇記及び国記の復元であったわけです。
では、記録校定のうちの記録とは、何かと考えると、推古二八(六二〇)年から天武一〇(六八一)年までの新たな記録を付け加えたことではないかと考えられます。
そして、推古朝までに記録された天皇記及び国記が天武朝で帝記及び旧辞として一本化され、なおかつ、推古朝以降の天智までの「記録」が完了していたからこそ、持統は即位の一年後には、雄略紀から天智紀の撰述を促すことができたと考えられます。
また、書紀天武一〇(六八一)年三月一七日の帝記及び旧辞の記録校定を命じる記載で、天智の皇子・川嶋が筆頭に記載されています。帝記及び旧辞の記録校定の作業に川嶋を加えたこと自体、天智紀の記録がされた証拠になるかと思います。

にもかかわらず、書紀の完成までには、三十年以上の歳月を重ねなければなりませんでした。
なぜ、これだけの年月を要したのか、これを考える前に、天武が記録校定し、書紀編纂の原資料となった帝記及び旧辞は、なぜ編纂されたかについて考えてみたいと思います。
 天武が、帝記及び旧辞の校定を必要とした目的については、古事記序文第二段で、「帝記及び旧辞は、国の基になるものであるから、一本化しなければならない」旨が書かれています。
 しかし、上述のように、天武は、「帝記及び旧辞」の校定のみならず、天智までの事跡を記録しています。
 中国では、修史事業は、王朝が滅んだあと、次の王朝が行います。たとえば、『隋書』は、隋が滅んだあとの唐の時代に編纂が行われます。
 記紀には、王朝が交替したことは、書かれていません。古事記は、神代から推古までが、書紀は、神代から持統までが、記載されていますが、歴代天皇は、すべて皇祖神アマテラスの子孫です。
 しかし、現在では、少なくとも、書記が応神五世孫とする継体とそれ以前の武烈までとは、皇統が断絶しているといわれています。
 天武は、壬申の乱(六七二年)で、天智の息子で後継者の大友を破り即位します。書紀では、天武は天智の弟とされています。父を舒明、母を皇極(斎明)とする同父母兄弟である旨が書紀舒明二年一月一二及び斎明重祚前記で書かれています。
壬申の乱から百年を遡らない六世紀後半には、敏達、用明、崇峻、推古と欽明を父とする異母兄弟(用明と推古は、同母兄妹)が、次々に相続しています。ですから、天智の息子で後継者の大友を壬申の乱で破り、皇位に就いた天武は、書記で、天智の弟とされますから、新たな王朝の創始者だとはいえません。
 しかし、書記の記載では、同父母兄弟とされる天智と天武ですが、天智―天武非兄弟説というものがあります。この説の根拠は、天武の方が天智より歳が上になる資料があるからです。
 天智については、書紀の舒明一三(六四一)年一〇月九日に、舒明が死去し、その誄を一六歳で読んだと記されていますから、推古三四(六二六)年の生まれということになります。
一方、書紀には、天武の生年は記載されていません。天武が死亡したのは、何度も書いているように朱鳥元(六八六)年九月九日です。しかし、このとき、幾つであったかは、示されていません。書紀からは、天武の生年を探る手がかりは全くありません。
しかし、鎌倉時代に編まれた『一代要記』や南北朝時代に編まれた『本朝皇胤紹雲録』では、天武の没年齢を六五歳としています。
天武は、天武一五(六八六)年に没しているわけですから、天武は、推古三〇(六二二)年に生まれたことになります。
一方、天智は、書紀の記載から、推古三四(六二六)年の生まれとあされますから、『一代要記』や『本朝皇胤紹雲録』記載を考慮すれば、書紀で弟と記載される天武は、兄・天智より早く生まれたことになります。
 しかし、『一代要記』や『本朝皇胤紹雲録』の没年六五歳という記載は、五六歳の誤写だというのが、学界での大方の見解です。
これに対して、天智―天武非兄弟説を唱える井沢氏は、『逆説の日本史2』の「古代怨霊編」の第二章「天智天皇編」、「『天智』と『天武』は本当に兄弟なのか」において、「ほかにもこのような例があるならともかく、同様の例を出さずして誤写だとするのは、説得性がない」旨の反論を展開しています。
また、天武の死後数百年経ってからできた『一代要記』や『本朝皇胤紹雲録』の記載を信頼できるかという疑問も生じるかと思いますが、天武時代の記録が残っていた可能性も無きにしも非ずです。
さらにいえば、秘密裏に編纂が進められた書紀の記載を鵜呑みに信じていいかという問題も考慮していいかと思います。
天智―天武非兄弟説は、厳密には、「非兄弟説」、「異母兄弟説」、「異父兄弟説」に分かれます。
「非兄弟説」は、天武を新羅人・金多遂、高句麗人・淵蓋蘇文とするなど天武は日本人でないとする説です。
井沢氏は、「非兄弟説」、「異母兄弟説」、「異父兄弟説」のうち、「異父兄弟説」の立場にたってます。天智の異父兄弟については、書紀にも書かれています。斎明紀で、斎明は、舒明に嫁ぐ前に、用明の孫の高向王に嫁ぎ、漢皇子を産んだと記載されます。
漢皇子の父・高向王について、書紀は、用明の孫とします。書紀は、用明の子として、後に聖徳太子と呼ばれる厩戸、来目、殖栗、茨田(厩戸と同母)、田目、麻呂子の六皇子と酢香手姫の一皇女を記載しますが、高向王がこの中の誰の子か示す記載はありません。
また、『漢(あや)』の文字から、外国の血を引いている可能性があります。ただし、ただし、『漢』は、中国大陸の『漢王朝』の『漢』をしめすのではなく、漢半島南部の安耶(安羅)を指します。
井沢氏も、こうしたことから、高向王は、日本人ではない可能性があるとし、天武は、皇位継承者として相応しくない人物であると見ています。つまり、井沢氏は、通常では、天皇には、なれない天武は、壬申の乱で天智の後継者の大友を破り、皇位を簒奪したと見ています。

 井沢氏は、天武が簒奪者である証明として、天智、天武、持統といった漢風諡号について言及しています。
 諡号とは、死後に贈られる尊号をいい、明治以降は、元号が、そのまま漢風諡号とされます。古代においては、天智、天武といった漢風諡号のほか、和風諡号もありました。たとえば、天智は、天命開別(あめのみことひらかすわけ)、天武は、天淳中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)、高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)という具合です。
書記の原文では、漢風諡号でなく、和風諡号が用いられています。なぜなら、漢風諡号は、書紀ができた八世紀初頭には存在しなかったからです。神武から元正までの漢風諡号が付けられたのは、書紀の注釈書『釈日本紀』によれば、天平宝字(七五七〜七六四)頃といわれています。
井沢氏は、上述の「天智天皇編」において、森鴎外が諡号について書いた『帝謚考』を引いて、「天智」という諡号は、殷の紂王(暴君の代表)が、最後まで身に付けていた『天智玉』という宝石に因むものだとしています。一方、「天武」という諡号について、同様に、『帝謚考』を引いて、「天武」という諡号は、「天は武王」をたてて兵をととのえ正義を助け、悪しき者を正したという周の武王について書かれた漢籍の一文に基づくものだとしています。周の武王は、暴君の代表・殷の紂王を滅ぼした人物です。
「天智」という諡号は、暴君・紂王に因むもの、「天武」という諡号は、その暴君を滅ぼし、王となった武王に因むものということになれば、天武は、新たな王朝の創始者ということになります。
中国では、こうした王朝の交代を易姓革命といいます。易姓革命の易姓とは、統治者の姓が易(かわ)ることを、革命とは、天命が革(あらた)まることをいい、総じて、王が不徳であれば、別の有徳者が代わって、王位に就くのが天命であるという儒教に基づく王朝交代思想をいいます。
具体例を挙げて説明すれば、隋の文帝(楊堅)は、戦乱の時代を制し、五八九年中国を統一しますが、楊堅が創てた隋も、その子・楊廣(諡号・煬帝=ようだい)の高句麗遠征の失敗を素に、国力は衰退し、やがて煬帝は、部下の手にかかり殺され、煬帝が殺されるとともに隋も滅びます。代わって李淵(太宗)が、唐王朝を興し、中国を統一します。
高句麗遠征の失敗は、煬帝の不徳であり、別の有徳者たる李淵が王位に就き、支配者の姓は、楊氏(隋)から李氏(唐)に代わります。これを易姓革命といいます。
井沢氏の主張からいえば、天武は新たな王朝の創始者ということになります。天武が新たな王朝の創始者だからこそ、帝記、旧辞の記録校定を行った可能性は高いと思われます。

では、天皇記及び国記などを記録させた推古は、どうでしょうか。
書記によれば、推古は、崇峻が東漢駒に殺害されたことにより即位します。書記に記載される天皇で唯一殺害されたとされるのが崇峻です。
ある種の王朝の交代と捉えていいのではないかと思います。

では、持統は、新たな王朝の創始者といえるでしょうか。
先ほども述べましたが、継体は、それ以前の皇統と断絶しているという説が有力です。そして、井沢氏は、継体という諡号と持統という諡号の関係について言及しています。
井沢氏は、上述の「天智天皇編」において、継体という諡号について易姓革命との関係について言及しています。井沢氏は、『広辞苑』を引くと「継体(ケイテイ) 君主の位を受け継ぐこと。あとつぎ。よつぎ。『継体の君』」とあるとし、「継体天皇」とは、「正当な後継ぎである天皇」という意味になるとしています。前代の武烈と血縁関係はなく、実際には、断絶してと変わらない継体が皇統を継ぐことにより(書紀の記載によれば、継体は、応神五世孫。武烈も書紀によれば、同様に応神五世孫)、皇統が保たれたから継体という諡号が贈られた旨を述べています。
そして、井沢氏は、津田左右吉氏が不敬罪に問われた裁判の際の発言を引用し、書紀の武烈紀の事跡は、夏の桀王(殷の紂王と並ぶ暴君)や殷の紂王の事跡からとられたものであるから、武烈と継体の間でも易姓革命があったとしています。
持統という諡号について、井沢氏は、『逆説の日本史2』の第三章「天武天皇と持統女帝編」において、『帝謚考』を引いて「継体という諡号と持統という諡号は、漢籍の中の「継体持統」の一対の熟語から付けられたものだとしています。
井沢氏は、上述のように、天武を皇位継承者として相応しくない人物としていますから、天智の娘である持統が即位したことより、皇位継承者として相応しい天智の血統を次代に繋げたからとし、持統については、継体と異なり、易姓革命であるか否かについては触れていません。

井沢氏は、継体については、易姓革命だとしながら、持統については、なぜ、易姓革命としないか。井沢氏は、書紀は、天武により編纂がはじめられたと認識しているからです。
井沢氏の書紀に対する認識を確認しておきたいと思います。
井沢元彦氏は、『逆説の日本史二』の第三章「天武天皇と持統女帝編」で以下のように述べています。

天武は、(壬申の乱の)勝者となって後、『日本書紀』の編纂を命じた。自分の立場を正当化するためである。したがって、天武は、天智の弟でなく、正当な後継者でもない。むしろ、その事実を隠すために『書紀』は企画された。
(中略)
『日本書紀』という書物の成立過程を見れば、それが天武にとって都合のいい『大本営発表』であることは明白ではないか。
(中略)
『書紀』が天武の簒奪(天下を奪うこと)という『犯罪』を正当化するために編まれた史書だからだ。正当な後継者ではなかった天武のことを『実は、後に天武と呼ばれた男の名は―で、その出身は―でした。』などと書くはずがないからだ。本当の名前、本当の出自を隠すためにこそ、天武は『書紀』を作らせたのである。当然、その編集の過程で『真実』が書かれた資料は全て抹殺されただろう。

この日本書紀の成立過程について、井沢氏は、第二章の「『日本書紀』から四百年後に暴かれた『天皇暗殺』説の根拠」で以下のように述べています。
 (日本書紀の)編纂の責任者、現代風にいうなら編集長である舎人親王とは何者かといえば、天武天皇の息子なのである。(中略)つまり、『日本書紀』は、天武天皇の時代にキッカケが作られ、その孫の治世に、息子である編集長が完成させた史書なのである。
 (中略)
 天武はこの戦争(壬申の乱)に勝ち、それまでの政府であった近江朝を滅ぼして政権を握っている。つまり、「反逆」である。その「反逆」ファミリーが天下を取った後に、そのファミリーの手で編纂されたのが、『日本書紀』なのである。

井沢氏は、「天武は、壬申の乱の勝者となって後、『日本書紀』の編纂を命じた」としていますが、天武が壬申の乱の勝者となった後に編纂を命じたのは、帝紀及び旧辞であり、書紀の編纂は、天武の没後の持統五(六八一)年に命ぜられたことは、何度も述べてきました。
井沢氏は、天武時代に書紀の編纂がはじめられたという前提の基に、「天武は、天智の弟でなく、正当な後継者でもない。むしろ、その事実を隠すために『書紀』は企画された」といっています。先ほどの天智―天武異父兄弟説も初期の編纂は、天武により編纂されたという認識に基づいて展開されています。
書紀の記載では、天武は、天智の弟とされています。しかし、『一代要記』や『本朝皇胤紹雲録』を考慮すれば、天武の方が歳上ということになります。これは、天武時代に記紀の編纂が開始されようが、持統時代に編纂か開始されようと、無関係な問題です。また、天武が兄天智より年上という事実を隠すために書紀は企画されたという点についても天武時代に記紀の編纂が開始されようが、持統時代に編纂か開始されようと、無関係な問題です。ただし、天武により書紀の編纂がはじめられたか持統により書紀の編纂がはじめられたかにより、その事実を隠した主体は変わります。つまり、その事実を隠したのが天武なのか、持統なのかということです。
そして、持統は、天武の后であるとともに、天智の娘なのです。
井沢氏は、書紀の編集長を務めたのは、天武の息子の舎人だとしています。確かに、舎人は、井沢氏のいうように、天武の息子です。しかし、その母は、天智と安陪倉梯麻呂の娘・橘姫の娘・新田部皇女でです。つまり、天武の息子であるとともに、天智の孫なのです。
そして、井沢氏は、書紀は、天武の孫の治世に完成したとしています。確かに書紀は、天武の孫娘である元正の時代に完成します。しかし、この時代、上皇として君臨していたのが、天武の娘・元明なのです。
書紀の神代から雄略紀の著述を命じたのも天智の娘の元明です。書紀の神代から雄略紀の著述は、慶雲四(七〇七)年四月二九日に命ぜられます。文武が死去するのは、同年六月一五日ですから、文武の命とも取れます。しかし、続日本紀の元明即位前記によれば、文武は、前年の一一月に病に陥り、母・元明に譲位する気になったと記載されています。つまり、書紀の神代から雄略紀までの著述の命は、病床の文武でなく、天智の娘・元明の意思といえるかと思います。
井沢氏の言葉を借りれば、日本書紀は、天智の娘である持統と元明の時代にキッカケが作られ、その娘(元明)の治世に、孫(舎人)である編集長が完成させた史書なのです。

井沢氏は、書紀は、天武ファミリーの手で編纂されたとの前提で天智―天武異父兄弟説を展開してきました。しかし、上述のように、書紀は、天智ファミリーの手で編纂されたものです。天武ファミリーの手で編纂されたとの前提が崩れた以上、天武のみならず、天智も疑う必要があります。天武により書紀の編纂がはじめられたか持統により書紀の編纂がはじめられたかにより、その事実を隠した主体が変わるからです。

持統以前にも女帝はいました。天皇記や国記などを記録させた推古が書紀に記載される最初の女帝です。
また、天智や天武の母とされる皇極(斎明)もまた女帝です。書紀には、推古、皇極(斎明)、持統の三人の女帝が記載されます。推古は、敏達の后、皇極(斎明)は、舒明の后、持統は、先ほども述べたように天武の后です。
そして、推古は、書紀欽明二年三月条で、父は欽明、母は蘇我稲目の娘・堅石姫とされています。
皇極(斎明)は、書紀皇極元年条で、押坂彦人皇子の子・茅淳王の娘とされています。押坂彦人皇子について、書紀敏達四年条は、父を敏達、母を敏達の后である息長真手王の娘・広姫としています。つまり、皇極(斎明)は、敏達の曾孫(三世孫)ということになります。
持統の父は、天智=中大兄皇子です。そして、母は、蘇我倉山田石川麻呂の娘・遠智娘(オチノイラツメ)です。
推古、持統ともに天皇の娘ということになります。天智、天武の母とされる皇極も天皇の曾孫とはいえ皇族です。皇族以外で天皇の后となるのは、不比等の娘・光明子が聖武の后となる天平元(七二九)年まで待たなければなりません。
しかし、書紀は、天智ファミリー手で、編纂されたものです。天智を疑う必要があります。ここで、天智について見てみたいと思います。天武ファミリーにより書紀が編纂されたことを前提とする井沢氏の天智―天武異父兄弟説が崩れれば、書紀編纂は、持統五(六九一)年にはじめられたことの証明にも繋がるからです。

天智(当時は、中大兄)が、書紀で最初に登場するのは、舒明の葬送の際に、誄を読んだ場面です。舒明一三(六四一)年一〇月一八日のことです。このとき、天智は、一六歳であったと書紀は記します。
そして、表舞台に登場するのは、乙巳の変です。
皇極四(六四五)年六月八日、中大兄は、持統の祖父・蘇我倉麻呂に入鹿殺害を持ちかけ、蘇我石川麻呂に三韓の上表文を奏上役を頼みます。
そして、同月一三日、大極殿において、三韓の進貢の際に、蘇我入鹿が殺害されます。乙巳の変です。
書紀によれば、入鹿に最初に斬りかかったのは、中大兄です。
実行部隊の佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連編田が、入鹿の威をおそれ、なかなか斬りかからなかったからです。
このとき同席していた古人大兄は、入鹿殺害を見て、「韓人、鞍作臣を殺した。」と言い、自宅に引きこもったとされます。
鞍作臣とは、入鹿のことです。書紀皇極元年一月条で、入鹿の別名と記してあります。
古人大兄は、大極殿にいて、現場を目撃しています。その目撃者の古人大兄が発した「韓人、鞍作臣を殺した」という言葉について、書紀は、「三韓の貢に事寄せて殺した」と注を付しています。
書紀の注の通りでであれば、目撃者・古人大兄皇子は、注の如く「三韓の貢に事寄せて殺した」と言ったと考えられます。
書紀の原文は、「韓人殺鞍作臣」です。当然主語は、韓人です。注の如く「三韓の貢に事寄せて殺した」とは解釈できません。
では、古人大兄が言った「入鹿を殺した韓人」とは、誰なのでしょうか。留めを刺したのは、佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連編田です。しかし、最初に斬りかかったのは、中大兄皇子であり、乙巳のクーデターの首謀者です。また、共犯者・中臣鎌足も弓を携え、護衛をしていました。
このように考えれば、韓人は、中大兄、すなわち、後の天智と考えるのが妥当ではないかと思います。
天智が、韓人であるとするなら、漢皇子は、天武よりむしろ天智の可能性を探るのが妥当ではないかと思います。
 天智の出自は、誰かを確実に示すものではありませんが、少なくとも、天智が、外国人の血を引いていたことの証明になる資料があります。南北朝時代に後醍醐に仕えた北畠親房の書いた『神皇正統記』には、「昔日本は、三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武の御代にやきすてられしなり」と記されています。
 桓武の母の高野新笠が百済系帰化人であることは、ある種の常識です。同時代の人々にとってもそれは常識であったはずです。「三韓と同種也」が、桓武の母の高野新笠についてのことなら、わざわざ、焼き捨てる必要はありません。桓武の母が、百済系帰化人であることは同時代の人々にとっても常識だったからです。
桓武の母は、同時代の人々も常識であった百済系帰化人です。一方、父は、光仁です。そして、この光仁の父は、天智の皇子・施基なのです。桓武の時代に焼き捨てられた書には、桓武の父方が、「三韓と同種」である旨が書かれていたと考えられます。

 もう少し、天智の出自について追及するため、井沢氏の著書『逆説の日本史2』第二章「天智天皇編」を見てみたいと思います。
井沢氏は、「逆説の日本史2」、第二章「天智天皇編」で、天皇家の菩提寺の御寺・泉涌寺について触れています。御寺・泉涌寺は、仁治三(一二四一年、四条が死去し、御寺・泉涌寺に葬られてから天皇家と関係を持つようになります。
御寺・泉涌寺のパンフレットには、「平安京の第一代桓武天皇、その御父光仁天皇、その直系の御祖天智天皇、この三天皇が霊明殿に奉祀の特にお古いお御方で、歴代天皇が、奉祀されている」と書かれています。
 井沢氏は、天智から光仁までの天武、持統、文武、元明、元正、聖武、考謙(重祚して称徳)、淳仁の位牌が御寺・泉涌寺で奉祀されていないことをもって、天武(系)が、怪しい証明だとしています。
しかし、御寺・泉涌寺では、なぜ、天智以前の斎明や舒明の位牌を奉祀しないのでしょうか。天智以前の天皇は、先祖と思っていないから、位牌を奉祀しないと考えられます。そして、桓武自身も天智以前の天皇は、先祖と思っていなかったとも考えられます。
そして、その桓武の時代に「三韓と同種」である旨が書かれていた書が焼き捨てられたとするなら、天智は韓半島出身者である可能性は高いのではないかと思います。

持統は、「天智の娘であるから女帝になれた」、その持統が、父・天智について、そこまで書くかという疑問が当然生じると思います。
しかし、持統には、それを書く理由があるのです。持統の祖父・蘇我石川麻呂は、天智に入鹿殺害を持ちかけられています。そして、石川麻呂は協力しました。持統の母の遠智娘は、乙巳の変の三月前に、天智に嫁いでいました。入鹿殺害メンバーに石川麻呂を引き入れるためだと考えられます。
その後、石川麻呂は、どうなったのでしょうか。石川麻呂は、大化の改新で右大臣に任ぜられています。入鹿殺害に協力した論功によるものでしょう。
しかし、それから四年あまり後の大化五(六四九)年三月二四日に、石川麻呂の異母弟の蘇我日向が、「皇太子(中大兄=天智)暗殺の謀議がある」と中大兄に讒言し、これを中大兄が信じ、謀反の疑いをかけられた石川麻呂は自害しています。そして、書紀は、これが冤罪であった旨を記します。
書紀雄略紀から天智紀の著述は、持統が命じました。石川麻呂は、持統の外祖父です。
ですから、冤罪であったか否かは、わかりません。しかし、石川麻呂の死を知った石川麻呂の娘で中大兄の妃は、悲しみもだえたと記されています。このとき、持統四歳、そうした母に育てられた持統は、父・天智にどのような思いを抱いたのでしょう。こうした思いは元明にもあったと考えられます。
中大兄の妃で石川麻呂の娘には、持統の母の遠智娘のほか、元明の母の姪娘もいます。元明が生まれるのが、石川麻呂の死から一二年経った斎明七(六六一)年、石川麻呂の死後、父を死に追い込んだ天智のもとに嫁いだと考えられます。元明も父・天智に対して、持統以上の思いがあったと思います。
 そうした持統と元明の心情が、自己の正当性の主張のため父・天智も舒明と斎明の子としながら、「韓人殺鞍作臣」の一文を挿入し、それを残したのではないかと思います。
 そして、考えすぎかも知れませんが、それと同時に、緩衝措置として、天武の没年を六五歳とする資料を流し、それが、『一代要記』や『本朝皇胤紹雲録』に取り上げられたのかもしれません。

 井沢氏の天智―天武異父兄弟だけでは、井沢氏の書紀は天武ファミリーの手により編纂された書への反論としては、不十分だと思います。『逆説の日本史二』、第二章『天智天皇編』及び第三章『天武天皇と持統女帝編』は、書紀は、天武ファミリーの手により編纂されたとの前提に展開されています。もう一つ例として、井沢氏の書紀の大友の扱いについての記載に対する認識について検証してみたいと思います。
 大友(六四八〜六七二)は、壬申の乱(六七二年)で、天武と戦い敗れた天智の後継者です。持統(六四五〜七〇二)とは、異母姉弟、元明(六六一〜七二一)とは、異母兄妹の関係になります。
書紀天智七(六六八)年二月二三日条は、大友は、天智と伊賀妥女宅子娘の間に生まれ、最初は、伊賀皇子と呼ばれたと記載されています。妥女とは、地方豪族の娘をいいます。伊賀妥女宅子娘とは、伊賀の豪族の娘の宅子ということになります。
井沢氏は、「逆説の日本史2」第二章「天智天皇編」で、大友の母は、伊賀妥女ではないとしています。井沢氏は、その証拠として以下のように述べています。

そして、それがゆえに大友皇子は『日本書紀』の言うように伊賀出身ではないのだ。
皇子は、大津付近を地盤とする大友村主一族の出身だった。だからこそ「大友」皇子と呼ばれたのである。
大友皇子が伊賀の出身でないことを示す証拠が、『日本書紀』の記述の中にある。
壬申の乱を起こした大海人皇子(天武)は、少人数の兵を率いて吉野から脱出したあと、すぐに伊賀(三重県西部)に入った。伊賀である。他に山城(京都府)に入る手もあるのに、あえて伊賀に入ったのである。そして、ここで伊賀の郡司(国司<現在の知事>の下、副知事クラス)が数百人の兵を連れて応援に駆けつけている。
これはおかしい。
もし、大友が「書紀」の記載通り「母は伊賀出身の妥女」ならば、ここは大友の母の「実家」である。しかも妥女というのは地方豪族の娘だから、伊賀の国司は大友皇子の祖父である可能性が高い。
そんな敵方の地盤に、反乱を起こしたばかりの大海人が足を踏み入れるだろうか?
また、国司の忠実な部下であるはずの郡司が、しかも数百人の手勢(これは全部伊賀人だろう)を率いて駆けつけられるだろうか?
(中略)
第一、もし大友皇子が伊賀出身なら、「書紀」は必ず「大友皇子は出身地の伊賀の人民からも見放された」と、鬼の首をとったように書くはずである。

井沢氏のいうように、大友の母は、「伊賀出身の妥女」でないと考えられます。
井沢氏は、大友が大津付近を地盤とする大友村主一族の出身だとする理由について、弘文陵(大友の墓)が、神仏分離以前には、三井寺(長等山園城寺)の寺内にあったことを挙げています。三井寺は、寺伝によれば、大友の発願に基づき、その子の大友与多麿が天武一五(六八六)年に建立し、貞観元(八五九)年に円珍が再興したと伝えられます。
三井寺は、天台寺門宗の総本山です。同じ天台宗(山門派)の総本山比叡山延暦寺とは対立していました。そうしたことから、一般には、大友与多麿が天武一五(六八六)年に建立したというのは、山門派に対抗するための後世の付会だとし、奈良時代末に、大津付近にいた大友村主一族の氏寺として創建されたものではないかとされています。
しかし、寺内に、大友の墓があるわけだから、大友与多麿が建立したものだとしています。
書紀は、天智六年三月二九日、天智は都を近江(大津京)に遷したと記載します。大津付近には、大友村主一族がいました。そして、翌年の天智七年一月三日に即位します(一書では、大津京に遷都した六年三月)。
大友の母の一族がいる大津に遷都し、即位したということです。
そうした流れから考えても井沢氏の大友の母は、「伊賀出身の妥女」でなく、「大友村主一族の出身」であるとする説は、頷けます。

では、この大友村主一族とは、どのような氏族であったか。
大友村主一族は、百済系の帰化人といわれています。
天智は、この百済系帰化人とどこに接点が、あったのでしょうか。どうして、百済系帰化人の地盤である大津に都を遷さなければならなかったのでしょうか。そして、どうして、百済系帰化人の血を引く大友を後継者としたのでしょうか。
天智自体が、百済系だったと考えるのが自然ではないかと思います。
そのように考えれば、大友の出自を隠す必要があったのは、天武より、天智の娘の持統や元明がより濃いといえるのではないかと思います。
そして、凡そ皇位継承者として相応しくない人物を父に持つ二人の女帝が、自らの正当性を主張するために書かれたのが書紀といえるのではないかと思います。そして、二人の女帝の正当性の主張が皇祖神アマテラス創造の原動力となったのではないかと考えられます。

 次回は、天武朝の帝記、旧辞、推古朝の天皇記、国記がどのようなものかについて書こうと思っています。

760 記紀成立考1(記紀の成立過程について) 穂国幻史考管理人・柴田晴廣 2003/08/22 17:42

持統最晩年の最大の謎といえば、三河行幸ということになるかと思います。
この持統三河行幸について、『続日本紀』の文武紀、大宝二(七〇二)年一〇月一〇日は、上皇(持統)が、三河に行幸した旨が記載されるものの、同年一一月一三日に、行幸は尾張国に到着したとの記事まで三河行幸の往路及び三河での行動については一切書かれていません。そして、三河から帰還して十日ほどした同年一二月六日(三河帰還の記載は、同年一一月二五日)、昼間金星が見られた(変兆)との記載が書かれ、同年一二月一三日には、持統の病が重くなったと記載されます。
一方、穂国=東三河では、大宝年中(大宝は元年〜三年まで)、鳳来寺に棲む利修仙人に文武の病気平癒の祈願を頼むために都から勅使が遣わされたことを縁起とする寺社が数多く存在します。
しかし、『続日本紀』は、大宝年中に文武が病気になったことは、記されていません。大宝年中の三河に関係ある記載は、持統三河行幸だけです。
まさに、持統三河行幸は、謎といえ、三河帰還後に亡くなっていることを考えれば、「死を賭けた」との形容をつけてもいい三河行幸であったといえるのではないかと思います。
では、この持統が死を賭けた三河行幸とは、何であったか。

まず、これを考える前に記紀とは何かについて考えてみたいと思います。
なぜなら、天孫降臨神話という天皇制の核となる逸話に、持統の意思が反映されていることが、既に指摘されているからです。
天孫降臨、すなわち、皇祖神・アマテラスが、高天原から葦原中津国に派遣された孫のニニギの子孫が日本を統治する。これは、持統から文武、すなわち、祖母から孫への皇位継承の正当化にほかならないと考えられるのではないかと思います。
文武に皇位を継承したものの、持統は、年端も行かない孫の文武の将来にどんな思いをめぐらせていたのでしょう。
老齢に差し掛かった持統(三河行幸時、持統は、五八歳)が、そんな文武(三河行幸時、二〇歳)の将来への不安を断ち切るため、敢行したのが三河行幸だと見ていいのではないかと思います。
皇祖神アマテラスを含めた天孫降臨神話の創作と死を賭けた三河行幸、これには、密接な関りがあるのではないかと思います。
以上の理由から、持統三河行幸を考察する上で、記紀とは、何かについて考えることが重要だと思います。

記紀の編纂は、一般には、天武時代にはじめられ、古事記が成立するのが、元明の時代=和銅五(七一二)年、そして、書記が成立するのが、その八年後の元正の時代=養老四(七二〇)年五月(日にちは、不明)のことです(なお、元明が亡くなるのが、翌年の養老五年ということですから元明の時代に成立したといえます。)。
記紀の編纂が天武の時代にはじめられたとする根拠になるのが、日本書紀天武一〇(六八一)年三月一七日の記載と古事記序文の記載です。
書紀天武一〇(六八一)年三月一七日は、川嶋皇子をはじめ一二人に詔して、帝紀及び上古の諸事(旧辞)を中臣連大嶋と平群臣小首に記録校定させたと記載し、古事記序文第二段で、諸家が持っている帝紀及び本辞(旧辞)は、まちまちであり、事実と異なっているものもある。これを放っておけば、どれが真実かわからなくなる。天皇についての記録(帝皇日継=帝記)や神話(先代舊辞=旧辞) は、国の基になるものである。そのため、諸家の持っている記録を改め事実を後世に伝える必要がある。それを受けて、稗田阿礼に帝紀及び旧辞を誦習わせた(以上天武の命)。しかし、時勢が移り、いまだ完成に至ってないと記載しています。
両書の記載を総合すれば、天武一〇年三月に『帝紀及び本辞』の編纂がはじめられたが、時勢が移り、中断し、その後、再開され、古事記が和銅五(七一二)年、そして、書記が養老四(七二〇)年に成立したということになるかと思います。
そして、古事記序文第三段は、和銅四(七一一)年九月一八日に(元明の)詔により、稗田阿礼が誦習させた帝紀及び旧辞を太安麻侶が筆記し、翌和銅五(七一二)年正月二八日に奏上したと記載します。
つまり、古事記は、天武朝に、その編纂が開始されたが、時勢が移り、中断され、それが、和銅四(七一一)年九月一八日に再開され、翌和銅五(七一二)年正月二八日に完成したということになるかと思います。そして、その八年後に日本書紀が完成したということになります。

もう一度、書記天武一〇年三月の記載を見てみます。書記天武一〇年三月一七日の記載は、「帝紀及び旧辞の記録校定させた」旨を記載しています。「書記あるいは古事記の編纂を命じた」とは記載されていません。
そして、先ほど述べたように古事記序文第二段では、「諸家が持っている帝紀及び本辞(旧辞)」があった旨が記載されています。
その「諸家が持っている帝紀及び旧辞は、まちまちであり、事実と異なっているものもあり、これを放っておけば、どれが真実かわからなくなる」旨が古事記序文に書かれています。
また、書記及び古事記は、帝紀的部分、旧辞的部分を持ち合わせておりますが、それが分けて書かれているわけではありません。つまり、天武一〇年に記録校定された帝紀及び旧辞と書紀あるいは古事記が同一のものとは言い切れいないと思います。
上述のように、書記天武一〇年三月の記載は、あくまでも帝紀及び旧辞の「記録校定」を命じたのであり、「編纂」を命じたのではありません。このように考えると、天武一〇年の「帝紀及び旧辞の記録校定」をもって書紀編纂の開始と見るのことに疑問が生じてきます。

また、天武が「記録校定」を命じたのが、天武一〇(六八一)年三月一七日、天武が死亡するのが、朱鳥元(六八六)年九月九日、その間、五年半。「記録校定」が、これほどの年月を要するかという問題が生じてきます。
古事記序文第二段でも「帝紀及び旧辞を諸家が持っている」旨が記載されています。また、「諸家が持っている帝紀及び旧辞」のほかにも、推古二八(六二〇)年に撰上された国記も存在していました。
書紀は、推古二八(六二〇)年、皇太子(後に聖徳太子と呼ばれる厩戸のこと)と蘇我馬子が、天皇記、国記、臣本紀、連本紀、伴造本紀、国造本紀、部民本紀、公民本紀などを記録した旨を記載します。
天皇記とは、古事記序文第二段の「天皇についての記録」、すなわち、帝記のことであり、国記とは、旧辞にあたるものとされています。
この推古朝に記録された天皇記などが、その後どうなったかについて、書記は、以下のように記します。皇極四(六四五)年六月一二日、大極殿で、中大兄(後の天智、持統の父)が、蘇我入鹿(推古朝の天皇記などを記録した蘇我馬子の孫)を殺害し、入鹿の父・蘇我蝦夷の邸を囲みます。翌一三日、蝦夷は、殺される前に、天皇記や国記、珍宝等を火にかけたが、国記は、船恵尺なる者がかろうじてもちだし、中大兄に献上した旨を記載します。
つまり、乙巳の変(蘇我蝦夷―入鹿殺害事件をいう。蝦夷殺害の翌日、皇極は、孝徳に譲位し、年号を大化と改め、詔が発せられます。厳密にいえば、これを「大化の改新」といいます。)までは、推古朝に記録された天皇記も国記も存在しており、天皇記のみが、焼失したことになります。
古事記序文第二段は、「旧辞のみならず帝紀をも諸家が持っている」旨が、記載されています。「諸家が帝記をも所持」していたとすれば、乙巳の変(六四五年)で、蘇我蝦夷が自害するときに焼失したのは、蘇我家所蔵の天皇記(帝記)であり、天皇記(帝記)の写しのようなものが存在しており、それを諸家が所持し、蘇我家所蔵の天皇記(原本)焼失後、都合よく書き直したものが存在していたと考えられます。
そのように考えると、書紀天武一〇年の帝紀及び旧辞の記録校定の記載は、諸家の持っている旧辞(国記)と、推古朝に撰上された国記の擦合作業(校定)、及び諸家の所持している帝記を一本化(推古朝の天皇記の復元)する作業であったと考えられます。
そして、そのような擦合作業は、長期間を要するものではないと考えられます。
また、古事記序文第三段は、「元明の詔から四月余りで完成した」旨が記載されています。元明が詔を出した和銅四年には、既に、「記録校定」は終わっていたと考えられます。
つまり、書紀天武一〇年の帝紀及び旧辞の記録校定は、短期間で終了し、書紀天武一〇年三月一七日の記載は、記紀編纂の直接のきっかけではないと考えられます。

書紀天武一〇年の帝紀及び旧辞の記録校定が記紀編纂のきっかけでないとすれば、何時、記紀編纂がはじめられたかということになります。
書記持統五(六九一)年八月一三日に、大三輪氏をはじめ一八氏の墓記を上進させたとの記載があります。この記載が、記紀編纂のきっかけではないかと考えられます。
中公新書刊『日本書紀の謎を解く』において、著者の森博達氏も書記持統五年八月一三日の大三輪氏をはじめ一八氏の墓記の提出を書紀編纂のきっかけとしています。
持統は、壬申の乱(六七二年)を夫の天武とともに戦い、天武が即位した天武二(六七三)年に天武の皇后となり、天武の死後、称政(即位せずに政務を行うこと)を執ったとされます(書紀持統即位前記)。そして、天武の死後一月もしないうちに、我が子・草壁の皇位継承上のライバル・大津に謀反の罪を着せ、抹殺します。しかし、草壁は、持統三年四月一三日に亡くなります。天武の葬送(持統二年一一月四日)から半年も経っていませんでした。そして、翌持統四年一月一日、持統自らが即位します。
大三輪氏をはじめ一八氏の墓記の提出を命じたのは、持統即位の翌年ということになります。
天武一〇(六八一)年の帝紀及び旧辞の記録校定は、既に完了していたことは、上述の通りです。そして、天武一〇(六八一)年に記録校定が命じられた帝紀及び旧辞が喪失したという記載はありません。
大三輪氏をはじめ一八氏の墓記の提出を命じた持統五(六九一)年には、天武一〇(六八一)年に記録校定が命じられた帝紀及び旧辞は存在していたと考えられます。存在していたにもかかわらず、新たに歴史書の編纂を命ずる必要が生じたのかという疑問が湧きます。
また、古事記が成立するのが、持統の死後(持統は、大宝二(七〇二)年一二月二二日)、一〇年近く経った和銅五(七一二)年、書紀が成立するのは、さらに、その八年後の養老四(七二〇)年です。
書紀の編纂のために大三輪氏をはじめ一八氏の墓記の提出を命じた持統五(六九一)年から数えれば、三〇年近くかかって書紀は完成したことになります。
天武時代の帝紀及び旧辞の記録校定が短期間で終了したと考えられるのに対し、書紀の編纂は、長期を要する大掛かりなものということになります。天武時代に記録校定が命じられた帝紀及び旧辞が存在するにもかかわらずです。
この長期間を要したということと、持統が新たな歴史書の編纂を必要とした理由は無関係でないと考えられます。そして、この長期間を要した書紀の編纂課程を考察することにより、持統が、帝紀及び旧辞とは、別に書紀の編纂を欲した理由も明らかになるのではないかと思います。

まずは、書紀の成立過程について考えてみようと思います。
書記を通読したことがあれば、巻一三(允恭・安康記)の安康の最後の部分と、巻一四の雄略即位前記が記載のダブりがあることに誰でも気づくはずです。
これは、書記が巻一の『神代上』から編纂がはじめられたのではなく、先に、巻一四の『雄略記』から、はじめられ、後に、巻一の「神代上」から巻一三の『允恭・安康記』の編纂がはじめられた可能性が考えられます。
同様に、巻二七の『天智』の最後の部分(天智臨終前)と、巻二八の『天武上』の天武即位前記(壬申の乱前夜)にダブりがあることに気づくと思います。
 『日本書紀の謎を解く』の著者森氏も書記が巻一の『神代上』から編纂がはじめられたのではなく、先に、巻一四の『雄略記』から、はじめられたとの見解を示しています。
森氏の著作『日本書紀の謎を解く』は、書紀の漢文の用法についての研究書です。森氏は、巻一から巻一三、巻一四から巻二七、巻二八から巻三〇で、誤法の頻度が異なることから、書記が一人の手になるものではなく、数人の手によるものだとしています。

では、森氏の著作『日本書紀の謎を解く』を参照しながら、書紀の編纂課程を考察することにします。
森氏は、書紀の漢文の用法から、書紀は、中国人により書かれた部分、漢文が得意でない日本人により書かれた部分、そして、ある程度漢文がわかる日本人が書いた部分があると指摘しています。
 森氏は、漢文の用法から巻一四の『雄略紀』から巻二七の『天智紀』は、中国語を母国語とする中国人により書かれたとし、その人物を唐人・続守言と薩弘烙の二人としています。
大三輪氏をはじめ一八氏の墓記の提出が命じられるのが、書記持統五(六九一)年八月一三日、そして、同年九月四日に「大唐の続守言、薩弘格に銀二十両を賜った」とする記載があります。そして、翌六年の一二月一四日にも、両名に「水田四町を賜った」との記載があります。
森氏は、この両名に対する賞揚の記載は、墓記の提出を受けて、続守言と薩弘烙の二人に書紀の著述を促すためのものであるとしています。
また、持統三年六月二九日に令一部二二巻が中央の諸官司に配られます。この令一部二二巻は、飛鳥浄御原令をさすといわれています。この十日前に続及び薩の両名が稲を賜ったと記事があり、森氏は、この記載は、両名が飛鳥浄御原令の編纂に功績があったために稲を賜り、この功績を買われ、書紀の著述を命じられたとしています。
森氏は、続守言が、巻一四の雄略紀から、薩弘烙が、巻二四の皇極紀からの著述を担当したが、続守言は、巻二一の崇峻紀の終了間際で倒れたとしています。一方、薩は、巻二七の天智紀まで完成させ、文武四(七〇〇)年以降に死去したとしています。
森氏は、続守言が、巻一四の雄略紀から担当した理由として、巻二六(斎明紀)末の『日本世紀』を引用した別伝に続守言が捕虜として来朝した旨が記載されていますが、来朝の時期が曖昧なことから、本人が書いたものではないとしています。また、時期が曖昧なのは、本人に確認ができなかったからであり、このときには、既に続守言は、死亡していたのではないかとしています。
そして、巻二一の崇峻紀の終了間際に続守言が死亡したという理由として、巻二二の一七条憲法の漢文の用法が間違っていること、さらには、巻二二全体も漢文の誤法があること等を理由(中国語を母国語とする続が漢文の誤法をするわけがない)としています。
一方、森氏は、巻一(神代上)から巻一三(允恭・安康)は、漢文の用法から漢文が得意でない日本人の手により書かれたとしています。
巻一から巻一三の編纂は、何時から行なわれたかということについては、続日本紀の慶雲四(七〇七)年四月一五日の山田史御方に学士としての功績としての賞揚の記載は、神代から安康までの著述の必要が生じたことから、その著述を促す記載だとしています。
山田史御方については、書紀持統六年一〇月一一日の記載に新羅に学問僧として留学した旨が書かれています。そして、巻一から巻一三は、純粋な漢文でなく、仮名表記が中国語の正音でなく倭音で表記されていること、和化漢文からなること、漢籍仏典や仏教漢文の影響が強いことから中国に留学にいったのではなく、僧として新羅に留学した経験のある山田史御方の手によるものだとしています。
さらに、森氏は、持統紀並びに全体の潤色、加筆及び続守言が執筆できなかった巻二一の巻末の著述については、『続日本紀』和銅七(七一四)年二月一九日の紀朝臣清人と三宅藤麻呂に国史撰述の詔勅が下ったとする記載に求めており、大宝二(七〇二)年の持統の死去にともない巻三〇の持統紀の著述が計画され、その撰述を清人が、全体の潤色及び加筆並びに続守言が執筆できなかった巻二一の巻末を藤麻呂が担当したのではないかとしています。

森氏は、書紀の編纂過程について以上のように推測しているわけですが、ここで、古事記の編纂について考えてみます。
森氏は、巻一(神代上)から巻二七(天智紀)までの書紀の撰述が何時完了したかには、言及していませんが、巻一(神代上)から巻一三(允恭・安康)の著述がはじめられたのが、慶雲四(七〇七)年、全体の潤色等の著述がはじまったのが和銅七(七一四)年以降としています。
 つまり、巻一から巻二七が完成したのは、慶雲四(七〇七)年から和銅七(七一四)年の間といういことになります。
 古事記序文第三段に書かれているように古事記は、和銅四(七一一)年九月一八日の元明の詔から、わずか四月あまりの和銅五(七一二)年正月二八日には、完成しています。
 この短期間の編纂作業がなんであったかを考えてみます。
続守言が執筆できなかった巻二一の巻末(巻二一は、用明及び崇峻)の著述については、森氏によれば、和銅七(七一四)年以降に行なわれたとされます。
続守言が担当するはずであった巻二二及び二三の著述が何時行われたかについて、森氏は、言及していませんが、おそらく、巻二一の巻末と同時期に行なわれたと考えられます。
つまり、巻一から二一の終了間際及び巻二四から二七が、完成したのが、慶雲四(七〇七)年から和銅七(七一四)年の間ということになるかと思います。
古事記は、神代から推古までが記載されているのですが、推古については、四七字、崇峻に至っては、三八字しか記載がなく、その行跡がほとんど記されていません。神代から推古までといっても実質的には、用明までが記載されているといった方がいいかもしれません。
神代から用明というと、ちょうど、書紀の巻一から巻二一にあたります。そして、書紀の神代から用明までの撰述が完成したのが、慶雲四(七〇七)年から和銅七(七一四)年の間ということになれば、古事記の編纂作業が四月あまりで終了した理由も自ずと頷けます。
書紀は森氏が、漢文の誤法から編纂者を割り出し、その編纂過程を推測したように漢文で書かれています。一方、古事記は、万葉仮名で書かれています。
和銅四(七一一)年九月一八日の元明の詔から、わずか四月あまりの和銅五(七一二)年正月二八日までの編纂作業は、難解な漢文で書かれた書紀を容易に理解できる万葉仮名に訳す期間であったと考えられます。つまり、元明の詔が出される和銅四(七一一)年九月一八日の時点で、御方は、書紀の巻一から巻一三(神代から安康)までの著述を終えていたのではないかと考えられます。
このことは、古事記序文第三段が、「稗田阿礼が誦習させた帝紀及び旧辞を太安麻侶が筆記し」の記載からも、元明が詔を出した時点では、稗田阿礼が誦習できるくらいの帝紀及び旧辞が揃っていたことの裏付になるかと思います。

ここで、もう一度、古事記序文を見てみます。
古事記序文第二段は、「諸家が持っている帝紀及び旧辞は、まちまちであり、事実と異なっているものもある。これを放っておけば、どれが真実かわからなくなる。帝記や旧辞は、国の基になるものである。そのため、諸家の持っている記録を改め事実を後世に伝える必要がある。それを受けて、稗田阿礼に帝紀及び旧辞を誦習わせたが、時勢が移り、いまだ完成に至ってない」と記載しています。
「諸家が持っている帝紀及び旧辞は、まちまちであり、事実と異なっているものもある」という部分については、乙巳の変で、蘇我蝦夷所蔵の天皇記(帝記)が焼失し、諸家が所蔵する帝記を都合良く書き直している旨であることは既に述べました。
そして、「帝記や旧辞は、国の基になるものである。そのため、諸家の持っている記録を改め事実を後世に伝える必要がある」という部分については、天武一〇年の帝紀及び旧辞の記録校定のことを指すと思います。
しかし、「時勢が移り、いまだ完成に至ってない」という部分については、少し補足しなければなりません。つまり、天武は、帝記及び旧辞の記録校定は完了したと考えていたとしても、元明は、天武が行った帝記及び旧辞の記録校定では、満足していなかった。だから、第三段で、元明は、詔を出し、古事記の編纂を命じたとの補足が必要かと思います。
上述のように古事記序文は、幾つかの事実が隠されています。書紀もまた同様に幾つかの事実が隠されています。一つは、大三輪氏をはじめとする一八氏の墓記の提出を命じたのは、何の目的であったか。もう一つは、唐人二名の賞揚についての目的は何であったかです。つまり、書紀の完成に至った時点で、書紀の編纂開始の事実は、伏せられたことになります。
書紀の編纂開始の事実は、伏せられたことを補足すれば、上述の大三輪氏の墓記の提出と書紀編纂に関する旨が書かれていないことのほか、以下のことが挙げられます。
推古二八(六二〇)年、天皇記及び国記等が記録された旨が記載されているにもかかわらず、推古朝に記録された天皇記は、乙巳の変(六四五年)で焼失したとしていること、つまり、天皇に関する記録は、乙巳の変で焼失し、現存しないと思わせる記載が挙げられるかと思います。 
古事記の完成が『続日本紀』に記載されていないことから古事記が公開を目的として作られたものではないことは明らかです。事実、書紀は、撰上の翌年には、宮中で講義が行われますが、古事記が世に知られるようになるのは、かなり後になってからです。
古事記は、公開を目的として作られたものではありませんから、皇子の人々は、書紀のみの記載を信じるしかありませんでした。書紀のみを読めば、乙巳の変で天皇に関する記録は、一切失われたとしかとれないわけです。
そして、帝記が存在しないゆえに、天武一〇年に帝記及び旧辞の記録校定が命ぜられ、それが、完成したのが養老四年五月であるとしか解釈できないのです。これが、書紀には幾つかの事実が隠されているという理由です。
森氏は、巻一から二一の終了間際及び巻二四から二七が、完成したのが、慶雲四(七〇七)年から和銅七(七一四)年の間としています。そして、古事記序文第三段は、和銅四(七一一)年九月一八日に元明の詔がだされ、和銅五(七一二)年正月二八日に撰上されます。
この短期間で終った編纂作業は、難解な漢文で書かれた書紀の神代から崇峻までを容易に読める万葉仮名に書き直す作業だと考えられる旨は既に述べました。このように考えれば、古事記は、書紀の一応の構成が終った段階での「ゲラ刷り」といえるのではないかと思います。
そして、この「ゲラ刷り」が完成した後、最終的な潤色、加筆が行われたと考えられます。

ここで一度、森氏の見解に従って、記紀の編纂過程を時系列的に整理してみます。

天武一〇(六八一)年三月一七日 天武が帝紀及び旧辞の記録校定を命ずる。
朱鳥元(六八六)年九月九日 天武死去
朱鳥元(六八六)年一〇月三日 大津自害
持統二(六八八)年一一月四日 天武の葬送
持統三(六八九)年四月一三日 草壁死去
持統四(六九〇)年一月一日 持統即位
持統五(六九一)年八月一三日 大三輪氏をはじめ一八氏の墓記の提出(記紀編纂開始)
持統五(六九一)年九月四日 続守言、薩弘格に雄略紀から天智紀までの著述を促す。
持統六(六九二)年二月一四日 続守言、薩弘格に催告
文武元(六九七)年八月一日 持統、孫の文武に譲位
文武四(七〇〇)年頃 雄略紀から天智紀まで完成
大宝二(七〇二)年一〇月一〇日 三河行幸出立
大宝二(七〇二)年一一月一三日 尾張国到着
大宝二(七〇二)年一一月二五日 三河行幸から帰還
大宝二(七〇二)年一二月六日 変兆の記載(持統発病?)
大宝二(七〇二)年一二月一三日 持統重病
大宝二(七〇二)年一二月二二日 持統死去
慶雲四(七〇七)年四月二九日 山田史御方に神代から安康紀までの著述を促す
慶雲四(七〇七)年六月一五日 文武死去
慶雲四(七〇七)年七月一七日 元明(文武母)即位
和銅四(七一一)年九月一八日 古事記編纂開始
和銅五(七一二)年一月二八日 古事記完成
和銅七(七一四)年二月一九日 持統紀の著述並びに全体の潤色、加筆を促す
和銅七(七一四)年六月二五日 首(後の聖武)立太子
霊亀元(七一五)年九月二日 元明、元正(文武姉)に譲位
養老四(七二〇)年五月 書紀撰上
養老四(七二〇)年月八月三日 不比等死去
養老五(七二一)年一二月 元明死去

 森氏の見解に従って、記紀の編纂過程を時系列で並べてみると、持統三河行幸は、雄略紀から天智紀が完成し(森氏の見解に従えば、巻二一末並びに巻二二及び二三は未完)、神代から安康紀の撰述をはじめる前に敢行されたことになります。
 そして、この神代の巻にアマテラスは、登場し、天孫降臨逸話が挿入されます。
 持統が即位したとき、持統の一人息子の草壁は既にこの世にいませんでした。持統は、ほかの天武の皇子を差し置いて、即位します。このとき持統には、生まれたばかりの孫の文武ためにという意識が当然あったと思われます。
 この意識が、後に祖母アマテラスから孫のニニギを統治者として降臨させたという天孫降臨神話として結実するわけです。
 そのように考えれば、三河行幸と天孫降臨逸話には何等かの関係があると見ていいのではないかと思います。
 そして、持統は、即位翌年に大三輪氏をはじめ一八氏に墓記の提出を命じ、続、薩の両名に雄略紀から天智紀の著述を命じます。
 撰述を命じたということは、既に資料などの準備はできていたと考えられます。このことからも天武朝に記録校定が命ぜられた帝記及び旧辞は、持統即位時に存在していたと考えられます。
古事記序文の第二段の「時勢が移り、いまだ完成に至ってない」と思っていたのは、元明だけでなく、持統の意思でもあったわけです。

761 お知らせ セオリツ 2003/08/29 15:51

こんにちは、お久しぶりです。
先日、不通でした。瀬織津比賣を祀っている。
御陵神社のホームページがやっと復旧いたしました。
パソコンは壊れていないのに、動かない状態で
多くの専門家に診てもらいましたが、?でした。
アドレスの紹介をさせていただきます。
http://www.wainet.ne.jp/~goryou/です。
  以上 お知らせまで

762 kokoroさま なにがし 2003/08/30 10:07

>本尊大日如来、左右に文殊、不動、三宝荒神
「くうかい」のにおいがしますね。

>竈神
祓戸の神とおなじような「せいしつ」をもった、きよめてくれそうなかみさまにかんじてしまうのですが、どうなんでしょう?

