熊野大神の原像──養老二年の祭祀伝承



風琳堂主人



▲室根山
    
 養老二年(七一八)、瀬織津姫神が「熊野本宮神」としてエミシの地に上陸したところが唐桑[からくわ]半島(宮城県唐桑町)とされる。同半島(舞根地区)には、その名も瀬織津姫神社が現在も鎮座している。
 熊野本宮神は、この唐桑半島から、室根[むろね]山(八九五㍍)へとまつられるが、しかし、現在の室根神社の本宮神は伊弉冉[いざなみ]命とされ、養老時代にやってきたとされる瀬織津姫の神名はここにはみられない。室根村(現:一関市室根町)のホームページは、かつて、次のような室根神社の創祀伝承を「記録」として載せていた(室根村HP)。

 室根神社に、本宮、新宮の2社あり、本宮は伊弉冉命、新宮には、速玉男命と事解男命を祀っています。
 本宮は、養老2年(718年)鎮守府将軍大野東人が、熊野神の
分霊を迎えたのが起源で、いまから1281年前のことです。(新宮は正和二年=1313年、陸奥国守護・葛西晴信の勧請…引用者)
 大野東人は鎮守府将軍として宮城県多賀城にあって、中央政権に服しない蝦夷(関東以北に住んでいた先住民)征討の任についていました。
 しかし、蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征服することができなかったので、神の加護を頼ろうと、当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁郡本宮村の熊野神をこの地に迎えることを元正天皇に願出ました。
 東北地方の国土開発に関心の深かった元正天皇はこの願いを入れ、蝦夷降伏の祈願所として東北の地に熊野神の分霊を祀ることを紀伊の国造や県主に命じました。
 天皇の命令を受けた紀伊国名草藤原の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴と、その臣岩渕備後以下数百人は、熊野神の御神霊を奉じてこれを守り、紀州から船団を組み4月19日に船出し、南海、東海、常陸の海を越え陸奥の国へと北航し、5ヵ月間もかかって9月9日に本吉郡唐桑村細浦(今の鮪立)につきました。
 この時、仮宮を建て熊野本宮神を安置しました。それがいまの舞根神社(瀬織津姫神社)です。

 瀬織津姫神は熊野・那智においては、那智大滝に象徴されるが、かつては滝神としての祭祀がなされていた。しかし、この室根神社の伝承では、さらに「熊野本宮神」でもあったことになる。これは、一見突拍子もない伝承にみえるかもしれないが、瀬織津姫神が熊野本宮神でもあったことは、ほかにもすでに事例がみられることである。

 藤原氏の氏神をまつるとされる春日大社だが、『古社記断簡』は、本殿(第四殿)にまつられる姫大神(瀬織津姫の名を封じた異称神)の本地仏について、ここも白山ほかと同じく「十一面観音」とするも、「御形吉祥天女ノ如シ、カサリタル宝冠シテ、コマヌキテ御座」と、一言主神とよく似た説明をしている。春日大社は現在、瀬織津姫神を本殿では姫大神という抽象名に変更し、この神を境内末社の祓