763 荒神山神社の元は日向神社 風琳堂主人 2003/08/30 11:25

 kokoroさん、皆さん、こんにちは。
 琵琶湖巡りはまだ半分強でしたが、事務雑務の整理もあって中断、今、名古屋事務所にいます。興味深い祭祀現実や史料をいくつか拾ってきましたが未整理で、これらはあらためて書きます。
 囲炉裏夜話758で、kokoroさんが荒神山神社について、これまた興味深い「思いつき」を書いてくれましたので、今回は、それと関係する話に限定させてもらいます。
 荒神山には車で登れるとのことで、登り口まで行ったところ、落石とかで通行禁止になっていました。瀬織津姫が「来るな」ということかなともおもいましたが、おもいなおして山の周辺をうろついていましたら、山の東北部に唐崎神社があることをみつけました。そういえば、荒神山神社は、天智時代に琵琶湖の四箇所の祓所の一つだったなと思い出し、これは素通りするわけにはいきません。社頭の案内看板の字が一部判読困難な部分もありますが、読める範囲で写しておきます。

■荒神山の唐崎神社「由緒」
(主祭神)大己貴神
(相殿神)大山咋神、日本武尊、表筒男命、中筒男命、底筒男命、惶根命
(配祀神)八社
(鎮座地)滋賀県彦根市日夏町宮前四七七八番地
(由緒)
 本殿は淡海の国四ヶ所の祓殿なり。近江の国犬上郡日向神社〔鎮?〕在する所なりと伝ふ。
 聖武天皇の御宇、天平十三年三月二十日、僧行基日向山嶺現在の荒神山へ奥山寺を創立するに当り、社殿を唐崎の地に遷し奉りしを初とす。〔後略〕(適宜、句読点を補足)

 どうやら、あまりのタイミングというべき「落石」は、この神社をみつけろということだったのかもしれません。ここの由緒書きには、とても興味深いことが、少なくとも三つ書かれています。
 @荒神山の前は日向山と呼ばれ、そこには、日向神社がまつられていたこと。
 A行基によって奥山寺が創建されたとき、頂上の日向神社は唐崎の地に遷されたこと。
 B日向神社=唐崎神社の主祭神が、「祓殿」にもかかわらず「大己貴神」とされていること。

 現鎮座地の「彦根市日夏町」の「日夏」は、かつての山名および神社名にみられる「日向」の転とみることができます。瀬織津姫は日向神でもありましたから(囲炉裏夜話597、599「日向神と八女津媛」、707「水主神とはなにか」)、この荒神山の唐崎神社の由緒・伝承は、とても大きな意味をもつ「証言」といえます。
 この荒神山の唐崎神社の由緒が『滋賀県神社誌』において、現在どのように記述されているのか──これは未確認ですが、すでにコピーしていた、現在の荒神山神社の由緒をあらためて読んでみます。

■荒神山神社「由緒」
(主祭神)火産霊神、奥津日子神、奥津比売神
(配祀神)瀬織津比盗_、速秋津日売神、気吹戸主神、速佐須良比盗_
(鎮座地)滋賀県彦根市清崎町1931
(由緒)
 社伝によれば、起源は天智天皇の御宇、近江国に四ヶ所の祓殿が設けられた。『近江輿地志略』によると「荒神山、上平流村、下平流村の中間にあり。(中略)中世当国四所の祓殿というは南三郡は韓崎、西二郡は白鬚社前、北三郡は木本中四郡は此荒神山なりといふ。」とあり、犬上、愛知、神前、蒲生の中四郡の祓殿であった。
 また同書に「平流山奥山寺、荒神山にあり、寺記に曰く行基菩薩御老年に至り犬上郡四十九院の宿より始めて此処まで四十九の伽藍を建立し、奥山寺を奥の院とす。故に奥山寺の名あり。」また「『三国伝記』にも此事あり。本尊大日如来、左右に文殊、不動を安置す。奥山寺とも仮殿寺ともいう。寺院四坊あり。千手寺、念仏寺、勝正寺満蔵院是也。」と記している。これらの寺院が建立されたとき、三宝荒神を勧請し、竈の神が奉斎されたことが、当社の始まりとされている。以来明治初頭の神仏分離に至るまで、神仏習合の形で、寺院として存続していた。〔中略〕明治初頭の神仏分離の令によりそれまでの祓殿奥山寺(三宝大荒神社)は廃止〔と〕なり、荒神山神社と改称され現在に至っている。(滋賀県神社庁『滋賀県神社誌』、表記形式は一部変更)

 行基によって荒神山山頂に「奥山寺」が創建された聖武=天平時代、そのときに「三宝荒神を勧請し、竈の神が奉斎されたことが、当社の始まり」とされていますが、それまでの日向山および日向神社の記載はまったくみられません。また、奥山寺は、「明治初頭の神仏分離」までは、「祓殿奥山寺(三宝大荒神社)」と呼称されていたようで、竈神が日向神の主座に座ったあとも、ここは「祓」の聖地であったことがよく伝わってきます。
 ところで、荒神山神社からいただいた由緒案内には、現在の筆頭祭神である「火産霊神、奥津日子神、奥津比売神」に関して、「今から二千二百年前から荒神山山頂に火の神様、かまどの神様が奉祭してあったと伝えられています」とあり、火産霊神を「火の神様」、奥津日子神、奥津比売神を「二柱炊事の神」、つまり竈神と注記しています。火産霊神は伊豆山神社の主祭神でもありますが(表示は火牟須比命)、荒神山に往古から「火の神様」が鎮座していたとしますと、この神はアマテラスとは異質の男系太陽神であった可能性が高いです。また、山麓の唐崎神社の由緒伝承をここに重ねますと、日向神=瀬織津姫=水神もまた山頂に祭祀されていましたから、どうやらこの荒神山においても、日神と水神の対神祭祀がなされていたというのが、源初の祭祀形態であったとみることができます。この水神の痕跡を今に伝えるのが、配祀神の「瀬織津比盗_、速秋津日売神、気吹戸主神、速佐須良比盗_」という表示でしょう。むろん、ここでも、日向神=瀬織津姫一神の表示をきらって、祓戸神四神というパターン化された改竄表示がなされていることはいうまでもありません。
 さて、kokoroさんの貴重な「思いつき」の話です。要約すれば、琵琶湖の沖島神でもある奥津嶋神社の神とされる奥津嶋姫命と、竈神の奥津比売神は神名が類似していて、「後世、単純な誤解から、神名の似る三宝荒神の奥津比賣神≠ェ附会されたのでは」ないかという指摘です。わたしは「単純な誤解」とはおもいませんけど、奥津嶋姫命と奥津比売神が混同されて表示している例は、すでにkokoroさんが紹介していました。蒲生郡永源寺町に鎮座する藤切神社です(囲炉裏夜話560「琵琶湖と禊ぎ」)。『志賀県神社誌』によりますと、同社の祭神表示は「田心姫命、市寸嶋比賣命、奥津比賣命」とされ、これは明らかに宗像三女神の表示とみることができます。さらにいえば、宗像三女神の中心神である湍津姫(=田寸津比売=多岐都比売)が、ここでは、「奥津比賣命」と表示されていることがわかります。
 類例はまだあります。これもkokoroさんが指摘していたもので、竹生島神との濃厚な関係が認められる五社神社です(滋賀県東浅井郡びわ町)。同社の祭神表示は、「天照大神、素盞嗚命、多岐理比売命、奥津嶋比売命、市杵嶋比売神」(神奈備HP「延喜式神名帳」)で、ここでも、宗像神の重要な神である湍津姫が「奥津嶋比売命」と表示されていることには注意しておく必要があります。
 奥津比賣命あるいは奥津嶋比売命が、宗像神の湍津姫の異称神としてみられていることは重要です。なぜなら、「和銅五年藤原不比等、勅命を奉じて創立する」(『志賀県神社誌』)とされる沖島の奥津嶋神社の神と関係してくるからです。
 同神社誌は、この奥津嶋比売命は「宗像の奥津宮に坐す神と同神であり、古へ朝廷に於ても重く尊崇され」と、宗像神と同神と認める由緒伝承を綴っています。沖島は琵琶湖の水運、つまり湖北(竹生島)から湖南の瀬田川への湖上航路の道標にあたる島で、この島が、不比等時代(8世紀初頭)まで、手つかずの無神島のままであったと考えることはむずかしいです。
 このことは、日牟礼八幡宮、大嶋神社、奥津嶋神社の三社祭祀にも関わってきます。これはあらためてふれますが、ここで一つだけ報告しておきますと、日牟礼八幡宮においては、「往古よりある境内社」(『滋賀県八幡町史』昭和十五年)とされる岩戸神社の祭神は、神社側は現在具体的な説明を一切していませんけど、同町史によりますと、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」とあり、要するに、瀬織津姫であります。この岩戸神=瀬織津姫が、湍津姫と異称同神であり(囲炉裏夜話754「藤原思想と瀬織津姫」)、近江国においては、その湍津姫が奥津嶋比売命の異称同神でもあるわけです。藤原不比等が神社創祀あるいは祭祀に関与していた、天竜川河口の津毛利神社にはかつて荒祭社がまつられていたわけですが(明治六年時点の祭神は「枉津日命」)、この日牟礼八幡宮の地にも、瀬織津姫が(異称名ではあるものの)、共通してまつられていたこと、いいかえれば、不比等が祭祀に関与していた数少ない神社に共通して瀬織津姫がまつられていたこと──これを偶然とみなすことは不可能です。
 なお、不比等の神社祭祀関与を伝える第三の神社もみつかりました。近江富士の異称をもつ三上山の麓に鎮座する御上神社です。同社は、「元正天皇養老二年(=718年)に藤原不比等が勅命により初めて現在の地に榧[かや]の木で本殿を造営し(三上山から)遷祀[うつ]し奉つた」とされます(「御上神社由緒略記」)。不比等による、御上神社本殿造営時の「養老二年(=718年)」は、不比等と舎人親王が「勅命」によって、天竜川河口の津毛利神社を「創建」したとされる年でもあり(津毛利神社社頭看板)、また、前年の養老元年=717年は、白山山頂の神々の改竄が始まった年でもありました(囲炉裏夜話710・711「白山神とはなにか」)。瀬織津姫祭祀あるいは隠祭の歴史の上で、この日本書紀成立前夜ともいうべき和銅〜養老時代前半に、不比等自身による神社祭祀への関与を伝える社々が集中しているようです。御上神社は、現在、天目一箇神と同神かともいわれる「天之御影神」を祭神としていますが、これはいうまでもなく、まだ仮称神です。三上山は、「火徳水徳の霊威あらたか」な神の山で、ここは、野洲川の水神と火神=太陽神の二神祭祀がなされていた可能性があり、その意味で、かつての日向山とも通ずる祭祀形態があったものとおもいます。

 トカゲさん改め柴田晴廣さんから、力考「記紀成立考」をいただきました。持統五年=691年の大三輪氏をはじめとする十八氏の墓記の提出後に記紀の編纂が開始されたというのは、わたしもそのとおりだろうとおもいます。また、瀬織津姫隠祭と深く関わるアマテラス誕生神話の創作→完成は、和銅四年=711年ころではないかというのも、これも興味深い「時間」が明かされているというべきかもしれません。といいますのも、持統五年=691年は、ちょうど不比等が日牟礼八幡宮で「天降の神の誕生の八幡かもひむれの杜になびく白雲」という歌(不比等の唯一の和歌か)をつくった年であり(「日牟礼八幡宮略誌」)、和銅四年の翌年=和銅五年(712)には古事記が完成→奏上され、この年に、「勅命」を仮装するも、不比等自身によって奥津嶋神社が「創立」されています。記紀の編纂・創作過程に時を合わせるようにして、不比等の神社祭祀への関与・動きがみられるのは偶然ではないとおもいます。
 あと、「記紀成立考」において、元明の編纂勅命からわずか四ヶ月余で古事記が完成されるのは、「難解な漢文で書かれた書紀を容易に理解できる万葉仮名に訳す期間であった」ためで、これは古事記のオリジナルな創作ではないという説ですが、としますと、当初、書紀の神代巻は、古事記にみられる、つまり、素佐之男や大国主などの文学性過多ともいうべき波乱万丈の表現が、書紀の当初においては、すでになされていたということになります。作者は漢文に不慣れな日本人=山田史御方とのことです。日本書紀の最終推敲時に、古事記の「書き過ぎ」の部分は削除され(竈神=奥津日子・奥津比売の親神とされる大年神と天知迦流美豆比売、および大年神自身を含む、ほかの対神関係の削除など)、また、不都合な部分は書き換えがなされたのでしょう(神武の大和における后神の父神は、古事記においては大物主神、書紀においては事代主神へと変更されるなど──これは、記紀自らが、大物主神と事代主神は同神であると告白していることでもあり、神々の創作の逡巡過程を示しているものとわたしはみています)。
 この論考はまだ続きがあるようですので、細かな感想や全体に対するコメントは後日ということで。
 週明けから、また琵琶湖から白山へと、探索(?)を再開します。

764 日向神社について kokoro 2003/08/31 01:04

 風琳堂主人さん、こんばんは。荒神山の唐崎神社との出会いは、巡り合わせそのものでしたね。

 とりあえず『志賀県神社誌』にある当社の由緒です。

「創祀年代不詳であるが、近世初頭にはすでに存在していた。現在の場所へは昭和三年に配置されている。明治九年十村社となり、明治四十二年十月神せん(「せん」は、「食」へんに「巽」という字)幣帛料供進指定となる。<後略>」

※ <後略>の部分には、配祠された神々の由緒を、ひとつひとつ述べてあります。祭神や鎮座地等の表示は、風琳堂主人さんが引用されている案内看板のそれと同じでした。なお、「唐崎」には「とうざき」のルビがあります。

 さて、案内看板の内容はたいへん興味深いものです。そこには、「近江の国犬上郡日向神社〔鎮?〕在する所なりと伝ふ。」とありました。『延喜式神名帳』に、近江国犬上郡の小社、日向神社が載っています。案内の看板がいう日向神社とは、この式内社のことではなかったでしょうか。つまり、荒神山山頂は日向神社の鎮座地というのです。

 この近江国の日向神社は、現在、多賀大社の境内末社として、その広い神域の一画に祀られています。当社について『近江輿地志略』には、「日向ヒウガ神社 伊勢両宮の西にあり。 南向きの社也。 多賀の末社也。 『延喜式』神名帳に所謂日向社是也。」とあり、度會延經の『神名帳考證』等もこれにしたがっています。『式内社調査報告』第十二巻に紹介があるのも、多賀大社末社のそれだけで、他の論社はないことになっています。もちろん、荒神山の唐崎神社については、触れられておりません。
 しかしながら、多賀大社の神域内という、現在の日向神社の鎮座地は、やや不自然な感じがします。どうも、上代からずっと続いているものではなく、ほんらい別の場所に祀られていたのが、後世、現在地に遷されたのではなかったでしょうか。菱沼勇氏の『日本の自然神』の「太陽神を祀る式内社」の章から、「日向神社」の項を引用します。

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 『延喜式神名帳』のなかには、日向神社を称する神社が四社存する。左のとおりである。
   日向神社     山城国宇治郡
   大和日向神社   大和国添上郡
   神坐日向神社   大和国城上郡
   日向神社     近江国犬上郡
 日向神社というのは、太陽と向かいあって、これを拝祀する神社であったように思われる。前掲の四社の日向神社の所在をみると、僻遠の地に多い日置神社とちがって、畿内の大和、山城二国と畿内に準ずるともいえる近江国に限定されていることが目立っている。そのなかでも大和国城上郡の神坐ミワニイマス日向神社は、延喜式では大社で、月次・新嘗の二祭に官幣を預かっていた。三輪山に鎮座する大神神社の摂社であって、『神名帳考證』や『神社覈録』によると、三輪山の山頂にあって、高宮ともあるいは日向王子とも呼ばれている社がそれであるという。
 また大和国添上郡の大和日向神社については、『神名帳考證』は、所在、祭神等すべて不明としているが、『神社覈録』と『神祗志料』とは、春日山頂の浮雲宮がそれであると記している。さらに山城国宇治郡の日向神社についても『神社覈録』と『神祗志料』とは、ともに『山城名勝志』に、「木幡山の右、伏見城の左、関東山の続きに日向山あり」とあるのを引用して、この日向山に祭られていたとの説を記している。
 これらからみると、日向神社というのは、山の頂とかの丘の上にあって、太陽とのあいだの距離が近い場所にあり、日と向かいあって、これを祭るのに都合のよいところに設けられた神社であったように思われる。なお近江国犬上郡の日向神社は、いまは式内・多何神社(一般には多賀大社として知られる)の末社としてその社域内にあるが、もしかすると、かっては近くの山か丘の上にあったのが、後になって現在地に遷祀されたのかもしれないのである。
  ・菱沼勇『日本の自然神』P242〜243

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 この考察は優れたものである感じがしますが、式内日向神社≠ェ、「山の頂とかの丘の上にあって、太陽とのあいだの距離が近い場所にあり、日と向かいあって、これを祭るのに都合のよいところに設けられた神社」であったとすれば、平野部にある、近江国・日向神社の現社地は、ますます不自然である感じがします。
 菱沼氏は、「かっては近くの山か丘の上にあったのが、後になって現在地に遷祀された」、可能性を示唆していますが、荒神山は、多賀大社の東、約9qのところで、それなりに近いです。こうしたことと、風琳堂主人さんに、総合していただいた下記の@ABと併せて考えると、

> @荒神山の前は日向山と呼ばれ、そこには、日向神社がまつられていたこと。
> A行基によって奥山寺が創建されたとき、頂上の日向神社は唐崎の地に遷されたこと。
> B日向神社=唐崎神社の主祭神が、「祓殿」にもかかわらず「大己貴神」とされていること。

 かって、近江国犬上郡の式内小社、日向神社は、荒神山山頂に祀られていたが、後に行基によって奥山寺が創建されたとき、唐崎の地に遷され、さらに何らかの事情で、そこから現社地である多賀大社の神域内に遷り、境内末社となった、との推理ができるかもしれません。唐崎神社の祭神が大己貴命であることも、概して神体山信仰がみとめられる各地の古社において、この祭神が祀られているケースの非常に多いのを考えると、当社がかって荒神山山頂に鎮座していたとの伝承を確からしくする感じがします。

 山城国の日向山のことはよく分かりませんが、大和国の式内・日向神社があった三輪山や春日山は、山頂から西側が開けていて、眺望が非常に優秀であります。が、このことは荒神山の山頂の場合にもあてはまるのです。この山の山頂には、荒神山神社の社殿が建っているわけですが、その背後は木立がなければ、琵琶湖をよく見渡すことができるでしょう。私は行ったとき、山頂近くのハングライダーの踏み切り場から西に向かって湖水とその対岸を遠望したのですが、その見晴らしはほんとうに素晴らしかったです。そしてその時、太陽光線が湖面のさざ波に反射してとても美しかったのが特に印象的でした。太陽の祭祀を行う場所として、ふさわしい気がします。これで、荒神山神社の社殿が、三輪山の高宮と同じく、西面しているとたいへん面白いのですが、残念ながら当社の社殿は南面しています。

> 類例はまだあります。これもkokoroさんが指摘していたもので、竹生島神との濃厚な関係が認められる五社神社です(滋賀県東浅井郡びわ町)。同社の祭神表示は、「天照大神、素盞嗚命、多岐理比売命、奥津嶋比売命、市杵嶋比売神」(神奈備HP「延喜式神名帳」)で、ここでも、宗像神の重要な神である湍津姫が「奥津嶋比売命」と表示されていることには注意しておく必要があります。

 私は五社神社の祭祀が、竹生島のそれと密接な関係にあったという考えを変えてはいませんが、当社の祭神表示が現在のものになったのは、明治以降のことらしいです。慶応四辰年四月の奥書きがある早崎村の『五社明神之由緒届書控』に、「弁才天・両明神(大黒天・毘沙門天)・雨宝童子・小嶋権現等之五所之御社ヲ移シ五社明神或ハ五所明神」と言うようになった、との記述があり、かって、当社の祭祀が、竹生島の修験道の影響を、たいへん強く受けていたことを感じさせます。おそらく、明治になってからの廃仏毀釈により、こうした祭神が現在みられる、わが国古来の神名表示へと改変されたのでしょう。

> 同神社誌は、この奥津嶋比売命は「宗像の奥津宮に坐す神と同神であり、古へ朝廷に於ても重く尊崇され」と、宗像神と同神と認める由緒伝承を綴っています。沖島は琵琶湖の水運、つまり湖北(竹生島)から湖南の瀬田川への湖上航路の道標にあたる島で、この島が、不比等時代(8世紀初頭)まで、手つかずの無神島のままであったと考えることはむずかしいです。

 沖島や竹生島、そしてそこに祀られている神々のことを、琵琶湖の舟運と関係づける思考態度には、つよい共感をおぼえます。それと、よだんですが、上記の4社の式内日向神社≠ヘ、なんとなく大和王権が北陸に進出したルートに沿っている感じがします。

なにがし様、こんばんは。パソコン、大変ですね。(^^;

> 「くうかい」のにおいがしますね。

 スミマセン、私は空海のことは全く知らなくて、こっちの方が逆に教えを請わなければならない立場です。m(__)m
 ただ、もしかすると『三宝荒神祭文』が関係しているのでしょうか。

> 祓戸の神とおなじような「せいしつ」をもった、きよめてくれそうなかみさまにかんじてしまうのですが、どうなんでしょう?

 竈神のうち、火産霊神は火の神格をもっています。火には、水と並んで浄化の作用があると観念されますから、となると、瀬織津姫神は水による浄化、竈神は火による浄化というイメージかもしれません。

 ちなみに、竈神が清浄を好む、というのは岡野玲子先生の『陰陽師』第11巻の最初のほうにも、でてきました。

765 日向神社と高宮 風琳堂主人 2003/09/01 12:22

 遠方で想像しているだけですとあまり感じませんけど、実際に琵琶湖を歩いてみますと、ほんとうに広い湖だと実感されます。お会いした人たちすべてが、「うみ」という一語によって琵琶湖を表現していること──、これはもっともだとおもえてきます。琵琶湖がどれくらい広いかといいますと、淡路島がすっぽり入ってしまうといった言い方をしてもよいのですが、ちょうど手元に関西から東海地方の地図帳がありますので、それでいいますと、三河湾と同じくらいの広さというべきでしょうか。これでもうまく伝わらないならば、浜名湖の十倍近い広さだといえば、もう少し、琵琶湖の大きさが伝わるでしょうか。
 先回わたしが歩いてきたのは、いわゆる湖東地方で、例外は、彦根から、琵琶湖の半縦断のような船旅をしたことと、瀬田川の佐久奈度神社=桜谷神社(山崎闇斎『中臣祓風水草』)くらいでしょうか。湖東地方の主要河川(東からいいますと、犬上川、愛知川、日野川、野洲川)で、例外は多賀大社が流域にまつられる犬上川のみで、あとはすべての流域に瀬織津姫がまつられています(愛知川流域は小幡神社、河桁御河辺神社。日野川流域は佐久奈度神社、同川支流の佐久良川流域には賀川神社、長寸神社[ここは天照荒魂神の名]。野洲川流域には長澤神社)。ここに、湖南地方の瀬田川の佐久奈度神社を加え、さらに、かつて湖中に石を組んでまつられていた金比羅神社(能登川町)などを加えますと、多くがやはり「水」を意識した祭祀となっていることは大きな特徴といえそうです。それと、上記の川で、瀬田川を除くすべての川が、例外なく、その源流山を鈴鹿山脈に帰属させています。
 なお、竹生島近くの湖上からみますと、伊吹山の存在感は圧倒的で、竹生島のほぼ真東に聳える伊吹山は、竹生島(の神)にとって、これは絶対的な存在ではないかと確信もしました。

 kokoroさん、菱沼勇さんの『日本の自然神』の紹介をありがとうございました。日向神をどうみるかということで、とても参考になります。
 延喜式内社としての日向神社四社には瀬織津姫の名を確認することはできませんけど、同神をまつる日向神社が、全国に少なくとも二社あります(2003年8月現在)。

■瀬織津姫を祭神とする日向神社
@日向神社【本殿配祀神】…長野県東筑摩郡麻績村字日社宮司7038
A日向神社【八幡神社境内社主神】…香川県木田郡三木町池戸鍋渕1387

 たった二社の事例ですが、日向神と瀬織津姫が無縁でないことを、これらの社は告げています。
荒神山はかつては日向山であり、そこに鎮座していた日向神社は、山頂から麓の唐崎[とうざき]の地へ、そして、現在は多賀大社の境内末社へと遷っているという可能性はたしかにありそうです。
 ここで、なぜ多賀大社なのかという疑問も湧いてきます。この疑問の性格をふりかえっておきます。

■多賀大社への疑問(1)
 播磨の託賀と近江の多賀、外宮の多賀=高宮、それと三輪山にもあったかとおもいますが、このタカ─タガがどうもクセモノのようです。
 近江の多賀大社がなんともはっきりしない神社だなとおもっていましたところ、新城の竹生神社内の多賀神社の「祭神は、伊邪那岐尊と瀬織津姫である」と、おもわぬところで瀬織津姫の名が出てきました。(囲炉裏夜話148「縄文の女神を探せ」)

■多賀大社への疑問(2)
 遠野の最古社の一つである多賀神社の祭神は、男神を本社に合わせてイザナギとしていますけど、戦前までは、その一対の女神はイザナミではなく、あえて罔象女=ミズハノメとしていました(『岩手県神社事務提要』昭和14年)。これは多賀大社側の分社リストをみても、稀有な例外社でした。つまり、遠野では、多賀の女神は「イザナミではない」水神を主張していたわけです。わたしは、こういった祭神表示を、遠野の「不明」とはみていません。(囲炉裏夜話443「倭文神と瀬織津姫」)

 多賀大社は自社を「伊勢の親神」と自称していて、それは現祭神のイザナギ・イザナミゆえに、記紀の記述に付会させてそう述べているのかもしれませんけど、しかし、同社も、本来、伊勢の元神をまつっている(いた)ゆえに「親神」を自認している(できている)ようにみえます。延喜時代の社名は「多何[たか]神社」と表示され、また、伊勢外宮においては、外宮神の荒魂=気吹戸主をまつる第一別宮・高宮の前社名は多賀宮でした。この多賀宮=高宮が、三輪山の高宮=日向神社と異なるものかどうかですが、わたしは、同一祭祀がなされていた可能性が高いだろうとみています。さらに添えておきますと、宗像大社においても、宗像大神の降臨地を「高宮」と呼称しています。
 日向神社の祭祀は謎めいていますが、それは中心の祭神が曖昧化されていることと無縁ではありません。「日向神社というのは、山の頂とかの丘の上にあって、太陽とのあいだの距離が近い場所にあり、日と向かいあって、これを祭るのに都合のよいところに設けられた神社」という菱沼さんの指摘は貴重です。そこに「向津媛」=向津日女の名をもつ瀬織津姫が存在することは、まったく不自然ではありません。
 三輪山・春日山の二山はまだ本格的に調べたことがなくて、これは文献上での話となりますけど、三輪山祭祀への疑問点についてもふりかえっておきます。

■三輪山の高宮(1)
 ところで、三輪山=大神神社=杉社から勧請した本社・大杉神社の「由緒」の言葉──「神護慶雲元年(767)、大和国大神神社(三輪明神)から下野国の日光山・二荒神社を開山に向かう勝道上人は、この巨杉を神籬として三輪の神々を招臨し」ですが、ていねいに読みますと、ここには、勧請した神を「三輪の神々」とし、「三輪の神」一神ではないということになっています。
 大神神社は大物主一神の社とされていますが、わたしは、ここにも大事な水神が隠されているとみています(高宮)。(囲炉裏夜話408「龍神と杉と瀬織津姫」)

■三輪山の高宮(2)
 現行の表示では、那智の滝神は大己貴命とされていることをおもいださないわけにいきませんし、そのことと深く関わるはずですが、筑紫においては、物部氏が奉祭する神は宗像神でもありました。
 那智の滝神、および宗像女神=八幡比売神に隠された神はなにかといえば、これまでにもいくつかの事例検証を試みてきましたが、それは瀬織津姫となります。三輪山の祭神としては、現在、記紀の作為によって男系の日神(大物主神)のみが表に出ていますけど、ここには、かつて「神座日向神社」とよばれた(延喜式神名帳)、現在の高宮神社が厚いヴェールにつつまれてまつられています。この謎の日向神かつ甕神こそ、宗像女神であることが考えられます。(囲炉裏夜話611「宗像神と物部氏」)

 三輪山には、大和神社(大倭国魂神社)の別宮(明治期に大神神社の摂社とされる)「狭井神社」が存在します(延喜式内社「狭井坐大神荒御魂神社」)。崇神時代に大倭国魂神と天照大神の二神祭祀(→分離祭祀)がなされていたことも想起され、大倭国魂神とはなにかは再考を要するところですが、ともかく、狭井神社の現在の主祭神は(大物主)大神荒魂神とされています。これは、天照大神荒魂をまつる内宮第一別宮=荒祭宮と酷似する祭祀形態です。三輪山山頂の高宮=日向神社は「西面」しているとのことですが、この狭井神社も南面ではなく「西面」しています。社殿=本殿が西に面しているというのは、拝するのは東=日=太陽ということですから、狭井神社は、山頂の高宮神社と共通する発想をもって社殿が構えられていることになります。同社の社名は、三輪山を源流山とする狭井川か、境内の神水が湧出している「薬井戸」=「狭井」にちなむもので、この「荒魂神」は内宮と同様に水神の性格を基本にもっているとみることができます。
 大神神社は山頂の高宮を説明・公開することを避けていて、これは推測するしかないわけですけど、ここには三輪山本来の二神祭祀がなされているのではないかとわたしはみています。それが山麓へ降りたとき、里宮あるいは遥拝社として分離祭祀がなされているのが、いわゆる大神神社と狭井神社ではないでしょうか。
 ともかく、荒神山においては、日向神社のあとにできた奥山寺(→荒神山神社)は、「西面」するようには建てられておらず、つまり、拝するのは、東=日=太陽ではなく、北西方向に位置する竹生島=水神のようです(宮司さんの話では、同社社殿は南面ではなく南東向きに建てられているとのこと)。
 これは偶然のことかどうかわかりませんけど、野洲川流域に鎮座する長澤神社(主祭神:天瀬織津姫神、配祀神:多記利姫神、市杵島姫神外五柱)ですが、ここは、三上山を拝するように社殿が建てられていて、本殿背後の交差点は「竹生口」(「たけじょうぐち」と読ませていますが)という地名になっています。ひょっとして竹生島との関連があるのかもしれません。長澤神社は「長澤三処太神」とも呼ばれていたましたから(『滋賀県神社誌』)、その「三処太神」が宗像三神に対応しているとしますと、ここでも、湍津姫の代わりに「天瀬織津姫神」が表示されていることになります。アマテラスとスサノヲの天安河(→野洲川か)における誓約[うけひ]による誕生神とされる五男三女神の「三女神」(宗像三神)が祭神表示されているとしますと、残りの五男神が配祀神の「外五柱」に対応しているのかもしれませんが、これは未確認であることをお断りしておきます。
 荒神山の話にもどします。神仏混淆時代の奥山寺の本尊は大日如来であり、これが日神=火産霊神の化身仏としますと、この日神を「人」が拝むということは、その背後の竹生島神(神仏混淆時代は弁才天かつ十一面観音)を拝むという構図となり、その創建者とされる行基もたしかに考えてのことだったのかもしれません。日向山からは、日向神は首座からはずされて、そして荒神山へと名が変わったように、同山は日神→火神(三宝荒神)を主神とする山へと変わりました。大日如来の「脇」に不動尊、文殊を配置したというのも、これも配祀神(の一神)である瀬織津姫が不動尊と習合することを考えますと、脇=配祀という等号関係がみえてきます(文殊についてはいまひとつはっきりしませんけど)。
 琵琶湖の湖水を湖北で司る神の島を竹生島とみるならば、湖東(あるいは琵琶湖の中間地点)においては沖島がそれに該当します。両島に共通して宗像神=島神がまつられていることに加え、三井寺の「御井」の神が琵琶湖の龍神でもある「九頭竜神」とされていることで、やはり白山(神)との関係も探ってみる必要がありそうだなと考えはじめています。これは、琵琶湖周辺に白山神の本地仏とされる十一面観音の集中祭祀がみられることと、もうひとつ、竹生島のすぐ背後に突き出している岬は「葛籠尾崎」、つまり九頭竜の尾の先に位置しているのが竹生島だというのも、琵琶湖の湖水神=水神と白山神に関係があるのではないかと匂ってきます。竹生島の背後に九頭竜の「尾」があるとしますと、では「頭」はどこかとなりますが、これはどうしても白山を想定したくなってきます。また、元正(正確には藤原不比等の可能性大)の勅命によって、白山祭祀(改竄)の始まりに関わる泰澄が、竹生島北東の渡岸寺(高月町)で(当時は観音堂)、今度は聖武の勅命によって十一面観音を彫像するといった伝承も捨てがたいです。聖武と竹生島祭祀については、とても強い関係がみられますから、わたしは、この十一面観音の祭祀も、その延長上にあったものではないかとみています。
 琵琶湖と富士山祭祀との連関の環に、もうひとつ、白山との関係を加えることができそうな予感がしています。
 これは、第二次琵琶湖行の動機と、「予断」の話です。

766 五十鈴川の桜神 風琳堂主人 2003/09/12 00:00

 藤堂元甫『三国地志』(宝暦時代の伊勢地方の地誌)に、「土(士)仏参詣記に曰く」として、荒祭宮と高宮に関する、次のような記述がみられます。

■荒祭宮と高宮は「深秘」の神
大宮(皇太神宮…引用者)の乾にすこし高き所ありかしこにましますは荒祭神と申なり外宮の高宮内宮の荒祭宮は深秘なる故にいつれの神と申あらはさす

 ここでいわれている「深秘」の神については、荒祭宮は天照大神荒魂とされるも瀬織津姫、高宮は豊受大神荒魂とされるも気吹戸主(まだ仮称ですが)というように、祓戸大神二神の名でとりあえず語ることができます(『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』、『倭姫命世記』)。現在、少なくともわたしたちは、両宮を「深秘」「いつれの神と申あらはさす」といった禁忌=タブーからは自由の場所にいます。
 琵琶湖から唯一流出する瀬田川→宇治川は、京都の諸川(鴨川・桂川など)や保津川を合流して淀川と名を変え、大阪湾=瀬戸内海に注いでいます。現在、瀬織津姫をまつっている神社として、淀川河口部の御霊神社、宇治川の宇治橋の橋姫神社、瀬田川の谷口の河原にあった佐久奈度神社の三社が確認できます。
 橋姫神社の伝では、橋姫=瀬織津姫を、内宮神域を流れる五十鈴川・宇治橋の橋姫として分社したとしていて、瀬織津姫は逆輸入のようなかたちで、五十鈴川の橋姫としてもまつられています(神宮側は、この橋姫神を宇治橋の西に「饗土橋姫神社」の名で丁重にまつるも祭神を不明記としていますが(『神宮要綱』)、橋名の宇治橋、および社名の「饗土橋姫神社」、さらには五十鈴川の別名が宇治川ですから、ここにどんな神がまつられているかは自ずと明らかです)。
 ところで、五十鈴川という川についてですが、この川は上記の宇治川のほかにも多くの異称をもっていました。五十鈴川の概要をまずみておきます。

■五十鈴川の辞典的解説
伊鈴川・御裳濯[みもすそ]川・宇治川・神路川ともいう。宮川水系に属する。水源は2つで、1つは伊勢市内宮神域南部の神路山から高麗広[こうらいびろ]を流れ、1つは東部の島路[しまじ]山・逢坂[おうさか]山から流れて、内宮の御手洗[みたらし]場の上流で合流する。さらに内宮境内を流れ、宇治橋から今在家・中之切・浦田町の東を北流し、中村・楠部[くすべ]・鹿海町を経て2つに分流する。1つは北流して汐合[しわい]橋から今一色町で勢田川と合流、他方は東流して二見町江から伊勢湾に注ぐ。1級河川。流長10.2km。御裳濯川は倭姫が裳裾の汚れをこの川で洗ったゆえの名と伝える(倭姫命世記)。(『角川日本地名大辞典』)

 五十鈴川の異称は「伊鈴川・御裳濯[みもすそ]川・宇治川・神路川」とあり、この異称の一つである「神路川」の川名と深く関わるのでしょう、五十鈴川の源流山は「神路山」だとあります。『夫木集』収録の「五十鈴川その水上を尋れば神路の山にかゝるしら雲」の歌なども、神路山が五十鈴川の源流山であることをよく表しています。ただし、現在、この神路山は単独の山名としては確認することができません。『三国地志』ほかは、神宮南の神域の山々の「総称」としていますので、江戸期には、この山の特定はしづらくなっていたことがうかがえます。
 ここで特記しておかなくてはいけないことの一つは、志摩国の伊雑宮の西を流れる川も神路川であることです。この神路川の源流部の山の鍾乳洞のなかには一筋の滝が流下し、それが神路川の源流部になります。同鍾乳洞は「滝祭窩」、通称「天の岩戸滝」とも呼ばれています。
 この「滝祭窩」のある山は水分[みくまり]山でもあり、南に志摩国の神路川を流出させ、北に伊勢国の五十鈴川=神路川の水源部(の一つ)を構成しています。神路山は「総称」とされるも、南北に神路川を流出させている、「滝祭窩」を懐に抱く山が「総称」前の「神路山」である可能性が高いです。
 内宮の五十鈴河原の御手洗[みたらし]場に鎮座しているのが滝祭神で、この神は五十鈴川源流の滝神とされます。内宮の滝祭神と志摩国の境界にある「滝祭窩」の神をまつる天の岩戸神社についてはかつて言及したことがありますので、再録します。

■水神としての滝祭神
滝祭神〔無宝殿、在下津底、水神也、一名沢女神、亦名美都波神〕(『倭姫命世記』)

 ちなみに、伊勢神宮の元宮ともいうべき伊雑宮の奥宮にあたる「天の岩戸神社」(ご神体は鍾乳洞内の滝)にみられる祭神名に、泣沢女神と美都波女神があります(あと、猿田彦神を足して三神とされています)。ご神体が、鍾乳洞内の滝(これは五十鈴川の源流部に位置してもいる)であることと、『倭姫命世記』が記す、滝祭神=沢女神=美都波神という表示が正確に対応していることがわかります。この神秘的なというべき、鍾乳洞の滝神こそが瀬織津姫でした。(囲炉裏夜話707「水主神とはなにか」)

 五十鈴川源流の滝神が瀬織津姫としますと、この神は五十鈴川の川神=水神ということにもなります。また、五十鈴川源流部にあたる、伊勢・志摩両国の境界山(の一つ)が神路山としますと、この山を詠んだ、次のような歌も注意しておく必要がありそうです。

■神路山の桜の歌
是そこの上みぬ鷲日山さくら神代の春は花に残れり(元長「神祇百首」、『三国地志』所収)

『三国地志』は、神路山の異称として、天照山、鷲日山、朝日嶽、転法輪山などの名を挙げています。鷲日山=神路山に「さくら」が咲いている情景とともに、神路山が「天照山」「朝日嶽」の異称をもっていることで、ここは桜神=水神と関わり深い日神=太陽神の山でもあることが伝わってきます。天の岩戸神社が、その祭神に太陽神でもある猿田彦神を配祀していたのも故なきことではないというべきでしょう(日本書紀は天孫降臨の箇所で、アマテラスよりも先に「五十鈴川上」に降り立ったのは猿田彦大神であると記していました)。
 ともかく、五十鈴川の源流山である神路山に「桜」が咲いている情景は、ことのほか意味深いです。なぜなら、この桜樹の根は、あの「滝祭窩」、つまり鍾乳洞の滝水を吸いあげていることが想像できるからです。
 皇太神宮=内宮もまたいくつかの異称がありました。『三国地志』に、次のような記述があります。

■天照皇太神宮の異称は「桜宮」
按宇治郷宇治ニ坐ス天照皇太神宮ト称ス是也又五十鈴宮朝日宮伊勢宮桜宮トモ云
〔中略〕
按神風ノ伊勢ト云コトハ神宮ニヲイテ深奥ノ秘説モアリトナン爾来冠辞トシテ御裳濯川五十鈴川神風度会桜宮内外宮朝日宮天照ス二ツノ宮ナト歌ニ読合セ神宮ヲ主トシテ云ヘル詞多シ

 江戸期まで、皇太神宮には「桜宮」の呼称があったようです。アマテラスが桜神であるとは、記紀にも、ましてや神宮側の古文献『皇太神宮儀式帳』にも記述されていませんから、これは、内宮の元神である荒祭神=瀬織津姫にちなむ呼称とみるしかありません。
 もっとも、平安時代初期(延暦二十三年=804年)の『皇太神宮儀式帳』においては、桜神としては朝熊神社(当時は小朝熊神社)の祭神として「桜大刀自」と記され、この表記を踏襲してのこととおもいますが、鎌倉時代の神宮側の文献である『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』には、内宮の第一摂社とされる朝熊神社の祭神として「桜大刀子神」の名が記されています。『御鎮座伝記』は、桜大刀子神の説明の割注に、「霊花木座也。大八洲桜樹。始従天上降居也。因以為花開姫命也。一座大山祇双座也」と記しています。この説明部分を意訳しますと、桜大刀子神は「花開姫命」ともいい、この神のいる朝熊神社の地は、桜樹が天から初めて大八洲(日本)に降り立ったところだ、とでもなりましょうか。
 朝熊神社の現在の祭神は、大年神、苔虫神、朝熊水神の三神とされ、かつての桜大刀自=桜大刀子神(=「花開姫命」)、および、並びまつるとされていた大山祇の名は消えています。平安期の初頭において(『皇太神宮儀式帳』が奏上された延暦二十三年の時点)、桜神の認識は、内宮ではなく朝熊神社の方へすでに移っていたということかもしれません。しかし、この桜神に対する神宮側のこだわりはその後も長くつづいたようです。といいますのも、江戸時代の天保期に著された、安岡親毅『勢陽五鈴遺響』なる書に、「桜大刀自神拝所 本路ノ左傍荒祭宮ニイタル路ノ東ニアリ石壇ノ上ニ杉樹及桜樹ヲ栽タリ社宇ナシ花樹一株ヲ神座トス」と、荒祭宮の近くに「拝所」があったことが記されているからです。また、『神宮雑例集』の年中行事の項には、「桜皇神」に対して「清酒」を祝詞とともに捧げるといった記述もみられます。
『三国地志』はさらに、「弘安参詣記に曰く」として、「桜御前是は一殿のたつみの方に桜木に向て拝する也本縁は未勘侍らねとも人は様々申めり」と、この桜皇神の「本縁」はわからないとしています(この考察も「人は様々申めり」の一つということかもしれません)。『三国地志』は、「神風に心やすくそまかせつる桜の宮の花のさかりは」と、この桜宮に関する西行の歌も収録していて、同書の著者・藤堂元甫なる人物の博覧知識には驚かされます。
 ところで、日本で最初に桜樹(の神)が降り立ったとされる朝熊神社は、朝熊川が合流する五十鈴川辺の地に鎮座していて、社殿構成をいいますと、向かって左に朝熊御前神社、右に朝熊神社と対神祭祀がなされています。土地の人に案内してもらったところ、御前神社の背後には、今でも山桜が確認できましたし、社のある森はかつては桜樹の森だったようです。同社の対岸部(かつては五十鈴川の中洲か)には、神鏡霊が宿る二鏡をまつる鏡宮神社があります。

■朝熊神社の鏡宮
弘安参詣記曰小朝熊の遥拝次に神鏡二面同く遥拝なるへし小朝熊の御座(す)社と申は内宮所摂の社廿四座の内山の上に御宝殿の御体石にて御座(す)又此御鏡二面は各別の御鏡也御体即鏡也何れの神にて御座と云事知れる人少侍る事也此鏡は霊験やむ事なき御神也〔中略〕小朝熊の宮の未申の角に六七段斗去て聳たる巖あり上に桜の木あり高さ三尺斗也此木は往古より以来春を迎て花を開菓を結て今に枯すして有此桜大刀自の命の神体と申説も有彼桜の木の南三尺を去て神鏡二枚相並て面を南に向て巖の上に倚立御座せり(『三国地志』)

 朝熊神社の西の「巖」の上には、「桜の木」が生え、その木の前に、霊験著しい「神鏡二枚」が相並んで「面を南に向て」鎮座しているという記述です。「神鏡二枚」が朝熊神社の対神祭祀と対応していることはいうまでもありません。『御鎮座伝記』は、「宝鏡二面是即日天月天之所化白銅神鏡」で、倭姫命が神託によって制作したものだとしています。日天=日神、月天=水神の霊が宿る鏡だということで、ここには伊勢の元神二神が象徴的に存在しているとみられます。この二神の背後に桜樹が一本立っているという構図、これは、五十鈴川の中洲のような巖の上に立っているということでもありますが、この桜樹の霊神が五十鈴川を溯った源流の桜および滝祭神と無縁であるとはおもえませんし、その中流域に鎮座する「神宮」(正確には滝祭神=荒祭神)がかつて桜宮、桜皇神と呼称されていたこととも無縁ではないでしょう。
 ここで、五十鈴川の川神としての瀬織津姫について、さらに検証しておきます。これは、瀬織津姫隠祭の実態を明かすということでもあります。
 昭和天皇の即位式典が催された昭和三年=1928年に時を合わせて、神宮側の人間によって一冊の由緒文献が出版されました。『神宮要綱』といいます(初版発行は1928年11月15日、発行者は神宮司庁)。明治四年以降、神宮の神官は中央から派遣されて構成されていましたから、同書は戦前における、国家公認の書とみてよいでしょう。
 五十鈴川の滝祭神(内宮神域で五十鈴川に面してまつられていた)の場所から、同川の源流部の神路山にかけて、かつて、少なくとも二つの神社がまつられていました。一つは川相神社、もう一つは熊淵神社といいます(現在はありません)。
 この消えた二社の由緒・祭神について、『神宮要綱』は次のように述べています。

■川相神社
鎮座地 摂社大水神社御同座
川相[カハアヒ]神社も亦、倭姫命の祝ひ定め給ふ所にして、大水上神の御子細川水[ホソカハノミツ]神を奉祀す。建久の皇太神宮年中行事によれば、もと五十鈴川の上流に鎮座せし如くなれど、中世廃絶して社地明かならざるを以て、明治四年神宮御改正の時、大水神社に御同座奉祀することゝなれり。

■熊淵神社
鎮座地 摂社大水神社御同座
熊淵[クマブチ]神社も亦、倭姫命の祝ひ定め給ふ所にして、大水上神の御子多支大刀自[タキオホトジ]神を奉祀す。川相神社と同じく、もと五十鈴川の上流に鎮座せること、建久年中行事の文によりて知らるれど、中世以後社地不明なるを以て再興に至らず。明治四年、大水神社に御同座奉祀せり。

 両社の鎮座地「不明」というのはウソで、川相神社は、現在の島路川と五十鈴川の合流部=川合の地(風日祈宮の南)に鎮座していましたし、熊淵神社は、五十鈴川上流部支流の「鏡岩」の前の熊淵に鎮座していました(『勢陽五鈴遺響』ほか)。これらは、『神宮要綱』の小さなウソの話ですが、鏡石神社の存在を無視しているということも添えておきます。では、『神宮要綱』がもっている大きなウソはなにかといいますと、これは両社の祭神表示ということになります。もっとも、このウソは、元は、延暦儀式帳とも呼ばれる、内宮側最古の文献である『皇太神宮儀式帳』にまで溯ります。
 川相神社祭神「大水上神の御子細川水神」、熊淵神社祭神「大水上神の御子多支大刀自神」に共通して記されている「大水上神の御子」ですが、もしこの表示を削除して、「細川水神」「多支大刀自神」とのみ表示されたとしますと、わたしたちは、これらがどういった神かをたどる術は失うといってよいでしょう。したがって「大水上神の御子」という神統譜の創作は、逆に祭神探査の大きなヒントを与えてくれていることになります。神宮側も個々の祭神説明をする必要から、『神宮典略』において、この基幹母神である「大水上神」の異称同神名を、次のように記していました。

■『神宮典略』(内宮系神統譜)が記す「滝祭神」の異称同神名
大水神=滝祭神=水上神(水上御祖)=御裳乃濯川比女=朝熊水神(西野儀一郎『古代日本と伊勢神宮』所収。神統譜にみられる「一云」などは、引用者が=記号に置き換えた)

 そもそも、神の「御子」何々神(命)などという系譜は、人にはあてはまるにしても、「神」に対してはまったく意味をなしません。もしそこに読み取れるものがあるとすれば、それは分社=分神の関係があるくらいのことでしょうが、しかし、いってみれば、その「御子」神は、親神と異称同神だということ以上ではありません。
 つまり、川相神社、熊淵神社の祭神は、「大水上神」と呼ばれる神一柱と同神だということです。この観点から、「大水上神(命)の御子」をまつるとされる内宮管轄神社(摂社末社)を、以下に書き出してみます(出典は『神宮要綱』で、神名表記もこれに準じる)。

@宇治山田神社…【祭神】大水神の御子、山田姫命
A津長神社…【祭神】大水上命の御子、栖長比女命
B久具都比売神社…【祭神】大水上神の御子、久々都比女命、久々都比古命
C奈良波良神社…【祭神】大水上の児、奈良原比女命
D坂手国生神社…【祭神】大水上神の御子、高水上神
E鴨下神社…【祭神】大水上神の御子、石己呂和居命、鴨比古命、鴨比売命
F津布良神社…【祭神】大水神の御子、津布良比古命、津布良比売命
G小社神社…【祭神】大水上神の御子、高水上神
H新川神社…【祭神】大水上神の御子、新川比売命
I石井神社…【祭神】大水上神の御子、高水上神
J川相神社…【祭神】大水上神の御子、細川水神
K熊淵神社…【祭神】大水上神の御子、多支大刀自神
L那自売神社…【祭神】大水上御祖命及び同じ神の御玉御裳乃須蘇比女命
M牟弥乃神社…【祭神】大水上神の御子、寒川比古命、寒川比売命

 以上14社が、大水上神の関係社です。これらの規定=祭神創作をしていたのは、延暦二十三年=804年に成書となった『皇太神宮儀式帳』ですが、ここで興味深いのは、Lの那自売[なじめ]神社です。同社のみが子神表示をしていませんので、どうやら大水上神の元社筋にあたるものと考えられます。また、那自売神社のみ「大水上御祖命及び同じ神の御玉御裳乃須蘇比女命」と表示されていて、まさに「御祖」神であることが伝わってきますし、さらに興味深いのは、「御裳乃須蘇比女命」を同神(「同じ神の御玉」)だとしていることでしょうか。この同神説は、先にみました、『神宮典略』の神統譜にみられる、滝祭神の異称同神名にも正確に対応していることがわかります。那自売神社の由緒説明も、『神宮要綱』にみてみます。

■那自売神社
鎮座地 摂社津長神社御同座
那自売[ナジメ]神社も亦、倭姫命の祝ひ定め給ふ所にして、大水上御祖[オホミナカミノミオヤ]命及び同じ神の御玉御裳乃須蘇比女[ミモノスソヒメ]命を奉祀すと為す。倭姫命世記に家田田上宮より幸行して、奈良之根[ナラシネ]宮に坐しゝこと見えたり。奈良之根は一に納米と書し、今の宇治中之切町の辺之に当る。本社の社名「ナジメ」は「ナウシネ」の約れるものにして、其の社地もと同町の付近にありしならん。但し中世以後、位置不明なるを以て再興を見ず。明治四年以後、津長神社に御同座のまゝ今日に至れり。

 ここに出てくる「家田」については、滝祭神の項に「此の処に水神(滝祭神)を祭るは、本宮神嘗祭由貴料の御田宇治郷に在りて五十鈴の河水を家田の堰より曳くが故に、其の水源の滝の神を鎮めんが為なるべし」の「家田」でしょう。「本宮神嘗祭由貴料の御田」を、ここでは「納米」(の田)という語で表しています。
 大水上御祖命の鎮座地の正確な場所は不明にしても、「今の宇治中之切町」を貫流するのが五十鈴川で、同川南に神饌田(「納米」の田、「本宮神嘗祭由貴料の御田」)が現在もあります。つまり、大水上御祖命=御裳乃須蘇比女命(『神宮典略』の表示は御裳乃濯川比女)は、五十鈴川流域にまつられていたわけで、明治四年に合祀先にあたる津長神社(祭神…大水上命の御子栖長比女命)の鎮座地もまた五十鈴川流域ですから、どうやら、この大水上御祖命=御裳乃須蘇比女命は、五十鈴川の「御祖」神であったといえそうです。そして、この五十鈴川の「水源の滝の神を鎮めんが為」にまつられているのが滝祭神でもあるわけです。
『神宮典略』の神統譜に記されていた、滝祭神=瀬織津姫の異称同神名をもう一度みておきます。

■『神宮典略』(内宮系神統譜)が記す「滝祭神」の異称同神名
大水神=滝祭神=水上神(水上御祖)=御裳乃濯川比女=朝熊水神(=瀬織津姫)

 五十鈴川の川神=水神をまつる各社の祭神を隠すために、「子神」の名づくりという創作=祭神改竄をあれこれなしていたのは、大中臣真継を編纂責任者とする『皇太神宮儀式帳』でした。同書が成った延暦二十三年=804年は、桓武朝廷の時代にあたります。皇太子時代の宝亀九年=778年、歴代で初めて参宮をおこなった桓武でしたが(天皇としての参宮の最初は明治二年=1869年)、彼は神宮祭祀に特別に関心をもっていた天皇でした。この桓武時代、桓武の東征意志の全権を与えられた坂上田村麻呂による陸奥国遠征が行われます。田村麻呂による、胆沢の攻防→アテルイたちの降伏→処刑によって戦闘が一段落した時代の延暦二十三年に、この『皇太神宮儀式帳』が成立します。桓武=ヤマト側にとって、陸奥国までを含めた、全国統一の視界が大きくひらけたという時代に、いいかえれば、つまり東北サイドからいえば、ヤマトの侵攻に対する抵抗と流血がなされていた最中に、北上川=日高見川の水神でもあった瀬織津姫は、伊勢の地で、中臣氏によって露骨な改竄の手がさらに加えられていたということになります。この『儀式帳』の成立を画期として、伊勢の地における瀬織津姫祭祀のほとんどが消える、隠祭されるといっても過言ではないでしょう。
 桜神でもある瀬織津姫の記憶が長く人々に伝わりつづけたことは、江戸期にまで、内宮の異名として「桜宮」の呼称が残っていたことにみることができます。しかし鎌倉時代の『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』によって、桜神=朝熊神(水神)は、その音の共通性から浅間神=富士山神へ、さらに富士山神は木花開耶姫とする祭神イメージの根拠となった可能性があります。
 ただ、ここで思い起こされるのは、高橋連虫麻呂の富士=不盡の歌です。

■高橋連虫麻呂の不盡讃歌
なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不盡の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も とびも上らず もゆる火を 雪もち消ち ふる雪を 火もち消ちつつ 言ひもえず 名づけも知らず 霊[くす]しくも います神かも 石花[せ]の海と 名づけてあるも その山の 包める海ぞ 不盡河と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の やまとの国の 鎮[しづめ]とも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 不盡の高嶺は 見れど飽かぬかも(『万葉集』連番319)

 虫麻呂は、富士の高嶺には、言うこともできない、名づけることもできない霊神がいる、しかしこの富士山から流れ出す「水のたぎちぞ 日の本の やまとの国の 鎮[しづめ]とも います神かも」と、富士の「水のたぎち」(滝神)を、「日の本のやまとの国」の要=鎮めの神だと歌っています。中臣神道の関係者ならば、決して詠めない認識が歌われています。
 五十鈴川の川(の水源)を司ってきた滝祭神=荒祭神は、桜神でもあったわけですが、この桜神=荒祭神を、大祓神としてですが、そのまま単独で引き継いだ神社があります。

■伊勢の佐久那太李[さくなだり]の神
近江[あふみ]の風土記に曰[い]はく、八張口[やはりぐち]の神の社[やしろ]。即[すなは]ち、伊勢の佐久那太李[さくなだり]の神を忌[い]みて、瀬織津比甜せおりつひめ]を祭[まつ]れり。(近江国風土記逸文、秋元義郎校注、『日本古典文学体系2』岩波書店)

 この「八張口の神の社」については、岩波版風土記の注は、次のように述べています。

■八張口神社についての「注」
滋賀県大津市大石の桜谷(俗に鹿飛という地)にある式内社佐久奈度神社(桜谷明神)。瀬田川の急流の落ち口にある。(秋元義郎の注、『日本古典文学体系2』岩波書店)

 また、八張口神社=佐久奈度神社自身はどう語っているのか。同社の「由緒」も読んでみます。

■佐久奈度神社の鎮座地
 この地は八張口、桜谷と呼ばれ「山岳裂けて低下の所を開く」ところがその名(社名の「佐久奈度」)の由来であると社記に記されております。瀬田川の急流のつくる奇岩で古くから景勝地として知られ、『蜻蛉日記』『夫木集』『名寄』などにも歌が詠まれています。また、近くにそびえる太神山[たなかみやま]は巨大な磐座[いわくら]もあり、農耕を守る神の山といわれ水がとりなす古代祭祀の香りを充分に伝えております。(佐久奈度神社由緒書)

「水がとりなす古代祭祀の香り」とはいい表現です。
 ところで、風土記逸文にあった「伊勢の佐久那太李[さくなだり]」の「さくなだり」、および佐久奈度神社が社名の「佐久奈度」を「山岳裂けて低下の所を開く」意をもっているとしている、この「さくなだり」「さくなど」といった言葉は、むろん、瀬織津姫が登場する大祓祝詞の次の文言と対応するものです。

■大祓祝詞の瀬織津姫
高山・短山[ひきやま]の末より、佐久那太理[さくなだり]に落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比唐ニいふ神(六月の晦の大祓、武田祐吉校注、『日本古典文学体系1』岩波書店、不要な平仮名表記は原文の漢字にもどした)

「さくなだり」の語義の理解は一定ではありません。解釈の種類は大きく分けると三つかとおもいます。一つは、たとえば岩波版の注「勢いよく降下するさまの副詞」とする解釈、二つめは、佐久奈度神社の自社理解にみられる「山岳裂けて低下の所を開く」、つまり「裂けた谷」のイメージだという解釈。三つめは、「さくなだり」を「佐久良谷」あるいは「桜谷」と表記している異本の祝詞もあり、つまりは、「さくらだに→さくなだり」という語転とみなす解釈です。
 あるいは、一〜三の混合的解釈もあります。

■瀬織津姫ノ社ヲ桜谷ト号スルナラン
佐久那太理ハサケナダリナリ。那太理ハ長ク垂ルゝノ略、サケテ流ルゝナリ。山ノ頂ヨリサケナガレテ、滝ト落ルナリ。前ノ罪咎、祓具トモニナガレ落ルヲ云。一ニ佐久良谷トアリ。谷ハ山ノ拆[サケ]タル形ナリ。山ノサケタル谷ト云コトニシテ、良ハ助字ナリ。凡テ谷ヲ称シテ云ナリ。近江国桜谷社アリ。是瀬織津姫ヲイハヒマツルトコロナリ。コノ詞ニヨツテ、瀬織津姫ノ社ヲ桜谷ト号スルナラン。(跡部光海『中臣祓清浄草』、『大祓詞註釋大成』昭和十六年)

 瀬織津姫が桜谷神=「桜谷明神」とも呼ばれていたのは、風土記の注や跡部光海の指摘ばかりでなく、佐久奈度神社の分社の一つである賀川神社(主祭神…瀬織津姫命)が鎮座する佐久良川流域(現在の滋賀県蒲生郡日野町の北部一画)が「桜谷」と呼称されていたことにもみることができます。『東櫻谷志』(東桜谷公民館発行)は、当地が桜谷と呼称されることに関して、江戸中期の『淡海温故禄』から、次の一行を引用しています。

■桜谷の地名由来
桜谷・桜谷ノ明神旧跡ノ社也 瀬織津姫ノ垂迹ナリ

 桜谷の地名は、「桜谷ノ明神」の異称をもつ瀬織津姫という神の名に、その地名起源譚をもっているということです。この蒲生郡の桜谷地区は、「興福寺別所、近江国栗太郡男石荘 佐久良太利大神宮之神領」とされ(坂本林平『楓亭雑話』収録の桜谷古図にある説明書き)、佐久奈度神社は、桜谷神社とは別に「佐久良太利大神宮」とも呼称されていたことがみえます。
 藤原氏の氏寺である興福寺の「別所」として、佐久奈度神社はあり、その佐久奈度神社の「神領」として、この蒲生郡の桜谷地区はあったというわけです。佐久奈度神社が興福寺とつながりをもつのはいつのことかは分明ではありませんが、同社が、藤原氏の直轄管理下に置かれていたことだけはよく伝わってきます。
 蒲生郡の桜谷は、「桜の木が此処には多かった」そうで(『東桜谷志』)、このことは、宇治川=瀬田川上流部の桜谷の地にもいえます。かつて、鴨長明の『方丈記』の記載にふれたことがありますので、それを引用します。

■鴨長明と桜谷
 瀬織津姫は、瀬田川=宇治川の桜谷という渓谷の滝神でもありますが、下鴨神社ゆかりの鴨長明は「方丈記」で、この宇治川の桜谷の地の近くで桜狩りをした話を書いています。

粟津の原を分けつゝ、蝉歌の翁が跡をとぶらひ、田上河(宇治川上流の支流)を渡りて、猿丸大夫が墓をたづぬ。帰るさには、折につけつゝ、桜を狩り……
(囲炉裏夜話288「岩と桜に象徴される神」)

 鴨長明が渡った「田上河」は、佐久奈度神社由緒書にある「太神山[たなかみやま]」を源流山として流出し、瀬田川(=宇治川)へ合流している川で、この合流部一帯を「桜谷」と称しているのでしょう。桜谷は、「裂けた谷」であると同時に、文字通り「桜が咲き誇る谷」でもあるということかとおもいます。
「桜谷・桜谷ノ明神旧跡ノ社也 瀬織津姫ノ垂迹ナリ」──『淡海温故禄』のこの一行は、桜花以上の輝きをもっています。この一行は、瀬織津姫がたんに桜谷の神というばかりでなく、桜谷神社=佐久奈度神社の神が、現在のように、祓神四神とされる前の姿をよく証言しています。
 ところで、風土記逸文の「伊勢の佐久那太李[さくなだり]」と、佐久奈度神社由緒書「山岳裂けて低下の所を開く」および「急流のつくる奇岩で古くから景勝地」の表現が、妙に呼応する記述をもつ古文書があります。

■五十鈴河上は裂けた谷「さくなだり」
問曰、佐古久志呂宇治トハ何ト云事ゾヤ。
答曰、佐古ハ拆[サク]也。古ト久ト五音通ス。久志呂ハ奇[クシロ]也。宇治山ノ谷道拆[サケ]テ奇妙ノ風景言語ノ及ブ所ニ非ザル也。宇治ト云ハ猪路[シゝミチ]ヲ云トノ説アレバ、拆テ奇妙ニシテ、人ハ通シ難キ嶮岨ノ猪路ヲ云ニヤ。又宇治ハ内也。内宮御鎮座故ノ名トモイヘド、倭姫命世記ニ、内宮御鎮座以前ノ詞ニ佐古久志呂宇遅之五十鈴河上トアレバ、内宮ト云ニ付テノ名ニハアルベカラズ。其上外宮御鎮座アリテヨリ内宮ト云ヘバ、是ハ雄略天皇以後ノ説也。上古ハ猪路ヲ云ヘルニヤ。拆鈴五十鈴ト云ハ、鈴ハ口ノ拆タル故ノ枕詞トモ記セリ。(度会延佳『神宮続秘伝問答』天和二年、『神道体系』所収、漢文部分は書き下した)

 文中「倭姫命世記ニ、内宮御鎮座以前ノ詞ニ佐古久志呂宇遅之五十鈴河上トアレバ」に関して、当該の『倭姫命世記』は、「佐古久志呂宇遅之五十鈴之河上者。是大日本国之中仁殊勝霊地侍奈利」と記しています。要するに、「佐古久志呂宇遅之五十鈴之河上は、大日本国の格別の霊地である」という意味でしょう。なぜ格別の霊地かといえば、これは、景観的には瀬田川の「急流のつくる奇岩で古くから景勝地」と同質の霊地であり、「宇治山ノ谷道拆[サケ]テ奇妙ノ風景言語ノ及ブ所ニ非ザル也」となります。では、五十鈴川上流において、この言語に言い表せない「奇妙ノ風景」とはなにかといいますと、それは、「鏡岩」に代表される奇岩の数々ということになります。

■五十鈴川上の「奇妙ノ風景」
 上流の渓谷は「高さ二丈横五尺許の巨岩にて、西面削るが如くして、晶?物を鑑みるとぞ、白銅鏡に異ならず」(神都名勝誌)という鏡岩をはじめ、奇岩怪石がそばだち〔後略〕(『日本歴史地名体系』第24巻、平凡社)

 五十鈴川上流の「奇妙ノ風景」の代表が、この鏡岩のようです。ここには、神宮側の古文献がふれることのなかった鏡石神社が存在する(していた)とは、安岡親毅『勢陽五鈴遺響』の記すところでした。同書は、鏡石神社は「祭神不詳」とも記していましたから、これは推測の域を出ませんけど、一般的に、「鏡岩」のような巨岩に宿る、影向する神は、原初の太陽神=日神といえそうです。五十鈴川上の山が神路山であり、その異称に「天照山」の名があったことも傍証とすべきかもしれません。
 この推測の仮説を前提として、あらためて近江国風土記逸文を読んでみます。

■伊勢の佐久那太李[さくなだり]の神
近江[あふみ]の風土記に曰[い]はく、八張口[やはりぐち]の神の社[やしろ]。即[すなは]ち、伊勢の佐久那太李[さくなだり]の神を忌[い]みて、瀬織津比甜せおりつひめ]を祭[まつ]れり。(近江国風土記逸文、秋元義郎校注、『日本古典文学体系2』岩波書店)

 瀬織津姫自身を「伊勢の佐久那太李の神」とみなす余地もありますが、上記前提でいうならば、この「伊勢の佐久那太李の神」は、皇太神宮=内宮の立ち上げと同時に消去された男系太陽神=日神であり、この神を忌んで、鎮魂して、八張口神社=佐久奈度神社は瀬織津姫を(祓神として)まつっているという理解となります。瀬織津姫自身も、内宮の立ち上げと同時にその名を天照大神荒魂などと消去=変名化されていますので、これは一見無理な理解にみえるかもしれません。しかし、神武の東征譚にもよく表れていましたが、ヤマトの征夷の常套手段は、「夷をもって夷を征す」というやり方でした。水神の化身としての桜は、このとき、鎮魂の木へと変えられたのではないかという気がします。『神都名勝誌』は、いみじくも、鏡岩を「白銅鏡に異ならず」と表現していました。白銅鏡二面をまつる鏡宮神社も想起されるところで、さらにいえば、この二鏡の霊神こそ、消えた水神=月天と日神=日天でした。また、この二鏡の背後に咲いている桜樹には、日本で最初に降り立った桜神というイメージも付着していました。瀬織津姫は、日神ばかりでなく、自身をも合わせて鎮魂するようにして、五十鈴川の中洲の岩に桜として立っていたというのは、文学的にすぎる想像でしょうか。

(追記)
 五十鈴川神=滝祭神=大水御祖神としての瀬織津姫でしたが、伊勢の地にはもう一神、別格の「水徳」をもった神が存在しています。丹波からやってきたとされる外宮神=豊受大神です。外宮神は「水気元神」「月天尊」の異名をもっています(『豊受皇太神御鎮座本紀』)。では、伊勢には二種類の水の最高神がいるのかということになりますが、むろん、そんなことはありえません。琵琶湖の湖水神と天女伝説、丹波と白山双方に関わる伊勢の元神、さらに白山には、関係河川に「桜谷」の地名・社名が二つみられます。「元」をきちんとみておきたいということで、琵琶湖行を中断して伊勢へ走りましたので、その話を先にまとめました。

767 初めて日比谷神社に行って参りました! GOTO 2003/09/22 12:57

先週の土曜日に新橋で電車乗り換えの用事があったので、ふと思い立って日比谷神社に行って参りました。
ご存知のとおり東京は大雨でしたが、その雨が、かえって水の女神を思い起こさせてくれたようです。
繁華街の少し外れですが、手入れの行き届いた、清潔感あふれる境内にとても感動しました。

768 お久しぶりです セオリツ 2003/09/22 16:16

こんにちは、先日9月21日こちら宮崎のMRT放送の50周年記念番組で、日向(ひむか)神話街道を行くという6時間番組がありましたが、その中で瀬織津比賣の事知らない(アナウンサー)が番組に出ていた神社関係の人たちに瀬織津比賣の事を聞いてましたが瀬織津比賣といえば西都の速川神社ぐらいしか知らないようでがっくりしました。速川神社は修行された場所なのに。瀬織津比賣の事でメールを送ったのになんだか、うやむやにされてしまいました。

769 貴船行ってきました 米子の金太郎 2003/09/24 13:30

お久しぶりです。貴船神社行ってきました。教えてほしいのですが、奥宮の下に龍穴があり、竜神さんがおられると書いてありましたが、白龍サンでしょうか。後白髪又は白髭社とか竜神で知っておられることがありませんか。鞍馬寺の入り口に魔王滝があり、そのそばに打ち捨てられてように二体の竜神の石碑が建っていました。以前は山の上のほうにあったものが移されたとのこと。気になっています。貴船は本当にすばらしいところでした。貴船神社で頂いた和歌のようなメッセージをご報告しておきます。どのような意味か又感じられるものがありましたら教えてください。私は読み心のないもので…。
 「瀬織り成す、はや水の瀬に写しくる、この世の空蝉流れては、いつかのときに又戻らん」
 又ご連絡いたします。

770 記紀の胎動期 穂国幻史考管理人・柴田晴廣 2003/09/27 19:10

 次回は、天武朝の帝記、旧辞、推古朝の天皇記、国記がどのようなものかについて書こうと予告しましたが、その前に天武時代から書紀が成立するあたりまで一度整理しようと思い、予告に反し、本稿を書かせていただきました。

1.吉野の盟約

 天武八(六七九)年五月五日、天武は、吉野に行幸します。そして、翌六日、天武は、持統及び草壁・大津・高市・川嶋・忍壁・芝基の各皇子に「お前達と共に、盟約をし、千年後まで継承の争いが起こらないようにしたい」旨を告げました。皇子達は、了解し、草壁が進み出て、「我ら兄弟長幼合わせて十余人は、母を異にしてますが、同母であろうとなかろうと、助け合って争いはしない」旨及び「これにそむけば、子孫が絶えるであろう」旨を宣言し、他の皇子達も同旨の宣言をします。天武は、それに対し、「わが子供たちよ。おまえたちは、母を異にするが、みな同じ母から生まれたも同様に思え」と答えています。
 草壁は、「我ら兄弟長幼合わせて十余人は、母を異にし」といってます。草壁・大津・高市・忍壁は、天武の息子で、母を異にしますが、川嶋と芝基は、天智の皇子です。
 天智の皇子は、川嶋、芝基、そして、壬申の乱で天武に敗れる大友、そして、夭逝した建皇子がいました。
 このとき、天智の皇子で生存していたのは、川嶋、芝基だけです。
 つまり、天武の皇子四人と天智の生存していた二人の皇子が、吉野の盟約に参加していたということになります。また、持統との関係からみれば、この二人は、異母兄弟ということになります。
 この二人が、草壁と同旨の宣言をしたというのも非常に不思議なものです。そして、天武は、この二人を含めた六人の皇子に向かって、「わが子供たち」といっているのは、さらに不思議というほかありません。
 吉野の盟約というのも額面通り解釈できない記載と考えられます。

2.川嶋皇子考

 吉野の盟約に加わった六人の皇子の中の二人の皇子は、天智の皇子である旨は、既に書きました。一人は、川嶋皇子(六五七〜六九一)、もう一人は、施基皇子(?〜七一六)です。
 そこで、六人の皇子の中の天智の二人の皇子の中の一人の川嶋皇子について考えてみたいと思います。
 川嶋皇子は、書紀天武一〇(六八一)年三月一七日の帝紀及び旧辞の記録校定を命じられます。
 そして、帝紀及び旧辞の記録校定を命じた天武が死亡するのが、朱鳥元(六八六)年九月九日、その五年後の持統五(六九一)年の九月九日に川嶋皇子は、亡くなったと記載されています。
 川嶋皇子が亡くなる前月の持統五(六九一)年八月一三日に、持統は、大三輪氏をはじめ一八氏の墓記を提出させています。書紀の編纂のはじまりです。
 天武に帝紀及び旧辞の記録校定を命じられた川嶋皇子が、書紀編纂がはじめられた直後の天武の命日に亡くなっているというのも因果なめぐり合わせ以上のものを感じます。
 川嶋皇子は、天智と忍海造小龍の娘・色夫古娘の間の子です。同母姉に大江皇女(?〜六九九)は、天武の妃でした。また、同母妹に大宝元(七〇一)年から同四年まで斎宮を務めた泉皇女がいます。川嶋皇子の姉の大江皇女は、天武の妃ですから、川嶋皇子は、天武の義弟ということになります。
 母の出自の忍海造については、姓氏録で、比古由牟須美(ひこゆむすび)の後とされています。
 天武は、その名が示すように大海(凡海)宿祢が壬生(養育係)であった旨が、天武崩御後の書紀朱鳥元(六八六)年九月二七日に記載されています。
 大海(凡海)宿祢は、書紀によれば、天武一三(六八四)年一二月一日に凡海連に宿祢の姓を与えた旨が記載されています。
 姓氏録の未定雑姓右京の部で、凡海連について「火明命の裔と云へど見えず」と記載しています。
 火明命は、先代旧事本紀の巻五「天孫本紀」で尾張連の祖とされています。
 記紀の崇神の妃に尾張連祖大海媛(記の表記は、意富阿麻比売)の名も見えます。
 忍海造の祖・比古由牟須美もまた火明命に連なることは、拙稿第一話で既に述べています。
 そのように考えると、天武の壬生と川嶋皇子の母方は、いずれも火明命を祖とする同族ということになります。単に義弟ということだけでなく、そうしたことから、天智の皇子であるにもかかわらず、天武は、帝紀及び旧辞の記録校定を川嶋皇子に命じたと考えられます。
 そして、天武は、川嶋皇子らに帝紀及び旧辞の記録校定を命じた五年後の朱鳥元(六八六)年九月九日に亡くなります。それから一月も経たない一〇月二日には、大津皇子(六六三〜六八六)の謀反が発覚します。

 「懐風藻」には、川嶋皇子が、はじめ大津皇子に与んで契りを結んだことから大津皇子が立ったが、川嶋皇子が密告したため事態は急変した旨が書かれています。つまり、川嶋皇子は、大津事件までは、大津皇子と親しい仲にあったといえます。
 また、「懐風藻」には、新羅の僧・行心について天文卜占を能くし、大津に天下を取る骨相だと進言し、大津が謀反に及んだとしています。
 一方、大津謀反について、書紀は、謀反が発覚しとだけ記載され、その詳しい内容や何故謀反が露呈したかについては書かれていません。また、大津皇子に「欺かれた」八口音橿、壱岐博徳、中臣臣麻呂、巨勢多益須、行心(新羅の僧侶)、礪杵道作ら三〇人を逮捕したとしています。
 伊豆に流された礪杵道作は、帳内(とねり)と記載されていますから大津皇子に仕えていたと考えられます。また、礪杵(とき)の名から美濃国礪杵郡(現岐阜県土岐市)の国造系の出自かといわれています。そして、大津皇子に欺かれたのだから止むを得ないとし、礪杵道作を伊豆に流し、新羅の僧侶・行心は、大津皇子に与したが、忍びないから飛騨の寺に移せとされています。
 美濃国といえば、壬申の乱(六七二年)で、大海人(天武)側に与しています。天武の帝紀及び旧辞の記録校定を命じられた川嶋皇子、壬申の乱で天武側に与した美濃出身の礪杵道作と、両名とも天武と親しい関係にあったと考えられます。
 また、続日本紀天平一九(七四七)年一〇月三日条に御方大野が姓を授かりたいと願い出たが、許されなかったと記載しています。その理由として御方大野の父は、天武の時代に皇子として連なっていたが、微かな過ちにより皇子の列から除かれたという記載があります。
 この「天武の時代に皇子として連なっていたが、微かな過ちにより皇子の列から除かれた」というのは、大津事件に連座したものだという解釈もあります。
この解釈からいえば、書紀の大津事件の「礪杵道作を伊豆に流し、新羅の僧侶・行心を飛騨の寺に移した」とする記述のほかに、皇子の列から除かれた皇子もいたということになります。
 この皇子の列から除かれた御方大野の父は、磯城皇子だという説があります。
 磯城皇子の母は、穴人臣大麻呂の娘です。磯城皇子の生没年不詳ですが、大宝律令制定(七〇一)前に没したと思われます。
 また、磯城皇子の同母兄の忍壁皇子(?〜七〇五)は、川嶋皇子とともに天武に帝紀及び旧辞の記録校定を命じられています。大津事件というのも書紀の編纂には、天武は関与していないという視点から、一度見直す必要があるのではないかと思います。

 そして、四年後、草壁皇子が死去したため、持統自らが即位します。その翌年には、書紀の編纂がはじめられ、その直後の天武の命日にあたる九月九日、川嶋皇子は、亡くなります。書紀には、死因は、記載されていません。
 天武と近い関係にある川嶋皇子だけに、亡くなった日が天武の命日と同日というのも偶然以上のものを感じます。また、書紀には、死因が記載されていませんが、川嶋皇子の死亡日を九月九日と記載しなければならないような公然の死であった疑いが浮かびます。

 そして、川嶋皇子の市から五年が過ぎた持統一一(六九七)年八月一日、持統は、孫の文武に譲位します。
 この譲位に先立つ文武立太子について、『懐風藻』は、持統一〇(六九六)年、高市が薨じ、皇太子を決めるに当たり、葛野王(十市と大友の子)は、「我が国家の法と為る、神代より以来、子孫相承けて天位を襲げり」と、兄弟相続は争いの種だとして、文武を推したとします。この時弓削皇子(?〜六九九)は何か意見しようとしたが葛野王に叱止されたと記載します。
 『懐風藻』の記載から、弓削皇子は、軽皇子(文武)即位には、反対していたと考えられます。弓削皇子の父は、天武、母は、大江皇女です。つまり、弓削皇子は、川嶋皇子の甥にあたるわけです。
 天武が、記録校定を命じた帝記及び旧辞と、持統が、編纂をはじめた書紀との間で何か対立があったように考えられます。

3.天武と草薙の剣

 天武の命日については、朱鳥元年(六八六)年九月九日であることは、度々書きました。そして、天武に帝記及び旧辞の記録校定を命じられた川嶋皇子もまた持統五(六九一)年の九月九日に亡くなっています。
 そして、川嶋皇子の命日と天武の命日が同日であるのは、偶然以上のものを感じる旨も書きました。
 一方、天武の死因については、書記は、病死としています。書記によれば、天武一四(六八五)年九月二四日に発病したとの記載があります。
 しかし、発病後も天武一五(六八六)年一月二日(同年七月二〇日に朱鳥と改元する。)、同月一六日から一八日には、宴を催しています。この発病の記載そのものも疑ってみる必要があります。
 そして、同年五月二四日、天武の病が重くなったため、薬師経を読経した旨が記載されています。
 同年六月一〇日、天武の病の原因を占ったところ草薙剣の祟りとでたため、その日のうちに草薙剣を熱田社に送って安置させたと書紀は記載します。
 草薙の剣について、これより一八年前の天智七(六六八)年、書記は、この年に、沙門(僧侶のこと)道行が草薙の剣を盗み、新羅に逃げようとしたが、途中で風雨に遭い、道に迷い戻ってきたと記載します。
 書紀は、草薙の剣が盗難に遭った天智七年の一月三日(或曰として六年の三月)に天智は即位しています。
 そして、これ以降、草薙の剣は、熱田社から宮中に置かれるようになりました。そして、道行が草薙の剣を盗み、それ以降、草薙の剣を宮中に置かれるわけですが、草薙の剣が、熱田社でなく、宮中に置かれているのが、天武の病因だということを書記天武一五年六月一〇日の記載は、いっているわけです。
 先ほども書きましたが、天武の病気の原因は、草薙剣の祟りとでたため、その日のうちに草薙剣を熱田社に送って安置させました。
 それにもかかわらず天武は、草薙剣を熱田社に返して三月あまり、この年の九月九日に亡くなります。いわば、天武の病の真の原因は、草薙剣の祟りではないことになります。

 では、天武の真の病因は何であったか。
 天武の病因についての書記の記載について、「アマテラスの誕生」の著者・筑紫申真(つくしのぶざね)氏は、同書で、「この文章をすなおに読んだならば、いまも熱田神宮にまつられている草薙の剣は、このときに大和の朝廷からはじめて尾張の熱田に送りつけられたものであることが明瞭となります」としています。しかし、上述のように、この文章をすなおに読んでもそのような解釈は一義的には、導かれません。
 その点は、保留しておくことにして、筑紫氏の見解を見てみます。
 筑紫氏は、この占いをした者を南伊勢出身の天語部、あるいは猿女君ではないかとしています。その理由として一振りの剣に草薙の剣と名づけたのは、天語部、猿女君ら南伊勢の海女は、草薙と剣に対する伝承をもっていたからだとしています。
 その伝承というのは、外宮神官の度会氏の祖先の大若子は、天皇家から標剣(しるしのつるぎ)を賜り、越の国を征服し、標剣は、外宮の重要な摂社の草奈伎神社の神体であるということ、及び渡会氏の先祖が天牟羅雲命であることを挙げています。
 これらの南伊勢の海人を管轄していたのが、天牟羅雲命を先祖をもつ度会氏だとし、筑紫氏は、このとき(天武一四年)に、はじめて熱田に剣が送られたとしています。

 ここで、草薙の剣が熱田の社の神体になった経緯について簡単に説明しておきます。
 草薙の剣は、もともと、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と呼ばれていました。この天叢雲剣は、素戔嗚が、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したとき、大蛇の尾から出てきたものです。
 素戔嗚は、この剣をアマテラスに献上します。
 この剣は、アマテラスを祀る場処を求め、五十鈴川のほとりにアマテラスを祀った倭姫に伝えられます。
 そして、天叢雲剣は、東征を命ぜられたヤマトタケルが叔母の倭姫に授けられます。
 ヤマトタケルは、東征にむかい、駿河で、賊の火攻めに遭った折、それを防ぐため、天叢雲剣で草を薙ったことから、天叢雲剣は、草薙の剣と呼ばれるようになります。
 ヤマトタケルは、東征の還り、尾張国造・建稲種の妹・宮酢姫のもとに寄り、草薙の剣を預け、伊吹山の神との戦いに敗れ、亡くなります。
 そうした経緯から、草薙の剣が、尾張国造家が奉戴する熱田社の神体となりました。

 筑紫氏が、南伊勢出身の海女の天語部、猿女君をこの逸話の創作に関わっていたとする理由の一つとして度会氏の先祖の天牟羅雲命を挙げているのは、草薙の剣が、もともとは、天叢雲剣と呼ばれていたからです。
 また、筑紫氏は、ヤマトタケル逸話そのものも標剣を与えられ、越の国を征服した渡会氏の伝承を下に、その支配下にあった南伊勢出身の海女の天語部、猿女君が関わっていたとしています。
 素戔嗚の八岐大蛇退治、ヤマトタケル逸話は、記紀の神代から安康の巻に書かれています。
 森弘達著「日本書紀の謎を解く」では、書記の神代から安康の著述は、慶雲四(七〇七)年四月二九日の山田史御方の賞揚によりはじめられたとしています。
 筑紫氏は、天武一五年に、はじめて熱田に剣(草薙の剣)が送られたとしています。しかし、その前提となる占いは、その日に「草薙の剣」を熱田社に返したにも関わらず、天武の病状が回復していないことから、後の創作と考えるのが自然ではないかと思います。そうなると、、天武の病因の記載をなぜ雲年以降に記載しなければならなかったのか。この疑問が、この天武病因の記載を解く鍵になるのではないかと思います。

 そこで、この慶雲四年前後の熱田神宮と草薙の剣について見てみますと、『尾張志』に、和銅二(七〇九)年九月九日、熱田神宮内の八剣宮(式内社)に、新たに寶劒を奉ったとの記載があります。八剣宮に宝剣を奉ったのは、阿部朝臣宿奈麻呂、多治比眞人池守です。宝剣を奉った理由は、西夷の征討祈願のためといわれています。
 しかし、八剣宮に宝剣を賜った阿部朝臣宿奈麻呂、多治比眞人池守は、続日本紀和銅二(七〇九)年九月三〇日に、元明から造平城京司長官に任じられています。つまり、西夷の征討祈願のためというより、主目的は、平城京造営祈願と考えるのが自然だと思います。
 この八剣宮について、元禄一二(一六九九)年に、熱田神宮が尾張藩に提出した『熱田神宮旧記』には、「天智七年に熱田神宮の草薙剣が賊による盗難を受けたが、天武が朱鳥元年に返還した。その際、草薙剣に比すべき徳をもつ剣を別殿に祀り八劒宮と称した」との記載があります。
 「天武が朱鳥元年に(草薙の剣を熱田社に)返還した際、草薙剣に比すべき徳をもつ剣を別殿に祀り八劒宮と称した」とする『熱田神宮旧記』の記載は、筑紫氏の「天武一四年に、はじめて熱田に剣(草薙の剣)が送られた」とする仮説の裏づけにもなります。
 しかし、「八剣宮に、新たに寶劒を奉った」との『尾張志』の記載、そして、その宝剣を賜った日時が、天武の命日の九月九日であること、そして、それが平城京の造営に関わっていることを考慮すると、この記載の意味も変わってくるのではないかと思います。
 森氏は、書記の天武記の著述がはじめられた時期については言及していませんが、天武記の著述がはじめられるは、書記の神代から安康の著述が、はじめられる慶雲四(七〇七)年四月二九日、あるいは持統記の著述がはじめられる和銅七(七一四)年二月一九日以降のことであることは明らかです。
 おそらく、持統記の著述と同時にはじめられたと考えられます。
 天武記が持統記の著述がはじめられる和銅七(七一四)年と仮定すれば、筑紫氏が、「天武一四(六八五)年当時」に、南伊勢出身の海女の天語部あるいは猿女君が占いに関わり天武病因の逸話を創作したと考えるより、「和銅二(七〇九)年」の「熱田神宮内の八剣宮(式内社)に、新たに寶劒を奉った」との『尾張志』が記する和銅二年の宝剣奉納にまつわる事件こそが、天武病因の逸話の創作の契機となったと考える方が、整合性があるのではないかと思います。つまり、この時点で、何らかの理由により熱田社の八剣宮に宝剣を奉る必要が生じ、それを天武発病に結び付け、書記に天武時代のこととして取り入れられたと考えるのです。

 ここでもう一度、草薙の剣について整理したいと思います。
 草薙の剣は、三種の神器の一つとされ、草薙の剣は、熱田神宮の神体であり、祭神の熱田大神の依代といわれています。また、祭神の熱田大神は、草薙の剣に憑りつくアマテラスだといわれています。
 書記によれば、天武は、壬申の乱に決意した天武元(六七二)年六月二二日から四日後の六月二六日、天武は、「北伊勢」の朝明郡(三重県三重郡)の迹太川(とおがわ)のほとりで天照大神を望拝します。
 筑紫氏は、天武が望拝した「天照大神」は、アマテラスオオミカミではなく、アマテルオオカミであったとしています。
 筑紫氏は、続日書紀の文武二(六九二)年一二月二九日の「多気大神宮を度会郡に遷す」との記載を伊勢神宮の成立とみています。
 筑紫氏は、多気大神宮(現滝原宮)が、度会郡に遷ったとする続日本紀の記載を度会郡に鎮座する現内宮の成立と考えているわけです。
 そして、筑紫氏は、現伊勢内宮が、成立する以前は、アマテラスは、誕生していないと考えています。

 アマテラスオオミカミが成立する以前のアマテルオオカミについて筑紫氏は、火明命(天照国照彦火明命=日の男神)としています。
 火明命は、尾張氏の祖です。そして、尾張氏が奉祭する熱田神宮の祭神・熱田大神は、草薙の剣に憑りつくアマテラスだといわれます。
 火明命を祖とする尾張氏が奉祭する熱田神宮の祭神であれば、草薙の剣に憑りつくアマテラスは、アマテラスオオミカミではなく、アマテルオオカミ=天照国照彦火明命と考える方が自然ではないかと思います。
 先代旧事本紀巻五・天孫本紀は、尾張氏の祖・火明命の孫として天村雲命(あめのむらくものみこと)の名を記します。
 筑紫氏は、外宮神官の渡会氏の先祖に天牟羅雲命がいることから、草薙の剣の前称・天叢雲剣と伊勢の関係を説いていますが、尾張氏もまたその先祖に天村雲命を有します。
 草薙剣=天叢雲剣と尾張氏もまた浅からぬ関係があり、その尾張氏が奉祭する熱田神宮に草薙の剣にまつわる伝承があったとしても不思議はありません。
 筑紫氏がいうように、渡会氏の支配下にあった南伊勢の天語部あるいは猿女君が、天武一五年の天武病因の占いに関わり、このときはじめて熱田に神剣が送られたとは一概には、いえないのではないかと思います。
 繰り返しになりますが、書記天武一五年及び天智七年の草薙の剣の記載は、『尾張志』の和銅二(七〇九)年九月九日に熱田神宮内の八剣宮に、新たに宝剣を奉った事件を機に創作されたと見るべきではないかと思います。
 書記天武一五年の記載では、草薙の剣をその日のうちに返したと記しています。しかし、天武の病状は回復しませんでした。つまり、天武の病因は、草薙の剣の祟りではなかったということです。
 天武は、火明命の後とされる大海人宿祢に養育され、尾張氏は、壬申の乱で天武に与してます。天村雲命を先祖とする尾張氏ゆかりの草薙の剣、そして天武自身の出自ともゆかりある草薙の剣が天武に祟るという方が、不思議なことです。
 『尾張志』の記載をもう一度確認します。元明は、和銅二年、天武の命日に八剣宮に、新たに宝剣を奉っています。平城京の造営祈願のためです。草薙の剣が天武に祟っていたとするなら、平城京の造営祈願に、わざわざ天武の命日に宝剣を奉らるでしょうか。
 むしろ、平城京造営が成就するようにと、天武の命日に天武の法要のため、天武とゆかりの深い熱田社に宝剣を奉ったと解釈するのが、自然ではないかと思います。

 最後に、外宮神官の度会氏について言及しておきます。
 伊勢神宮の資料には、外宮(豊受大神)は、雄略年間に丹波から伊勢の地に遷ったするものがあります。
 現に、丹波には、元伊勢を称する社があり、豊受神信仰が盛んな土地です。
 そして、丹後半島の沖の冠島は、火明命が天降った地とされています。
 外宮=豊受大神が、丹波から遷ったのであれば、丹波の地で火明命の孫・天村雲命(天牟羅雲命)と関係があったとしても不思議ではありません。
 また、天照大神を現在の伊勢の地に遷したとされる倭姫もまた丹波と関係があります。
 倭姫の母・日葉須姫は、丹波を支配していた丹波道主王の娘だからです。
 雄略の時代に丹波から伊勢の地に遷ったとするのも何らかの事実が反映されているのではないかと考えられます。
 そして、書記の著述が、雄略記からはじめられたことも、このことと関わりがあるのではないかと思います。

4.中臣神道と記紀の成立

 草薙の剣と伊勢の関係で触れたように伊勢外宮の神官が度会氏です。続日本紀和銅四(七一一)年三月六日、磯部祖父と高志の二人に渡相(度会)神主の姓を賜ったと記されています。
 一方、内宮の方は、宇治土公氏と荒木田氏です。最終的には、伊勢は、神祇伯の大中臣氏が管理することになります。
 持統が文武に譲位した翌年の文武二(六九八)年、八月一九日、続日本紀は、鎌足に賜った藤原朝臣姓は、鎌足の子の不比等が承継し、意美麻呂(?〜七一一。鎌足の従兄弟の中臣国足の子)は、中臣氏本来の職責である神祇の職にあるから、中臣に復姓すべしとの詔が発せられたと記載しています。
 筑紫氏は、続日本紀文武二年一二月二九日の多気大神宮を度会郡に遷すの記載を現在の内宮の成立と見ています。
 意美麻呂に藤原を名乗ることを禁じた一つの理由として、意美麻呂が大津事件に連座していたことが挙げられると思いますが、大津事件は、朱鳥元(六八六)年一〇月二日に発覚したとされますから、十年以上経っていますから大津事件に連座したことが直接の原因とは考えにくいと思います。むしろ、内宮の成立との関係が強いのではないかと思います。
 続日本紀和銅元(七〇八)年三月一三日に、藤原不比等が右大臣、意美麻呂(?〜七一一)が、神祇伯に任ぜられたとの記載を載せます。神祇伯に任ぜられた意美麻呂の子・清麻呂(七〇二〜七八八)が大中臣を名乗るようになります。
 この前年の慶雲四(七〇七)年四月二九日に書紀の神代から安康紀の著述がはじめられます。記紀の神代の巻には、天孫降臨神話が収められています。不比等の右大臣就任、意美麻呂の神祇伯就任と皇祖神アマテラスの創造とは、無縁のものだとはいえないと思います。
 意美麻呂は、和銅四(七一一)年六月二二日に亡くなります。古事記の編纂が開始されるのが、同じ年の九月一八日です。その半年前の三月六日には、磯部祖父と高志の二人に度会神主の姓が与えられています。
 整理すれば、和銅四年三月六日に、磯部祖父と高志の二人に度会神主の姓が与えられ、その三月後の六月二二日に、意美麻呂が亡くなり、その三月後の九月一八日に古事記の編纂が開始されるということです。
 古事記の編纂開始は、書紀神代から安康紀が完成したのを受けたものと考えられます。
 また、和銅四年三月から九月の流れから、意美麻呂の死因についても疑問が浮かびます。
 意美麻呂が死亡した時点で、子の清麻呂は、十歳に満たない少年です。伊勢の管理は、実質的に右大臣藤原不比等の意思が反映されたと考えられます。

 概念としての皇祖神アマテラスは、書紀の神代から安康紀の著述がはじめられる慶雲四(七〇七)年四月二九日以前、現在の内宮の成立する文武二(六九八)年一二月二九日以降に完成したと考えられます。
 しかし、皇祖神アマテラスが、世に現れるのは、伊勢の土豪磯辺氏が外宮神官に任じられ、神祇伯意美麻呂が亡くなり、書紀神代から安康紀が完成した和銅四(七一一)年三月から九月にかけてのことと思います。
 そして、姿を表した皇祖神アマテラスは、書紀が奏上される養老四(七二〇)年五月までに、認知され、それを受けて日本書紀は公表されたと考えられます。
 そして、大任を終えた不比等は、養老四(七二〇)年月八月三日 に、翌養老五(七二一)年一二月には、元明が死去します。

771 購入しました☆ AYA 2003/10/02 20:44

 はじめまして。PONTAのAYAと申します。
 私はセオリツヒメが好きなので『エミシの国の女神』を購入させていただきました。
 私の今の研究テーマは「不動の滝」です。「天照大神(和魂):セオリツヒメ(荒魂)=大日如来(穏和):不動明王(憤怒)」という公式が、不動の滝では成り立つからです。こう思うのは私くらいかなと思ったら、『エミシの国の女神』の57ページに同じ事が書いてあったので、著者に対し、親近感を覚えました。
 私の県や京都府では、「不動の滝」という名前の滝が、数の上では、最も多いです。この理由を考えてみると、
1.「セオリツ滝」「姫滝」という古来からの名前を為政者が消したかったので、強制的に不動明王を祀らせて、滝名を「不動の滝」に変えた。
2.稲荷神社・八幡宮・秋葉神社等が多いのは簡単に言えば流行神だから(詳しい理由を言えばきりがない)。不動の滝が多いのも、不動信仰の流行がある時期にあることが原因でおこり、人々は自主的に不動明王を祀り、滝名を「不動の滝」に変えた。
が考えられます。
 修験者だけではなく、広く民衆に「お不動さん」と言う名で親しまれていることを考えると「強制的に」ではなく、「自主的に」ではないかと思います。この仮定を証明するには、1つ1つの滝について、「いつ、何のために不動明王を祀り、不動の滝と改称したか」を調べればいいのですが、神社の社誌のような記録がないため、不可能っぽいです。
 『エミシの国の女神』には熊野という言葉が出てきますが、確かに不動の滝が男滝・女滝(雌滝・雄滝)と3点セットになってると、熊野信仰(熊野三山)かなとも思いますが、私の現在の答は、「熊野信仰ではなく空海信仰」です。修験者より空海の方が民衆に慕われていると思います。
 いずれにせよ、私の今の研究テーマは「不動の滝」で、特に「空海と不動明王の関係」です。どちらもその正体は水神のクリカラ竜?

PS.読者カードが入ってなかったので、掲示板にて失礼します。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/

772 はじめまして 長谷川彰子 2003/10/04 14:40

初めて書き込みさせていただきます、長谷川彰子と申します。
実は、去年くらいからずっとこちらのホームページを見させてもらっていましたが、書き込みは初めてです(^ ^;)。

「エミシの国の女神」、読ませていただきました。
瀬織津姫という女神の名の響きが綺麗で、すっかり魅了されています。
ずっと前から、古代史に関心があって、「記紀」も読んで来たほうですが、「……これって、全部が本当のことじゃないよなぁ」と思っていました。特に、藤原氏にとって、巧くかかれているというか。古代の事跡を、煙にまかれてしまった、という感じがしています。
だから、この本を読んで、神々の謎に近付けたような気がしています。

わたしは、小説とイラストを書いていまして、神話を題材に話を考えています。実は、そのなかに瀬織津姫をヒロインとしてだそうとしてまして、全く創作上の人物にしてしまいました。結構、風琳堂さん達から白い目で見られてしまいそうなことを考えています(汗)。
でもわたしとしては、美しく凛とした女神のイメージや、その半身である男性太陽神の像に少しでも近付けていけたらな、と思っています。

では、突然の書き込み、失礼しました。

773 読み終わりました! AYA 2003/10/04 19:51

 PONTAのAYAです。
 『エミシの国の女神』、読み終わりました。
 以下はうろ覚えなので、ご勘弁を。

 前半は、うんうんと頷きながら読ませていただきました。
 私も、古代の最高神は、男女1対だと思っています。「カミ」とは「日水」(日は太陽)「火水」(火はアサマ・アソといった火山)だと思っています。「神」は、岩を貫く雷を表す象形文字でしたっけ?(ただ、「神」と「日水」「火水」は、カタカナでは「カミ」で同一でも、古代の発音は異なるらしい。)

 174の石巻山は、確か、岩に大きな白蛇が巻きついていたので、そう呼ばれるようになったと思います。近くに「神郷」(数十年前までは「みわ」と読んだ)や三輪川があったかと。蛇穴がある嵩山には分社の白土社があったと思います。

 後半は、私がまだ調べていない部分なので、「?」ばかりでした。
 212の「赤日子=赤引説」は否定されていると思います。表記は「安加比古」「赤孫」「赤日子」の3種類で、意味は、「アカ」が美称(「立派な」の意味の接頭語)、「ヒコ」=「火子」=「豊玉の家の火を守る世継ぎ」の意味だったかと思います。228ページの「三河養蚕祖神」の碑は、「アカヒコ」と言う名前を聞いて「赤引糸の産地」と間違えた人が、ありがたがって建てた物とか。
 赤引糸を作っていたのは、鳳来寺の近く大野の神社で、現在は六所神社の境内社になってるかと。近くに、作業で疲れた人が入った温泉(赤引温泉)があります。ただ、大野以外にも赤引糸の産地は鈴鹿等にもあったと考えられ、「赤引」は地名ではないようです。三河でもう1つ有名な「犬頭糸」も、地名ではなく、今昔物語に載ってる話が語源でしょうね。
 赤日子神社の境内からはかなり古い遺跡が発見され、かなり古い神社かと。しかも、社領がとてつもなく広かったと思います。
 遠州では、養蚕の神は「保食神」ですね。あと、白羽神社がいくつかあって、海岸だから「白い波」だと思っていたら、「以前の祭神が長白羽神」だったかららしいですが不明です。長白羽神は、衣服の事を「白羽」といいますが、その語源で、伊勢国の麻績の祖だそうです。白羽神社のあるところは「白羽」という所で、遠江国には3つあり「同じ国に同じ地名が3つあるとは珍しい」と言われています。

 白山神社の祭神については、朝鮮の男神説がありますね。北朝鮮との国交が正常化して、北朝鮮との文化交流・共同研究をしないと、祭神の解明は出来ないかもしれません。(白山神だけでなく、スサノオも北朝鮮人らしいし。)私的には、白山とか飛騨は全く別の文化(王国)が栄えていた場所で、「紀記の○○神に当たる」と言うのは、「大日如来と天照大神は同じ」と言うのと同じくらい無謀かと思っています。

 近くの「天白山」「天白社」「天伯原」は、どれも川ではなく、山・台地で、「鉄の産地」「産鉄民関係」「アラハバキ関係」と郷土史研究家は見てるようです。私的には、天にある白い物と言えば、Milky Wayで、セオリツヒメのイメージだったのですが、金星だったのですね。勉強になりました。

http://www2.wbs.ne.jp/~ponta/

774 補足 AYA 2003/10/05 19:10

 PONTAのAYAです。

 私的には、「オシラサマ」=「オシロハサマ(お白羽様)」(本来は衣服の神。転じて養蚕の神)ですけど、詳しく調べていないので分かりません。

 あと補足です。172ページから本宮山と石巻山の関係の話になっていますね。確かにこの両山は関係が深いのですが、持統三河行幸の中に載せるなら、本宮山と鳳来寺山の関係も重要だと思います。ご存知かと思いますが、一応載せておきます。
 文武天皇が病気になって、鳳来寺山の利修仙人に祈祷をしてもらおうと、勅使が派遣されます。その勅使は、本宮山で道に迷います。その時、童子を連れた老翁が現れ、その連れの童子の道案内で鳳来寺山に着き、勅命を果たします。帰り道に、勅使は老翁に「お礼をしたい」と言うと、「宮を建ててくれ」と言うので、砥鹿神社(里宮)を建ててあげました。砥鹿神社(里宮)の祭神は大己貴神ですので、この老翁は大己貴神だったのでしょうか?
 さて、鳳来寺山というのは、今の名前で、昔は霧生山です。この山の王は大蛇で、霧を吹きだして、山を覆っていたので「霧生山」です。利修仙人は、この大蛇を岩山にとじ込め、山の守護神としました。これが「白岩大竜王」です。どんな姿の蛇か分かっていませんでしが、1635年に、和尚が寝ているときに現れたのです。何と女神だったそうで、以後、白岩大竜王は婦人病に効くと言われ、全国から多くの婦女子が集まったそうです。蛇や竜は水神ですから、この女神は・・・。
 さてさて、老翁の正体ですが、勅使が名前を聞いたら、名は名乗らず、「知るやいかに我が名を問はば、千はやぶる神のはじめの神とこそ言はめ」と言ったそうです。直訳すると、「本宮山にある神社に祀られている神の前に祀られていた本来の神」の意味で、アラハバキ神と言うことになるのでしょうか? この後、勅使は服を破って川に流し、その布が着いた所に砥鹿神社(里宮)を建てました。つまり、川の神の後神託に従ったという事です。 研究家は、「ご神体は山や巨木や巨岩で、神社は山奥にあったが、後にご神体が鏡や剣になって、人々の住む平野に建てられ、参拝しやすくなった。この移り変わりを示す出来事」と言っていますが・・・。

 あと、大・田田根子か大田・田根子かという話が載っていましたね。私も大・田田根子の方がいいと思いますが、今は大田・田根子と考えられているのですよね。実際、「大田命」が祭神の神社がありますから。

775 伝言です 天竜川の沢蟹 2003/10/05 22:51

始めまして…。
旅の途中の風琳堂主人から、囲炉裏夜話ご愛読の皆さまにご伝言を言付かりました、天竜川の沢蟹です。
風琳堂主人は五十鈴川の書き込みをした後、琵琶湖へ行き、越前に廻り、美濃へ、そして信濃を踏破し、ただいま、越後から越中、そして能登へ抜けようとしているところだそうです。
愛車レガシーは健気に旅のお供をしているようで、気候もまずまず、収穫も手ごたえバッチリのようですが、囲炉裏夜話を気にしつつも、レスできないもどかしさと申し訳なさに、一言よろしくとのことです。
旅のおわりを楽しみにしていてくれ、と図書館営業と瀬織津姫の解き明かしに草枕する主人の無事の帰還を待つことといたしましょう。

776 霧生(桐生)山について 穂国幻史考管理人・柴田晴廣 2003/10/14 09:10

 AYAさん、横から失礼します。
 鳳来寺について、現在見つかっている最古の文献は、「鳳来寺興記」です。
 「鳳来寺興記」は、慶安元(一六四八)年、三河国宝飯郡篠田村(現宝飯郡一宮町篠田)出身の長乳により書かれたものです。
 家光が、「日光山縁起」を見て、鳳来寺に東照宮を建立しようと願いを立て、太田備中守、杉浦内蔵充に鳳来寺の下検分をさせた折、太田、杉浦両名が、鳳来寺の古い縁起は繁雑で解りづらいから整理して欲しいと、長乳に求めたところ、三日二夜かけ長乳がまとめたものといわれています。
 この「鳳来寺興記」には、霧生(桐生)山についての記載はありません。
 霧生(桐生)山について記載するのは、「大成経」です。
 「大成経」は、内題に「先代旧事本紀」とあり、一名「旧事大成経」といわれます。
 一般にいわれる「先代旧事本紀」が十巻本なのに対し、「大成経」は、正部三八巻、副部三四巻の計七二巻から構成されます。
 「大成経」は、志摩国伊雑宮神庫の秘本なりと号して延宝七(一六七九)年に刊行されます。
 しかし、この「大成経」の刊行は、「エミシに国の女神」八九頁以下に書かれている「寛文・延宝事件」に連動したものであり、美濃国黒滝の僧潮音の手により書かれたものでした。
 事件発覚後、潮音が謹慎を命ぜられたのが、上野国黒滝山不動寺というのも因果以上のものを感じます。

 さて、桐生山について、書かれている「大成経」の巻三三を引用します。
 「推古一〇年一〇月、三河国が大鳥(鳳)の尾を奉る。参河桐生山に神代の桐木がある。長さ四九丈、太さは三二尋、枝の半ばすぎで枯れ、中が虚洞になっている。この虚洞の中に龍が棲み、雲霧を吐くことから桐生山あるいは霧生山と呼ばれた。」

 この「大成経」の記事が「鳳来寺由来」(著者不明、万治三(一六六〇)年以降の成立)、「鳳来寺聞書」(太田白雪著、宝永三(一七〇六)年)、「反古さがし」(大田白雪著、宝永五(一七〇八)年)、「鳳来寺略縁起」(善慈尋得著、宝暦13(一七六三)年)などに引用されて流布します。

 潮音が、どういう意図で、「大成経」巻三三に鳳来寺についての記事を載せたのかは、「大成経」の全体像を調べたこともなく、なんともいえませんが、「寛文・延宝事件」との関係から興味深いものはあります。
 また、太田、杉浦両名は、「鳳来寺興記」以前の鳳来寺縁起の存在を示唆させていますから、それらのものがみつかれば、新たな展開があるかもしれません。
 いずれ、持統三河行幸と記紀成立の関係をまとめるつもりです。
 そのとき、砥鹿神社、鳳来寺縁起については、詳しく触れるつもりです。

777 貴船〜下鴨〜神泉苑へ。 GOTO 2003/10/15 09:37

ご主人殿。
連休を利用して京都旅行に行きました。
下鴨神社の御手洗社一度見ておきたかったことと、
何故か薄ぼんやりと貴船に行きたいなと思っていたのですが、帰ってきて囲炉裏夜話を読み返したら既に答えがありました。(^^)

貴船神社の上賀茂神社との訴訟の話にも、御手洗社の足つけ神事にも、その根底に(表層意識にはないにせよ)庶民の瀬折津姫への思いが横たわっているんだな、と深く感激したしだいです。

いつぞや、NHKスペシャルアジア古都物語「京都 千年の水脈」という番組中で、京都の水脈は、下鴨から御所、そして神泉苑へと伸びていると紹介されていたので、ついでながら神泉苑も訪れてみました。
神泉苑は、弘法大使が雨乞いで善女竜王を呼び出したという伝承があります。この善女竜王という名前ですが、もともと善如竜王だったようで、女性化は空海の作為だそうです。つまり世に対して、水神、竜神である女神を
空海の下に位置づけるというイメージ戦略だった、と。

「イヌも歩けば」的な気ままな旅行ですが、とても有意義なものでした。それでは、また。

779 教えてください セオリツ 2003/10/19 21:48

こんばんわ、ご主人、他大勢の皆様、
みなさま、良いアイデアがあったらお願いしたいのですが、今、宮崎県の延岡市の大門町(おおかど)の
瀬織津比賣(せおりつひめ)を祀る御陵神社さんが
神前はどうにか先日、建て直したのですが、
まだ、社務所が資金が無く手付かずの状態です。
神社は小さいのですが御神力は凄いのですが
協力してくれる方もなく、また、このような
景気の為資金も集まらず神社として人の為の
頑張っても苦しい状況です。大工さんを探して
いるのですが協力してくれる方も無く、
途方にくれています。やはり、お金が無いと
無理なのは分かりますが、これが大きな神社さん
だったらすぐ寄付など集まるのでしょうけど
瀬織津比賣(せおりつひめ)を助けたいのですが
どうしたらいいのか御陵神社さんも頭を抱えています
なにか良いアイデアはないでしょうか?小さな神社
の為、氏子さんも今はいません。
みなさん教えてください

780 法律関係は 穂国幻史考管理人・柴田晴廣 2003/10/20 07:38

セオリツさま

 困っているのは解りますが、こうした問題に限らず、困った、困ったといっていても話は先に進みません。
 まず、こうした問題では、法律関係がどのようになっているかが、その後の方策を考える上で重要になってきます。
 御陵神社が法人格を有するのか有しないのか?土地の名義人は誰なのか?こういった法律関係を提示しなければ具体的な方策は出てこないと思います。

781 氷山の頂きの話 風琳堂主人 2003/10/20 13:25

 みなさん、ごぶさたです。
 駆け足ですが、4000キロほど走ってきました。
 行路をざっと記しておきますと、伊勢から琵琶湖(渡岸寺の十一面観音ほか)→越前(泰澄ゆかりの川上御前社、福通寺)へ、九頭竜川を遡上して平泉寺白山神社へ、そして信州へと向かい(これは、長野で川の文化を語る会があったため)、梓川→犀川→千曲川(新潟に入ると信濃川)や、素盞嗚「お手植え」の伝承をもつ神代桜(素桜神社:同桜神は八坂刀売命)などを中心に歩き、そして越後・能生の白山神社(戸隠神=九頭竜権現の横臥伝承がある──「頭」は戸隠、「胴」は越後の関山神社、「尾」の部分はこの能生白山神社)と、ここで日本海と実質的に対面しました。あと富山・越中(立山)から能登(白山姫と対神関係にある石動山、辺津比刀¥@像神ゆかりの社)から加賀の白山本宮=白山比盗_社へ、そして神通川→宮川を溯った飛騨一ノ宮の水無神社(水無神は水の女神。同社の対岸には大幢寺の臥龍桜、同寺本尊は十一面観音[白山の本地仏])から、庄川の「荘川桜」経由で美濃の白鳥(長滝白山神社・阿弥陀ヶ滝)・石徹白(白山中居神社、推定樹齢1800年の大杉、明治期まで瀬織津姫の社があった長走りの滝)から長良川を下り洲原(白山)神社へといった行程でした。
 このように書き出してみますと、旅の意識の中心に「白山」あるいは「桜神」があることがみえてきます。これらの行程の過程で、各地の瀬織津姫祭祀社も訪れてきました。
 旅の結論だけを申しますと、瀬織津姫の各地の川神祭祀の広範囲性があらためて確認できたことでしょうか。また、世にいう「一ノ宮」は、もともと瀬織津姫祭祀→隠祭の上に成立している可能性があるということも付け加えておきます(加賀一ノ宮・白山比盗_社、越中一ノ宮・高瀬神社、飛騨一ノ宮・水無神社など)。

 GOTOさん、「水神、竜神である女神を空海の下に位置づけるというイメージ戦略」は鋭い指摘で、わたしも同感です。これは仏教優位の思想の展開ということでもありますが、もとより、平安期までは、仏教は庶民のそれではなくて、明治期以降の国家神道同様に、鎮護国家を標榜する国家仏教であったことに大きな要因をみることができます。国家あるいは国家仏教に「奉仕」する神々、つまり日本の神々を下位にみるというのが本地垂迹思想による発想で、それでも仏の背後に神を「感じて」、以後庶民は、いわゆる「神仏混淆」、つまり仏=神を受容していくのだろうとおもいます。鎌倉仏教(以後)は、平安期までの国家仏教と対極の方向に歩みだし、いわば現世利益および救済の教えを「言葉」として具現化しましたので、人々は、この言葉を仏=神と同レベルで受け容れたものとおもいます。これは、明治の神仏分離まで、実に長きにわたって続いていくことになります。
 セオリツさん、瀬織津姫をまつる速川神社ですが、同社名が能登半島に二社あり、いずれも瀬織津姫を祭神としています。興味深いことに、高岡市波岡の速川神社では、登録上は国常立尊、天照大御神、建御名方命を祭神としていますが、氏子の人たちにおいては、主祭神は瀬織津姫であると強く認識されています。また、瀬織津姫と「お諏訪さん」(タケミナカタ)は夫婦[めおと]神とも言い伝えています。下諏訪の水神が瀬織津姫であることについては、丹波民話や諏訪縁起、および桜ヶ池と諏訪湖が通底している伝承をもつ池宮神社(静岡県浜岡町)にみることができますので、こういった伝承は諏訪湖の湖水神とはなにかを考える上で、さらなる傍証とみることができます。また、長野の神代桜の桜神が諏訪湖の水神(表示は八坂刀売命)であること──、これもさらなる傍証といってよいかとおもいます。なお、瀬織津姫は桜谷明神とも呼ばれていましたが、氷見市の雨晴海岸に桜谷古墳があり、この古墳の発見は、「元諏訪社の老松の根を掘り上げた際」とされ(看板案内)、諏訪神(の女神)が桜谷神=瀬織津姫であるゆえの古墳名である可能性も添えておきます。さらにいえば、能登の穴水町の「穴水」ですが、これは「桜谷と称する洞穴より出ずる清泉を真名井と言い穴水と同意なり」(穴水大宮の社頭石碑案内)とされるように、桜谷の真名井水にちなむ地名です。穴水大宮=辺津比盗_社(主祭神:宗像三女神、稲荷大明神)は、本殿直下に宝物・古記を封印していて、これを開けようとしたものは死んだとされます(明治期)。この封印された古記には宗像本来の神々の名や由緒が記されている可能性がとても高いと想像できます。ともかく、宗像の元神(の一神)もまた桜谷神=瀬織津姫ですから、穴水の地名由来譚にも瀬織津姫が深く関わっていることになります。
 瀬織津姫をまつる神社を建築・整備するよい方法(資金カンパが成り立つ方法)がもしあるとすれば、この神の魅力が社外に認知→受容されることが最重要かとおもいます。これまで、わたしは瀬織津姫を(登録上)まつるとされる神社をかなり歩いてきていますが、その半ば以上は、瀬織津姫という神(とその魅力)を氏子の人たちは知らない(知らされていない)ということです。この神の魅力の本質は中臣祓=大祓祝詞に表された「祓神」にあるというよりも、「水神」の大元神であるというのがわたしのイメージです。大祓祝詞の思想──つまり、マズイことはなんでも水=川に流してしまえという発想は、現代の環境思想と状況を考慮しましても、これは大いなる時代錯誤の思想だといえます。神社世界において半ば「常識」とされてきたこの大祓の思想を相対化=無化しないかぎり、瀬織津姫のもっている魅力は語れないのではないかとも考えています。瀬織津姫認知の道程でいいますと、現在は、まだ一歩踏み出した段階です。
 米子の金太郎さん、白鬚社で著名なのは、「近江最古の大社」(由緒)である白鬚神社(祭神:猿田彦大神)でしょうか(関連話については、囲炉裏夜話493「島神への畏敬」を参照ください)。「白鬚の洪水」という言葉もあり、これは早池峰山にもあります。隠祭されつづけている日の男神が暴れると途方もない洪水を起こすといったイメージでしょうか。「瀬織り成す、はや水の瀬に写しくる、この世の空蝉流れては、いつかのときに又戻らん」──「はや水」は「速水」で、まさに速川です(前記速川神社もそうですが、速川=走井の神として瀬織津姫をまつっているのが、比叡山鎮守とされる日吉大社です)。神社神道界における神宮=皇祖神=アマテラスの絶対化という「空蝉」の思想が流れさったとき、そのときに「瀬織り成す」速川の神が出現するとなると、これは楽しいこととおもっています。
 AYAさん、滝に不動明王をまつるというのは修験の常套ですが、この不動信仰の古層をたどりますと、後世の付会かもしれませんが、役小角にまでたどりつくようです。小角は、「不動金縛りの術」を駆使して一言主や生駒山の二匹の鬼を調伏したりしています。また、彼は、天河弁財天の念出のあと、不動明王の小角的変形版とみられる、金剛蔵王権現を再念出し、その像を桜木に彫り込んだとされます。これは、熊野川の最源流部での話です。あと、立山には、行基が不動尊像を崖に彫ったとする大山町上滝の地には滝社(主祭神:瀬織津姫)があり、さらに越中の不動尊信仰のメッカである上市町の大岩山日石寺の不動明王磨崖仏も行基が彫ったとされています。これらの行基による彫刻は、いずれも神亀二年(725)のことと伝えられています。空海あるいは最澄の前に泰澄と行基がいて、泰澄の先行的修験者が役小角ですが、空海は、これらの先人たちの足跡をたどるようにして、各地にその痕跡を残しているイメージがわたしにはあります。三河蒲郡の赤日子神社については、ここは、養蚕神の伝承に加え雨乞神としての性格もみられますので、もう少し突っ込んで語る必要があったかもしれませんね。
 鳳来寺の「白岩大竜王」の話は初めて知りました。それが女神の垂迹伝承をもっていることはとても意味あることとおもいます。鳳来寺については、「瑠璃の壺と豊川の水神」(囲炉裏夜話375)で補足してありますので、よろしかったら参照してください。
今回の旅で、白山の神が白鳥にも化身することは、これは天女伝承にも通じていると考えはじめています。新羅の男女神(日神・月神)が日本へ行ってしまったので真っ暗になったという民話が韓国に残っています。これなども、環日本海文化といいましょうか、古代倭の海人たちへの視点の必要を喚起させてくれます。白山神社の分布で集中している県を上から挙げますと、岐阜県(414)、福井県(341)、石川県(276)、愛知県(200)、新潟県(196)、静岡県(77)、富山県(75)……とのことです(『白山比盗_社略史』)。上位三県は白山を囲む県として当然ですが、そのあとに愛知県の分布が多いことは興味深いです。静岡の白山信仰については、おそらく西部に偏っていることが想像されるわけですが、この愛知・静岡の集中は、直接的には、美濃の白山神社(長滝白山神社)の御師の影響とみることができます。美濃側の信仰の特徴は、当初、白山のなかでも小白山=別山信仰を保持していたことです(『美濃馬場における白山信仰』白鳥町)。この美濃の御師の直接的影響とは別に、愛知のなかでも特に奥三河という地は、東栄町の槻神社(=瀬織津姫)の存在や花祭りに端的にみられますが、もともと小白山神=別山神とされる神を共有する信仰風土ではなかったかとも想像しています。この別山神(白山の「本地」神)が、「白岩大竜王」に化身した謎の女神だとみることができるのかもしれません。
 長谷川彰子さん、はじめまして。瀬織津姫は、文学的にもイラスト的にも「絵」になる存在です。それぞれの瀬織津姫があってよいわけで、長谷川さんがどんな瀬織津姫像を描こうともわたしは楽しませてもらうつもりです。引き裂かれた対神(の鎮魂)に七夕神事のイメージが重なってきますが、京都・貴船神社がいうように、その最古層の部分に雨乞い神事があるだろうとわたしもみています。空海もこのことをわかっていて、おそらく、この雨神=水神の女神を善女龍王として創作し、また自身の眷属のごとくに仕立てたようです。空海の法術・奇特のかなりの部分に瀬織津姫の存在・力が投影していることは興味深いというべきかもしれません。
 天竜川の沢蟹さん、主人不在の中継ぎ伝言をありがとうございました。天竜峡の川中の大岩は天白岩とされ、天竜川は天白神が守護する川のようです。諏訪湖から唯一流出する川が天竜川で、流域に天白社が集中しています。三河の地において、天白神(の女神)は圧倒的に瀬織津姫とされていますので、天竜川の本来の守護神もまた瀬織津姫であるといえます。今、名古屋の事務所にいますが、あまりゆっくりしていることができなくて、すぐに新しい旅に出ますので、また伝言をお願いするかもしれません。
 柴田晴廣さん、熱田大神は表向きはアマテラスですが、考察どおり、草薙剣=天叢雲剣に憑依するのは男系太陽神(天火明命)でしょう。熱田神宮本殿横(向かって左)には、少し小さめではありますが謎の本殿がもう一つあります。境内案内パンフには、たしか社名等は明記されていませんでしたけど、祭神は熱田大神荒魂とのことで、神官に、それは瀬織津姫でしょうと言いましたら、「はい」とのこと。案内にちゃんと書いたらどうかと言いましたら、「それは……」とうなっていました。秘祭・隠祭の意味は無化されつつあるのに、神道世界内部のある種の深刻なこっけいさを残存=現存させている話です。同じような話は、立山・雄山神社(芦峅寺)の新川(現在の常願寺川)の川神をまつる治国社=新川姫神社にもいえます。新川=常願寺川の落差日本一(350m)の滝・称名滝(かつては不動滝とも勝妙滝とも)の滝神は、大正末期の文献『富山県神社祭神御事歴』によりますと、現在はありませんけど、勝妙滝社=瀬織津姫と明記されています。瀬織津姫の祭祀あるいは神名消去は、古代や明治期ばかりでなく、昭和期=現代においてもなされている、氷山の一角、頂きの一例です。

782 ありがとうございます セオリツ 2003/10/20 17:38

皆さん、ありがとうございます。
御陵神社さんに掲示板をご覧になった方々から
連絡が入ったそうです。神社のホームページに
メールを送っていただいた方もいるそうですが
真にすみませんが接続関係が悪いのでしょうか
メールが読まれない状態だそうです。ご意見を
メールで送っていただいた皆様方、
またこれから送ろうとお考えの皆様
申し訳ございませんがファックス等
他の手段でご意見等お願いしたいそうです。
よろしくお願いいたします。
ご主人様、皆様の暖かいご声援に応えるよう
頑張っていくそうです。ありがとうございます。

783 記紀成立考4(持統三河行幸と記紀) 穂国幻史考管理人・柴田晴廣 2003/10/23 12:09

 冒頭(記紀成立考1)で述べたように、持統三河行幸は、復路は記載されているものの、往路の記載については、不明です。
 ここで、もう一度、「続日本紀」の記載をみてみます。
 続日本紀文武二年条は、九月一九日に伊勢・伊賀・美濃・尾張・三河の五国に使いを遣わし行宮を造営させたと三河行幸の準備をさせています。
 そして、一〇月三日に、三河行幸のために諸所の神々を鎮め祭り、同月一〇日に持統は、三河に出発します。そして、続日本紀は、持統の三河での行跡については黙して語らず、同年一一月一三日に尾張に到着、同月一七日に美濃、二二日に伊勢、二四日に伊賀、翌日には、帰還しています。
 尾張から美濃に四日、美濃から伊勢に五日、伊勢から伊賀に二日、伊賀から藤原京まで一日の計一二日を要しています。
 往路も同様の日程を要したとするなら、一〇月一〇日に藤原京を出発した一行は、一〇月の二二日頃に三河に到着、それから、一〇日間ほど三河に滞在し、終わりに入ったことになります。

 伊勢から藤原京までとは、全く逆の行程ですが、壬申の乱の折の大海人(天武)東国入りも同じようなコースを辿ったと思われます。
 書紀巻二八天武即位前記は、天武元(六七二)年六月二四日に大海人は、吉野から東国に向かいます。菟田の安騎(あき)から菟田屯倉を抜け、大野に着いた頃に日が暮れます。そして、その日の夜半に伊賀の隠郡(なばりのこおり)に着き、そこから伊賀駅家を通り、翌朝(二五日)、刺萩野(たらの)に着き、しばらく休息をした後、積殖(つむえ)の山口に至り、大山(鈴鹿山脈)を越え伊勢の鈴鹿に着きます。鈴鹿から川曲(かわわ)の坂本に至ったところで日没を迎えます。そこで、しばらく休んだが、夜中になり、雲行きが怪しくなったことから川曲を出発し、三重郡を通り、翌朝(二六日)、朝明郡の迹太川のほとりで天照大神を祈ります。そして、そこから、桑名に進み、そこで軍を止めま、高市皇子を不破に遣わします。

 大海人東国入りを簡単に整理しておきます。
 菟田の安騎は、現在の奈良県宇陀郡宇陀町あたりを、菟田屯倉は、宇陀郡榛原町あたりにあったとされ、大野は、宇陀郡室生村大野を指します。隠は、三重県名張市を、伊賀駅家は三重県上野市あたりにあったとされ、刺萩野は、三重県阿山郡伊賀町、積殖は、同町柘植を指します。川曲は、旧伊勢国川曲郡現在の三重県鈴鹿市付近を、朝明郡の迹太川は、現在の朝明川を指します。
 現在の国道に当てはめれば、吉野から国道三七〇号線を北上し、奈良県宇陀郡榛原町まで行き、そこから、国道一六五号線で三重県名張市まで出て、名張市から国道三六八号線で三重県上野市、そこから国道二五号線で関町まで行き、国道一号線で亀山市、鈴鹿市、四日市を抜け桑名市に着いたという行程になります。
 持統三河行幸の復路は、この逆になりますから、美濃から伊勢の桑名に着いた一行は、国道一号線で関町まで抜け、関町から国道二五号線で、上野市まで、上野市からは、国道三六八号線で名張市まで、名張市から藤原京のあった橿原市までは、国道一六五号線(初瀬街道)でということになります。

 美濃から伊勢の行程については、現在の愛知・三重の両県境となる木曽三川(西から揖斐川・長良川・木曽川)の河口付近は、宝暦三(一七五三)年、幕府が薩摩藩に治水工事を命じ、翌年から治水工事がはじめられ、さらに、その翌年に工事が完成するまでは度々氾濫をおこしていました。河口付近は、いくつもの中州が形成され、河口というより、海に近いものでした。九州北部に発生した弥生式土器(遠賀川土器)の東進を百年ものあいだ阻んだのも、この木曽三川でした。縄文海進時には、養老あたりまで入り江になっていました。
 だからこそ、江戸時代に入っても東海道は、桑名から宮(熱田)までは、七里の渡=海路をとっていました。
 持統三河行幸の折にも木曽三川河口付近を渡徒するのを避け、尾張から美濃に入った一行は、岐阜県大垣市から美濃国府が置かれた不破郡垂井町付近を迂回し、養老山脈の麓を南下(現在の国道でいえば、二五八号線)して、三重県桑名市に入ったと考えられます。
 美濃国で四日、尾張国で四日の行程を要したことを考えると、不破の関(関が原)以東は、道路網が未だ整備されていなかったと想像できます。さらに、その東に位置する三河の道路網は、さらに劣悪であったと考えられます。
 そうした三河に持統は、何の必要があって行幸したのか、また、本当に持統は、三河に行幸したのかという疑問が湧きます。

 万葉集には、持統三河行幸の折の歌、五首(万葉集巻一・五七〜六一)が、残されています。その中の二首は、三河で詠んだものと考えられます。
 持統天皇三河行幸の折の万葉集の歌をみてみます。

 太上天皇(持統)、参河国に幸(いでま)す時に長忌寸奧麻呂(生没年不詳)が詠んだ歌として
 「引馬野(ひくまの)に、にほふ榛原(はりはら)、入り乱れ、衣ににほはせ、旅のしるしに」

 同じく、高市黒人(生没年未詳)が詠んだ歌として
 「何処(いづく)にか、船泊(は)てすらむ、安礼(あれ)の崎、漕ぎ廻(た)み行きし、棚無小舟(たななしをぶね)」

 同じく、譽謝女王(生年?〜七〇六)が詠んだ歌として
 「流らふる、妻吹く風の、寒き夜に、我が夫(せ)の君は、独(ひと)りか寝(ぬ)らむ」

 同じく、長皇子(生年?〜七一五)が詠んだ歌として
 「宵に逢ひて、朝(あした)面(おも)無み、隠(なばり)にか、日(け)長く妹が、廬(いろり)せりけむ」

 同じく、舎人娘子(生没年未詳)が詠んだ歌として
 「大夫(ますらを)の、得物矢手挟(さつやたばさ)み、立ち向ひ、射る円方(まとかた)は、見るに清潔(さやけ)し」

 長忌寸奧麻呂の歌の「引馬野」は、現在の愛知県宝飯郡御津町御馬のことです。また、高市黒人の歌の「安礼の崎」も御津町御馬の地だといわれます。これら二首は、三河で詠んだか、あるいは、帰還後、三河の地を思い出して詠んだものと考えられます。
 御馬湊は、三河国府から西に数キロに位置します。

 先ほども述べましたが、持統三河行幸の往路の行程が、復路と同様とすれば、一〇月一〇日に、藤原宮を発った一行は、一〇月二二日頃に三河入りしたことになります。そして、三河入りした一行は、少なくとも三河東部・律令以前の穂国に属する宝飯郡の海岸部まで行き、一一月一三日には、尾張に戻ってきたということになります。
 復路では、尾張で四日、美濃で五日を要しています。これは、不破の関以東の道路網の不整備とも関係していると思われます。尾張よりさらに東の三河では、道路網の不整備は、美濃や尾張以上のものと思われます。また、律令以前の三河国(現在の西三河)と穂国(現在の東三河)の国境、東名高速道路音羽インターチェンジ付近は、西と東で天気が変わるほど山が迫っており、東名高速道・国道一号線・名鉄本線が並行して走る陋廊をなしています。その東に「引馬野」は、位置します。とんぼ返りといわないまでも、駆け足並みの三河行幸ということになります。

 舎人娘子の歌の円方は、三重県松阪市東黒部町あたりを指すといわれています。
 上述のように、持統三河行幸の伊勢からの復路は、現在のルートでいえば、桑名からら、国道一号線で関町まで抜け、関町から国道二五号線で、上野市まで、上野市からは、国道三六八号線で名張市まで、名張市から橿原市までは、国道一六五号線(初瀬街道)を使ったと考えられます。当然、この行程上には、松阪市は、含まれていません。
 仮に、持統三河行幸の復路で、円方に寄ったとするならば、四日市市から伊勢湾沿岸を走る現在の国道二三号線沿いに南下したと考えられます。そして、そこから、伊賀に抜けたとするなら、国道二三号線を一志郡香良州町まで戻り、そこから国道一六五号線(初瀬街道)で久居市から名張に入ったと考えられます。しかし、伊勢から伊賀まで二日という日程を考えると、復路で円方に寄ったということは、ちょっと考えられません。また、円方に寄る必要性も見出せません。
 円方が、持統三河行幸の行程に含まれていたとすれば、往路ということになります。仮に往路で円方に寄ったとすれば、藤原京を発った一行は、国道一六五号線(初瀬街道)を東に進み、香良州町に出て、伊勢湾を臨み、そこから、現在の国道二三号線を南下し、円方に寄ったと考えられます。
 円方に立ち寄ったことを除き、復路と同様に往路も、そこから美濃を目指し尾張から三河国に入ったとすれば、三河入りは、さらに遅れることとなり、また、円方までわざわざ迂回して立ち寄る理由も思い浮かびません。
 しかし、往路の行程が、復路の行程とまったく別であったと考えれば、話は別です。
 つまり、藤原京から初瀬街道(国道一六五号線)を東に向かい、香良州町に出て、伊勢湾を臨み、そこから、現在の国道二三号線を南下し、円方に着き、現在の松阪湾から海路、東に向かい伊勢湾に出て、伊良湖水道を抜け、渥美半島を右方に眺めながら三河湾を東に進み、引馬野の安礼の崎を目指したと考えれば、円方が往路の行程に含まれていても何の不思議もありません。藤原京から引馬野の安礼の崎までは、ほぼ一直線の行程となります。
 渥美半島の先端・伊良湖岬から西に四キロ弱、目と鼻の先、伊勢湾入口に浮かぶ三嶋由紀夫の小説『潮騒』の舞台として有名な神島は、昔から伊勢とのつながりが深く、現在の行政区画でも三重県に属しています。
 伊勢の海人が水先案内人を務めれば、伊良湖水道を越え、三河湾に進むことも容易であったと考えられます。
 また、往路で海路をとり、引馬野の安礼の崎に上陸したとすれば、最短で四日もあれば、三河国府が置かれた宝飯郡に到着したと考えられます。
 一〇月一〇日に藤原京を出発した持統一行は、一月一四日頃には、三河国府に到着し、それから一月ほど三河に滞在したことになります。

 三河行幸の目的はなんだったのでしょうか。続日本紀は、持統三河行幸の目的を記しません。続日本紀は、復路の尾張では、尾張連若子麻呂と牛麻呂に宿祢の姓を授け、尾張国守の多治比真人水守に封十戸を与え、美濃では、不破郡の大領・宮勝木実に従五位下を授け、美濃国守・石河朝臣子老に封十戸を与え、伊勢では、伊勢国守・佐伯宿祢石湯に封十戸を与え、尾張・美濃・伊勢・伊賀の郡司や人民に身分に応じた位階や禄を与えたと記載しています。
 三河でも尾張・美濃・伊勢・伊賀の郡司や人民に身分に応じた位階や禄を与えたとすれば、続日本紀は、「尾張・美濃・伊勢・伊賀の郡司や人民に」と記さず、「三河・尾張・美濃・伊勢・伊賀の郡司や人民に」と記すはずです。また、三河国守に禄を与えたとの記載もありません。
 三河では、そうした位階や禄を与えたのではないから、続日本紀は、記さなかったと考えられます。

 続日本紀は、三河行幸から帰還した一一月二五日、行幸に随行した騎士の調を免除した旨を記載しています。三河行幸には、騎士が随っていたということです。単なる物見遊山ではなかったことが想像されます。
 ここで、もう一度、舎人娘子の歌をみてみます。

 「大夫(ますらを)の、得物矢手挟(さつやたばさ)み、立ち向ひ、射る円方(まとかた)は、見るに清潔(さやけ)し」

 この歌の「大夫」から「立ち向ひ、射る」までは、「円方」にかかる枕詞のようなものだとされています。
 この歌は、三河行幸の往路・松阪から海路三河に向かうときに、行幸に随った騎士=大夫が、三河に向かわんとする船に乗り込もうとする情景をみた舎人娘子が詠んだものと考えられます。
 そうした状況を考慮すれば、「大夫」から「立ち向ひ、射る」までは、「円方」にかかる枕詞のようなものではなく、「得物矢を手挟んだ大夫が、三河に向かわんとする船に乗り込もうとしている。大夫の立ち向かう姿はなんとも清々しいものである」と解釈できるのではないかと思います。
 得物矢を手挟み三河に立ち向かう船に乗り込む大夫、三河行幸の目的は、俸禄や位階を与えるものではなかったと考えられます。

 古語拾遺には、大宝年中(七〇一〜七〇四年)に至って、はじめて「記文」が創られたが、神祇簿の明らかな定めはなかった旨が書かれています。
 そして、天平年中(七二九〜七四八年)に神帳が定められたが、神帳は、中臣の恣意により創られたものであり、中臣とゆかりのない社は、廃れるばかりであると、「古語拾遺」の作者・斎部廣成は、嘆いています。
 斎部氏は、中臣氏とともに祭祀を司った氏族であり、「古語拾遺」は、大同二(八〇七)年、「古語より遺りたるを拾ふ」と題して、廣成が書き記したものです。
 「古語拾遺」が、大宝年中に、はじめて創られたという「記文」は、続日本紀慶雲三(七〇六)年二月二六日条分注の神社名を詳しく記載した「神祇官記」を指すと考えられます。
 また、天平年中に創られた神帳は、延長五(九二七)年に撰上された延喜式の神祇神名条(以下、「延喜式神名帳」という。)の基礎となるものであったと考えられます。
 出雲国風土記には、出雲国内の一八四座の神社が克明に記載されています。風土記撰上の詔は、古事記成立の翌年、和銅六(七一三)年五月二日、出雲国風土記が撰上されるのが、天平五(七三三)年です。
 延喜式神名帳には、出雲国内の神社が一八七座記載されています。一方出雲国府時には、出雲国内の一八四座の神社が記載されています。天平年中には、出雲国内においては、延喜式神名帳の原形が、出来上がっていたと考えられます。
 それに先立つ続日本紀慶雲三(七〇六)年二月二六日条には、神社名が記載された「神祇官記」が存在しています。

 廣成は、遺りたる三で「伊勢の宮司は、独り中臣氏を任して」と、中臣の専横に不満をぶちまけ、遺りたる一一で勝宝九(七五七)年より後には、伊勢大神の幣帛は、中臣を用いて、他姓を用いることはなかったとしています。このことからも解るように、古語拾遺は、中臣神道、つまり、中臣氏の国家祭祀のあり方に対して異を唱えた書です。
 その書の中で、「大宝年中(七〇一〜七〇四年)に至って、はじめて記文=神祇官記が創られた」と記載されています。
 この流れからいえば、「神祇官記」の創作も中臣神道と一体のものと考えられます。
 神名帳とは、いわば神々の戸籍簿です。古代においては、祭政一致でした。神々の戸籍簿を創り管理するということは、神々を国家(持統王朝)に組み入れるとともに、その地域をも国家(持統王朝)の支配下におくものです。
 大宝年中の神祇官記の作成は、その準備であったといえます。その大宝年中に持統は、軍勢を引き連れて三河に乗り込んでくるわけです。

 延喜式神名帳で、持統三河行幸の復路で立ち寄った尾張、美濃、伊勢、伊賀をみてみます。
 尾張国一二一座、美濃国三九座、伊勢国二五三座、伊賀国二五座が記載されているのに対し、三河国は、二六座と伊賀とほぼ同数の社しか記載されていません。遠江が六二座ですから、三河国は、延喜式神名帳記載の神社(式内社)の数が少ないといえます。
 三河の内訳を見ると、賀茂郡七座、額田郡二座、碧海郡六座、幡豆郡三座、宝飯郡六座、八名郡一座、渥美郡一座です。賀茂、額田、碧海、幡豆の旧三河国(現在の西三河)が一八座、三河に合併される前の穂国(現在の東三河)は、八座ということになります。
 穂国八座の内訳は、宝飯郡六座が、形原(蒲郡市)、御津(宝飯郡御津町)、菟足(宝飯郡小坂井町)、砥鹿(宝飯郡一宮町)、赤日子(蒲郡市)、石座(新城市)、八名郡一座が、石巻(豊橋市)、渥美郡一座が、阿志(田原市)です。石座神社が宝飯郡に入っているのは、設楽郡は、延喜三年(九〇三)八月一三日に宝飯郡から分かれるからです。
 延喜式の撰上よりやや遅れた一〇世紀中頃の成立といわれる三河国内神明名帳の宝飯郡の項をみますと、八幡三所大明神、三所、大明神、一九所、明神二二所、天神一一五所、小初位神、七所の一六六所を載せています。宝飯郡を含め東三河の神社が少なかったから、延喜式神名帳記載の神社が少ないということはないと考えられます。
 延喜式神名帳は、皇祖神アマテラスを頂点とする中臣神道の集大成として結実したものと考えられます。
 つまり、中臣神道が目指す皇祖神アマテラスを頂点とする神々の総合カタログに、障害をなす神々が盤拠する地、それが東三河であったのではないかと蚊が得られるのではないかと思います。三河と合併された後も旧穂国の中心宝飯郡に国府が置かれたのも東三河=穂国の監視のためと考えることができるのではないかと思います。
 だからこそ、持統は、騎士を随え、伊勢の円方の地から、東三河に直接乗り込んできたと考えていいのではないかと思います。

 持統は、皇祖神アマテラスの確立のために三河行幸を強行します。持統は、三河行幸から帰還後、間もなく亡くなります。持統は、三河行幸の目的を達せれたのでしょうか。
 天孫降臨逸話を含む書紀神代から安康紀の著述がはじめられるのは、慶雲四(七〇七)年四月二九日のことです。持統死亡から四年あまりが経過しています。つまり、皇祖神アマテラスの確立は、頓挫した。
 持統は、三河行幸の目的を達せずに、この世を去ったと考えていいのではないかと思います。
 目的を達成できなかったからこそ、続日本紀は、持統三河行幸の目的を記せず、また、三河での行跡を記載しなかったと考えられるのではないかと思います。

 ここで、もう一度、万葉集巻一・五八、太上天皇(持統)、参河国に幸(いでま)す時に高市黒人(生没年未詳)が詠んだ歌をみてみます。

 「何処(いづく)にか、船泊(は)てすらむ、安礼(あれ)の崎、漕ぎ廻(た)み行きし、棚無小舟(たななしをぶね)」

 持統三河行幸の往路は、円方から海路で引馬野の安礼の先に上陸したと考えられます。
 引馬野の安礼の先に上陸するときは、「安礼の崎を漕ぎ廻み行った」と考えられます。しかし、引馬野の安礼の先に上陸したときに乗ってきた船は、今では舷も壊れてしまい棚無小舟となってしまった。三河上陸の際のあの船は、今は何処に泊っているのであろうか。持統三河行幸が失敗に終ったのであれば、高市黒人の歌もこのように解釈できるのではないかと思います。
 これが比喩なのか、実際のことなのかこれだけでは解りません。続日本紀は、三河行幸に先立ち伊勢・伊賀・美濃・尾張・三河の五国に行宮を造営させたと記載します。続日本紀をみる限り、復路は、陸路を取ることが決定事項であったとももとれます。しかし、往路に使った船はどうしたのでしょう。
 続日本紀が、三河での行跡について黙して語らないことを考えれば、高市黒人の歌の「棚無小舟」は、「得物矢を手挟んだ大夫が、三河に立ち向かわん」としたときに乗ってきた船であったと考えられるのではないかと思います。
 そして、肉体的・精神的に打ちひしがれた持統は、帰還後、間もなく病床に臥し、この世を去ったのではないかと思います。
 そして、持統三河行幸の頓挫により、皇祖神アマテラスの確立は遅れ、天孫降臨神話を含む書紀神代から安康紀の著述がはじめられるのは、さらに、四年余りの月日を待たなければならなかった。

784 記紀成立考3(皇祖神アマテラスの創造と万世一系の虚構) 穂国幻史考管理人・柴田晴廣 2003/10/23 12:12

 では、皇祖神アマテラスは、どのように創造されたのでしょうか。
 筑紫申真(つくしのぶさね)氏は、その著「アマテラスの誕生」の中で、今日の伊勢内宮の祭神であるアマテラスは、天武・持統両帝が創作した神だとしています。
 筑紫氏は、アマテラスが天武・持統両帝により創作された神である証拠として、書紀で天武が壬申の乱(六七二年)の折、北伊勢の迹太川で天武が天照大神に祈ったという記載以前には、皇祖天神を鳥見山に祀ったとする書紀神武四年二月二三日の記載、豊鍬入姫命に天照大神を託し、大和笠縫村に祀ったとする書記崇神六年の記載、五十鈴宮に坐す撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいわのみたまあまざかつむかつひめ=天照大神の別名)を祀ったとする書紀神功前紀(仲哀九年三月)の記載しかない旨を指摘する直木孝次郎氏の論文『天照大神と伊勢神宮の起源』を引用しています。
 書紀神武四年二月二三日の記載は、書紀巻三に、書記崇神六年の記載は、巻四に、書紀神功前紀は、巻九に修められています。
 森博達氏によれば、これらの記載の著述は、慶雲四(七〇七)年四月二九日以降にはじめられたとしています。つまり、皇祖神アマテラスは、慶雲四年以前に創造されたということです。

 では、皇祖神アマテラスの創作時期は、どこまで遡れるか。

 万葉の大歌人・柿本人麻呂は、草壁の死に際し、挽歌を詠んでいます。人麻呂の歌で作年が明らかな最初の歌です。

 「天地の初めの時 ひさかたの天の河原に八百万千万神の神集ひ集ひいまして神分かち分かちし時に 天照らす日女の尊 天をば知らしめすと 葦原の瑞穂の国を 天地の寄り合ひの極み知らしめす神の尊と 天雲の八重かき分けて神下しいませまつりし高照らす日の皇子は 飛ぶ鳥の浄みの宮に神ながら太敷きまして(後略)」

 大意:天地の初めのとき、天の河原に八百万の神が集まり、神の領分を定めたとき、天照日女尊は天を治めると、葦原の瑞穂の国を永遠に治める神として降臨した高照日皇子は、明日香浄御原に神として宮殿を構えられた。

 この時点、つまり、草壁が亡くなった持統三(六八九)年四月一三日の時点では、天照日女尊(あまてらすひるめのみこと)と表記され、天照大神(あまてらすおおみかみ)という表記ではありません。この時点では、アマテラスという概念は、未だ存在しなかったと考えられます。
 挽歌は、「高照日皇子は、明日香浄御原に神として宮殿を構えられた」と記します。明日香浄御原に神として宮殿を構えられた高照日皇子(たかてらすひのみこ)は、明日香浄御原に宮殿を構えた天武を指します。
 そして、挽歌は、高照日皇子=天武が、葦原の瑞穂の国を永遠に治める神として降臨したと記します。草壁が亡くなった持統三(六八九)年四月一三日の時点では、天孫ニニギが降臨したという天孫降臨神話もまた成立していなかったということになります。
 つまり、皇祖神アマテラス及び天孫降臨神話は、草壁が亡くなった持統三(六八九)年四月一三日以降、書紀の神代から安康紀の著述がはじめられる慶雲四(七〇七)年四月二九日の間に創作され、成立したと考えられます。そして、書紀の著述がはじめられるのが、草壁が亡くなった二年後の持統五(六九一)年八月一三日です。
 そのように考えますと、壬申の乱の折、北伊勢の迹太川で天武が祈った天照大神も皇祖神アマテラスとは一概にいえなくなります。
 また、天武紀の著述がはじめられるのは、持統紀の著述がはじめられる和銅七(七一四)年二月一九以降と考えられます。

 では、天武が壬申の乱の折、北伊勢の迹太川で祈った天照大神とは何か。

 書紀敏達六(五七七)年二月一日、日祀部を置いたとの記載があります。筑紫氏は、日祀部は、敏達の住まいのある他田(おさだ)に置かれたとしています。他田は、三輪山の東麓に位置します。そして、この他田に置かれた日祀部のあとが、他田坐天照御魂神社(おさだにますあまてるみたまじんじゃ)であるとしています。他田坐天照御魂神社の祭神は、天照御魂神といわれています。 天照御魂神を祭神とする他田坐天照御魂神社は、三輪山の東麓、初瀬川の流域に鎮座します。

 筑紫氏は、「一年に一度、海から、または海に通じている川をとおって、遠いところから訪問してくる」のが、万葉集が編修される八世紀以前のわが国の神の姿であるとアマテラスのプロトタイプを語っています。
 筑紫氏は、また、海からやってくる神を迎えるのがカミ妻で、カミ妻は、カミがやってくる海岸やカミが遡ってくる川端に湯河板挙(ゆかわたな)といわれる小屋の中で神に着せる神衣を織っていたとしています。
 そして、カミに着せる神衣を織るカミ妻たる棚織女が、アマテラスのプロトタイプであり、「アマテラスは、迎えられる尊いカミではなく、カミを迎える側の女司祭者」であった旨を述べています。
 やがて、「海から、または海に通じている川をとおって、遠いところから訪問してくる神」の概念は、天空から目立った山の頂上に天降り、山頂から麓に下り、前もって用意しておいた常緑樹(榊)に、神霊が憑りつき、その常緑樹を川のほとりに移動させると神霊は川の流れに潜り姿を表し、これが神の誕生になった旨を筑紫氏は、述べています。そして、神衣を織る棚機女は、河中に神が出現するとき、河中に身を潜らせ、神をすくいあげる役へと変化します。
 筑紫氏は、書紀神功前紀の五十鈴宮に坐す撞賢木厳之御魂天疎向津媛命の「撞賢木厳之御魂」は、神霊が憑りついた常緑樹のことだとしています。

 上述のように、筑紫氏は、海からやってくるカミの概念は、やがて、天空から山の頂きに天降り、山の頂きから山麓に下りてくるものに変わった旨を述べています。
 他田坐天照国照御魂神社は、三輪山の麓にあります。ここで、三輪山の神・大物主神についてみてみたいと思います。

 書紀のゲラ刷りたる古事記は、三輪山の祭神・大物主神について、大国主命が、ともに国造りをした少名毘古那神(すくなびこなのかみ)が、常世の国に去ってしまい困っていたところ、海光(あまて)らし、やってきた神が大物主神であるとしています。そして、大物主神は、「我御魂を御諸山(みもろやま=三輪山)に祀れば、国造りに協力し、国造りを完成させよう」といったと記載します。
 大物主神は、筑紫氏がアマテラスのプロトタイプとして語る神を待つ棚機女の下に、海から、または海に通じている川をとおって、遠いところから訪問してくる神自身なわけです。

 また、古事記神武条は、大物主神が、三嶋湟咋(みしまみぞくひ)の娘・勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)という容姿端麗な乙女を気に入り、丹塗矢に化け、乙女が用を足す厠の溝を流れ下り、用を足している乙女の陰部を突いたとしています。乙女は、その丹塗矢を床に置くと矢は立派な壮夫に変わり、少女は、この壮夫(大物主神)と結婚して、比売多々良伊須気余理比売(ひめたたらいけすよりひめ)を生んだと記載します。

 この逸話は、山頂に天降り、麓に用意された撞賢木に憑りついた日霊が、川で姿を現したという神の概念がモチーフになっていると考えられます。
 丹塗矢は、撞賢木を、勢夜陀多良比売は、河中に現れた神を救い上げカミ妻となる棚機女を暗示させるからです。

 さらに、古事記崇神条は、夜毎、活玉依毘売(いくためよりびめ)のところに通ってくる壮夫の素性を探ろうと、壮夫の衣の裾に糸巻に巻いた糸の針を刺しておき、糸を辿っていくと三輪山にたどりつき、壮夫が三輪山の神・大物主神であると判明したとの逸話を載せています。

 この逸話も、壮夫の衣と糸巻の糸から、活玉依毘売が棚機女であったことを暗示させます。

 古事記は、大物主神は、海光らしやってきて、我御魂を三輪山に祀れば、国作りは完成するだろうと大国主命にいっています。
 大国主命は、少名毘古那神と国造りを行っているとき、大穴牟遅神(おおなむちのかみ)と表記されています。大穴牟遅は、出雲風土記をはじめ風土記では、大穴持と表記されます。
 海光らしやってきた大物主神の御魂を三輪山に祀った大国主命は、大穴持命でもあったわけです。
 大穴持命、大きな穴を持った命が、海光らしやってきた大物主神、大きなものの持ち主の神の御魂を祀ったということになります。
 書紀巻一の一書第六は、大国主神は、大物主神とも国作大己貴命ともいうと記載します。
 国造りをした大国主命と、それを助けた大物主神が混在しています。あえて、いわせてもらえば、大己貴命の国造りを助けたのが、大物主神であり、大国主神は、大己貴命と、その国造りを助けた大物主神の総称とでもするのがより厳密ではないかと思います。つまり、大国主命とは、カミ妻としての大穴持命と大穴持命が祀る男神・大物主神を内包した両性具有神といえるのではないかと思います。また、大物主神・大己貴命とは、固有神を指すのではなく、海の彼方からやってくる神と、その司祭者の普通名称であったと思います。

 古事記で海光らしやってきたとされる三輪山の神・大物主神は、「海に通じている川をとおって、遠いところから訪問してくる神」であり、天空から山頂に天降り、河中に姿を現した神といえます。つまり、三輪山に天降った大物主神が、初瀬川に姿を現したのときに、他田坐天照御魂神社の祭神・天照御魂神になったと考えられます。

 天照御魂神社と呼ばれる神社が、他田坐天照御魂神社のほかにもあります。大和の鏡作坐天照御魂神社、山城の木嶋坐天照御魂神社、そして、攝津の新屋坐天照御魂神社です。
 木嶋坐天照御魂神社の祭神は、天御中主命、鏡作坐天照御魂神社及び攝津の新屋坐天照御魂神社の祭神は、天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)です。
 初瀬川に姿を現した大物主神=天照御魂神(撞賢木に憑りついた日霊)が、人格神化した姿が、日の男神・天照国照彦火明命であると考えられます。

 では、人格神と化した日の男神・天照国照彦火明命は、いつ誕生したのでしょうか。
 草壁の挽歌では、高照日皇子=天武を葦原の瑞穂の国に降臨させた神は、天照日女尊でした。天照日女尊の表記から、日の男神を迎える側の女司祭者の概念からは脱し、人格神としての「日の女神」の概念の萌芽が伺えます。
 草壁の挽歌が詠まれた持統三(六八九)年には、既に日の男神としての人格神・天照国照彦火明命は既に確立されており、確立されているからこそ、日の女神の概念が芽生えたのではないかと思います。

 書紀は、天武の出自を他田に日祀部を置いた敏達の曾孫だと記しています。
 また、書紀天武紀朱鳥元(六八六)年九月二七日に、天武の壬生(養育係)が、大海(凡海)宿祢であった旨が記載されています。
 大海(凡海)宿祢は、書紀によれば、天武一三(六八四)年一二月一日に凡海連に宿祢の姓を与えた旨が記載されています。
 姓氏録の未定雑姓右京の部は、凡海連について「火明命の裔と云へど見えず」と記載しています。火明命とは、天照国照彦火明命のことです。
 天照国照彦火明命は、丹後半島の冠島に天降った神とされています。
 そして、草壁の挽歌では、天照国照彦火明命と関係が深い高照日皇子=天武が、葦原の瑞穂の国に降臨したとされています。
 このように考えると、天武の時代には、日の男神の概念は確立されており、壬申の乱の折、北伊勢の迹太川で天武が祈った天照大神(あまてるのおおかみ)は、天照国照彦火明命であったと考えられます。

 では、皇祖神アマテラスは、いつ誕生したのでしょうか。
 筑紫氏は、続日書紀の文武二(六九二)年一二月二九日の「多気大神宮を度会郡に遷す」との記載を伊勢神宮の成立とみています。
 筑紫氏は、多気大神宮(現滝原宮)が、度会郡に遷ったとする続日本紀の記載を度会郡に鎮座する現内宮の成立と考えているわけです。
 そして、筑紫氏は、現伊勢内宮が、成立する以前は、アマテラスは、誕生していないと考えています。

 続日本紀和銅四(七一一)年三月六日は、磯部祖父と高志の二人に渡相神主の姓を賜ったと記されています。渡相(度会)氏は、外宮の神主家です。和銅四年に磯部祖父と高志が外宮の神主に任命されたということです。
 一方、内宮の神官は、宇治土公氏と荒木田氏です。最終的には、伊勢は、神祇伯の大中臣氏が管理することになります。
 持統が、文武に譲位した翌年の文武二(六九八)年八月一九日、続日本紀は、鎌足に賜った藤原朝臣姓は、鎌足の子の不比等が承継し、意美麻呂(?〜七一一。鎌足の従兄弟の中臣国足の子)は、中臣氏本来の職責である神祇の職にあるから、中臣に復姓すべしとの詔が発せられたと記載しています。
 中臣に復姓すべしとの詔が発せられた一つの理由として、意美麻呂が大津事件に連座していたことが挙げられると思います。しかし、大津事件は、朱鳥元(六八六)年一〇月二日に発覚したとされますから、十年以上経っています。意美麻呂が大津事件に連座したことが、中臣に復姓すべしとの詔が発せられた直接の原因とは考えにくいと思います。むしろ、中臣に復姓すべしとの詔が発せられた原因は、続日書紀の文武二(六九二)年一二月二九日が、「多気大神宮を度会郡に遷す」と記載する内宮の成立との関係が強いのではないかと思います。
 つまり、記紀と両輪をなす中臣神道の確立のためではないかと考えられます。
 続日本紀和銅元(七〇八)年三月一三日は、藤原不比等が、右大臣に、意美麻呂(?〜七一一)が、神祇伯に任ぜられたとの記載を載せます。神祇伯に任ぜられた意美麻呂の子・清麻呂(七〇二〜七八八)が大中臣を名乗るようになります。
 この前年の慶雲四(七〇七)年四月二九日に書紀の神代から安康紀の著述がはじめられます。記紀の神代の巻には、天孫降臨神話が収められています。
 意美麻呂の神祇伯就任、つまり、中臣神道の確立と皇祖神アマテラスの創作とは、無縁のものだとはいえなくなります。
 意美麻呂は、和銅四(七一一)年六月二二日に亡くなります。古事記の編纂が開始されるのが、同じ年の九月一八日です。その半年前の三月六日には、磯部祖父と高志の二人に度会神主の姓が与えられています。
 整理すれば、和銅四年三月六日に、磯部祖父と高志の二人に度会神主の姓が与えられ、その三月後の六月二二日に、神祇伯中臣意美麻呂が亡くなり、その三月後の九月一八日に古事記の編纂が開始されます。
 古事記の編纂開始は、書紀神代から安康紀が完成したのを受けたものと考えられます。
 意美麻呂が死亡した時点で、子の清麻呂は、十歳に満たない少年です。伊勢の管理は、実質的に右大臣藤原不比等の意思が反映され、中臣神道が確立されたと考えられます。

 皇祖神アマテラスを容れる器は、文武二(六九八)年一二月二九日に完成します。そして、概念としての皇祖神アマテラスは、書紀の神代から安康紀の著述がはじめられる慶雲四(七〇七)年四月二九日以前に朧気ながら完成したと考えられます。
 朧気ながらとしたのは、書紀巻一本文は、機殿で神衣(かんみそ)を織る天照大神の姿を描いています。祀られる側の天照大神ではなく、神衣を着るカミを祀る司祭者アマテラス=皇祖神として未完成の姿です。
 また、一書第二では、天照大神ではなく、日神尊が機殿にいる場面を描いています。
 書紀が完成した時点でも天照大神は、神を迎える棚機女の概念を内包しているからです。

 朧気ながらという点では、天孫降臨神話についても同様です。天孫降臨逸話形成における書紀の本文と一書の「ゆらぎ」からもそれが伺えます。

 書紀本文は、天照大神の子・正哉吾勝々速日天忍穂耳尊(まさかつあかつかつはやひあめのおしほみみのみこと)が、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の娘・栲幡千々姫(たくはたちじひめ)を娶り、天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)を生み、この瓊々杵が、高皇産霊尊の命により、葦原中国に天降ったとされています。書紀本文は、瓊々杵に降臨を命じた高皇産霊尊を皇祖と記載しています。
 書紀一書第一は、天照大神の子・正哉吾勝々速日天忍穂耳尊が、思兼神(おもひかねのかみ)の妹の万幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと)を娶り、天津彦々火瓊々杵尊が生まれたとしています。書紀「天の岩屋」の一書第一では、思兼神を高皇産霊尊の子と記載していますから、思兼神の妹の万幡豊秋津姫命は、高皇産霊尊の娘と考えられます。
 一書第一は、最初、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊が葦原中国に天降る予定であったが、天の浮橋で引き返し、後に、瓊々杵が天降ったとしています。瓊々杵に葦原中国に天降るのを命令したのは、本文と異なり、天照大神です。
 一書第二は、天照大神の子・天忍穂耳尊が、高皇産霊尊の娘・万幡姫を娶り、天津彦々火瓊々杵尊を生んだとしています。天照大神は、天忍穂耳尊と万幡姫を葦原中国に天降らせますが、途中で、瓊々杵が生まれて、最終的に天降ったのは瓊々杵です。
 一書第三には、天孫降臨逸話は、記載されていません。
 一書第四では、高皇産霊尊が、天津彦国光彦火瓊々杵尊(あまつひこくにてるひこほのににぎのみこと)に真床覆衾(まとこおうふすま)を着せ、天孫降臨させたとしています。天津彦国光彦火瓊々杵尊の系譜については書かれていません。
 一書第五も、天孫降臨逸話を記載していません。
 一書第六は、天忍穂命が、高皇産霊尊の娘・栲幡千々姫万幡姫命又は高皇産霊尊の娘・火之戸幡姫の子・千々姫命を娶り、天津彦根火瓊々杵根尊(あまつひこねほのににぎねのみこと)を生み、高皇産霊尊の命により、瓊々杵が降臨したとしています。
 一書第七は、降臨逸話については、記載していませんが、瓊々杵の出自については、勝速日命の子・天大耳命(おめのおおしみみのみこと)の子を火瓊々杵尊と、あるいは、神皇産霊尊の娘・栲幡千幡姫が、火瓊々杵尊を生んだと記載します。
 一書第八も降臨逸話については、記載しませんが、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊が、高皇産霊尊の娘・天万杵幡千幡姫(あめよろずたくはたちはたひめ)を娶り、天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊(あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと)を生んだと記載します。
 最後に古事記は、天照大御神の子・正哉吾勝々速日天忍穂耳命が、天照大御神と高御産巣日神(たかみむすひのかみ)の命により豊葦原千秋長五百秋水穂国(とよあしはらちあきながいおあきのみずほのくに)に降臨するが、書紀一書第一と同じく、天の浮橋で引き返し、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)が葦原中国に降臨したとします。
 そして、邇々芸は、天忍穂耳と高木神(高御産巣日神の別名)の娘・万幡豊秋津師比売命の子としています。

 一般に、アマテラス(祖母)からニニギ(孫)への権力委譲は、祖母の持統から孫の文武への皇位継承が反映されているといわれます。それは、持統の和風諡号・高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)からも伺えるのではないかと思います。
 確かに、天孫降臨逸話には、持統から文武への皇位継承が反映されていると考えられます。しかし、書紀の神代から安康紀の著述がはじめられるのが、慶雲四(七〇七)年四月二九日、文武は、その前年の慶雲三年一一月には病になったとされ、書紀の神代から安康紀の著述がはじめられた直後の六月一五日に亡くなっています。文武亡き後、天智の娘であり、文武の母である元明が即位します。書紀の神代から安康紀の著述の命は、文武の意思というより、元明の意思が直接反映していると考えられます。
 そのように考えれば、むしろ、祖母の元明から孫の聖武への皇位継承が、天孫降臨神話に直接反映されていると考えていいのではないかと思います。
 聖武の立太子が、和銅七(七一四)年六月二五日、聖武一四歳のときです。 書紀の神代から安康紀の著述が完了するのが、古事記の編纂が命じられる和銅四(七一一)年九月一八日以前と考えられますから、その三年後ということになります。

 上述のように、天孫降臨では、天照大神と並び高皇産霊尊が重要な役割を果たしています。そして、高皇産霊尊は、ニニギの外祖父になります。
 聖武に、ニニギが、元明に、アマテラスが反映されているとすれば、オシホミミは、文武、高皇産霊尊の娘は不比等の娘・宮子、そして、高皇産霊尊は、不比等が反映されているということになります。
 書紀の「神代から安康」の著述が促される約一年前の慶雲三(七〇六)年四月一五日には、不比等の父・鎌足を建内宿祢になぞらえる詔が出されています。
 そして、天孫降臨という創作の中では、不比等は、高皇産霊尊になぞらえられ、この高皇産霊尊を書紀は、皇祖としています。

 ここで一度整理したいと思います。上述のように、天孫降臨神話が創造されたのが、慶雲四(七〇七)年四月二九日から和銅四(七一一)年九月一八日の間と考えられます。
 書紀敏達六(五七七)年二月一日、他田に日祀部が置かれます。
 翌敏達七年三月五日、菟道皇女(うじのひめみこ)を伊勢神宮に侍らせたとの記載があります。
 伊勢神宮、現在の内宮が成立するのが、文武二(六九八)年一二月二九日です。皇祖神アマテラスを祭祀する施設の完成です。伊勢に皇祖神アマテラスを容れる器が完成する以前に、菟道皇女が、斎宮として伊勢にいたというのは疑わしくなります。筑紫氏も菟道皇女は、伊勢にいなかったとしています。
 菟道皇女は、池辺皇子に犯されたことが露見して、任を解かれます。池辺皇子が、わざわざ伊勢まで行くことは考えられず、宮城があった他田に菟道皇女はおり、だからこそ、池辺皇子に犯されたのだとしています。
 また、書紀用明即位前記は、敏達が亡くなった約一月後の敏達一四(五八五)年九月一九日に須加手姫皇女(すかてのひめみこ)が、伊勢斎宮となったと記載します。この記載についても、皇祖神アマテラスを容れる器が完成していないわけですから、他田に置かれた日祀部の祭主として、須加手姫皇女は仕えていたと考えられます。
 この須加手姫皇女について、書紀は、三七年間、伊勢斎宮を務めたと記載されています。伊勢斎宮である旨は疑わしいことは既に述べました。敏達一四(五八五)年から三七年間といえば、推古三〇(六二二)年まで、須加手姫皇女は、日祀部の祭主を務めたことになります。
 それ以降、天武二(六七三)年四月一四日、大津皇子の姉・大来皇女を伊勢神宮の斎王にするため、泊瀬の斎宮に住まわせたとの書紀の記載まで、伊勢斎宮に関する記載はありません。そして、翌年の一〇月一九日、大来皇女は、泊瀬の斎宮から伊勢に移ったとされています。
 筑紫氏は、実際に伊勢斎宮となったのは、この大来皇女であるとしています。大来皇女は、朱鳥元(六八六)年一一月一六日、斎宮の任を解かれます。理由は、天武の死後、発覚した大津皇子の謀反発覚したことだと記載されています。
 天武が亡くなるのが、朱鳥元年九月九日、そして、翌一〇月二日には、大津謀反が発覚し、その日のうちに、大津は、逮捕、翌一〇月三日には、訳語田(おさだ)の舎(いえ)で死を賜ったとされています。

 万葉集は、大来皇女(万葉集では、大伯皇女と表記)の歌を六首載せています。いずれも弟・大津を思いやる歌です。
 その中で、大津皇子、竊(ひそ)かに伊勢の神宮(かむみや)に下(くだ)りて、上(のぼ)り来る時に、大伯皇女(おほくのひめみこ)の作らす歌二首があります。

 「我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁(あかとき)露に我が立ち濡れし」
 「二人ゆけど行き過ぎかたき秋山をいかにか君が独り越ゆらむ」

 この大来皇女の歌は、大津皇子が、持統に滅ぼされるという身の危険を感じ、伊勢にいる姉・大来皇女の下にいき、大来皇女が大津皇子を都に送るときに詠んだ歌とされています。
 筑紫氏は、この歌を見ても大来皇女が伊勢にいた疑いはないとしています。しかし、大津事件は、一般に、持統が、我が子・草壁に皇位を継承させるための捏造だといわれています。大津皇子にとっては、謀反発覚はまさに青天の霹靂です。そのような大津皇子が姉に別れを告げるために伊勢まで行く余裕があったでしょうか。
 大津皇子は、訳語田(おさだ)の舎(いえ)で死を賜ったとされています
 訳語田は、敏達の時代に日祀部が置かれた三輪山の東麓の他田のことです。一方、大津皇子の姉・大来皇女が伊勢神宮の斎王になるために住んだ泊瀬の斎宮は、三輪山の西麓です。
 そもそも、皇祖神アマテラスを容れる器が完成するのが、文武二(六九八)年一二月二九日です。また、天武時代の天照大神(あまてるのおおかみ)は、天照国照彦火明命です。そのように、考えれば、大来皇女は、伊勢にいたのではなく、三輪山の西麓の泊瀬の斎宮にいたと考えるべきかと思います。

 天武の死後、持統の思いもむなしく、草壁は亡くなります。持統三(六八九)年四月一三日のことです。この時点で、天武時代の天照大神(あまてるのおおかみ)、すなわち、人格神としての日の男神・天照国照彦火明命は、日の女神・天照日女尊に脱皮します。
 そして、翌持統四年一月一日に、持統は、即位し、さらに、その翌年の持統五年八月一三日に、書紀編纂の準備が整います。
 持統六年三月三日には、持統は、大三輪朝臣高市麻呂の諌言を無視し、伊勢行幸を強行します。伊勢にアマテラスを容れる器を建設するための下見といったところでしょうか。
 持統一一(六九七)年八月一日、持統は、孫の文武に譲位します。翌文武二(六九八)年九月一〇日、天武と穴人臣大麻呂の娘・当耆(たき、託基とも表記する)皇女を斎宮に遣わします。
 そして、同年一二月二九日に多気大神宮を度会郡に遷します。皇祖神アマテラスを容れる器の完成です。
 上述の書紀及び続日本紀の記載から、持統は、天武の死の直後から、日の男神・天照国照彦火明命を新たに女神アマテラスとし、この女神アマテラスを伊勢に祀る構想をたてるとともに、書紀雄略紀から天智紀の著述をはじめたと考えられるのではないかと思います。

 森博達氏は、書紀雄略紀から推古紀の著述を担当した続守言は、二度目の書紀の著述を促す記載、つまり、持統六(六九二)年一二月一四日から文武四(七〇〇)年六月一七日までの間に引退したのではないかとしています。
 理由は、書紀の皇極紀から天智紀の著述を担当した薩弘格の名が、文武四(七〇〇)年六月一七日の大宝律令奉勅者の中に記載されているが、続の名が記載されていないからだとしています。森氏は、薩は、皇極紀から天智紀を文武四年までには、完了させ、大宝律令の奉勅後まもなく、世を去ったとしています。
 そして、薩が著述を担当した巻二六の斎明紀七年一一月の分注で、続の来朝の時期が、あやふやに記載されていることから、薩が、この著述をする時点で続は、既にこの世にはなかった、つまり、続は、薩より先に亡くなったとしています。
 また、巻二一の崇峻四年以降の記載は、その筆致から、明らかに唐人によるものではなく、漢文に疎い日本人の手によるものとし、続は、巻二一の著述の終了間際に急死したのではないかとしています。
 森氏のいうように、現存する巻二一の崇峻四年以降並びに巻二二の推古紀及び巻二三の舒明紀の著述は、和銅七(七一四)年二月九日以降に三宅臣藤麻呂が担当したと思います。
 しかし、雄略紀から推古紀までが、続の死亡により完成していなかったか否かについては、疑問が残ります。つまり、現存の巻二一の崇峻四年以降並びに巻二二の推古紀及び巻二三の舒明紀は、森氏がいうように、三宅臣藤麻呂が担当したとしても、文武四年以前に、巻二一の崇峻四年以降並びに巻二二の推古紀及び巻二三の舒明紀は、完成していた可能性があるということです。
 仮に、続が急死したとしても、薩が、続が著述できなかった部分を代わりに著述することも可能だったはずです。

 持統は、雄略紀から天智紀の著述と女神アマテラスの創造を並行して行っています。
 そして、持統は、持統一一(六九七)年八月一日に、孫の文武に譲位し、同年一二月二九日に多気大神宮を度会郡に遷します。
 雄略紀から天智紀の著述の目処がついたからこそ、持統は、孫の文武に譲位し、皇祖神アマテラスを祭祀する施設の建設に着手し、それを完成させたのではないかと考えられます。
 そのように考えれば、持統一一(六九七)年八月一日以前に、雄略紀から天智紀の著述は終了していたのではない考えられるのではないかと思います。

 では、持統一一(六九七)年八月一日以前に、雄略紀から天智紀の著述が終了していたとすれば、巻二一の崇峻四年以降並びに巻二二の推古紀及び巻二三の舒明紀を和銅七(七一四)年二月九日以降に再び三宅臣藤麻呂が著述しなおさなければならなかった理由は何か。
 崇峻は、崇峻五(五九二)年一一月三日に、東漢直駒(やまとのあたひこま)に殺害されます。書紀の崇峻殺害に至る経緯については、不自然な点が多く、この記載は、いくつかの事実が省かれていると考えられます。
 持統一一(六九七)年八月一日以前に著述されていた崇峻殺害の記載には、殺害に至る経緯が詳しく書かれていたが、詳しい殺害の経緯を公表するには問題があり、和銅七(七一四)年二月九日以降に三宅臣藤麻呂が著述しなおさなければならなかったと考えられるのではないかと思います。
 これに続く巻二二・推古紀、この時代に、隋に使節が派遣されます。
 書紀推古一五(六〇七)年七月三日は、小野妹子を大唐(隋)に遣わし、翌六年四月に、小野妹子は大唐から帰朝したと記載します。
 一方、隋書東夷伝倭国条は、これより先、大業三(六〇〇)年条に、「倭王あり、姓は、阿毎(あめ)、字(あざな)は、多利思比孤(たりしひこ)」と倭国の使者(遣隋使)からの伝聞を載せています。
 「多利思比孤」は、男性だと思われます。そして、倭国の使者は、「多利思比孤」が、倭王の字だと答えています。
 大業三(六〇〇)年は、推古八年、推古が女帝として倭国を治めていました。しかし、倭国の使者は、倭王の字は、「多利思比孤」だと答えています。
 書紀推古八(六〇〇)年条は、新羅と任那の戦いがあり、境部臣を大将軍にし、任那のために派遣したという記載があるだけで、隋に使節を派遣したという記載はありません。
 女帝の時代に、倭国の使者が、倭王の字は、「多利思比孤」だと答えている点も、書紀の記載に疑義を感じさせますが、それ以上に、「倭王の姓は、阿毎」だとしている点は、記紀成立の編纂思想を考える上で、非常に貴重な記載といえるかと思います。つまり、推古の時代には、倭王(天皇)に「阿毎」という姓があったということです。

 記紀の皇統譜は、万世一系で書かれています。皇祖神アマテラスの子孫が、この国を治めるという天孫降臨神話と表裏をなすものです。
 中国では、王が不徳であれば、別の有徳者が代わって、王位に就きます。易姓革命です。易姓革命とは、統治者の姓が易(かわ)り、天命が革(あらた)まることをいいます。
 王に姓がなければ、易姓革命という王権交替思想の埒外におかれることになります。万世一系を将来にわたって担保するために、天皇は、姓を捨てたと考えられます。となれば、倭王の姓を記す隋書の記載は、当時の東アジアのグローバルスタンダードたる易姓革命の影響を免れず、万世一系を将来にわたり磐石にするためには、抵触することになります。
 隋書が記す倭王の姓「阿毎」は、天武の幼名・大海人の「海人(あま)」であり、天火明命(あめのほあかりのみこと)の「天(あま)」を意味していたと考えられます。そして、持統も元明も天火明命とは、血統的に全く無縁であるからこそ、当時の東アジアのグローバルスタンダードたる易姓革命の影響を免れるため、「阿毎」という姓を何の未練もなく捨て去ったと考えられます。

 また、推古の時代ということになれば、推古二八(六二〇)年、天皇記、国記などが記録されます。記紀は、継体の出自をホムタワケ(応神)の五世孫と記載します。
 継体は、その諡号からも新たな王朝の創始者とされています。そして、応神の五世孫ということで、かろうじて皇祖神アマテラスの血を受け継いでいるということになっています。
 日本書紀の注釈書「釈日本紀」が引用する「上宮記」という書物があります。「上宮記」は、推古の時代に書かれたものとされています。「上宮記」は、継体の出自をホムタワケ五世孫でなく、ホムツワケ五世孫と記載します。
 記紀は、ホムツワケを垂仁と狭穂姫の子ことします。狭穂姫は、兄・狭穂彦に垂仁を殺すように命じられますが、躊躇し、垂仁に悟られます。謀反が発覚した狭穂彦は、稲城を築き、そこに立て篭もります。狭穂姫は兄の立て篭もる稲城に身を投じ、垂仁の軍に包囲され、火を放たれた稲城で兄とともに焼け死にます。ホムツワケも垂仁の子ですから、天孫ニニギの血を受け継いでいるといえます。
 しかし、伯父の狭穂彦は、天孫ニニギの裔とされる垂仁に楯突いたわけです。そうした伯父を持つホムツワケの五世孫が、継体ということになります。しかも、記紀は、この皇子に裔について記載しません。万世一系を確立するためには、「上宮記」の「継体は、ホムツワケ五世孫」の記載は、非常に問題があるものであったと考えられます。継体を万世一系に組み込むため、ホムツワケ五世孫をホムタワケ五紀孫に書き直す必要があったと思います。
 さらに、推古紀に続く舒明紀については、書紀は、天智を舒明の子としているわけですから、天智の出自の操作が必要であったと考えられます。
 以上から持統一一(六九七)年八月一日以前に、雄略紀から天智紀の著述が終了してたが、巻二一の崇峻四年以降並びに巻二二の推古紀及び巻二三の舒明紀については、和銅七(七一四)年二月九日以降に三宅臣藤麻呂の手により前面鉄器に著述しなおさなければならなかったと考えられるのではないかと思います。

 もう一度、整理しておきます。
 天武の時代までのカミ=天照大神は、海から、あるいは、天空から山頂に舞い降りてくる男神でした。
 この日の男神の信仰は、少なくとも三世紀までは遡れると思います。
 魏書東夷伝倭人条に記載される邪馬台国の女王・卑弥呼も日の男神に仕える巫女、すなわち、日巫女(ひみこ)であったと考えられるからです。
 しかし、持統は、少なくとも三世紀から続く日神信仰とは、埒外の系譜に属していました。父・天智は、日神信仰に無関心なだけでなく、皇統を簒奪した百済系の人物と考えられるからです。
 天武亡き後、残された持統は、自らの血を引く草壁に皇統を継がせたかった。しかし、その思いもむなしく、息子・草壁は、夭逝してしまいます。そして、日の女神を皇祖神とする概念が朧気ながら浮かんだのではないでしょうか。それを反映したのが、草壁の挽歌です。
 自ら即位した持統は、史書編纂に着手します。父・天智の出自の隠蔽と日の男神の無化がこの史書編纂の当初の目的であったと考えられます。
 そして、草壁の死により芽生えた皇祖神アマテラスの確立は着々と進み、孫の文武に譲位した翌年、皇祖神アマテラスを容れる器を完成させます。文武二(六九八)年一二月二九日のことです。
 しかし、皇祖神アマテラスを容れる器が完成したにもかかわらず、天孫降臨神話を含む書紀の神代から安康紀の著述がはじめられるのは、慶雲四(七〇七)年四月二九日までまたなければなりません。
 皇祖神アマテラスを容れる器が完成した後、天孫降臨神話を含む書紀の神代から安康紀の著述がはじめられる時間的空白は何であったのでしょうか。その間の最大の出来事といえば、持統死去だと思います。そして、持統は、死の直前に三河に行幸をしています。
 皇祖神アマテラスを容れる器が完成したにもかかわらず、十年近くの時間的空白を要した理由は、天孫逸話の著述をはじめる前にどうしてもやらなければならないことがあったと考えられるのではないでしょうか。持統が、どうしてもやらなければならなかった事業が、三河行幸であったと考えていいのではないかと思います。

785 訂正 穂国幻史考管理人・柴田晴廣 2003/10/23 15:44

 「記紀成立考4」下から五段落目の『延喜式の撰上よりやや遅れた一〇世紀中頃の成立といわれる三河国内神明名帳の宝飯郡の項をみますと、八幡三所大明神、三所、大明神、一九所、明神二二所、天神一一五所、小初位神、七所の一六六所を載せています。宝飯郡を含め東三河の神社が少なかったから、延喜式神名帳記載の神社が少ないということはないと考えられます。
 延喜式神名帳は、皇祖神アマテラスを頂点とする中臣神道の集大成として結実したものと考えられます。
 つまり、中臣神道が目指す皇祖神アマテラスを頂点とする神々の総合カタログに、障害をなす神々が盤拠する地、それが東三河であったのではないかと蚊が得られるのではないかと思います。三河と合併された後も旧穂国の中心宝飯郡に国府が置かれたのも東三河=穂国の監視のためと考えることができるのではないかと思います。
 だからこそ、持統は、騎士を随え、伊勢の円方の地から、東三河に直接乗り込んできたと考えていいのではないかと思います。』の部分を以下のように訂正します。

 延喜式の撰上よりやや遅れた一〇世紀中頃の成立といわれる三河国内神明名帳をみますと、賀茂郡八所、額田郡七所、碧海郡二四所、幡豆郡九所、宝飯郡六三所、八名郡二六所、渥美郡一五所、設楽郡一一所の社を載せています。西三河四八所に対し、東三河一一五所ということになります。延喜式とは、完全に逆転しています。
延喜式は、当時の法律書です。式内社(しきだいしゃ)とは、法人格を有する神社、式外社(しきげしゃ)は、実体は有するものの法人格が認められていない神社ということになります。東三河の神社が少なかったから、延喜式神名帳記載の神社が少ないということはないと考えられます。
 延喜式神名帳は、皇祖神アマテラスを頂点とする中臣神道の集大成として結実したものです。
 そして、それに沿わない神は、法人格を与えられなかった。そうした法人格を与えられなかった神、つまり、中臣神道が目指す皇祖神アマテラスを頂点とする神々の総合カタログに、障害をなす神々が盤拠する地、それが東三河であったと考えられると思います。三河に合併された後も国府が、旧穂国の中心宝飯郡に置かれたのも東三河=穂国の監視のためと考えることができるのではないかと思います。
 だからこそ、持統は、騎士を随え、伊勢の円方の地から、東三河に直接乗り込む必要があったと考えていいのではないかと思います。

786 追補 穂国幻史考管理人・柴田晴廣 2003/10/24 10:26

式内社と尾張国内神明帳記載の社数

   海部郡 中島郡 葉栗郡 丹羽郡
式内社  8  30  10  23
式外社 20  47  12  35

   春日郡 山田郡 愛知郡 智多郡
式内社 12  19  17   3
式外社 20  24  26  14

787 教えてください セオリツ 2003/10/26 20:33

今晩は、教えていただきたいのですが、瀬織津比賣
(せおりつひめ)が世の中にその存在を知られないように邪魔しようとする力?があるのでしょうか?
現在、宮崎県の延岡の大門(おおかど)町に
瀬織津比賣を祀る御陵神社さんは今、
昨年から古くなった社(やしろ)、社務所を取り壊し資金難の中、神前だけは完成しましたが、社務所は未だ手付かず。完成に至らない状態ですが最近、いろんな事が起きています。
先日も神社さんの方に車が飛び込んできてあわやという事が起きたり、PCで応援しようとした人のPCが
壊れたり、神社のHPのアクセスカウンターが消えていたりさまざまな事が起きています。
世間に瀬織津比賣の名が知れる事の邪魔?
が起きているとの事ですが、やはり力の凄い神様ですからそういう事があるのでしょうか?
私も実際神社の御神水が変化しこぼれた水にアリが
ものすごい数でたかっていたのを見ましたし、鳥居に抱きついた人が子宝に恵まれたり、病気がちで薬ばかり飲んでいた親戚が病院と縁が切れ元気になったのを
この目で見て力は凄いは実感していますが
名を知られないように邪魔する力はあるのでしょうか

789 伊勢神宮の成立と「力」の話 風琳堂主人 2003/10/30 03:25

 伊勢神宮の成立をいつとみるかですが、筑紫申真さんの『アマテラスの誕生』における、文武二年=698年説(続日本紀の同年「十二月二十九日 多気大神宮を度会郡に遷した」の記述をもって伊勢神宮が成立したとする説)について、わたしは、この筑紫説には少し無理があるのではないかとおもっています。
 その理由は、伊勢側の文献(『太神宮諸雑事記』)に、朱雀三年(685)九月二十日、天武天皇によって「二所太神宮之御遷宮事。廿年一度応奉令遷御。立為長例也」(二所太神宮の遷宮については二十年に一度とし、これを長き例とせよ)との「宣旨状」の記述があり、つづいて、「持統女帝皇」の項に「即位四年太神宮御遷宮。同六年豊受太神宮遷宮」と、持統四年=690年の時点で、現在の内宮が第一回遷宮を行っています。こういった遷宮が成立するには、伊勢神宮の形式がそれなりに整えられていたことが考えられ、筑紫さんの文武二年=698年成立説は遅いのではないかと考えています。
 また、筑紫さんのように、多気大神宮を滝原宮(同並宮)とみるにしても、これを「遷す」ことがどうして伊勢神宮の成立となるのか、その内実が明かされていませんので、これをもって伊勢神宮の成立と断定するにはやはり説得力に欠けます。ただし、滝原宮・同並宮は、荒祭宮・高宮が並祭されていたように、また、朝熊神社・同御前神社やかつての伊雑宮もそうですが、日水神の対神祭祀がなされていました。アマテラスという皇祖神・単独神が創作されるとき、こういった対神祭祀の継続は不可能な状況を迎えつつあったとはいえます。
 第一回遷宮が行われたとされる持統四年=690年は、持統が「天皇」に即位した年です。この持統天皇の誕生と時を合わせるようにして遷宮が行われたことは、やはり意味があるものとおもいます。つまり、この年、伊勢神宮(の現在の形式)が成立・確定したとみてよいのではないかとわたしは考えています。天武による、遷宮の「式年」を二十年ごととせよという命はちょっと疑わしいですが、神宮側の文献における、持統以後の年記事項を作為・創作として全否定する根拠は、今のところないようです。

 セオリツさん、瀬織津姫にかかっている「力」についてお知りになりたいようでしたら、この囲炉裏夜話ですでにふれてもきていますから溯ってお読みいただくか、あるいは瀬織津姫についての本(『エミシの国の女神』)をお読みいただくのがわかりやすいかと存じます。囲炉裏夜話は、この本の内容から、反省を含む発展形として、本以後の瀬織津姫の話をこれまで積み重ねてきています。
 とはいえ、せっかくのご質問ですので、瀬織津姫にかかっている隠微な「力」の例を挙げておきます。
 瀬織津姫は伊勢神宮・荒祭宮の神でもありますが、この荒祭宮がいつ成立したかということで、神宮側はどう述べているかを検証してみます。この神宮側の文献は『神宮要綱』といいます。国家神道まっさかりの昭和三年=1928年に発行されたものです。

■荒祭宮の創立について
荒祭宮は皇大神宮の北方に在りて、天照坐皇大御神の荒御魂を奉斎せる宮なり。〔中略〕
抑当宮の創立は、垂仁天皇即位二十六年丁己秋九月甲子、倭姫命皇大神を奉戴して五十鈴川川上に神宮を経営せられし時にて、太神宮本記(皇大神宮御鎮座の条…原文は割注)に「宮地乃荒草木根苅掃此、大石小石取平弖、天照大神並荒魂宮和魂宮造、奉令鎮理定理坐支」とある和魂宮は皇大神宮にして、荒魂宮は即ち当宮を指せるなり。蓋し荒祭大神は日本書紀に撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とも申し、古来皇大神宮の神威霊験と称せらるゝものは必ず此の大神の神託に因れり。〔後略〕(昭和三年『神宮要綱』神宮司庁発行)

『神宮要綱』は、この荒祭宮以外の内外宮の関係社についても網羅的にふれています。特に内宮の関係社に関して、そこで援用されている文献の筆頭は『皇太神宮儀式帳』と『倭姫命世記』なのですが、この荒祭宮についてだけは、『倭姫命世記』の援用がありません。引用のように、『神宮要綱』は、荒祭宮の神を「天照坐皇大御神の荒御魂」「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」「荒祭大神」とは表記するも、『倭姫命世記』に記載のあった「瀬織津比盗_」という名については表記を巧妙に避けています(その他、『伊勢二所皇太神宮神名秘書』にも、「荒祭宮。亦名瀬織津姫神是也」と記載があります)。
 このように、瀬織津姫という神名(の表示)を忌避しているばかりでなく、その創立に関しても、実に不埒というしかない改竄をしています。どういうことかといいますと、文中、「太神宮本記」の記載として、「宮地乃荒草木根苅掃此、大石小石取平弖、天照大神並荒魂宮和魂宮造、奉令鎮理定理坐支」とありますが、これをそのまま理解すると、「宮地の草木や大石小石を取り払って、天照大神の荒魂宮と和魂宮を造った」となりましょう。これだけを読めば「そうか」という話ですが、しかし、元の文献である「太神宮本記」にはどう書かれていたか──。

■皇太神宮=内宮の創立
(太神宮)本紀云。皇太神御鎮座之時。大幡主物乃部八十友諸人等率。荒御魂宮地乃荒草木根苅掃。大石小石取平天。大宮奉定支。(『神宮雑例集』)

『神宮要綱』は、「宮地の草木や大石小石を取り払って、天照大神の荒魂宮と和魂宮を造った」と述べていました。しかし、ほんとうは、「荒御魂宮の宮地の草木や大石小石を取り払って、大宮=内宮を奉じて定めた」と記載されています。漠然とした「宮地」ではなく、「荒御魂宮地」と明記されていますし、そこの一角を整地して、皇太神宮=内宮は、あとからできたということです。『神宮要綱』は、荒魂宮=荒祭宮と和魂宮=皇太神宮は同時に創立されたというように、元の文献を意図的に改竄して引用しています。
 これは古代のことではありません。昭和三年=1928年という、現代に至近の話なのです。この『神宮要綱』の思想は、戦後においても消滅しているわけではありません。
 神社本庁の下に各都道府県の神社庁が組織されています。この神社庁の編纂で、それぞれの神社誌が発行されています。たとえば「昭和五十一年十月二十六日発行」の日付をもつ『石川県神社誌』をみてみます。

■市姫社(鹿島郡中島町上町カの部七九)
主祭神 市姫大神
例 祭 九月八日
境内地 三五三坪
主要建物 本殿 拝殿 祭器庫
由 緒 創立、由緒は不明であるが、古来より上町の産土神として崇敬される。
宮 司 清水直記

 以上が記載のすべてです。これだけを読んでいたとしますと、ここに瀬織津姫がまつられているとはだれもおもわないでしょう。ここで、中島町教育委員会発行の『お熊甲祭』(昭和59年3月31日発行、平成6年9月1日改訂)の市姫社の記述を読んでみます。

■市姫社
〔鎮座地〕 石川県鹿島郡中島町字上町カ部七八
〔主祭神〕 市杵島姫命・瀬織津姫命
〔例祭日〕 四月八日 九月八日
 字上町テ部30番地に鎮座の市姫社(市杵島姫命を祀る)と現在地の高瀬社(瀬織津姫命を祀る)を合祀。

 同じ市姫社を説明するにしても、『石川県神社誌』と『お熊甲祭』とでは、これだけ歴然とした違いがあります。『石川県神社誌』の隠蔽はほかにも顕著ですが、『お熊甲祭』から特記すべきことは二つあります。一つは、現鎮座地はもともと高瀬社(瀬織津姫)の地で、そこへ市姫社がやってきて、市姫社の社名に変更されたこと(高瀬社の名が消えたこと)、もう一つは、瀬織津姫は高瀬神であるということです。
 庄川河口には、かつての越中一ノ宮・高瀬神社(現祭神:大己貴命、配祀:天活玉命、五十猛命)があります(東礪波郡井波町)。同社神官の談では、高瀬神は庄川を司る神でもあったとのことです。また、同社分社には桜ヶ池神社があります(東礪波郡城端町)。庄川の古名が雄神川であり、同川流域にまつられる雄神神社および元雄神神社の祭神として瀬織津姫の名が確認できますし、分社の名は、静岡県浜岡町の「桜ヶ池」を神体とする池宮神社(祭神:瀬織津姫、相殿:建御名方命、事代主命)を想起させます。庄川=雄神川の源流山(の一つ)は白山です。白山の「地神」が瀬織津姫であったことを想起しますと、庄川の川神として瀬織津姫があることは、まったく不自然ではないということになります。
 少なくとも、瀬織津姫祭祀に関する分析を、この程度には可能とさせてくれる契機・情報を『お熊甲祭』は含んでいます。逆にいえば、『石川県神社誌』は、瀬織津姫の神名記載を忌避しているだけでなく、貴重かつ基本的な情報さえ封じているということになります。
『石川県神社誌』編纂時、市姫神社の管轄神官が神社由緒の原稿を提出するにあたって、原稿内容に自己規制・作為が働いたのかどうかといった具体的なことはわかりません。しかし、同誌に象徴される神社世界が総体として秘めている、いわば、みえない「力」が働いていることはたしかでしょう。この不可視の力は、先にみた、戦前の話(『神宮要綱』の話)とよく通じているものですし、さらにいえば、記紀および神宮の成立、いいかえれば、「日本」という国家構想の暗部に、その「力」の淵源はあるということです。
 瀬織津姫が受けてきた禁圧の「力」は、そのままわたしたちの心の深層に加圧されている力でもありますが、こういった暗色面を吹っ飛ばすような神社もあります。たとえば、高谷神社(長野県東筑摩郡本城村大沢新田)や速川神社(富山県高岡市波岡)、瀬織津姫社(金沢市別所)などです。
 高谷神社は犀川(上流は梓川)の支流の支流である東条川を溯った山間の谷、そそり立つ岩壁の前に社殿があり、その前を流れる川が滝になっています。ここを訪れたときは、たまたま祭礼の日で、氏子の人たちが手作りの品を持ち寄っての直会に参加させてもらいました。瀬織津姫はやはり水の神で、その詳しい由緒ははっきりしていないようですが、とても大切にされています。瀬織津姫の名をわかっていて祭りが行われているというのは珍しく、「自分のところの神様がイチバン」といった神社です。瀬織津姫が伊勢の元神とか、白山や諏訪湖の神かどうかは、こういった祭りの現場では関係ありません。祭礼の社殿には竹枝に手作りの紙の花を咲かせた造花が何本も立てられ、祭りが終わると、この竹花を丸めて輪にして、それぞれの家の戸口にかけておくそうです。これで一年間無病息災・厄除けとのこと、わたしも一本もっていけといただいてきました。この厄除けの花輪は茅輪にも通ずるものなのでしょう。
 速川神社は、実は同名社が氷見市にもあり、また隣接した早川町には、これも瀬織津姫を速川神としてまつる八幡神社があります。高岡市波岡[はおか]の速川神社は、「養老元年の勧請」とされ、ここだけが、祭神を「国常立尊、天照大御神、建御名方命」としています(『富山県神社誌』)。この三つの速川神社が、延喜式内社・速川神社の論社となっていますが、波岡の速川神社のみが瀬織津姫の神名表示ができなかったようです。ここも、たまたま祭礼のときにうかがったということもあって、複数の氏子の人たちから話をうかがえました。氏子の人たちにとって、速川神は、国常立尊や天照大御神ではなく、瀬織津姫であるという強い共同認識があることには驚かされもし、またうれしくもありました。祭りの半纏に、これから「瀬織津姫命」と染めようなどという話も飛び出し、アマテラスさんよりうちの神さんのほうがエライという痛快談議がなされる祭りでした。『エミシの国の女神』の巻末に瀬織津姫祭祀社のリストを入れてありますが、今度増刷するときには、必ずこの波岡の速川神社も入れるようにと念を押されてしまいましたが、むろん約束したことはいうまでもありません。
 金沢市別所の瀬織津姫神社──。『石川県神社誌』の同社の記載をみてみます。

■瀬織津姫社(金沢市別所町ヲの八三)
主祭神 大禍津日神
例 祭 十月九日
境内地 三三一坪
主要建物 本殿 幣殿 拝殿 
由 緒 創立年月日不詳。明治初年村社に列せられたが年月等は不明である。(明治五年石川県調査の神社書上帖に記載してある。)〔後略〕

『石川県神社誌』の隠微な悪意がよく表れている二例めですが、氏子の人にとっては、自分たちの神様が瀬織津姫であることはいうまでもありません。長野市内を流れる川も犀川ですが、金沢市内を流れる川もまた犀川で、瀬織津姫は、犀川の洪水鎮護の神という性格でまつられています。別所の集落は三十軒ほどだそうですが、それぞれの家が100万円ほど出し合って新社殿を建てたというように、ここも瀬織津姫をとても大事にしています。氏子総代の方は、なぜうちの神様が「大禍津日神」なのか理解に苦しむとのことで、少し説明させてもらいました。大禍津日神と瀬織津姫を同神として整合させる説明を石碑に彫って建てたばかりとのことで、その苦心の石碑の文面を写しておきます。

■瀬織津姫神社之由緒(石碑)
主祭神 大禍津日神
 瀬織津姫の御神名を社号とする神社は全国でも余り例を見ない。
 当社の主祭神は「大禍津日神」であり別称「瀬織津比盗_」である。
 二柱の御名は「古事記」「大祓詞」に示されており、神道に於ける極めて重要な考え方に関わる神であらせられ、その御働きについては「世の中の罪穢を清め凶事を除き去る神」である。
 伊奘諾尊が禊祓の時、「上の瀬は速し、下の瀬は瀬弱し」とて始めて中つ瀬に降りて灑〔麗→篠と表記〕がれた時、最初に成りました神が禍津日神で、落湍[おちたぎ]る速川の瀬にて諸々の罪穢を大海原に持ち出されるという。
 当社は古くは犀川近くの通称「みやだ」に御鎮座されていたと伝えられ、清らかで時には激しい水流の様に思いをいたし、それに神々の御働きを重ね合わせて見た古人の信仰が社号や祭礼等で掲げる幟旗「川濯御神」に表れていると考えられる。
平成十五年十月吉日

 祭神を大禍津日神とするも(させられるも)、社名によく「瀬織津姫」の名を残したものとおもいます。瀬織津姫がなぜ「禍津日神」とされたかについては、これも、神宮=アマテラスの正当性を主張する者たちの「力」が作用した一つの表れでした。
 石碑文中における「川濯御神」ですが、たとえば琵琶湖でみますと、瀬織津姫は、「川すそさん」の親称をもつ川裾宮=唐崎神社(マキノ町)や新旭町・西宮神社内の唐崎神社をはじめ、河濯神社(長浜八幡宮境内社)などにもまつられ、九頭竜川流域で拾えば、松岡町の河濯神社(神明社境内社)もあります。ちなみに、福井県今立町の岩本神社境内社にも川濯神社がありますが、こちらは、祭神名が菊理媛命となっていて、要するに白山の神を川濯神としています。白山本宮=白山比盗_社の社域駐車場横には、白山本宮側は「当社とは無縁」と言い切っていましたが(わたしは「無縁」とはおもいませんが)、伝・泰澄作の本尊を有する「川濯尊大権現堂」が、町の人々によって大切にまつられています。伊勢においては、瀬織津姫の異名は「御裳乃濯川比女」でもありました。川濯神が禊祓神とされた瀬織津姫の異名とされることは、じゅうぶんに考えられることです。
 瀬織津姫隠祭の「力」を、笑い=批評の対象としうるか、です。あせらずにいきましょう。

(追伸)
 当HPの「瀬織津姫の部屋」の「白山(黒田)神社」をリンク集から削除します。これは、読者から、祭神がまちがって表示されている旨を指摘いただいたからです。なお、囲炉裏夜話710「白山神とはなにか」で、この神社のことを一事例として紹介しましたが、その部分は削除しますので、もし引用される場合はご注意ください(論の大筋に影響するものではありませんが)。インターネットの情報には気をつけろということで、やはり自分の眼でたしかめることが必要のようです。日光の猿ではありませんが、反省、であります。

790 伊勢神宮の成立とアマテラスの確定 穂国幻史考管理人・柴田晴廣 2003/10/30 07:11

 続日本紀の文武二(六九八)年一二月二九日 多気大神宮を度会郡に遷した理由は、アマテラスという皇祖神・単独神が創作されるとき、こういった対神祭祀の継続は不可能な状況を迎えつつあったことにあったと思います。
 そして、天武時代の日水神のうちの日神については、男体の日神・天照国照彦火明命でした。
 つまり、『太神宮諸雑事記』が天武の「宣旨状」として載せる「二所太神宮」の一所は、男体の日神を容れる器であったわけです。
 仮に、天武時代に後の太神宮に継承される伊勢神宮の形式が整えられていたとしても、それはあくまで、男体の日神・天照国照彦火明命を容れる器であり、後の皇祖神アマテラスを容れる器としては、相応しくなかった。
 多気大神宮を度会郡に遷すことにより、新たに創作しようとする皇祖神アマテラスと男体の日神・天照国照彦火明命を切断しようとしたと考えられるのではないかと思います。
 「記紀成立考」で書いたように、皇祖神アマテラスが確定するのは、かなり遅く、記紀成立時においても確定したとはいえない状況です。
 伊勢神宮がいつ成立したかより、アマテラスがいつ確立したかが、重要なことだと思います。そして、そのアマテラスを容れる器の完成が、文武二(六九八)年であり、その後、三河行幸を経てアマテラス創作の本格的な模索(書紀神代から安康紀の著述)がはじまったと考えられるのではないかと思います。
 繰り返しになりますが、天武時代の天照神は、男体の日神・天照国照彦火明命です。書紀が壬申の乱の折、天武が朝明川の河口付近で祈ったという天照神も当然、天照国照彦火明命になります。この神については、おそらく、神宮側の文献などには、記載されていないと思います。調べたわけではなく、推測になりますが、国司が総社で国内の諸神の名を読み上げるために作られた「伊勢国内神明帳」には、この神の名(正式な神名)が載せられているのではないかと思います。

791 セオリツさん神武東征逸話を疑うことです 穂国幻史考管理人・柴田晴廣 2003/10/30 07:37

 下記のように、書紀神代から安康紀の著述がはじめられるのは、元明の時代です。
 そして、皇祖神アマテラスは、その時代に創作されたものです。当然、神武も想像上の人物です。
 また、記紀を熟読すれば、神武東征の出発点が現在の宮崎県でないことは明らかです。詳しくは拙稿第一話をお読みください。
 なぜに神武東征の出発点を現在の宮崎県にしたか、また、延岡になぜ神武と瀬織津姫を絡めた逸話が成立したのか、この成立過程を考察することが、先決問題かと思います。
 神武という皇祖神の末裔(想像上の人物・神武)との関係を強調することにより、かろうじて瀬織津姫という名が保たれた、これも一つの瀬織津姫陰祭の力といえると思います。

792 アマテラスの成立と一つの仮説 風琳堂主人 2003/10/31 23:34

『太神宮諸雑事記』が天武の「宣旨状」として載せる「二所太神宮」の一所は、男体の日神を容れる器であった──柴田さん、これは強引な決めつけです。
 ふつう「二所太神宮」といいますと、現在の内宮と外宮を指します。内宮は皇太神宮、外宮は止由気宮あるいは豊受太神宮とも呼ばれていました。
 内宮=皇太神宮については、荒魂宮(現在の荒祭宮)の前(南)に大宮=皇太神宮があとから造営されたわけで、これは、天火明命ではなく、アマテラスの「器」としてつくられたものです。天火明命の「器」は、正確には、荒魂宮の隣にあったわけで(高宮=多賀宮。神宮の成立と同時に外宮の地へ遷された可能性大)、荒魂宮の前(南)に新しくできた宮にまつられる神は、天火明命ではなく、アマテラスとみるのが自然です。この新宮=大宮に対して(荒魂宮も連動しますが)、天武は「遷宮」の命を出しているわけです。そして第一回めの遷宮が、持統が天皇に即位した年=690年に行われます。これをもって、わたしは神宮の成立とみています。したがって、「伊勢神宮がいつ成立したかより、アマテラスがいつ確立したかが、重要」という指摘については、両者は不即不離の関係にあり、分けて考えることはできないとなります。
「多気大神宮を度会郡に遷すこと」は、神宮成立の虚、あるいは無効証言をしかねない、伊勢地方の最後の有力社が消えたということで、その意味で、神宮は伊勢地方内においてはともかく安定祭祀の時間に入ったとはいえます。わたしが調べたかぎりでは、「多気大神宮」を滝原宮と断定できる史料はありませんし、滝原宮は現に存続してもいます。あるいは、ほんとうに消えた「多気大神宮」という社がかつてほかにあったのかもしれません。そう考えますと、多気大神宮は滝大神宮で、伊雑宮の撤去された一方の宮か、あるいは同宮の奥宮ともいうべき滝祭窩の滝神をまつる社であった可能性も捨てられません。この仮説の先には、内宮神域に今もまつられる「滝祭大神」とされる剥き出しの苔石があり、これこそが多気大神宮の「その後」、つまり「神体」ではないかとみる仮説がつづきます。「多気大神宮を遷す」というのは、「多気大神宮の神体を遷す」という理解も浮上してくるわけですが、これは仮説の仮説の話です。
 おもえば、「天照らす日女の尊 天をば知らしめす」というフレーズをもつ、柿本人麻呂の草壁挽歌が歌われたのは持統三年=689年のことでした(不比等の書紀初出もこの年)。翌年、持統は「天皇」に即位し、同年に神宮の第一回遷宮が行われます(豊受太神宮の遷宮は二年後の持統六年=692年。この二年間のズレに、おそらく豊受太神宮=外宮成立の秘密が隠されています)。
 くりかえしますが、わたしは伊勢神宮の成立とアマテラスの誕生は基本的に同時だろうとみています。ただし、神代記にみられる、つまり、文献上、アマテラスの神統譜の構想を含む創作→確定がなされるのは持統以降でしょうし、もう少し絞り込んでいけば、元明時代という仮説も有効ではありましょう。
「皇祖神アマテラスが確定するのは、かなり遅く、記紀成立時においても確定したとはいえない」──そうでしょうか。これは、記紀を通読したときの読後感覚の違いです。複数の「一書」を並列・交錯させながら(持統五年=691年の十八氏の「墓記」の取り込みか)、いわば「神代」の「確定」しづらい雰囲気を、さも客観性を仮装しながら並記し、しかし、結果的には神統譜→皇統譜へと、つまり人皇第一代・神武の創造へと巧妙につなげていて、読後、しっかりと「皇祖神アマテラス」の残像は残ります。これは、全体の要所要所にアマテラスの強い認識が埋め込まれているゆえだとおもいます。その意味で、かなりハイレベルな表現手法だとみなすことができます。
 元明と式年遷宮について──。天武が685年の時点で式年遷宮二十年周期を定めたとされるにもかかわらず、その5年後というイレギュラーな時間である持統四年=690年に、第一回遷宮が行われていました。これは持統の天皇即位に時を合わせたものとみられますから、ここには持統の意志が反映していると考えられます。神宮の第二回めの遷宮についてみますと、天武の命を忠実に履行するならば(持統の変則遷宮が行われた690年を是としての話ですが)、二回めの遷宮は710年=和銅三年に行われて然るべきでした。しかし、実際は一年早まって709年=和銅二年に行われています。この和銅二年というのは、元明が大嘗祭(天皇霊を憑依させる朝廷秘儀)を行った翌年にあたり、これも元明の天皇即位を意識したものというべきかもしれません。これ以後、二十年ごとという「式年」がほぼ定着します。
 明確な言葉として、アマテラス像への認識が単独に語られていないことをもって、皇祖神アマテラスの不確定とはいえず、ましてや、既成の神ではない新しい統一神のイメージがなければ、元神たちの前に新社殿を造営することは不可能だったとおもいます。
 天武時代(まで)、伊勢の日神は天火明命であったというのは、基本的にはそのとおりだとおもいます。しかし、それは天武時代の初期までで、天武晩年にはすでにアマテラス構想が立ち上がりつつあり、その反映が、人麻呂の草壁挽歌の「天照らす日女の尊」という「アマテラス」の語彙に表れています。以後、持統天皇の誕生と伊勢神宮の成立(690年)から、701年の大宝律令の制定かつ大祓祝詞の完成(初期創作は天智時代)へと向かいます。伊勢側の文献にはむろん天火明命の記載はありませんが、アマテラス構想の萌芽は天武時代に、すでに持統と共有するかたちで胚胎していた可能性があります。なお、天孫降臨神話の構想に限れば、これは、天智時代に、すでにその意向・萌芽はあった可能性さえあります。これは、勅命によって、中臣金による大祓祝詞(のちの荒魂神=瀬織津姫の祓神化)の初期創作があったことによります(天智八年=669年…佐久奈度神社由緒)。この祝詞の創作はウソではなかろうとおもえるのは、その翌年の670年に、「三月九日、山の井(三井寺の泉)のそばに、諸神の座を設け、幣帛を捧げられた。中臣金連が祝詞を奏した」という書紀の記述があるからです。この祝詞では、皇孫降臨は八百万神の総意というように仮装されています。この部分が、おそらく、初期の祝詞世界で、その後、つまり大宝律令制定ごろの推敲によって、祓神は、複数化されるのでしょう(天火明命=天照大神は気吹戸主に変身する→瀬織津姫は自身を含めて三神化される)。この祓の祖型神の三女神化は、記紀における宗像神の三女神化の構想・創作へとつながっていく──これはわたしの仮説です。
 天火明命を祖とする尾張氏が、壬申の乱で天武側に加勢したことは重要ですが、わたしが要注意とおもうのは、乱の勝利後、勝利に貢献した尾張国司少子部連?鉤[さひち]が謎の自殺をしていることです。書紀は、天武の言葉として、「何か隠した謀[はかりごと]があったのだろうか」ととぼけた記述をしていました。天武が終生、天火明命=天照大神を全面肯定していたかどうかについては、わたしはちょっと厳しい眼でみています。乱の当初においては、たしかに天武は天火明命=天照大神に「勝利」の祈願をしていましたが、乱の勝利後、彼は変質した可能性があります。たとえば、久努臣麻呂の天武への異見→勅命に対する不服従→官位剥奪事件が起きるのは天武四年=675年のことで、久努臣の本貫地である遠江国においては、三河同様に、まさに伊勢の元神二神が断固としてまつられていた可能性があり、そのことと、この異見→官位剥奪事件は関係している可能性があります。書紀は、天武・持統時代を通して、広瀬神を、竜田風神に対して、広瀬大忌神として、異様ともいえる連続祭祀を記載しています。この広瀬神は「広瀬の河原」にまつられた水神でした。しかし、この広瀬神を「水神」ではなく、あえて「大忌神」とした祭祀のはじまりのときに、上記、久努臣の異見→官位剥奪事件が起きています(麻績王と二人の子の理由不明の流罪も)。書紀が記さない(記せない)、久努臣(たち)の天武に対する異見は何だったのかという謎が残っています。
 天武は壬申の乱に勝利したあと、書紀を読むかぎりですが、吉野盟約という皇位継承でケンカのないようにという、いわばお人好しの願望を示したのみで、国史編纂の試みはあるものの、独自の国家構想を表した形跡はありません。天武は晩年、持統─中臣(藤原)の国家構想に、ついには取り込まれていったのではないか。この持統の構想がまず具体化するのが、伊勢神宮の成立で、翌年の691年には藤原宮の造営もなされ、十八氏の「墓記」の上進の命がつづきます。これは、持統版の史書の編纂の始まりでもありましたが、一方、神宮成立の虚を明かしかねない各氏の神まつりの記載事実を、「天皇」の名において没収するという意図も含まれていた可能性があります。
 ともかく、この神宮=アマテラスの成立を文献的に保証するものとして、大祓祝詞=中臣祓(の完成)から記紀の創作・推敲・編纂があり、それらの成書を最終的に主導したのが、持統構想を引き継いだ、元明女帝背後の藤原不比等だろうということになります(記録にみえる不比等の朝廷世界への登場は、持統天皇即位の前年=689年で、31歳のとき…梅原猛)。
 記紀成立過程の内部分析は柴田さんの稿に譲りますが、伊勢神宮の成立とアマテラスの成立を切り離して考えるとなると、これはどうかなとおもい、異論は異論ということで、おもったことを書かせてもらいました。

793 記紀成立と伊勢神宮成立の異同 穂国幻史考管理人・柴田晴廣 2003/11/01 10:54

 まず、記紀とは何かということになるかと思います。私は、持統朝という新たな王朝の確立のために編纂された『史書』との認識にたちます。
 そして、『太神宮諸雑事記』をはじめ、現存する資料は、記紀というプリズムを通し屈折している。記紀成立編纂という時間軸の前と後では、歴史の連続性が屈折しているということです。「記紀とは何か」ということを考察した上で、再度、この屈折した資料を記紀というプリズムを通すことにより、そのプリミティブな姿が現れるのではないかと思います。 
 そして、皇祖神アマテラスは、最終的に皇太神宮という器に容るのですが、皇祖神アマテラスは、記紀の上で創作されます。つまり、皇太神宮の成立と皇祖神アマテラスの創作との関係より、記紀の成立と皇祖神アマテラスの成立(誕生)の方が、より密な関係があるといえるのではないかと思います。
 天武紀は、持統紀の著述と併せてはじめられたと考えられます。つまり、神代から安康紀と併行してはじめられるわけです。既に著述が完了した雄略紀から天智紀には、アマテラスは記載されません。
 雄略紀から天智紀の著述の完了と神代から安康紀及び天武・持統紀の著述がはじめられるまでに十年の空白期間があります。この期間は、何かということになります。
 草壁の挽歌の時点で皇祖神アマテラスの萌芽はみられます。ですから、皇祖神アマテラスの創作は、持統朝には既にはじめられていたと考えられます。そして、時を待たず雄略紀から天智紀の著述がはじめられます。雄略紀から天智紀の著述は、皇祖神アマテラス確立の地ならし的なものであり、具体的には、万世一系の確立にあったと考えられます。
 持統期に、仮にアマテラスが成立(誕生)していたとしても、その確立は、さらに時を待たなければならない、つまり、アマテラスの誕生と確立という概念を分けて考える必要があると思います。

 ここで質問があります。式年遷宮の制定が天武一四(六八五)年九月に定められたことについては、『エミシの国の女神』七五頁及び八〇頁で述べられていますが、この根拠資料は何かということです。
 天武一四年九月といえば、一八日に天武が発病したと書紀は記します。その同じ月に式年遷宮の制定がされたとなれば、文武病床時に命じられた神代から安康紀の著述開始と同様に考えられるのではないかと思います。
 そのように考えれば、天武一四年は、天武最晩年というより持統朝黎明期ととらえるべきではないかと思います。
 持統は、天武の男体の日神の奉祭を間際で見ていた一人です。そして、持統は、男体の日神とは無縁かつ無関心の天智の娘です。その持統が天武の奉祭する男体の日神をヒントに天照日女尊の概念を固めていった。そして、天武最晩年=持統朝黎明期に天照日女尊を容れる器を造立した。天照日女尊という皇祖神アマテラスの祖形は、ここで誕生したといえるかもしれません。しかし、その主体は、持統であり、「アマテラス構想の萌芽は天武時代に、持統の中で暖められ胚胎していた」と考えるべきではないかと思います。

 つぎに、壬申の乱後に尾張国司少子部連?鉤をもって、天武が終生、天火明命=天照大神を全面肯定したか否かに疑問があるという点については、少子部連?鉤は、尾張国司であって、天火明命を奉祭した尾張氏(尾張国造家)ではないことを挙げれば充分ではないかと思います。
 また、書紀は、天武と天火明命を奉祭する尾張氏との破綻を臭わせる天武病因は、「草薙の剣の祟り」なる逸話を用意しています。しかし、この逸話を額面どおり信じることは出来ないことは、草薙の剣と天武についての考察で既に述べました。
 そのように考えれば、プレ・アマテラス=天照日女尊が誕生したのが、早くみても持統朝黎明期=天武最晩年ということになると思います。

 天孫降臨神話の構想を天智時代に、意向・萌芽があったという点についての中臣金による大祓祝詞を根拠とする点についても頷きかねます。
 大祓祝詞は、中臣祓といわれるように、中臣神道の中核をなすものです。物部神道が蘇生の神道であるとすれば、中臣神道は、「祓え」の神道であったわけです。
 小説の世界などでは、不比等の父・鎌足は、中臣氏とは関係ないとの設定をしているものもあります。それは置いておくとしても、中臣から藤原への改姓は中臣氏の負の部分、つまり、祓え神を払拭する必要からであったと考えられます。
 中臣氏の祖神は、天兒屋根です。中臣氏の祖神・天兒屋根の「天」は、天火明命などの「天」とも考えられます。しかし、中臣神道の中核が祓えにあるとすれば、「天の兒屋根」とするより、天兒(あまがつ)―屋根とすべきかと思います。
 天兒(あまがつ)とは、祓いに用いる人形(ひとがた)のことです。この人形(ひとがた)に穢れを移し、水に流す。「雛流し」の原型のようなものです。
 また、天兒(あまがつ)は、「吾禍津(あまがつ)」とも考えられます。
 大祓祝詞=中臣祓は、この祓いに使用する人形・天兒屋根(あまがつやね)を中心に構成されていたと考えられます。
 天孫降臨神話と大祓祝詞の牽連関係は薄いのではないかと思います。

 記紀成立考では、あえて、瀬織津姫というキーワードを使わずに論を進めてきました。ここで、瀬織津姫について触れれば、祓えの神であり、水の女神である瀬織津姫の基本形ともいえるべき概念及び瀬織津姫という名称は、中臣神道の成立との関りで考察すべきかと思います。
 文武二(六九八)年八月一九日、鎌足の子・不比等以外は、中臣に復姓せよとの命が出されます。そして、和銅元(七〇八)年三月一八日に中臣意美麻呂が神祇伯に任ぜられます。中臣神道の成立です。
 不比等から中臣の負の部分を一手に引き受けされた中臣氏ですが、神祇伯としての地位の確立とともに祖神に負わされた「天兒(あまがつ)」=「吾禍津(あまがつ)」を他に押し付けるようになった。そして、その押し付ける先が、日神が女神に変容するとともに水の女神へと昇格していった男体の日神を迎えるカミ妻であった。そして、現在の水の女神&祓神としての瀬織津姫が誕生したと考えられるのではないかと思います。
 つまり、男体の日神から皇祖神アマテラスへの変容と、天兒屋根の祓神としての神格の払拭は別々に進行していたと考えられると思います。
 したがって、女神アマテラスの誕生と瀬織津姫の誕生には、牽連関係はあるにしても、女神アマテラスの誕生と瀬織津姫の誕生を単純に結びつけるのはどうかと思います。
 最後に付け加えておけば、記紀編纂時には、祓えの神であり、水の女神である瀬織津姫の基本形ともいえるべき概念も瀬織津姫という名称も確立していなかった。だからこそ、記紀で瀬織津姫の名が語られることがなかったといえるのではないかと思います。

794 瀬織津姫探究の現在 風琳堂主人 2003/11/02 23:33

 神宮の遷宮関係の記事を収録しているのは、「太神宮諸雑事記」(『群書類従』所収)です。なお、荒魂宮=荒祭宮と高宮=多賀宮の「並祭」を記録しているのは、「造伊勢二所太神宮宝基本記」(『続群書類従』所収)です。
 わたしの記憶では、一般に読めるものということですが、神宮関係の文書で最古とされるのは、たしか延暦二十三年の「皇太神宮儀式帳」(『群書類従』所収)であったかとおもいます。
 また、最古の祝詞とされるのが「六月晦大祓」で(囲炉裏夜話では「大祓祝詞」と呼称)、この祝詞の創作は天智八年=669年のこととされます(佐久奈度神社由緒)。そして現在読めるようなかたちに「完成」するのは大宝律令の頃(701年頃)とされます(上田正昭『藤原不比等』)。瀬織津姫の名を記載する大祓祝詞の完成を701年頃としても、『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)の前に位置しています。したがって、記紀成立時に「瀬織津姫という名称」が存在していたかどうかといったら、それは存在していたというしかありません。
 では、瀬織津姫という神名はいつできたのかという問いも浮かんできます。仮説的には、「六月晦大祓」ができたときというのが、その成立の可能性としては高いのですが、しかし、各地の神社伝承をみますと、たとえば郡山・宇奈己呂和気神社の瀬織津姫祭祀のはじまりは欽明朝時代だと伝えるように、かなり溯るものもいくつかあります。これは、瀬織津姫の広範囲な祭祀分布(隠祭を含む)とともに、その祭祀時期と神名に関する大きな謎として現在もあります。
 神宮側あるいは中臣神道側は、記紀において、瀬織津姫の異名として、天照大神(アマテラス)荒魂、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命などとし、さらには、禍津日神[まがつひのかみ]といった悪称を瀬織津姫に与えています。これは、「御門祭[みかどほかひ]」という祝詞の「天のまがつひといふ神の言はむ悪事[まがごと]」を聞くなといった文言に、悪神とみなす認識がよく表れています。瀬織津姫のこの悪神イメージの成立は、伊勢に皇祖神・アマテラスが新しくまつられたことを最大の契機としています。
 瀬織津姫を祓神として記した「六月晦大祓」が天智時代の成立(中臣金の創作)としますと、アマテラスの成立との関係で瀬織津姫の祓神化をみるとき、ここには微妙な時間差が生じてきます。天智時代にアマテラス構想はまだなかったとしますと、別の文脈で祓神・瀬織津姫を考える必要があるというのが柴田さんの根にある指摘です。あるいは、アマテラスの成立と瀬織津姫の祓神化の成立に強固な関係を認めようとすれば、最初期の祝詞には瀬織津姫の名の記載はなかった可能性も浮上してきます。
「中臣」というのは、大神と大王(天皇)の中をとりつぐ職掌からきたもので、中臣氏は天児屋根を祖神とすることに誇りをもっています。アマガツという「負の部分」をほかに押し付ける必要といった説は興味深いですが、わたしは、天児屋根はまさに「天の小屋根」で、大王に代わって災いを防ぐ楯の役目を引き受けるといったイメージをもっています。中臣氏がもっている「祓の思想」を具体化したのが大祓祝詞ですが、「祓」が大王のレベルから天皇・国家レベルの「祓」に仕立てる必要が生じたとき、そこで「大祓」という「大」の字がかぶされたのではないかとみています。「大祓」の役を引き受けるにはもはや天児屋根では役不足で、『神宮要綱』が荒祭宮の項で「古来皇大神宮の神威霊験と称せらるゝものは必ず此の大神の神託に因れり」といみじくも記していたように、「此の大神」=荒祭大神こそが「大祓」に利用できる力を有する神でした。アマテラスの成立と大祓(神)の成立は同時ではなかったかというのが、わたしの仮説です。
 ともかく、これで二仮説が出されましたが、まだうまく明かされていない第二の大きな謎として、この中臣神道と瀬織津姫にまつわる問題があります。
ところで、古代最大の内戦といえる壬申の乱(672年)をはさむも、一貫して神宮祭主でありつづけたのが中臣氏でした。
 神宮の「祭主」としては、天智時代は中臣大嶋、天武時代は中臣意美麻呂、元明時代は意美麻呂の子・東人(持統・文武時代の記載はなし)と記録されています(「神皇雑用先規録」『続群書類従』所収)。この記録をみただけでも、中臣氏の絶対影響下にあったのが伊勢神宮であることがわかります。ここで、持統(・文武)時代の祭主不在(無記録)をどうみるかですが、この祭主不在(無記録)の時代に、神宮祭祀の決定的変換があったことだけは確かで、具体的には、持統天皇即位年=690年のイレギュラーな「遷宮」があり、現在の神宮形式が基本的に完成するとみられます。
 大津皇子事件(686年)の影響による大伯(大来)皇女の斎宮解任(同年十一月)のあと、長く空白となっていた斎宮派遣が再開されるのが文武二年(698)九月のことで(天武の娘・当耆[たき]皇女)、これは神宮祭祀関係の新しい設備が整ったということでしょう。また、同年十二月の「多気大神宮を度会郡に遷した」ことによって、神宮の新祭祀を脅かす不安要素が神宮至近の地から除去された(神宮の安定祭祀が成った)としますと、その意味で、筑紫さんがこの年を神宮の成立(完成)とみるのは一理あります。このあと、元明時代に、中臣意美麻呂の子・東人が祭主となり、その父・意美麻呂は和銅元年(708)三月十三日に神祇伯に就任、同日に藤原不比等が右大臣になります。意美麻呂父子による神宮および国内の神祭りの支配(書名を確認できる最古の神名帳といってよい「神祇官記」は、すでに706年の時点には存在していた記録があり、この神名帳の作成の開始については、これも大宝律令制定時かと推定します)と、藤原不比等の朝廷政治の支配がここに確立します。
 しかし、この中臣─藤原体制の確立によって、全神社がすぐさま、その祭祀を中央化、つまり新神宮神=皇祖神を肯定したわけではなく、祭祀(祭神)変更に抵抗するといった軋轢は潜在的ではあるものの、各地に相当にあったものとおもいます。持統亡きあと、国司レベルの差配ではラチがあかず、ついには右大臣・不比等が直接出向かなければ、その祭祀(祭神)変更ができなかった神社さえありましたし(津毛利神社)、あるいは、泰澄などの仏徒をつかい、神仏混淆のかたちで祭祀の改竄をした例もあります(白山、石動山など)。この祭祀(祭神)変更は、記紀の成立に合わせるようにして、8世紀初頭に集中してはいますが、その後も、途方もない時間と人を費やして全国各地へ波及していきます。こういった変更の対象となった古い有力社は、伊勢の元神(たち)と同神をまつる、つまりは記紀の記述に整合しない由緒をもつ神々をまつっていたという共通性が、どうもあるようです。さらにいえば、海人族が奉戴する神々であったともいえるかもしれません。
 今回は、囲炉裏夜話の瀬織津姫探求の現在を、中間総括する話となりました。多くの瀬織津姫考・探索考が提出されることを、囲炉裏夜話不肖の主人ではありますが、これからも楽しみにしています。

795 祓戸神の成立時点とプレ・アマテラスの成立時点 穂国幻史考管理人・柴田晴廣 2003/11/03 08:27

 一般に言われている大祓祝詞に登場する祓戸神としての瀬織津姫の成立については、佐久奈度神社由緒のように天智八(六六九)年に遡れるかと思います。
 しかし、男体の日神と対で祭祀されていた水の女神という神格が付加されると、話は別になると思います。
 瀬織津姫の起源を天智八(六六九)年まで遡ったとして、佐久奈度神社の祭神と対神関係になる神は、何処に鎮座するのかという疑問がまず挙げられるのではないかと思います。
 また、天武時代には、男体の日神であり、その最晩年というより持統黎明期になり、はじめて日の女神の概念の萌芽が見られます。この点について補足すれば、持統にとって日神の女神化は、必要性があっても、天武については、日神の女神化の必要性は見出せない点を挙げておけば充分かと思います。
 繰り返しになりますが、従来から言われていた大祓祝詞に登場する祓戸神としての瀬織津姫は、天智八(六六九)年あるいは欽明時代に遡れると思います。しかし、この時点では、日神の女神化という必要性もなければ、日神の女神化の作業が進められていたわけでもありません。
 つまり、瀬織津姫の成立を天智時代に遡らせれば、新たに創作される皇祖神アマテラスとの牽連関係は、薄くなり、皇祖神アマテラスとの牽連関係で瀬織津姫の成立を見るなら持統以降とみるべきということです。
 『エミシの国の女神』七二頁から八〇頁は、「広瀬・大忌神を再考する」のタイトルで広瀬大忌神についての考察がされています。
 この神は、天武四(六七五)年、突如として書紀に現れます。大忌神の名から、この神が祓戸神的な神であったことがうかがえます。
 中臣大嶋がこの神の祭祀に関っていたと考えられます。天智時代の中臣金から、同族の中臣大嶋が中臣祓を引き継ぎ、広瀬の地で奉祭したのが、広瀬大忌神といえるのではないかと思います。
 この神は、広瀬の河原に祭られたと書紀は記載しますから、水神としての神格を有していたと思いますが、竜田の風神とセットで登場し、日の男神と対神関係ではありません。
 風琳堂主人は、続日本紀「多気大神宮を度会の地に遷す」という記載をもって、伊勢神宮の成立とする筑紫氏の説に疑問を投げかけていましたが、この説明として、筑紫氏は、「滝祭り」について触れています。
 筑紫氏は、プレ・アマテラスとしてこの「滝祭り」を挙げていますが、日神を迎える神ツマ、あるいは撞賢木に憑依した日神が河中で現れるときに掬い上げる巫女が、祭られる側に昇華して女神アマテラスになったとするのは、理解できますが、この滝祭りをプレ・アマテラスとする点については、納得のいく説明がなされていません。
 滝祭りは、そもそも、日神を祭るカミ妻とは、別個に発生したものであり、この滝祭りは、むしろ禊、あるいは祓えの儀式としてみるべきではないかと思います。
 中臣金、中臣大嶋と受け継がれた禊・祓えの儀式は、伊勢の地で滝祭りと習合したと考えられるのではないかと思います。
 そして、禊・祓えとは、別個に進行していた日神の女神化に伴い取り残された水性のカミ妻と滝祭りが習合し、漸く『エミシの国の女神』でいうようなプレ・アマテラスとしての神格が瀬織津姫に付加されたと考えられるのではないかと思います。

796 穂国幻史考管理人柴田晴廣様 セオリツ 2003/11/04 21:45

今晩は、ホームページを見る暇が無く
遅くなりましたが、疑うことですとありましたが
それも1つの物の考え方と思います。
しかし、今、現在の事実を把握する事も
大切と思います。瀬織津比賣の力の凄さは
本当に凄いと思います。延岡の御陵神社さんで
起きるさまざまな不思議、御神水に群がる
多くのアリ、目の前でさまざまな形に
曲がり始めるろうそくのろう、実際に私が
神社さんでこの目で見た不思議の一つです。
まだ、まだ、多くのものを瀬織津比賣は
私に見せてくれました。瀬織津比賣が
どこでどうでは無く、瀬織津比賣という
女神の力、そして、そういう神様がいらっしゃる
という事を知った事が大切なことではないでしょうか
回答になってないかもしれませんが、
私はそう思います。

798 竜田風神とはなにか 風琳堂主人 2003/11/06 01:40

 広瀬大忌神=瀬織津姫が「竜田の風神とセットで登場」するも(『日本書紀』天武・持統条)、「日の男神と対神関係」を構成していないことが、まさにひっかかる点とおもっています。大忌神が「日の男神」ではなく「風神」と対関係をもっていることは何を意味するか、あるいは、竜田風神とはなにか、ということです。
 広瀬大忌神を「祓戸神的な神であった」とみますと、その対神の竜田風神も例外ではないとなってきます。この風の神を大祓祝詞の場面に探れば、気吹戸主[いぶきどぬし]という神が該当するからです。しかも、伊勢側は、このイブキドヌシを多賀宮の神と認識しています(「豊受皇太神御鎮座本紀」「伊勢二所皇太神宮神名秘書」、『続群書類従』所収)。荒祭宮=荒魂宮と高宮=多賀宮という伊勢の元神たちの宮が、現在の荒祭宮の地で「並座」する関係にあったことは重要で、この伊勢の元神二神が、そのまま大祓祝詞に登場している(祓神化されている)ことになります。
 伊勢の風神で想起されるのは、伊勢国風土記逸文に記されていた「伊勢津彦」という神です。伊勢津彦は、神武の勅命による天日別命の伊勢征服に屈した神として描かれていました。その「国譲り」の場面を読んでみます。

■伊勢津彦の国譲り
その邑に神があって伊勢津彦といった。天日別命は「汝の国を天孫に献上したらどうか」と問うた。すると答えて「私はこの国を占拠してから長いこと住んでいる。命令にはしたがいかねる」といった。天日別命は兵を発してその神を殺そうと思った。するとそのとき恐れて平伏して申しあげるには、「私の国はことごとく天孫にたてまつりましょう。私はもうここにいるようなことを致しますまい」と。天日別命は問うて、「お前がこの国を去ったとき、なにをもってそれを証拠だてるか」といった。すると申しあげていうには、「私は今夜をもって八風(大風)を起こし海水を吹き上げ波浪に乗って東の方にまいりましょう。これがすなわち私が退却したという証拠です」と。天日別命は兵を整備してその様子をうかがっていると、夜ふけになって大風が四方に起こり、大波をうちあげ、太陽のように光りかがやいて陸も海も昼のようにあかるくなり、ついに波に乗って東に去った。古語に「神風の伊勢の国は常世の浪寄する国」というのは、つまりこれをいうのである。〔伊勢津彦の神は、近くの信濃の国に住ませた〕(吉野裕訳)

 伊勢津彦が、「私は今夜をもって八風(大風)を起こし」といっているように、この神はまさに風神として描かれていますが、その国譲りのあと伊勢を去るときの場面には「太陽のように光りかがやいて陸も海も昼のようにあかるく」なったとありますから、これは日神のイメージでもあります。
 このように、伊勢国風土記逸文は、伊勢国から信濃国に追放された神として伊勢津彦の名を伝えています。しかも同風土記逸文の「伊勢の国号」第二では、伊勢津彦は「出雲の神の子、出雲健子命、またの名は伊勢津彦の神、またの名は天の櫛玉命である」と、出雲との関連やら、天照国照彦天火明奇玉饒速日命の「奇玉」=クシタマ=櫛玉との関連さえもうかがわせています。この櫛玉命(=伊勢津彦)は、現在、広瀬神社の「相殿」にまつられています。
 伊勢の元神としての伊勢津彦の「国譲り」の話は、わたしには伊勢における「宮譲り」のように読めます。また、伊勢津彦の信濃放逐は、出雲の国譲りにおけるタケミナカタともだぶってきます。信濃の諏訪神二神の一方の女神は、背後に瀬織津姫を隠していましたから、諏訪神社も広瀬神社同様に、その名(伊勢における元名)を変更されはしたものの、それなりの対神祭祀は継続しているということなのでしょう。
 こういった想像を前提にしますと、持統が十八氏の「墓記」の提出を命じた持統五年(691)八月十三日の記載につづく、「二十三日、使者を遣わして、竜田風神・信濃の諏訪・水内社などの神を祭らせた」の記述が含む意味も軽視できないとなってきます。この持統の「使者」が携えていた「勅命」があるはずですが、ここからは憶測となりますので、その内容を語ることは控えます。
 風土記逸文の「古語」として添えられていた「神風の伊勢の国は常世の浪寄する国」という言葉ですが、これは、天照大神が伊勢に鎮座地を決めるときの神託の言葉「伊勢国はしきりに浪の打ち寄せる、傍国[かたくに]の美しい国である。この国に居りたいと思う」(『日本書紀』垂仁条)と、確実に対応しています。書紀が記すアマテラスの伊勢鎮座決定の神託の言葉と風土記逸文の寓話を重ねますと、風神=日神=伊勢津彦が伊勢から去ったあとに(高宮=多賀宮が内宮から去ったあとに)、アマテラスは伊勢に(内宮の地に)鎮座したというふうに読むこともできるわけです。
 もっとも、竜田風神に対応する「風神」は、現在、内宮別宮・風日祈宮[かざひのみや](平安期は「風神社」…『皇太神宮儀式帳』)に、書紀の神名表記に整合させて風神・級長津彦[しなつひこ]の名でまつられています(外宮別宮の多賀宮の神名は「豊受大神荒魂」)。ちなみに、龍田大社由緒は、同社祭神を天御柱命=志那都比古命、国御柱命=志那都比売命と説明しています。ここも「それなり」の対神祭祀がなされているとはいえます。
 風日祈宮=風神社は、現在、五十鈴川支流の川向こう(南)の寂しい地に寒々とまつられています。川をはさんだ北には荒祭宮が鎮座していますので、これは引き裂かれた七夕の神々と、シチュエーションは一緒かもしれません。元の神名は出さないが、せめてもの対神祭祀がなされているのは、広瀬、竜田、諏訪などと同様とはいえるでしょうが、この内宮神域に限っては、風日祈宮と荒祭宮がかつて対関係にあったとは、おそらくだれもおもわないでしょう。
 竜田風神は、広瀬大忌神と同様に、伊勢の元神であった可能性が高い、という話です。

(追記)
 佐久奈度神社の「日神」の痕跡については、その神宮寺といわれる若王寺の本地仏が「大日如来」とされていることに(『大津の社』)、屈折してはいますが、みることができます。

■佐久奈度神社の瀬織津姫
近江の風土記に曰はく、八張口[やはりぐち]の神の社(佐久奈度神社)。即ち、伊勢の佐久那太李[さくなだり]の神を忌みて、瀬織津比唐祭れり。(近江国風土記逸文、秋元義郎校注)

 この風土記の一文は、瀬織津姫が忌伊勢神、つまり「忌神」の性格で語られているとみることができます。これは、やはり、伊勢における日神(風土記では「伊勢の佐久那太李の神」)の「死」が影響しているはずで(神も人も自身の名を消去されることは死に等しい)、その鎮魂の意を瀬織津姫に負わせて、祭祀を行っているのが佐久奈度神社なのでしょう。ただし、瀬織津姫の「祓神化」の全過程について考えようとしますと、ことはたしかに単純ではなく、天智時代からはじまる、少なくとも三つの段階を想定しないと、どうも説明がつかないようです。

799 掲示板開設 セオリツ 2003/11/10 15:06

こんにちは、皆さん、
この度、宮崎県の延岡市の大門町の
御陵神社さんのホームページに
書き込みが出来るようになりました。
内容も不思議なことがどんどん
増え更新しないといけないのですが。
私の身の回りにも不思議が起こり
瀬織津比賣の凄さに本当に
びっくりしてます。良ければ
書き込みをしてください。

800 天武像の転換 風琳堂主人 2003/11/12 17:25

 天武四年(675)四月、突如として広瀬大忌神および竜田風神の祭祀開始がなされます。この大忌神と風神が、大祓祝詞における瀬織津比甜せおりつひめ]と気吹戸主[いぶきどぬし]であること、さらに伊勢の元神二神であることは、つまりは、ここには神宮祭祀の変容・改竄(の萌芽)が潜んでいる可能性があるとみることができます。
 この両神の新祭祀のはじまりは、壬申の乱(672年)後三年めのことで、これは、書紀の天皇ごとの区分でいえば、いうまでもなく「天武時代」の最中にあたりますから、こういった祭祀指示を出していたのは天武その人ということに、一応なります。その意味で、瀬織津姫祭祀の改竄という問題を基点にするかぎり、天武は「無罪」であったとはいえません。
 ただし、天武の背後には、後に持統天皇となる菟野[うの]皇女の存在があります。あたりまえの話ですが、二人は「夫婦」でした。
 これまで、わたしたちが天武に抱く人間像は、吉野から起死回生の逆襲を果たした、武人天皇、強い天皇といったイメージかとおもいます。これは、書紀の天武天皇条のはじまりにおける、「成人してからは雄雄しく、武徳にすぐれていた」といった言葉や、吉野落ちするときの「ある人」の言とされる「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」といった書紀の評価によって、補強されています。
 このように、「強い」天皇像を天武に付して、わたしたちはなんとなく理解を固定させてきたのですが、今回は、この既成イメージを一度解体してみようとおもいます。
 わたしがこのようにおもったのは、壬申の乱の開始直後における、天武と高市[たけち]皇子との間に交わされた、次の会話が妙にひっかかって読めたからです。

■気弱な天武像の表出
 天皇(天武)は高市皇子に、「近江の朝廷には左右の大臣や智略にすぐれた群臣[まえつきみたち]がいて、共に議[はか]ることができるが、自分には事を謀[はか]る人物がいない。ただ、年若い子供があるだけである。どうしたらよいだろう」といわれた。
 皇子は腕まくりをして剣を握って、「近江に群臣あろうとも、どうしてわが天皇の霊威に逆らうことができようか。天皇はひとりでいらっしゃっても、私高市が神々の霊に頼り、勅命を受けて諸将を率いて戦えば、敵は防ぐことができぬでしょう」といわれた。天皇はこれをほめ手をとり背を撫でて、「しっかりやれ、油断するなよ」といわれた。乗馬を賜わって、軍事をすべて託された。(宇治谷孟訳)

 天武は、長男・高市(当時一九歳といわれる)の「手をとり背を撫でて」軍事の全権を任せたとされます。これは、軍の陣頭指揮をとることを、天武が自ら放棄したということでもありましょう。ここには、書紀が記していた天武評、つまり「雄雄しく、武徳にすぐれていた」とする天武像とは対極の姿が描かれています。
 ここで、持統についての書紀の「人物評」をまず読んでみます。

■「まろやかな心」をもつ女帝
 高天原広野姫天皇は、幼名を?野讃良[うののさらら]皇女といい、天智天皇の第二女である。母を遠智娘[おちのいらつめ]──またの名は美濃津子娘[みのつこのいらつめ]──という。天皇は落ち着きのある広い度量のお人柄であった。斉明天皇の三年に、天武天皇の妃[みめ]となられた。天子の御子ながら、まろやかな心でへり下り、礼を好まれて国母の徳をお持ちであった。

 書紀が記す、持統の像は、「落ち着きのある広い度量のお人柄」であり、「まろやかな心でへり下り、礼を好」むとあります。しかし、持統が、大津皇子事件に対してとった処断・即断(逮捕の翌日に死を与えた)を考えますと、書紀が美化して表現している「広い度量のお人柄」「まろやかな心」とは、お世辞にも合致しているとはいえません。天武の「雄雄しく、武徳にすぐれていた」が空疎な評価であったのと同じことが、持統に対してもいえる可能性があります。
 持統は、壬申の乱のとき、決して「雄雄しく」ない天武に随行していました。書紀は、乱に随行していた持統像を、次のように書いていました。

■壬申の乱のときの持統像
 天武天皇の元年夏六月、天皇に従って難[わざわい]を東国[あずまのくに]に避けられた。兵に命じて味方を集め、天皇と共に謀[はかりごと]を練られた。死を恐れぬ勇者数万に命じて、各所の要害をかためた。

 持統は、「兵に命じて味方を集め」、「死を恐れぬ勇者数万に命じて、各所の要害をかためた」とあります。これは、天武の名のもとに、といってよいかもしれませんが、本来なら、やはり天武が自らなすべきことでしょう。しかし、先にみたように、天武は乱の軍事指揮権を放棄していました。乱の現場においては高市が先頭に立ち、後方における指揮は、天武ではなく持統がとっていたことが、ここから読み取ることができます。
 この天武の存在の希薄感、あるいは影の薄さは、いったいどこからくるものなのか。
 壬申の乱は、天智あとの皇位争奪をめぐる内戦であったことは事実でしょうが、天武は、どのくらい皇位を本気で望んでいたのかは、これはにわかに断定できない要素があります。
 書紀は、天武が皇位継承を放棄して吉野へ落ちるときの、彼自身の言葉として、「私が皇位を辞退して、身を引いたのは、ひとりで療養につとめ、天命を全うしようと思ったからである」(天武条)、あるいは、「どうか大業は大后(皇后)にお授けください。そして大伴皇子に諸政を行なわせてください。私は天皇のために出家して、仏道修行をしたいと思います」(天智条)と、皇位継承の意志がまったくないことを書いています。
 これらの天武の言葉は、その後の壬申の乱へと向かうための「仮」の言葉で、天武の真意ではないだろうとみなして、わたしたちは「雄雄しく、武徳にすぐれていた」天武像を勝手につくってきたわけですが、しかし、これらは、天武の本心の言葉だとみる可能性もあるのではないか、ということです。皇位継承戦争の最中の天武像はあまりに弱弱しく、むしろ「雄雄しく、武徳にすぐれていた」のは持統のほうではなかったか──。
 天武は、吉野へ落ちるとき、「頭髪をおろされ、沙門[ほうし]の姿となられた」とも書かれていました。この天武の坊主姿を、語呂合わせではありませんが、一つの「ポーズ」とみなすのではなく、天武の真意とみますと、では天武の吉野行へ随行している持統の心意はどうだったのかという問いも浮かんできます。持統も天武に合わせて出家したとか、尼となったという記述は書紀にはありません。
 皇位争奪の意志あるいは皇位継承への執着は、天武ではなく、むしろ持統のほうにこそあっと考えられ、そのことが、壬申の乱の最中における、二人の相反するイメージを構成していると考えられます。つまり、壬申の乱→皇位簒奪の主導権を行使していたのは、天武ではなく、持統であった可能性が高いのです。
 皇位継承の政争世界から、一度、完全に離脱した天武でした。天武のこの離脱心理からすれば、まさに「ひとりで療養につとめ、天命を全うしよう」といったところでしょう。しかし、すぐ傍らに、天武にそういった離脱を許さない「まろやかな心」をもつ者が一人いました。
 書紀は、持統称制にあたって、彼女と天武の関係を、次のように書いていました。曰く、「皇后(持統)は、終始天皇(天武)を助けて天下を安定させ、常に良き助言で、政治の面でも補弼[ほひつ]の任を果たされた」──。
 壬申の乱、および乱後の天武時代、その主導権は、「終始」持統が掌握していた可能性があります。書紀が区分する「天武時代」の実質においては、のちに孫の文武に対してそうであったように、すでに太上天皇的存在として天武との関係の上位に存在していたのが、あの「まろやかな心」の持主=持統でした(わかりやすい言葉でいえば、天武は「女房」=持統の尻にずっと敷かれっぱなしだった、となります)。
 天武の晩年を持統時代の黎明期とみる見方は、壬申の乱の時点まで遡らせてみる必要がありそうです。一度、この世のこと(政)を放棄した人間にとって、時の巡りか遠謀かは別として、再び「この世」を生きるには、「補弼[ほひつ]」の存在は不可欠であったはずで、この天武の「政」(まつりごと)放棄の半端性を補完し、あるいは補完以上に主導していたのが持統でした。その意味で、天武時代全体が、すでに持統時代の「黎明期」であったといえそうです。
 天武をシンボルとする壬申の乱に、応援を惜しまなかった海人族の期待を一身(一心)に受け止めるには、天武は、その身体の病弱性も重なっていたでしょうが、あまりに「あの世」「出家」の方向へ傾斜する心性を有していました(結果、持統の専横を許し、つまりは、海人族の期待に対しては責任放棄→裏切りの悪政を呼び込むことになる)。
 広瀬大忌神および竜田風神という、伊勢の元神祭祀の改竄は、これも、天武の命というよりも、実質的には、持統の意志であった可能性がみえてきました。壬申の乱後、天武は「変質」したというよりも、最初から、変わるべき「資質」が半ば放棄されていたとみることができそうです。
 天武は実在したものの、「天武時代」は実質的には存在しなかった、といえるのではないか。「雄雄しく、武徳にすぐれていた」のは、実は天武ではなく持統であったとしますと、あるいは、「まろやかな心」は、仏道に帰依しようとする「出家の心」をもっていた天武にこそ、与えられてしかるべき評語であったかもしれません。
 持統の皇位・血統(天智系血統)への執着はまさにオソルベシですが、そんな彼女を、表裏で「補弼」していたのが、中臣=藤原という闇の祭祀一族でした。
 瀬織津姫(たち)の受難に関わる背景的な話を「補弼」(補筆)しておきます。

801 白山神から立山・姥尊へU 風琳堂主人 2003/11/14 00:51

(3) 姥尊=新川姫の背後の神
 ここで、新川姫神=治国神についての雄山神社側の四つの性格規定を再度ふりかえっておきます。
@大川(常願寺川)を司る神
A耳垂れ地藏とも呼ばれる地蔵尊を本地仏としていること
B首から上の病気の守護神
C子育ての守り神
 芦峅寺・雄山神社は、現在の常願寺川の川神として新川姫を認識しています。これは、常願寺川の古名として、大伴家持が歌っていた「新川」がそれに該当するという認識でもありましょう。家持は、「皇神の領[うしは]き坐[いま]す新川」と、新川には「皇神」がいるのだと歌に残していました。
 新川姫が川神=水神であること(@)は、Aの耳垂れ地蔵の「耳垂」が「水垂」からきたものであることが考えられますし、あるいは「耳垂れ」については姥尊像の顔面がただれたイメージであることとも重なってきます。この顔面のただれた像は、転じてBの「首から上の病気の守護神」ともなりましょうし、Cの「子育ての守り神」については、姥がすでに子育ての経験を積んでいることからくるものか、あるいはこれも水神→水分神の「みくまり」→「みこもり」→「子守り」へと転じたところに因をみることができます。あるいは、町史が記す、次の事例においても「子守り神」は姥尊=姥神に共通の性格伝承であったことがうかがえます。
 長野県中条村の「虫倉神社」についての記事をみておきます。

■大姥大神は「小児の守護神」
(虫倉神社は)大町市と長野市を結ぶバス路線のほぼ中間にある中条村に祀られる。この神社には七つの分社があって、御山里をはじめ、伊折、梅木、親坂、長野柵[しがらみ]、鬼無里[きなさ]に祀られる。
 この宮の祭神は、イザナギ、イザナミの孫、大山津見神の女[むすめ]、石屋長比売[いわやながひめ](一名大姥大神)である。〔中略〕ヒメは小児の守護神として「虫切りの鎌」を与えることになり、また雨乞いの神、養蚕の神となられたとある。(『立山町史』上巻)

 虫倉神社では、明治期に「石屋長比売」(古事記は石長比売と表記)とされた「大姥大神」の性格として「小児の守護神」、「雨乞いの神」、「養蚕の神」の三つを挙げています。これらの三性格は、新川姫の「小児の守護神」を共有するものの、これらはむしろ、布橋灌頂に関わっていた別山神=白山神の性格だというべきかもしれません。古事記に「甚凶醜」と表現されたイワナガヒメでしたから、イメージ的には姥尊像の「醜体」と合致はしますが、これは表層にこだわる通俗的なイメージ連鎖以上ではありません。
 それにしましても、姥尊を異様な像として視覚化・現実化した者がいるわけで、それはだれかという問いも生じてきます。長野県の大町市大出に伝わる「大姥堂」の縁起は、この造像者を伝教大師=最澄としていて、ありうるかもというリアリティーを感じさせます。

■最澄の姥尊彫像
 抑も当西正院(大姥堂…引用者)のご本尊は大姥薩?[さった]と申し奉る。今茲にその縁紀(起)として伝える所を記さんに、今を去る一千二百二十余年前、人皇第五十一代平城天皇の大同年間、洛東延暦寺の開祖伝教大師、唐より天台宗を伝え、帰朝の後、越中立山を開かんとして、三七日の間法華経を読誦せられける。結願の日、その第八巻陀羅尼品に至り、忽然として顕前に大姥のご尊容出現し、吾ここに汝を待つこと久し、吾はこれ一切有情延命守護の大姥なり、汝吾容像をこの地に留め、普[あまね]く信仰するものの表徴とせよ。と告げ給ひしかとみるに、たちまち消えたもう。これによりて大師自ら拝せるご尊像を刻みて、山に堂宇を営みて安置せる。(「大姥堂御本尊縁起」)

 最澄は「自ら拝せるご尊像を刻みて、山に堂宇を営みて安置せる」とあり、姥尊像の異様な造像化に関与していたことがよく伝わってきます。姥尊が最澄へ託宣したとされる「吾ここに汝を待つこと久し、吾はこれ一切有情延命守護の大姥なり、汝吾容像をこの地に留め、普[あまね]く信仰するものの表徴とせよ」という言葉は、天台宗=仏教優位の思想に基づく我田引水の託宣とみるべきで、このように、地神が自ら仏教奉仕へと名乗りをあげる(あげた)というパターン表現は各地・各書にみられるもので、つまりは最澄あるいは天台宗一人に限られる託宣説話ではありません。
 新川姫神を、神とも仏ともいえない異貌の存在に仕立てること──これが、立山側の自主行為であったはずがなく、ここにも朝廷の関与がみられることは、白山と同様であるといえます。
 ところで、近代になって、立山から消えた神は姥尊=新川姫神ばかりでなく、実は、もう一神、それもまさに「皇神」に該当する神がいました。それは、白山の「地神」でもあり、伊勢の元神(の一神)でもあった瀬織津姫という神です。
 大正十三年、富山県神職会は『富山県神社祭神御事歴』という、県内の祭祀神についての網羅的な調査書を作成していました。同書から、富山県における当時の瀬織津姫祭祀神社を転記します。

■富山県の瀬織津姫祭祀社(大正十三年時点)
@上新川郡福沢村東黒牧村社貴布禰社
 元無格社水神社と称し、瀬織津姫命を祀りしを、村社貴布禰社に合祀せり。
A同 上滝町上滝村社滝社
B同 広田村東上赤江村社三川神社
C中新川郡立山村立山勝妙滝社
D同 同 同 祓度社
E同 同 芦峅寺祓戸社
F下新川郡下立村下立村社下立神社
 元無格社橋宮神明社と称し、瀬織津姫神を祀りしを、村社五社之社外三社と共に、村社十二社之社に合祀して、下立神社と称す。
G婦負郡音川村外輪野村社神明社
 元来水神社と称し、罔象女命瀬織津姫神を祀りしを、無格社神明社外二社と共に、村社神明社に合祀せり。
H射水郡西條村早川村社八幡宮
 往古より延喜式内速川神社と称せしも、近来八幡宮と称す。
I氷見郡速川村早借村社速川神社
J東礪波郡雄神村庄金剛寺郷社雄神神社
K同 同 同 元雄神社
L同 同 同 神明宮
 豊受皇大神瀬織津姫神を祀る。
M同 同 同 神明宮
 豊受皇大神瀬織津姫神を祀る。
N西礪波郡国吉村頭川村社頭川神社
(富山県神職会蔵版『富山県神社祭神御事歴』大正十三年五月二五日発行。番号は引用者が付記した)

 大正十三年時点、富山県において、瀬織津姫を祭神とする神社は全一五社だったということがわかります。水神・滝神としてまつられるのは九社(@〜C、G〜K)、祓神としては二社(D・E)、神明宮(社)としては三社(F・L・M)、不明は一社(N)というように、おおよその分類ができます。「おおよそ」というのは、たとえば、速川神は川神でもありますが、大祓祝詞の「速川に坐す瀬織津比唐ニいふ神」とみるなら、ここには祓神の要素も入ってきますし、橋宮神明宮は「橋宮」の神、つまり橋の守護神としてみるなら、これは洪水鎮護の神の要素が主となり、神明社からは除外する必要も出てくるからです。
 ともかく、このうち、C〜Eの三社が、かつての姥堂を中心とする立山にまつられていました。戦後現在、この三社は、まったく消滅していて、現在、瀬織津姫の名を立山の史料に見出すことはとても困難な状況にあります。瀬織津姫の名は、おそらく昭和期にはいった時点で消去されたことが考えられますが、この消去と反比例するかのごとくに、その祭祀経緯をタブーとして出現してくるのが(芦峅寺・雄山神社神官談では「現在はまだ言う段階ではない」とのこと)、現在の治国社=宝童社(=新川姫神社)というべきかもしれません。
 新川姫は常願寺川(大川)の川神だというのが、雄山神社側の現在の主張・表示です。大正十三年時点まで、瀬織津姫は、「祓神」として二社にまつられ(祓度社、祓戸社)、また、残りの一社は常願寺川上流部の「勝妙滝社」、つまり、現在の称名滝の滝神としてまつられていました。
 この称名滝の古名である「勝妙滝」については、『今昔物語』に、次のように記されてもいました。

■地獄ノ原ノ大滝
ソノ地獄ノ原ノ谷ニ大ナル滝アリ、高サ十余丈ナリ、コレヲ勝妙ノ滝ト名付ケタリ、白キ布ヲ張レルニ似タリ。

 熊野・那智滝は落差130メートル余ですが、立山の称名滝=勝妙滝は落差350メートルで、名実ともに日本一の大滝です。この両大滝の滝神として瀬織津姫はあります。瀬織津姫は「滝の精」だとしていたのは、立山町隣りの大山町にある滝社(「富山県の瀬織津姫祭祀社」のA)の由緒説明の言葉です(『大山町史』)。この称名滝=勝妙滝から流れ出す川は、現在、称名川とされていますけど、かつては常願寺川と呼ばれていました。常願寺川の川神は新川姫だというのが雄山神社の「案内」説明ですが、富山市内の三川神社の主祭神=瀬織津姫は「上新川」からやってきたとされますし(氏子談)、同市の新川神社の大新川姫命=白山比当スは、かつて常願寺川河口部にまつられていました。白山の元神(の一神)は別山神=小白山神とも異称された瀬織津姫でした。
 常願寺川の川神とされる新川姫でしたが、この川の滝神として瀬織津姫の名があったことは、新川姫=瀬織津姫=姥尊といった異称同神の等号式成立の可能性を想定させます。
 問いをいいかえれば、瀬織津姫は姥尊か、となります。瀬織津姫は白山の元神でもありましたが、この神は、まさに姥尊同様に、三途川に関わる神でもあったことは、白山側の文献がすでに示していました。

■仏土・涅槃の彼岸に渡す神
一度梵宮神仙の峯に詣る衆生は、永く三途の旧里に出ず、五道大神なり。瀬織津比唐ニ云う神、苦業の因[もと]を救うべし。西の麓を死出の山と云う。三途河流れ、五色水澄[すみ]て五蘊の垢を洗う。妄業の闇忽[たちまち]に晴れ、籃[かご]の渡しに及ぶ。険難の三途大河を亘[わた]りて、現身[うつしみ]に於て直[ただち]に見仏聞法の仏土に至る。情有りて唱うべし。生死[しょうじ]の大河を渡り涅槃の岸に至る。(「白山大鏡」『白山信仰史料集』上村俊邦訓訳)

「瀬織津比唐ニ云う神、苦業の因[もと]を救うべし」──立山においても、ここに出てくる「死出の山」や「三途河」のロケーションは揃っていますが(「嘉永元年(1848)ころの立山芦峅図」町史所収)、この三途川の彼岸の仏土(の入口)に設定されていたのが、姥堂という装置でした。閻魔堂で懺悔したあと、女たちは白布を敷きつめた姥堂への道を目隠しされて歩いていき、姥堂に入ると、そこで姥尊(たち)と闇の中で対面します。そこでの衆僧の勤行のあと、堂背後の扉が開かれると、夕陽に輝く立山=浄土の光景が眼に飛び込んでくるというドラマティックな演出がなされます。ここで「浄土」を目の当たりにした女たちは、まさに現世=苦界の「苦」を禊いで再生したと体感したにちがいありません。その引導者こそが姥尊でした。先の言葉は「姥尊と云う神、苦業の因[もと]を救うべし」といいかえて、まったく遜色はないというべきでしょう。
 ちなみに、瀬織津姫は、中臣神道側においては「姥神」という解釈がなされてもいました。

■瀬織津姫は三途川の姥神か
『大祓詞』の最古の注釈書といわれる『中臣祓注抄』では、「速川の瀬」を「三途の川なり」と説明しており、『神宮方書』においては「瀬織津姫は三途川のうばなり」と書かれております。人々が犯した罪穢れを剥ぎ取り、生まれたままの姿に戻す働きの神であるともいえます。(佐久奈度神社由緒書)

 これは、瀬織津姫を「祓神」として策定した(大祓祝詞=中臣祓がつくられた)社だとされる、佐久奈度神社(大津市)の祭神説明の項の記載ですが、佐久奈度神社は、自社の主神を「姥神」とのみ説明しているわけではなく、別の箇所で、瀬織津姫は「川に宿る大自然神」と記していることも添えておきます。それはともかく、朝廷=国家神道の本道といってもよい中臣神道が、あるいは神宮側が、瀬織津姫を「三途川のうばなり」とみなす認識をもっていたことは、関係世界に影響をもたらさなかったはずがありません。
 このように、姥尊=姥神の背後に瀬織津姫という神の存在が浮き立ってくるわけですが、芦峅寺・雄山神社側は、姥尊の背後に新川姫という神の存在を主張していました。瀬織津姫と新川姫──両神はどこでつながるのかについては、これも伊勢にもどって考えてみる必要がありそうです。
 伊勢の地にもまた新川神社が存在していました(『神宮要綱』)。祭神は、「大水上神の御子、新川比売命」とされます。大水上神については、内宮側の認識は滝祭神と同神としています(『神宮典略』)。滝祭神は瀬織津姫の異名でしたから、これをそのまま新川神社の祭神説明にあてはめますと、「瀬織津姫の御子、新川比売命」となり、新川姫は瀬織津姫の子神ということになります。むろん神々の親子関係(神統譜)における子神は、「人」が自身を子神と自称あるいは他称するときは例外ですが、神の領域においては、原則、親神の分身=分神=分社神という意味があるのみで、けっきょくは親神と同神であるということです。つまり、新川姫は、伊勢においては瀬織津姫と異名同神であり、これは、立山においても例外ではないということです。
 なお、大新川命(男神)についてもこれはいえます。富山の新川神社は、大己貴命は大新川命と同神だとして奉祭していたと述べていました。この大新川命を「饒速日命七世孫。垂仁天皇の御世に大臣となり物部連公の姓を賜う」とみれば(『先代旧事本紀』脚注)、これは物部氏が祖神と仰ぐ太陽神=日神を基本的に語っているということで、それが大己貴と仮称されているとみることができます。その後「新川」と呼称される地に物部氏(の同族)の開拓進出があったとみるなら、これは、かなり古いできごととなります(四・五世紀ごろのことか)。
 新川が物部氏ゆかりの地名であることを是としますと、これはこれで、瀬織津姫との関係が新たにみえてきます。物部氏と饒速日[にぎはやひ]という太陽霊=日神(男神)の関係は濃厚に確認できますが、一方、同氏は水霊神(女神)を奉戴してもいました。この水霊神は、高良神から宗像神へとたどることができます。伊勢(志摩)の磯部氏もまた物部氏(の同族)でしたが、瀬織津姫は伊勢からたどってみても宗像神にゆきつきます。
 伊勢神宮が成立し、皇祖神の創作を保証する書として古事記→日本書紀が完成されたとき、伊勢の元神の二神(日水神=男女神)は、正規の神まつりの舞台から降ろされ、一方は、たとえばアラハバキと呼ばれる神ともなります。そして一方の水神=女神は、その対神異称として荒祭宮=アラハバキ姫とも呼ばれることになります(近江雅和『記紀解体』参照)。
 こういった朝廷あるいは中臣=藤原氏という祭祀権力による隠祭の力は、七世紀後半から稼動しはじめます。立山は文武の「夢告」による勅命によって開山されたとする伝承もあります(「当国神社仏閣名所」『和漢三才図会』)。大宝時代(持統─文武時代)、新川姫の背後の神の名は、すでに隠匿される方向へと動きだしていました。各地の開山伝承は、そこが先住の重要神の山であり、その神まつりを仏教的に置き換える、強くいえば「改竄」するという行為を伴っていました。そして、後に垂迹神として登場する神々は、当初の神々(の名)とはまったくちがって、つまり、記紀における神々(の名)で主神の座にすわることになります。
 立山から伝播=勧請されていった姥尊=姥堂が、明治維新の神仏分離令によって「橋姫神社」となった例もあります(新潟県津川町、廣瀬誠前掲書)。姥尊が橋姫神となる事例です。新潟のこの橋姫神社の現在の祭祀状況については未確認ですが、京都・宇治川の同名社、つまり橋姫神社の神は、宇治川上流の桜谷(佐久奈度神社の地)から大化二年=646年に勧請されたもので、これも瀬織津姫とされています(「富山県の瀬織津姫祭祀社」のF「橋宮神明宮」の「橋宮」も、瀬織津姫を「橋」の守護神、いいかえれば、黒部川の川神・守護神(洪水鎮護の神)としてまつっていたものでしょう)。

(4) 立山地主神とはなにか
 立山の地主神は、刀尾天神とされます(『立山町史』)。この刀尾神は、芦峅寺・雄山神社においては、「立山若宮=天手力雄神(号…刀尾天神剣岳神、本地不動明王)」として「立山大宮=伊邪那岐神(号…立山権現雄山神、本地阿弥陀如来)」と同格にまつられています。岩峅寺・雄山神社においては、刀尾神は境内社の扱いで、ここにも両雄山神社の祭祀意識のちがいが表れています。芦峅寺・雄山神社の主祭神二神は、前述したように、のちの垂迹神をそのまま祭神名としたもので、これらが、剣岳、雄山の元神の名を表しているものでないことはたしかです。このことは、雄山神社前の常願寺川対岸の大山町の刀尾社(『大山町史』によれば、合祀されたものまで含むと全九社)のすべてが、天手力雄神ではなく、その祭神を素盞嗚命としていることからもいえます。立山剣岳神=刀尾神は、天手力雄神か素盞嗚命かといった問題ではなく、元神を隠祭するときに不動明王に仮託された神がいるはずで、それが、本来の立山剣岳神になります。
 芦峅寺・雄山神社は二社によって構成されています。一つは立山大宮=立山権現雄山神で、境内案内によれば、「姥堂と並び立山信仰の中心社堂」とされます。一方の立山若宮=刀尾天神剣岳神は、「古来より立山若宮権現と称し、刀尾天神二十一末社の総本宮」「大岩の上に建てられているので、通称イワのミヤといわれている」とされます。刀尾天神剣岳神は、「神」として表れるときは「刀尾天神」(まだ仮称ですが)、「仏」として表れるときは「不動明王」(正確にいえば仏の守護神ですが)とされます。「イワのミヤ」は大姥大神=イワナガヒメの宮でもあったことが考えられます。
 町史収録の史料に基づいて「立山」における姥尊の祭祀過程をここで整理しておけば、持統晩年にあたる大宝元年=701年に、文武の名による「勅命」によって立山の地神は新川姫とされ、和銅七年=714年に、元明の「勅願」によって「布橋大灌頂」という新川姫の姥尊化が行われます。そして平安期の大同年間に、最澄によって姥尊の視覚化・造像化がなされた、となります。強い禁圧(勅命)のもとに「異貌の神」として表出されたのが「姥尊」とみられます。
 剣岳神の本地仏は「不動明王」であり、それが新川姫=姥尊と淵源において習合するとなりますと、剣岳神=刀尾天神と新川姫=姥尊あるいは石長比売=磐長姫のすべてに共通して秘められている神は自ずと限られてきます。岩手(早池峰郷)においては、明治の神仏分離(判然)のときに、多くの不動明王・不動滝の背後の神は、まさに滝神である瀬織津姫とみなされました。また、伊勢の朝熊・同御前神社においては、五十鈴川の川神である瀬織津姫を隠祭するときに使用された神名は、苔虫神という磐長姫の異称でした。
 一方、「姥堂と並び立山信仰の中心社堂」(立山若宮の影の薄さは姥堂が代替しているゆえ)とされたのが立山大宮でした。この大宮神=雄山神とはなにか、ですが、これは、布橋大灌頂会の「夕陽に輝く立山」というクライマックスシーンがよく象徴していましたが、端的にいえば、雄山神は、「夕陽」=日の神です。日神が影向する、降り立つ山が布橋大灌頂会の「立山」ですが、正確な山名をいえば、これが「雄山」です(立山という単独の山名がないのは白山と一緒で、立山は立山連峰の総称)。姥堂の東方に聳える雄山(夕陽に輝く雄山)に「浄土」を見立ててこそ、立山大宮神の本地仏として「阿弥陀如来」が設定されたとみることができます(滝社=瀬織津姫を鎮守社としていた大川寺住職の談では、立山はもともと薬師信仰だったとのことです。としますと、消えた薬師の問題は、これも早池峰山と同じこととなってきます)。
 ともかく、布橋灌頂会という、苦界の女たちの浄土行を支えていたのが、姥尊(新川姫)であり、立山権現(雄山神)の両男女神でした。変則の権現思想をさらに剥がしたときに現れてくる神々が、「立山信仰の中心」あるいは深層・核[コア]を構成しています。
 万葉時代、大伴家持は「立山」を「たちやま」と歌っていました。この「たちやま」はまさに「太刀山」で、転じて「剣岳」になったと考えられます。現在の剣岳を直接の源流山とする川が「立山川」と命名されているには(上市町)、理由があることといわねばなりません。この立山川は下流で、早月川と名を変え、ここには瀬織津姫とみるしかない、「折戸」の水神民話が今も語りつがれています(この民話「与平お宮」は、囲炉裏夜話719「白山神と桜谷神へのメモ」に収録)。
 なお、剣岳の山容のイメージからは、剣岳神は男神のようにもおもえますが、これは、記紀において、日の男神が女神に変更されたことと関係している可能性があります。つまり、アマテラスとスサノウの擬似的な対関係(「誓約(うけひ)」の場面)にみられる、元神たちの「性転換」の問題です。つまるところ、アマテラスは男系日神の天照大神を、スサノウは水霊の女神の瀬織津姫を、それぞれの核に秘めて(性転換して)創作表出されていることが考えられ、このことが、おそらく、大山町において、刀尾神=剣岳神が「素盞嗚命」とみなされた理由かとおもいます。
 こういった「ねじれ」の関係を強制されてはいるものの、立山の地主神は、刀尾天神=剣岳神であり、かつ新川姫神=姥尊でもあったとみられます。伊勢および白山においてもそうでしたが、立山もまた、その「地神」=地主神(の一神)は、共通して瀬織津姫とみることができそうです。
 記紀が創作・仮装した表層祭祀を演じる神々(正確には「演じさせられている」神々)に深く隠匿された、秘められた神として「瀬織津姫」という神を抽出してきますと、そこに逆照されてみえてくるのが、一方の消えた「対神」である男系日神の存在といったところでしょうか。
 立山(の雄山)は、たしかに夕陽が映える山のようです。一方、剣岳は、常願寺川沿いの芦峅寺、岩峅寺を中心に展開された「立山信仰」とは別格の孤峰であり、これは、白山三山(白山信仰)のなかで独立峰を構成する「別山」の存在とよく似ています。剣岳神の本地仏=不動明王が手にもつ「剣」は、剣岳の刀地獄の峰々を構成していますが、わたしには、この「剣」の要塞のような剣岳のイメージは、長く執拗に祭祀改竄の対象とされてきた立山[たちやま]の神々の、静かな「怒り」の表象のようにもみえます。

(5) 補記
 立山の姥尊信仰について、これは、もともと白山からやってきたと「推定」していた先人に五来重さんがいます。

■立山と白山との深い関連
美濃登拝道の石徹白には中居神社が現存する。この中居神社の前にも布橋があって、ここでも布橋灌頂行事が行はれたことを推定されたのは五来重博士であった。博士によれば、白山中居神社の行事が立山に伝はって芦峅の行事に花開いたのであらうといふ。立山と白山との深い関連については、今後究明すべき重大な問題をはらんでゐるのであらう。(廣瀬誠、同前)

 五来氏の「推定」、つまり、美濃・石徹白[いとしろ]の白山中居神社前にも「布橋」があって、ここで「布橋灌頂行事」が行われていたという推定については、現在、わたしはそれを肯定するにしても否定するにしても、関連史料も伝承も手元にありませんのでなんともいえませんが、少なくとも、白山の元神が、立山の姥尊信仰の要に存在していた可能性については、今回ふれることができたかとはおもいます。
 わたしたちは、立山の「開山」および祭祀の変容(立山神の姥尊=姥神化)が、すべて「勅命」によるものであったことをみてきましたし、立山開山とほぼ同時代に、同じく「勅命」によって祭祀変容がなされた白山の例も知っています。また、立山・白山の開山→元神祭祀の変更にいたる、朝廷サイドの国家構想に基づく祭祀思想の発生・動向・過程については、これもすでに別にみてきています(囲炉裏夜話794「瀬織津姫探究の現在」ほか参照)。
 おもえば、「瀬織津比唐ニ云う神、苦業の因[もと]を救うべし」──こういった一行を記録していた「白山大鏡」の史料価値はとてつもないものです。同書の筆者は、藤原道長の三男・藤原能信とされます。作者の真偽はわかりませんが、瀬織津姫隠祭の歴史的濁流のなかで、こういった一行をものすることができた白山信仰の関係者がもしいたとすれば、おそらく一人しかいないのではないかとおもいます。それは、朝廷の勅命によって白山祭祀の改竄に加担し、また瀬織津姫隠祭の鎮魂のために各地に桜植樹を行っていた、泰澄その人です。泰澄のこの背反する心意を汲めないと、引用の一行は書けないはずです。「白山大鏡」の作者は、泰澄の行為の闇の部分をよくわかっていたというべきか、あるいは、泰澄自身が自らの行為(勅命による白山祭祀の改竄)を裏切るようにして、密かにこういった瀬織津姫讃歌を残していて、それが心ある白山信仰者に伝えられてきたのではないかと想像したくなってきます。
 時代は江戸期まで下りますが、この泰澄の心意を理解できた造像者かつ遊行の仏者が、美濃に生まれます。円空です。円空は、白山信仰の真っ只中で生をうけ、また若い頃、美濃の山中で、瀬織津姫を滝神とする滝で修行してもいました(高賀六社の一つ、滝神社)。滝神社には、平安末期作の十一面観音が確認されています(高橋教雄『美濃馬場における白山信仰』八幡町)。十一面観音は、遠野においても、早池峰神=瀬織津姫の「本地仏」でした。円空は最初期、(天照)皇大神像を「男神」として彫っていました。彼は、伊勢の元神たちを知っていたと考えるしかありません。円空が終生彫りつづけた仏が、白山の本地仏でもある十一面観音であったことは、あまりに示唆的です。

(追伸)
 前回「天武像の転換」で、「大友皇子」と打つべきところが「大伴皇子」になっていたり、「あった」の「た」が抜けていたり、ちょっと粗雑な文章(校正度の低い文章)でアップしてしまいました。いつもですと、書いたあと一日くらい寝かせて、何度か読み返して(業界用語で「推敲」といいます)、それから掲示板へ流すのですが、少し手抜きした分、こんな始末になりました。
 今回の立山の話──またミスがあるかどうか、気づかれた方はそっと教えてください。

802 白山神から立山・姥尊へT 風琳堂主人 2003/11/14 00:54

(1) 大伴家持の証言歌から
 能登半島東部(雨晴海岸あたり)から目に入る立山連峰の山容は、衝立あるいは屏風のように、有礒[ありそ]海(富山湾)の背後(南)に聳えていて、峰々が雪を頂いている光景は、大伴家持が万葉集に残した歌のとおりで、実に神々しく映ります。

■大伴家持の「立山賦」
天ざかる 鄙[ひな]に名懸[か]かす 越[こし]の中 国内[くぬち]ことごと 山はしも 繁[しじ]にあれども 川はしも 多[さは]に逝[ゆ]けども 皇神[すめがみ]の 領[うしは]き坐[いま]す 新川[にひかは]の その立山[たちやま]に、常夏[とこなつ]に 雪ふり敷きて 帯[お]ばせる〔後略〕(『万葉集』巻17、歌番4000)

 万葉集原文では、「たちやま」は「多知夜麻」と表記され、後世に「たてやま」=立山と呼ぶようになったことがわかります。ともかく、家持は、立山は「常夏」雪を頂いている(帯びている)と歌ったのでした。
 家持のこの歌で、わたしがおやっとおもったのは、その立山讃歌の歌心もさりながら、「皇神[すめがみ]の 領[うしは]き坐[いま]す 新川[にひかは]の その立山[たちやま]に」というフレーズです。ここで歌いこまれた「皇神」とはなにを指すのか、また、皇神が「領き座ます」とされる「新川」とは郡名なのか川名なのか、という小さな疑問です。
「新川」は、新川郡の名で現在にまでつづいていて、家持が歌った「新川」はまず郡名のそれであることが考えられますが、ではその郡名はどこから起こったのかと遡及しますと、新川神という神名の可能性がみえてきます。このことを由緒に明快に記している神社が、富山市にあります。

■新川神社「由緒」(1)
(祭神)大己貴命、大新川命、天照皇大神、白山比当ス、琴比羅神、建御名方命
(鎮座地)富山市新庄町字屋敷割173
(由緒)
 国史大系によれば新川「上中下」の郡名も新川神社の祭神、大新川命の御名から起ったと言い伝えられています。そのころ清和天皇の時代に従四位上を授けられ、県内の式外社としては、最高の位に昇り、中古天文の頃累代新庄に住した新庄城主三輪飛騨守長職[ながもと]の守護神であったが三輪氏は上杉氏に滅ぼされた後、元亀、天正の戦国時代に轡田[くつわだ]備後守、新庄城主となり、なお崇敬の念厚かったと誌るされています。
 社殿の所在地は志麻の郷の入島野(現在の五本榎)であったが、元和元年(一六一五年)常願寺川の夏の洪水で社殿浸水したので、新庄城外高台であった町新庄の現在の地に遷座されたのであります。
 江戸時代中期より維新まで立山権現の前立社とされ、新川一郡の崇敬の的となり立山参詣者は必ず当社に参詣しまた水神として新庄郷の人々に崇拝されています。春の大祭に行なわれる「どべ」祭は古代のすがたを今につたえるもので、民族〔民俗〕資料として国内ではまれにみる行事と思われる。(富山県神社庁『富山県神社誌』)

『富山県神社誌』から読み取れることを要約しますと、新川の郡名は、「新川神社の祭神、大新川命の御名から起った」とされ、この新川神社は、「元和元年(一六一五年)常願寺川の夏の洪水」で現在地に遷座したが、それ以後、つまり「江戸時代中期より維新まで立山権現の前立社」として、また「水神」として、「新庄郷の人々に崇拝」されたということです。
『神社誌』は「新川神社の祭神、大新川命」について、引用以上の説明をしていませんが、神社を訪ねてみますと、境内石碑には、次のように書かれていて、この石碑を刻んだ氏子の人たちの「思い」が伝わってきます。『神社誌』の内容と重複するところもありますが、全文を転記します。

■新川神社「由緒」(2)
 祭神は大己貴命・白山比当ス・天照大神・菅原道真である。大己貴命は、大新川命、白山比当スは大新川姫命として尊崇された。
 貞享二年(一六八五)の由来書に「白山、神明、天神云々」とある。四柱は新川四社権現とも称された。
 戦国時代、志麻郷の八島野(現五本榎)に社殿あり、新庄城の守護神であった。新庄城廃城後、新川郡近郷の住民は農耕神・水神として信仰し、五穀豊穣、村内安全、厄除けを祈願した。
 元和元年(一六一五)常願寺川の洪水に遭い、現地に遷宮された。
 江戸中期から明治にかけ、雄山神社前立社殿として立山登拝者はよく参詣した。
 明治二年(一八六九)郷社となる。
 昭和四十五年、新社殿を御造営。
 現在、琴比羅神、建御名方命を合祀、益々尊崇篤い。(境内石碑「新川神社由来」)

「貞享二年(一六八五)の由来書」には、「白山、神明、天神云々」と、「白山」を最初に記しているようですが、このことは、「大己貴命は、大新川命、白山比当スは大新川姫命として尊崇された」という表記と呼応しています。富山の新川神社において、「白山比当スは大新川姫命」と伝承されていることは重要なこととおもいます。
 新川神社は「雄山神社前立社殿」として機能したわけですが、では、この雄山神社において、「大新川姫命」の痕跡はないのかという問いも生じてきます。
 雄山神社は、常願寺川沿いに、上から芦峅寺[あしくらじ]の雄山神社、下流の岩峅寺[いわくらじ]のそれと、二社あります。雄山神社(芦峅寺中宮)の境内には、治国社(通称「宝童社」)の名で、祭神を新川姫神とする末社があります。新川姫は、雄山神社にたしかに存在しています。雄山神社の案内を読んでみます。

■治国社=宝童社「案内」
御祭神 新川姫神
 本来、大川(常願寺川)を司る神として祀られ、現今俗に耳垂れ地藏さまと申し、首から上の病気の守護神として、又、子育ての守り神として深く信仰さる。
 祭礼 春祭 四月十六日、秋祭 十月十六日(「雄山神社芦峅中宮略記」)

 なんともとりつく島もない説明ですが、新川姫の性格は四つ、つまり、@大川(常願寺川)を司る神、A耳垂れ地藏とも呼ばれる地蔵尊を本地仏としていること、B首から上の病気の守護神、C子育ての守り神、とのことです。
 神社側の説明だけでは、大川(常願寺川)の川神=水神として新川姫はあるということ以上には、よく伝わってきません。

(2) 姥尊と新川姫
 ところで、「立山山麓の宗教村落は岩峅・芦峅と併称されるが、岩峅に斎[いつ]くのは立山権現であった。これに対して、芦峅の信仰の中心は姥尊[うばそん]を祀る姥堂であった」とされますように(廣瀬誠『立山黒部奥山の歴史と伝承』桂書房)、立山の芦峅寺地区における立山信仰の中核をなしているのが、この姥尊、姥堂です。
 立山の姥尊信仰の特徴は、一言でいえば、「地獄」の思想を背景とし、擬死再生を演じるも、その対象者は「女人」であるということでしょう。その意味で、山に登れない女たちのための女人堂として姥堂はありました(男たちは立山登拝によって、浄土行を果たし、「再生」を可能とした)。
 江戸末期まで、この姥尊信仰は隆盛を極めましたが、明治初年の神仏分離令による国家神道の復古再生が具体化しますと、この姥尊は「醜体、言語道断の邪神」であるとして、姥堂は取り壊されます(視覚化された姥尊像は、どれも顔がただれた老婆像ですので、たしかに一見「醜体」にみえますが、これは表面上のことです)。

■邪神とされた姥尊
明治初年、廃仏棄釈のときは、「醜体、言語道断の邪神」として、まっ先に捨てられて魚津の真言宗実相院にひきとられ、堂は破却された。(廣瀬誠『立山黒部奥山の歴史と伝承』)

 廣瀬氏はまた、この姥堂は「古社新川神社」だとする芦峅寺の人々の思いがあったことを、次のように記してもいました。

■姥堂は新川神社か
 芦峅の姥堂信仰は、明治維新廃仏棄釈のすさまじい力で押し流された。式外の古社新川神社であると附会して復古を願い出たが、すでに手おくれで、朱塗り入母屋造の姥堂は破却され、姥尊像は売り払はれた。(廣瀬誠、同前)

 わたしがここで問うてみたいのは、「式外の古社新川神社であると附会して復古を願い出た」の「附会」についてです。
 明治初年、姥堂=姥尊は「醜体、言語道断の邪神」として、姥尊は売り払われ、姥堂は破却されたのでしたが、しかし明治九年、芦峅寺の人々は、再度、「再興」を願い出ていて、そのときの願書が町史に収録されています。

■旧社再興之儀ニ付願(明治九年二月二十四日)
先般、諸神社御調湮埋ノ社地検覈[けんがく]致考証可差出旨御布達ニ付、御届申上置候、私共村内ニ往古ヨリ新川神社ト伝承仕候神形石五町ノ社地御座候、其勧請年月不詳候得共、貞観九年又同十八年両度ニ神階ヲ授ケ給ヒシ新川姫命トハ、正ニ此神社ニ御座候、然処、漸次仏法隆盛ノ機運ニ付、新川姫ト申御名ニ因テ老婆ノ木像ヲ彫刻仕、姥尊ト称シテ本殿ニ勧請シテ至重ノ神形石ヲ其境内清浄地ヲ撰ビ、柵ヲ構ヘテ安置仕、鳥居等取除候、奉仕ノ社僧三十三名神職五名都合三十八名罷在候、然処、建久年間頼朝卿治世ニ当テ社領御寄付ニ相成候、其後応仁ノ兵乱ニ神殿並其証書等焼亡仕候、〔中略〕明治二巳年三月社僧別当三十三名ノ者復飾ノ儀及出願候ヘハ、願之通旧藩ヨリ被申渡候〔中略〕於爰姥尊像並堂宇等廃棄仕候、右神形石ハ旧来村内御鎮座ノ大宮ニ遷座仕候、且ハ旧記及村中古老ノ伝承等取調並前田利光卿ノ判物写一通相副指上之候間、何卒御詮議ノ上、社号御免許被仰候ハバ、雄山神社末社大宮内ニ、新ニ建築鎮座仕度、依テ別紙絵図面相添上之候間、此段御聞済被下度、村中一同伏テ奉懇願候恐惶謹言(『立山町史』上巻 文中の「姥」のつくり「老」は「?」)

 芦峅寺の「村中一同伏テ奉懇願候恐惶謹言」のその後について、町史は、「新川神社の再興は、証拠不十分として認可されず」としています。しかし、その後どういった経緯があったのかはわかりませんけど、現在、この新川神社は、前述したように、宝童社(境内看板の表示は「治国社」、宝童社を「通称」と添え書き)の名で、雄山神社境内末社として存在しています。
 それはともかく、ここには、「新川姫ト申御名ニ因テ老婆ノ木像ヲ彫刻仕、姥尊ト称シテ本殿ニ勧請」とあり、芦峅寺の人々にとって、姥尊の背後には新川姫という神が存在している主張・認識があったわけです。これを、廣瀬氏のように「附会」とみなしてよいかどうかですが、結論から申しますと、これは、芦峅寺の伝承どおりで、付会ではないとなります。
 姥尊信仰の最重要儀式の一つは「布橋灌頂」と呼ばれています。女性たちを救済したとされる、この儀式の概要をまずみておきます。

■布橋大灌頂会の概要
 諸国から参詣者は、まず閻魔堂(幽界)に入り、十王の審判を受ける。すべての罪を懺悔し、汚れをはらった女人は、白経帷子[きょうかたびら]の死装束を着け、白布を捧げて姥堂谷に架かる天ノ浮橋を、盛装した長老役僧や、色衣をまとった衆僧に導かれて姥堂(浄土界)に入る。その際、姥堂衆僧の出迎いもあった。
 衆僧の勤行があり、やがて立山連峰が夕日に輝くころ、東方正面の板唐戸が押し開かれ、遥か立山の勇姿を目のあたりに拝させ、以って、諸仏の止住する浄土に到達し得た思いにひたらせたという。
 この時に受けた血脈を、納棺すれば、極楽往生ができると説き、また法会に使用された白布壱千三百六十端は、立山別山頂上の、硯ヶ池の白水で経が刷られ、立山経帷子として諸国の信仰者に配布され、その代価は衆徒の大きな財源となった。(『立山町史』上巻 文中の「姥」のつくり「老」は「?」)

 布橋というのは、「姥堂谷に架かる天ノ浮橋」のことで、これは、閻魔堂から姥堂までの道を白布を敷き詰めたことによる命名です。また、「法会に使用された白布壱千三百六十端は、立山別山頂上の、硯ヶ池の白水で経が刷られ、立山経帷子として諸国の信仰者に配布」とある「立山別山」ですが、ここには白山権現堂があり、そこの「硯ヶ池の白水で経が刷られ」、経帷子として仕立てられたようです。「布橋大灌頂会」で使用された白布は別の意味で再生したということです。この帷子には、白山神の神威が「経」のかたちで刷り込まれ、それを特に「立山経帷子」と呼んだということです。ちなみに、「芦峅の経帷子が一番よく売れたのは女郎屋であった」とされます(廣瀬誠、前掲書)。立山まで「灌頂会」に出向くことができない苦界の女たちが、せめてもの気持ちで、この「立山経帷子」を身に着けたことが想像されます。
 富山市の新川神社においては、新川姫と白山神は同神という認識・伝承がなされていました。また、立山の姥尊の儀式に使用される白布にも、白山神の神威の投影がみられます。さらに、明治期、姥尊は新川姫をいいかえてまつったものだという認識が存在しました。
 ここで、立山において新川姫の信仰が姥尊信仰へ変貌したのはいつかという問いも生じてきます。ここに「立山御姥尊布橋大灌頂法会勤〔勧か〕進記」(「姥」のつくりは「?」)という興味深い史料があります(『立山町史』所収)。この勧進記には、文武天皇の大宝元年(701年)に、佐伯有若越中守の嫡男である有頼(=慈興上人)が立山開山をなしたあとのこととして、姥尊信仰の始まりが「勅願」によってなされたことが記されています。

■布橋大灌頂執行を命じた元明天皇
 人王四十三代元明天皇の和銅七年仲春の頃、禁裏に参内を遂げ、立山開峰の奇瑞の始末を奏聞するに、忝なくも御勅感ありて、数ヵ条のご綸旨を請け、誠に尊かな永劫毎歳秋の彼岸中日に布橋大灌頂執行のご勅願なり。〔中略〕
そののち人王五十代桓武天皇再び御勅願有りて、天台・真言両宗兼学の御令旨を賜り、布橋大灌頂の秘法を修行せしむ。

 布橋大灌頂会の成立と継続に、二人の天皇の「勅願」があったことが記されています。もとより、立山開山の年とされる大宝元年=701年にしましても、「文武天皇の勅命により開山」とされていましたから(「雄山神社芦峅中宮略記」)、立山開山から布橋大灌頂会の成立にいたる経緯には、すべて朝廷の意向が反映されていました。こういった勅命・勅願を由緒作成時に捏造することは「畏れ多い」ことですから、これは「史実」とみなしてよかろうとおもいます。なお、開山時の文武の勅命は、実質的には持統太上天皇のそれとみるべきでしょうし、和銅七年=714年の元明の勅願にしましても、元明の背後に右大臣・藤原不比等の存在を読み取るべきでしょう。また、和銅七年という年は、その二月十日に「従六位上の紀朝臣清人と正八位下の三宅臣藤麻呂に勅し、国史を選修させた」とありますように(続日本紀)、日本書紀の創作・編纂が本格化する年でもありました。
 養老元年=717年には、白山祭祀の改竄がすでに、これも勅命によってなされていましたが、それに先行するかたちで、立山祭祀における改竄、つまり布橋大灌頂会=姥尊信仰の成立があったとみることができます。この布橋大灌頂会が大衆化するのは中世以降ですが、その濫觴=始まりが勅命・勅願によるものであったことは軽い問題ではないというべきでしょう。
 おもえば、明治期、芦峅寺の人々は、新川姫から姥尊へという祭祀変貌は、もともと朝廷の「勅願」によるものであったと主張できたでしょうが、たとえそれを述べたとしても、新川姫祭祀の「復古」は認められたとはおもえません。それは、おそらく、当局による証拠不十分、「醜体、言語道断の邪神」の判断があったからというよりも、新川姫という仮称神名が背後に隠している神こそが、本質的に忌避されたことを想像してみる必要があります。
 新川姫とはなにか、です。

803 瀬織津姫神格形成過程の転換 穂国幻史考管理人・柴田晴廣 2003/11/20 17:03

 まずは、「竜田風神とはなにか」についてから、見ていきたいと思いますが、その前に、もう一度、書紀の成立過程について整理したいと思います。
 書紀の著述は、雄略紀からはじめられます。持統五(六九一)年のことです。
 雄略紀は、雄略即位前紀からはじまります。
 雄略紀から読みはじめても一つの読み物として完結しています。
 つまり、書紀の著述がはじめられた持統五(六九一)年の時点では、神代から安康紀の編纂の予定はなかったと推測できます。
 天孫降臨逸話が挿入されるのが、書紀巻二・神代下です。そして、天孫降臨逸話の主人公として登場するのが、皇祖神・アマテラスなわけです。
 つまり、持統五(六九一)年の時点では、皇祖神・アマテラスを書紀に登場させる予定がなかったと推測できます。
 これは、想像になりますが、持統五(六九一)年の時点では、推古朝に記録された天皇記・国記あるいは天武朝に記録された帝記・旧辞の神代からの記録をそのまま採用していたとも考えられます。仮に、これらの記録に、皇祖神アマテラスが、きさいされていなかったとすれば、持統五(六九一)年以降に皇祖神アマテラスの概念が確定したと考えられます。これらの記録が現存しないことからもこれらの記録に皇祖神アマテラスという概念は、なかったと考えられるのではないかと思います。
 書紀の神代から安康紀の著述がはじめられるのが、慶雲四(七〇七)年、天武紀の著述がはじめられるのは、持統紀の著述とどう時期にはじめられたと考えられますから和銅七(七一四)年以降ということになります。
 草壁が死去した持統三(六八九)年、人麻呂は、挽歌に「天照日女尊」を登場させていますから、日の女神の萌芽は朧気ながらあったとは思います。しかし、それを書紀という『史書』に登場させることが確定的になったのは、慶雲四(七〇七)年ということになります。
 皇祖神アマテラスを容れる器が完成したのが、文武二(六九八)年一二月二九日、おそらく、この容器の建設の着工時には雄略紀から天智紀が一応の完成をしていたと考えられます。
 雄略紀から天智紀が一応完成したことから、次の段階として、天照日女尊を皇祖神アマテラスに昇化させる作業に取り掛かったと考えるのが自然ではないかと思います。

 ここからが、本題です。
 まず、「豊受皇太神御鎮座本紀」「伊勢二所皇太神宮神名秘書」などの伊勢側の資料は、当然、中臣神道成立以後に編纂されたものであり、それをもって、瀬織津姫が当初(天智時代)から「日の男神と対神関係」をなしていたとするには、無理があろうかと思います。
 また、風土記については、和銅六(七一三)年五月二日に編纂が命じられます。
 古事記編纂の開始は、書紀の神代から安康紀の著述が完了を受けてのものと考えられます。古事記の編纂が開始されるのが、和銅四(七一一)年九月一八日です。
 これ以前に、書紀神代から安康紀の著述は完了していたと考えられます。
 風土記の編纂が命じられるのが、和銅六(七一三)年五月二日ですから、伊勢国風土記逸文の伊勢津彦の逸話は、書紀の神代から安康紀の著述の完了後ということになります。
 そして、和銅七(七一四)年二月一九日、持統紀の著述並びに全体の潤色、加筆が促されるわけです。
 天武紀の著述の開始が先か、伊勢国風土記の著述の開始が先かの問題はありますが、天武紀の竜田風神と伊勢津彦の風神プラス日神としての神格の牽連性は否定できません。
 天武紀の著述が先であれば、伊勢津彦の逸話は、竜田神の補強のために書かれたと考えられますし、伊勢国風土記の著述が先であれば、竜田神の著述の参考資料として書かれたと考えられます。あるいは、併行して著述がはじめられたということも考えられますが、いずれにしても牽連関係は否定できません。

 なお、佐久奈度神社の神宮寺といわれる若王寺の本地仏が「大日如来」とされているということですが、「大日如来」となれば、一般的に、密教以降ということになるかと思います。
 これをもって祓―禊の神であり、かつ、「日の男神と対神関係」をなす瀬織津姫の神格形成を書紀成立以前に遡らせるのには無理があると思います。

 次に、『天武像の転換』について

 壬申の乱は、いうまでもなく、『大事件』です。この大事件において、リーダーの天武が気弱であったとして、成功したでしょうか。
 上述のように、天武紀は、持統紀の著述がはじめられる和銅七(七一四)年から著述がはじめられます。
 書紀の編纂は、持統により計画されます。
 仮に、持統が雄々しかったのであれば、壬申の乱(巻二八・天武上)において、巻九の神功像のような持統像を描くのが自然ではないかと思います。
 しかし、全体からみれば、そのようには描かれておらず、「兵に命じて味方を集め」、「死を恐れぬ勇者数万に命じて、各所の要害をかためた」と書かれているに過ぎません。
 また、「近江の朝廷には左右の大臣や智略にすぐれた群臣がいて、共に議ることができるが、自分には事を謀る人物がいない」という天武の台詞にしても確かに近江朝には、左右大臣が与いています。これは当然のことでしょう。しかし、吉野側には、続々と兵が集ってきます。
 身近に頼る人物がいないのは、天武より腹を痛めた子・草壁一人のみの持統の方であったと思います。
 そうしたことが、天武の口を借り「ただ、年若い子供があるだけである。どうしたらよいだろう」と持統の気持ちを吐露させたのではないかと思います。
 確かに持統には、皇位争奪の意志あるいは皇位継承への執着は強かったと思います。それゆえ、天武の死後、いち早く大津事件で大津皇子を排除したと思います。
 仮に壬申の乱当時から持統にそうした意思及びそれに伴う力があったとすれば、大津事件は、それ以前に起こっていたのではないでしょうか。
 これらのことからも『天武像の転換』は無理があるのではないかと思います。
 むしろ、祓―禊神としての神格は、天智朝まで遡れるが、「日の男神と対神関係」をなすという神格が加味された瀬織津姫の成立は、持統朝以降と転換するのが辻褄が合うように思います。

 最後に、瀬織津姫の神格の成立過程の転換ということで、本論とは、関係ありませんが、一言触れれば、私たちは、『瀬織津姫』という漢字を『せおりつひめ』と読み習わしています。
 しかし、当初から『瀬織津姫』という漢字を『せおりつひめ』と読んでいたのでしょうか。
 むしろ、『せおりつひめ』と振り仮名を打つより、『せおつひめ』の方がより古いのではないかと思います。
 そして、『せおつひめ』は、『そうつひめ』あるいは『しょうつひめ』と発音されていたのではないかと思います。

804 倭大国魂神とはなにか 風琳堂主人 2003/11/23 13:24

 論争することは別にかまいませんが、読者不在のところで掲示板を占有するわけにはいきませんので、新しい読者にもわかるように、論争の焦点を少し書いておきます。
 柴田さんと風琳堂主人との、ここのところの一連のやりとりについてですが、その水面下の焦点は、要するに、伊勢の元神祭祀の改竄に関して、天武は関与していたか否かということにはじまります。柴田さんは、天武時代まで、伊勢祭祀(一宮)の祭祀実態は「男体の日神であった」とする天武完全「無罪」説、わたしは、広瀬大忌神および竜田風神の連続祭祀が天武四年=675年に開始されることと、持統の主導的関与の可能性があることから、いわば執行猶予付き天武「有罪」説ということになります。
 柴田さんからは、自身の天武無罪説を証明するため、森弘達『日本書紀の謎を解く』、筑紫申真『アマテラスの誕生』を援用して、いくつかの疑義・疑問が提出されました。わたしのほうは、それらの問いが考えるに値するもの、あるいは応えるに値する問いと判断したものについては、これまで可能なかぎりの応答をしてきました。
 今回の「瀬織津姫神格形成過程の転換」は、前回までのわたしの応答への再批判を複数含む内容となっています。
 批判の全項目に対して、反証・反批判を提示・展開することは、一点を除いて、そうむずかしいことではなく、ただ、それをここで即座にしますと、論議が泥沼化する可能性があります。この泥沼化を、こっそりと喜んでいる者がいるとしますと、これはかなり胸糞わるいことです。
 ここで反批判がちょっと困難かなとおもえる「一点」についてのみ述べておきます。これは、読者の関心とも共有できそうにおもえますので、考えてみるに値することと判断しました。つまり、柴田さんの批判以前の言辞から抽出できる唯一の問いは、「対神祭祀はいつからはじまったのか」ということになります。柴田さんは、「持統朝」以降だろうという「推測」を書いていました(この推測を書かせる動機の淵源は、これも天武無罪説にありますし、別のいいかたをすれば、森弘達氏の書紀の成立過程の「仮説」をどう読むかという批評の問題にいきつきます)。
 わたしの考えでは、皇祖神=アマテラスは、対神祭祀の破壊と置き換えを代償として成立している可能性がある、となります。内宮神=天照大神と外宮神=豊受大神は擬制的な対関係を秘めていて、これは、丹波(丹後)の元伊勢・籠神社の祭祀に原型がある(あった)というのがわたしの見通しですが、ここは未調査ですので、今日現在では、断言はできません。ただ、広瀬大忌神(=瀬織津姫)が主神であったはずの広瀬神社は、現在、その主祭神を若宇加能売神(配祀:櫛玉命、穗雷命)としていて、しかも同社は「若宇加能売神」を外宮神と同神と主張しています(瀬織津姫は現在、境内・祓戸社の祭神とされていて、多くの祓戸社をもつ他社と同じ作為の下にあります)。この広瀬神社の主張は、外宮神もまた瀬織津姫を秘めている可能性があることを「証言」しているのと一緒だとなります。丹後半島から、豊受大神と瀬織津姫は異称同神であるとする伝承が一つでも採取できるなら、対神祭祀の根本のところはかなりはっきりするものとおもっています。この対神祭祀のはじまりを「いつ」とみるかについては、わたしの仮説では、海を照らして寄りつく神=天火明命=天照大神が列島へやってきて、その上陸が在地神=土地神に許されたときではないか、となります。
 この土地神と対神祭祀に関わりそうな話を一つ拾ってみます。
 日本書紀は、崇神条で、宮中に天照大神と倭大国魂神の二神をまつっていたが、その神威をおそれて、宮中の外にまつったと記載していました。崇神あとの垂仁の世に、宮外に出された天照大神は伊勢に鎮座したとなっていますが、天照大神と倭大国魂神も対関係を構成していたとみますと(「先に、天照大神・倭大国魂、二神を、天皇の大殿の内に並祭る」…書紀)、倭大国魂神はそもそもどんな神なのかという問いも浮かんできます。
 書紀は、崇神時代、疫病が万延して国内の半分以上の人が亡くなった、そして、この国難は大物主神の意思によるものだという神託の話を載せています。大物主神は、いわゆる「祟り神」とみなされています。しかし、「祟り神」は大物主神だけでなく、もう一神いました。それが、倭大国魂神です。書紀は、この二神をまつったことで、国内の疫病はようやく終息したと書いています。
 宮中の二神のうち、天照大神は皇祖神とする必要がありますから、これを「祟り神」とするわけにはいきません。大物主神はここで、天照大神の影武者的な神として登場させられたとみることができます。
 この宮中の二神に関わる祝詞に「祟神[たたりがみ]を遷[うつ]し却[や]る」があります。この祝詞は、国家非常時に唱されるものですが、ここには、「皇御孫の尊の、天の御舎[みあらか]の内に坐す皇神等は、荒びたまひ健[たけ]びたまふ事なく」あるいは「祟りたまひ健[たけ]びたまふ事なく」というフレーズがあり、(国家非常の事態を招来する)神よ、どうぞ荒れくるったり祟りをしてくれるなという祈りがうたいこまれています。「天の御舎の内」とは宮中のことで、そこにまつられている「皇神等」が、まさに「祟り神」とみなされています。この祟り神としての「皇神等」が、書紀の崇神条に登場する宮中二神(天照大神と倭大国魂神)を指している(あるいは含んでいる)ものと考えられます。
 書紀(神功皇后条)が記す最高の祟り神は、天照大神荒魂=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(『神宮要綱』いうところの荒祭大神)でした。この荒祭宮と「並祭」されていたのが高宮=多賀宮で、現在の内宮=神宮におけるかつての元宮二宮が、宮中の「祟り神」としての「皇神等」の二神に対応しているとみることができます。
 倭大国魂神は、日本大国魂神、倭大神、大倭大神とも表記され、この神は「穂積臣の遠祖大水口宿禰」に憑依して、「太初の時に、期[ちぎ]りて曰はく」として、次のような神託をしたとされます(書紀、垂仁条)。倭大国魂神曰く、「天照大神は、悉[ことごとく]に天原を治[しら]さむ。皇御孫尊は、事[たくめ]に葦原中国の八十魂神を治[しら]さむ。我は親[みづか]ら大地官[おほちつかさ]を治[しら]さむ」──。これが「太初の時」からの約束事だというのは、書紀の創作者の思想がよくもわるくも反映しています。ともかく、倭大国魂神は、「我は、親[みづか]ら大地官[おほちつかさ]を治[しら]さむ」と述べた、神託したというのです。「大地官」というのは、語注によれば、地主神、国魂とのことで(岩波版『日本書紀』)、としますと、ここには、倭大国魂神は倭国の地主神の総元締め的な神という性格が語られていることになります。高橋連虫麻呂は、富士山の「水のたぎち」(滝神)は「日本[ひのもと]のやまとの国」の要=鎮めの神だとうたっていました(『万葉集』巻第三、319)。倭大国魂神と富士山神は、その性格を共有するものでもありましょうし、龍田大社の一方の女神「国御柱命」も、当然無縁な神名ではないでしょう。
 このように考えますと、外宮神ばかりでなく、祟り神としての倭大国魂神にも荒祭大神=瀬織津姫が潜んでいる可能性がみえてきます。ちなみに、古事記においては、崇神時代の祟り神は、大物主神、墨坂神、大坂神、坂之御尾神、河瀬神の五神と表記され、倭大国魂神の名はありません。書紀は、祟り神としての大物主神と倭大国魂神の二神の祭祀とは別立てで、墨坂神と大坂神の祭祀も記していましたので、日本書紀創作時に消去されたのは、坂之御尾神、河瀬神の二神でした。そして、書紀に新たに登場=創作された「祟り神」が倭大国魂神なのですが、この消去と出現に対応関係があるとしますと、記が記す祟り神の坂之御尾神と河瀬神が、倭大国魂神の前神なのかもしれません。坂之御尾神がはっきりしませんけど、河瀬神は明らかに水神=川神です。大祓祝詞の文言「速川の瀬に坐す瀬織津比唐ニいふ神」をみればわかるように、瀬織津姫はまさに河瀬神でもありました。
 祟り神としての対神構成をなすときは、大物主神と倭大国魂神としますと、大物主神の山とされる三輪山にも、同じ対神祭祀の痕跡があるはずです。それがおそらく、花鎮祭で知られる狭井神社(正確な社名は狹井坐大神荒御魂神社)の(大物主)大神荒魂神という水神ではないかとおもわれます(現在は、大物主神も同居祭祀。延喜式神名帳では「狹井坐大神荒御魂神社五坐」とされ、この「五坐」は当時、古事記が記す祟り神の五神を表していたのかもしれません)。
 持統朝以降(あるいは記紀成立以降)に対神祭祀がはじまったのは、これは、元の対神祭祀をぼかすために新しくつくられた、「それなり」の対関係をもつ神々という意味では、そのとおりでしょう。具体例でいえば、龍田大社のシナツヒコ・シナツヒメとか、伊勢の外城田川の本来の川神を隠すための寒川彦・寒川姫とか、河口神=水門神の速秋津彦・速秋津姫などの安直な対関係がそうです。挙げればまだたくさんありますが、これらの新しい例と、伊勢の元神祭祀の対関係を同列にみることはできないと考えます。伊勢側の文献は中臣神道成立以降の成書だから、そこに対関係の祭祀を記してあったとしても、それは「新しい」のだとみることはできません。中臣神道こそが、根源的対神祭祀を破壊し、擬似的な対神祭祀を新たに創出した元凶でもあります。伊勢側の文献でも、特に外宮側の文献は、中臣神道の支配に対しては「被害者」の側面もありますから、中臣神道の規範を、ときには逸脱する伝承を記録しているとみるべきでしょう。
 今回はただ「一点」のみの話に留めておきます。

(追伸)
 その他の、「瀬織津姫神格形成過程の転換」の批判に対する反批判を、囲炉裏夜話の読者はほんとうに読みたいとおもっているのかどうか──。正直、ここが判断に迷うところです。すでに三人の読者からはすべて「ノー」という意見をもらっています。もしほかにもご意見があるようでしたら、ぜひお寄せいただければとおもっています。
 こういった逡巡をするのは、「一年前」の自説執着の闖入者とはちがって、柴田さんは、囲炉裏夜話にとっては最初からの常連、かつ有力な書き手の一人でもあるからです。
「瀬織津姫神格形成過程の転換」というタイトルがよく示していますが、これは主人の「天武像の転換」を意識したものです。
 ここで、率直な話に絞ります。
「天武天皇は、壬申の乱で近江朝廷を滅ぼした。絶大な権力を掌握し、専制的中央集権国家を作ろうとした。天武は律令と国史を車の両輪と考え、両者の編修事業に着手した」(森弘達『日本書紀の謎を解く』)──ここには、通説どおりの「強い」天武像が書かれていますが、ここでいわれている「専制的中央集権国家」とは天皇制律令国家と同じ意味でしょう。柴田さんのこれまでの天皇制批判の言辞と、天武擁護の言辞は、どのように自己撞着、矛盾せずに同居、あるいは認識されているのか、わたしの理解をちょっと超えています。
 柴田さんが天武擁護に傾く心情・動機について、忌憚のないところを書いてくれれば、あるいは読者とも共有できる話になるようにおもっています。その程度には、囲炉裏夜話の読者を信用してもらっていいのではとおもっています。同じことをわたしにあてはめてみます。つまり、わたしが「瀬織津姫」擁護に傾く心情・動機があるとすれば、これははっきりしていて、日本の神々の歴史において、もっとも疎外かつ受難をこうむってきた神が瀬織津姫だからだ、となります。この疎外と受難の深層に、わたしたちの「心」の同質問題を重ねることもできます。
 天武擁護に傾く心情・動機を伏せたところで、あるいは天武無罪説を絶対化した、瀬織津姫という神に関する建設的な考証・論考はちょっとむずかしいのではないか。もしこれ以上、天武擁護を胸に秘めて自論を展開したいならば、ご自分のホームページでやられたほうがよいようにおもいます。

 今日11月23日は新嘗祭の日ですが、昨日(昨夜)は、どうも特別の日だったようです。「日本書紀、古事記によって歴史から消された天照国照大神饒速日命尊の鎮魂祭が、現在、毎年十一月二十二日の夜皇居で行われている。このことだけでも日本書紀や古事記などは、全然相手にされていないことがはっきりしている」(原田常治『上代日本正史』)。原田さんの神々考は少し独断が勝っていて援用はできないのですが、こういった「事実」を公開してくれただけでも価値はあるとおもっています。奇しくも、関連する話を載せることになりました。

805 ろうそくの写真が出てます セオリツ 2003/12/13 20:39

こんばんわ、お久しぶりにこちらにお邪魔します。
管理人さん、この度、宮崎県の延岡の御陵神社さん
のホームページに神社さんで変形したろうそくの画像が追加されました。ろうそくのロウがまるで白蛇のようになってます。数多くの中の数枚ですが、やはり、
これも、瀬織津比賣のお力のひとつなのでしょうか
画像の場所はホームページの御陵神社ではこんなことものろうそくの写真の上のnewpage2htmへのリンクをクリックすると出てきます。やはり、瀬織津比賣は
すごい女神様ですね。

806 遠野は雪原 風琳堂主人 2003/12/14 11:31

 昨日朝4時、遠野に、もどりました。
 北上・江釣子インターから約50キロ東へ走ると遠野盆地なのですが、インターを降りて北上川=日高見川を渡ると、なぜかほっとする自分に気がつきました。
 国道107号線から283号線へ出て少し走ると遠野盆地の入口です。107号線の山中は、12月だというのに濃霧で、しかし283号線の遠野盆地へはいると、そこは雪国といいますか、稲刈りあとの田は一面の雪原で、これが遠野あるいは瀬織津姫の原風景だなとおもいながらハンドルをにぎっていました。
 それにしても長旅でしたが、おもえば、瀬織津姫という神を考えるきっかけは、まさに遠野にはじまりますので、これは原点にもどれということなのかもしれません。
 東北・八戸自動車道の地図をみていて、おやっとおもったことが一つあります。それは、八戸自動車道の、二戸市あるいは九戸村になるかとおもいますが、「折爪サービスエリア」という名のSAがあり、このSAの近くには折爪岳という山(852m)があることです。この山は、馬淵川流域の山で、山名のオリツメという名は、やはり瀬織津姫=セオリツヒメと関係があるのではないかと、なかば直観的におもった次第です(馬淵川河口には瀬織津姫をまつる社が二社ありますし)。この折爪岳がもし瀬織津姫ゆかりの山としますと、瀬織津姫はどのように、この山と「ゆかり」をもつようになったのかという素朴な問いが湧いてきます。こういった小さな問いに対して、遠野という場から答えようとした試みからはじまり、瀬織津姫考の現在があります。
 ところで、風琳堂主人の瀬織津姫に関する論考は、あまりに長文で、掲示板に入れるには長すぎるというのは、これまでにも某読者からたびたびに指摘されてきたことでした。これからは、瀬織津姫考のコーナーをHP本体に設け、そこへ入れるようにし(写真なども添えられますので)、また、これまでの囲炉裏夜話の同じく「長い」ものは、推敲をし、そこへ移すことをすべきかとも考えています(今、またまた長い「瀬織津姫神名考」を準備中ですが、これから移します)。
 囲炉裏夜話=掲示板につきましては、年内で一度閉鎖し、ホームページそのものの構成を改造するつもりです。
 上記、瀬織津姫考のコーナーを掲示板の外に設けようとおもった理由を書いておきますと、掲示板は、自分がおもっていたよりもはるかに「密室」だということに気がついたからです。試みに「瀬織津姫」というキーワードでネット検索をしてみたのですが、囲炉裏夜話の「厖大」な瀬織津姫考はまったく検索外で、これはちょっとショックでした。掲示板のなかでどれだけ書いても、床屋談議、井の中の蛙の論議以上にはならないということ──。これまで、ホームページを立ち上げて日が浅いからだろうなどといわれ、そういうものかとおもって、掲示板の「公的」な拡がりの可能性を信じてやってきました。しかし、これまでのことがすべて密室の談議だったかもしれないというのは、これは「今」、やはり再考すべきときと考えています。
 ホームページの「中」改造をする必要があるなというおもいもあって、遠野へもどってきました。「改造」のカタチがはっきりしてきましたら、またお知らせします。
 主人がホームページに自由に関われるのは「掲示板」のみで、それも自身の書き込みのみという、このド素人性が、囲炉裏夜話=掲示板に過剰に負荷をかけてきた理由でもあります。ホームページを自分の手で加工・創造できるみなさんがうらやましいです。

 遠野物語や同拾遺を読めばわかりますが、遠野の「不思議」をいいだしたら、ロウソク云々どころの話ではありません。わたしは、遠野のさまざまな「不思議」に「感動」できる資質を根本的にもっていませんが、笑って受容することはできます。もしこの世に、霊魂あるいは神霊の働きがあるとすれば、それは、人の「心」の投影、反映だろうという認識です。
 瀬織津姫という神は(も)、もともと「普通」の神であるという話は、「瀬織津姫神名考」で展開しています。近いうちにアップします。

807 瀬織津姫は風習の中の神様 児島 2003/12/17 09:13

せおりつひめとは女神様の呼び名であり、風淋堂さんの憶測による推測では無いのです。伊勢神社に祀られているのも関りがあるから祀られていたという限定の上で考察されるのであれば、よろしいかと、又偽の考察が公開されては神の威光に反する態度行動と見られても致し方御座いません、啓上。推測は民主の世の中ですから、何もないかと存じます。

808 瀬織津姫は自然の中の神様 風琳堂主人 2003/12/18 08:13

「遠野は雪原」と書いたら、あれよあれよというまに雪は融けてしまって、山々の頂き部分が白い半纏をきているくらいで、今年は、今のところどうも「暖冬」のようです(遠野の天女=羽衣伝説をもつ遠野富士=六角牛[ろっこうし]山だけは、なぜか全面白装束ですが)。
 瀬織津姫とのご縁で、かなり親しくおつきあいさせてもらっている日本の神様がほかにもいます。たとえば──。
「名前を勝手に変えられてしまって大変でしたね」
「瀬織津姫さんにくらべたら、まだワシはいいほうだ」
「どうしてですか」
「そりゃ、ワシはまだ禍[まが]を直す神(直日神)とされているからのう」
「そうですね、瀬織津姫は禍津[まがつ]日神などとされ、まさに悪神扱いでしたからね」
 これは、気吹戸主=イブキドヌシとの対話です。
「あなたの神威を利用して、いろいろと商売している人間どももいるようですね」
「それで、だれかがほんとうに救われるならよろしいでしょう」
「そうですか、寛大なことでけっこうです。ところで、今、人間たちにいちばん望むことはなんでしょうか」
「……」
 これは、瀬織津姫との対話です。「……」に何を読み取るかは、「人間」側の問題です。わたしはここに、水の思想をおろそかにしてきた「人間ども」の歴史を読んでいます。

■囲炉裏夜話への投稿条件
最低でも、ご自身のメールアドレスは表示いただくことを、これからの「投稿」の条件といたします。うっかりミスはともかく、アドレスを意図的に匿名化したものは、その内容を問わず、原則、削除の対象となります。(囲炉裏夜話746「初心をおもう──囲炉裏夜話の考え方U」)

 ここのところ鷹揚に対応してきましたが、以降の投稿から、上記原則を適用します。
 児島さん、そしてセオリツさん、よその掲示板へ書き込むときの基本ルール、礼儀をまったく知らないようですね。瀬織津姫を忌避・消去する思想が一方にあり、一方には、瀬織津姫を利用する思想がある。囲炉裏夜話は、この両思想ともに無縁です。
 黙認はここまでです。セオリツ、児島のお二人は、以降の投稿をお断りします。

(追伸)
 今、囲炉裏夜話の全目次と投稿者名を入力しています。まだ、三分の一ほど進んだところですが、あらためて高濃度な掲示板だったなとおもいながらの作業です。日本の神々と歴史を考える上で、この「密室」には、大きなヒントがぎっしりと詰まっていることはまちがいありません。多少の誤説・誤読が散見されるにしても(反省を含む)、それをはるかに上回るヒントの宝庫で、心ある読者が自由に、必要な事項や考え方を閲覧できるようなカタチにしたいです。

809 はじめまして 言蛇 2003/12/24 23:56

はじめましてこんにちわ、言蛇と申します。
実は自分の贔屓の絵描きさん(*1)が東北出身ということで以前からこの掲示板や「エミシの国の女神」を楽しませていただいています。特に「エミシの国の女神」は風琳堂主人の郷土愛が綺麗に滲み出ていて、瀬織津姫の代弁者としてピッタリと感じていました。

ただ「エミシの国の女神」では瀬織津姫と桜を強く関連づけられていますが、遠野という場から瀬織津姫を考え現代の時代に生かして行くにはちょっと弱いかなとも感じました。幸い早池峰山は「日本のエーデルワイス」に例えられているハヤチネウスユキソウという高山植物が紹介に活用されていたりします。瀬織津姫と現実の遠野を結び付ける象徴(*2)として、記記や万葉集等々に書かれている故人達にとり憑かれない為のオマジナイにピッタリな植物と思いますので次の著作等に活用していただければと思いました。

今回は主人が久々に遠野の自然に心を戻していられるみたいですので一人の山好きとして今回は伺わしていただきました、それでは今回はこれにて失礼させていただきます(謝

(*2)「瀬織津姫そのもの」とするか「瀬織津姫の子」とイメージするかは創作者として主人におまかせいたします。
(*1)雁歌さんという方です(http://www1.odn.ne.jp/kariga/)
    言蛇自身はむしろこちら(http://www.apple.fm/~rierunomori/index.html)に常駐しています。

810 遠野三山とヒカリゴケの山 風琳堂主人 2003/12/26 03:01

 言蛇さん、はじめまして。本と囲炉裏夜話をお読みいただいているそうでお礼申し上げます。
 本では、瀬織津姫という神の基本像と、早池峰の神となる「旅」(受難の旅ですが)のアウトラインを描ければ、まずはよしかといった終わり方をしています。現在は、桜神としての瀬織津姫像も新たに確定されつつあり、また、本では捨象せざるをえなかった、ほかの神社祭祀の実態や、そもそも瀬織津姫とはどういう神であるかといった根源の問いに対して、どう考えるか、どう答えるかといった試みが、そのまま囲炉裏夜話の話の展開・軌跡を構成しているかとおもいます。この思考と応答の試みは、主人一人のものではなく、囲炉裏夜話という共同空間でなされてきました。
 遠野三山(早池峰山1917m・六角牛山1294m・石上山1038m)には三女神がいるというのは遠野物語の記すところでしたが、これら三女神の親神として瀬織津姫をまつるというのが、伊豆神社です(遠野市上郷町来内)。早池峰神社は遠野三山神の一神として瀬織津姫をまつるも、この伊豆神社の神「瀬織津姫命」を「親神」とみていて、遠野の早池峰信仰の原点・始発点は、伊豆神社にあります。
 早池峰山の山霊を精霊にまで純化して、その化身として、ハヤチネウスユキソウという花を象徴的に語ることは、たぶん可能だとおもいます。ただ、こういった純化の発想をするには、わたし自身が創作的な感性へシフトする必要があるようです。ハヤチネウスユキソウは、とても可憐でピュアな花ですから、主人の雑種的感性では、どうもケはずかしい「創作」ですが。
 ところで、早池峰山の南に対面するように聳えているのが現在の薬師岳です。遠野物語は同山を、鶏頭山、前薬師と記載していましたが、ここには遠野の秘境滝である又一の滝があります(附馬牛村誌によれば、同滝神もまた瀬織津姫)。この薬師岳に土地の人の案内で登ったという遠野の友人の談によりますと、この山には、登山道から少し脇に入った岩場の陰に、東北あるいは全国的にみても珍しい「ヒカリゴケ」が生えている箇所がいくつかあるそうです。写真を見せてもらいましたが、その黄金の緑に輝く苔の神秘性に妙に魅かれるものがありました。瀬織津姫はこの山から早池峰山へ遷ったという説もあり、としますと、もともとの遠野三山の一つは、この薬師岳がそうで、その北の奥ノ院(要=カナメ)的な霊山が早池峰山だったのではないかともおもえてきます。つまり、遠野三山+早池峰山という構成です。こう考えますと、先にふれました、三山の一神かつ三山神の親神がともに瀬織津姫だという矛盾伝承の実態もみえてくるようです。要するに、三山の一神は早池峰山に遷るも、もとは薬師岳=鶏頭山=前薬師の神であったこと、そして遷移後、早池峰神は三山神の「親神」となったという推定図です。
 現在の薬師岳(1645m)は、早池峰山(1917m)に比べますと標高は低いですが、それでもほかの二山に比べればはるかに高い山です。また、山容は早池峰山よりもはるかに美しいです。遠野郷にとっては、又一の滝(支流の滝川源流部)が象徴していますが、遠野盆地の主川である猿ヶ石川(北上川支流)の源流山である薬師岳こそが、実質的な水源山でもあります。

(追伸)
 囲炉裏夜話の全目次をアップしました。タイトルと投稿者名を、念のため個々に確認をお願いします。なお、今月30日まで、これまでの囲炉裏夜話の運営法あるいは主人の瀬織津姫考について、どんな意見・批判でもかまいませんので、ぜひお寄せいただければとおもっています(次のコヤシにさせていただきます)。31日に、まとめてご挨拶させていただくつもりです。

811 今年もお世話になりました。 GOTO 2003/12/26 18:55

風琳堂ご主人殿。

過去ログ目次拝見させていただきました。
重厚な考察が数多くある中で、私の駄文などまであるとは、恐縮至極です。(^^;
趣味の旅行に瀬織津姫探しという新たな楽しみを加えていただいたのも、こちらのサイトのおかげです。本当にありがとうございます。
年末は伊豆七島の式根島に行く予定です。伊豆と事代主、何か発見がありましたら、また寄らせていただきます。
それでは、良いお年を。

812 囲炉裏夜話から千時千一夜へ 風琳堂主人 2003/12/31 15:36

 囲炉裏夜話をごひいきいただき、運営管理人として、あらためてお礼申し上げます。
 先日、夜話の目次をつくっていておもったのですが、これは、掲示板の書込みとしては、図らずも、共同作品として一個の世界をつくっているなという印象を受けました。少し自賛的に書かせていただきますと、ここには、未知の扉を開けようとする「熱」が底を流れていて、ときに「過熱」はあるものの、稀有ともいうべき「読める」掲示板世界を現出させているようです。
 この「熱」がどこからやってくるのかを考えますと、これは、いうまでもなく、瀬織津姫という謎の神の存在に、その源はあります。日本の長い信仰史において、あるいは神仏混淆の歴史において、中臣思想によってつくられた祓神(祓戸大神)というこの神に対する固定像は、少なくとも囲炉裏夜話においては、自明の前提ではありません。たとえば、瀬織津姫は、なぜ不動明王や十一面観音と「習合」するのかといった問いを立ててみればよいかとおもいますが(ときに弁才天とも習合する)、この神がもっている多様な性格があります。「瀬織津姫といふ神」(中臣祓の文言)が、「祓神」という性格に固定的におさまるものでないことは明らかで、そこに、この神がもっている謎も魅力もあるといえます。
 この謎解きは、次の掲示板あるいはHPにも継続されます。
 ここで、新しい掲示板について、少し予告をさせていただきます。
 囲炉裏夜話は本日で幕をおろし、年明けからは「千時千一夜──瀬織津姫&円空情報館」というタイトルではじまります。ただし、この新掲示板においては、囲炉裏夜話のマイナス部分の反省に立って、また新しい書き込み者の登場を願って、いくつかの「投稿条件」をうたうことにしました。
 その一つには、字数制限があります。具体的には、「字数は1000字以上1600字以内」となっています。これは、主人自身を含むこれまでの問題投稿が、この条件外にあった反省から設定するものです。また、掲示板として、やはり「読める」ものにしたいといいますか、新しく訪れてくれた読者が読んで楽しい(ときにはタメになる)ものにしたいということもあります。
 スタッフからは、書き込みが激減するのではないかという危惧も出されていますが、そうかもしれません。しかし、たとえば、瀬織津姫に関する同じ質問をいただくにしても、その質問を発するには、その前の「心的」な闇の過程があるはずで、そこのところを「言葉」に表していただいたら、この「1000字」はそう困難な壁ではないのではないかと考えています。
 掲示板は、たとえ「密室」であるにしても、やはり「公」的な場所だということに変わりなく、少なくとも「千時千一夜」においては、読者不在の私信・私言のやりとりはしないという姿勢でいければとおもっています。
 末筆となりましたが、囲炉裏夜話の幕をおろすにあたって、これまでの読者と投稿者のすべてにお礼申しあげます。ありがとうございました。よい年をお迎えください。

(追伸)
 風琳堂の電脳顧問であるサコウさんによりますと、掲示板の切り替えがなるまでに、少しタイムラグがあるそうです。正月明けくらいには、新しいホームページと掲示板が公開される予定です。



囲炉裏夜話番外論議



柴田晴廣◆風琳堂主人



はじめに

 囲炉裏夜話803、柴田晴廣さんの「瀬織津姫神格形成過程の転換」に対して、風琳堂主人の応答・真意が読みたいという「住所不明記」の方のメモのような投稿をいただきました。これは、囲炉裏夜話終了後に寄せられたもので、また条件外の投稿ですので、無視するという対処法もあります。しかし、そういった希望をもっている人が少なくとも一人はいるということは事実のようですので、「囲炉裏夜話番外論議」として書き込みをいたします。
 ただし、わたしが一回、それに対して、柴田さんが一回、それでおしまいというのが条件です。
 連続して読めるように、柴田さんの当該の投稿から記載します。

■囲炉裏夜話803──20031120(木)
瀬織津姫神格形成過程の転換
柴田晴廣

 まずは、「竜田風神とはなにか」についてから、見ていきたいと思いますが、その前に、もう一度、書紀の成立過程について整理したいと思います。
 書紀の著述は、雄略紀からはじめられます。持統五(六九一)年のことです。
 雄略紀は、雄略即位前紀からはじまります。
 雄略紀から読みはじめても一つの読み物として完結しています。
 つまり、書紀の著述がはじめられた持統五(六九一)年の時点では、神代から安康紀の編纂の予定はなかったと推測できます。
 天孫降臨逸話が挿入されるのが、書紀巻二・神代下です。そして、天孫降臨逸話の主人公として登場するのが、皇祖神・アマテラスなわけです。
 つまり、持統五(六九一)年の時点では、皇祖神・アマテラスを書紀に登場させる予定がなかったと推測できます。
 これは、想像になりますが、持統五(六九一)年の時点では、推古朝に記録された天皇記・国記あるいは天武朝に記録された帝記・旧辞の神代からの記録をそのまま採用していたとも考えられます。仮に、これらの記録に、皇祖神アマテラスが、きさいされていなかったとすれば、持統五(六九一)年以降に皇祖神アマテラスの概念が確定したと考えられます。これらの記録が現存しないことからもこれらの記録に皇祖神アマテラスという概念は、なかったと考えられるのではないかと思います。
 書紀の神代から安康紀の著述がはじめられるのが、慶雲四(七〇七)年、天武紀の著述がはじめられるのは、持統紀の著述とどう時期にはじめられたと考えられますから和銅七(七一四)年以降ということになります。
 草壁が死去した持統三(六八九)年、人麻呂は、挽歌に「天照日女尊」を登場させていますから、日の女神の萌芽は朧気ながらあったとは思います。しかし、それを書紀という『史書』に登場させることが確定的になったのは、慶雲四(七〇七)年ということになります。
 皇祖神アマテラスを容れる器が完成したのが、文武二(六九八)年一二月二九日、おそらく、この容器の建設の着工時には雄略紀から天智紀が一応の完成をしていたと考えられます。
 雄略紀から天智紀が一応完成したことから、次の段階として、天照日女尊を皇祖神アマテラスに昇化させる作業に取り掛かったと考えるのが自然ではないかと思います。

 ここからが、本題です。
 まず、「豊受皇太神御鎮座本紀」「伊勢二所皇太神宮神名秘書」などの伊勢側の資料は、当然、中臣神道成立以後に編纂されたものであり、それをもって、瀬織津姫が当初(天智時代)から「日の男神と対神関係」をなしていたとするには、無理があろうかと思います。
 また、風土記については、和銅六(七一三)年五月二日に編纂が命じられます。
 古事記編纂の開始は、書紀の神代から安康紀の著述が完了を受けてのものと考えられます。古事記の編纂が開始されるのが、和銅四(七一一)年九月一八日です。
 これ以前に、書紀神代から安康紀の著述は完了していたと考えられます。
 風土記の編纂が命じられるのが、和銅六(七一三)年五月二日ですから、伊勢国風土記逸文の伊勢津彦の逸話は、書紀の神代から安康紀の著述の完了後ということになります。
 そして、和銅七(七一四)年二月一九日、持統紀の著述並びに全体の潤色、加筆が促されるわけです。
 天武紀の著述の開始が先か、伊勢国風土記の著述の開始が先かの問題はありますが、天武紀の竜田風神と伊勢津彦の風神プラス日神としての神格の牽連性は否定できません。
 天武紀の著述が先であれば、伊勢津彦の逸話は、竜田神の補強のために書かれたと考えられますし、伊勢国風土記の著述が先であれば、竜田神の著述の参考資料として書かれたと考えられます。あるいは、併行して著述がはじめられたということも考えられますが、いずれにしても牽連関係は否定できません。

 なお、佐久奈度神社の神宮寺といわれる若王寺の本地仏が「大日如来」とされているということですが、「大日如来」となれば、一般的に、密教以降ということになるかと思います。
 これをもって祓―禊の神であり、かつ、「日の男神と対神関係」をなす瀬織津姫の神格形成を書紀成立以前に遡らせるのには無理があると思います。

 次に、『天武像の転換』について

 壬申の乱は、いうまでもなく、『大事件』です。この大事件において、リーダーの天武が気弱であったとして、成功したでしょうか。
 上述のように、天武紀は、持統紀の著述がはじめられる和銅七(七一四)年から著述がはじめられます。
 書紀の編纂は、持統により計画されます。
 仮に、持統が雄々しかったのであれば、壬申の乱(巻二八・天武上)において、巻九の神功像のような持統像を描くのが自然ではないかと思います。
 しかし、全体からみれば、そのようには描かれておらず、「兵に命じて味方を集め」、「死を恐れぬ勇者数万に命じて、各所の要害をかためた」と書かれているに過ぎません。
 また、「近江の朝廷には左右の大臣や智略にすぐれた群臣がいて、共に議ることができるが、自分には事を謀る人物がいない」という天武の台詞にしても確かに近江朝には、左右大臣が与いています。これは当然のことでしょう。しかし、吉野側には、続々と兵が集ってきます。
 身近に頼る人物がいないのは、天武より腹を痛めた子・草壁一人のみの持統の方であったと思います。
 そうしたことが、天武の口を借り「ただ、年若い子供があるだけである。どうしたらよいだろう」と持統の気持ちを吐露させたのではないかと思います。
 確かに持統には、皇位争奪の意志あるいは皇位継承への執着は強かったと思います。それゆえ、天武の死後、いち早く大津事件で大津皇子を排除したと思います。
 仮に壬申の乱当時から持統にそうした意思及びそれに伴う力があったとすれば、大津事件は、それ以前に起こっていたのではないでしょうか。
 これらのことからも『天武像の転換』は無理があるのではないかと思います。
 むしろ、祓―禊神としての神格は、天智朝まで遡れるが、「日の男神と対神関係」をなすという神格が加味された瀬織津姫の成立は、持統朝以降と転換するのが辻褄が合うように思います。

 最後に、瀬織津姫の神格の成立過程の転換ということで、本論とは、関係ありませんが、一言触れれば、私たちは、『瀬織津姫』という漢字を『せおりつひめ』と読み習わしています。
 しかし、当初から『瀬織津姫』という漢字を『せおりつひめ』と読んでいたのでしょうか。
 むしろ、『せおりつひめ』と振り仮名を打つより、『せおつひめ』の方がより古いのではないかと思います。
 そして、『せおつひめ』は、『そうつひめ』あるいは『しょうつひめ』と発音されていたのではないかと思います。


■番外応答──20040110(土)
「瀬織津姫神格形成過程の転換」について
風琳堂主人

 まず「書紀の成立過程について」ですが、これは古事記の成立をどう考えるかという問題があります。柴田さんは「古事記編纂の開始は、書紀の神代から安康紀の著述が完了を受けてのもの」とする見方を提示していました(囲炉裏夜話803「瀬織津姫神格形成過程の転換」)。わたしは、神代記の記述をすでに記している古事記の成立については、坂本太郎氏の説を肯定していて、つまり、天武時代初期のこと、正確にいえば、天武十年(681)の川嶋皇子らへの「帝紀および上古の諸事」記定の勅命の前とみています。したがって、皇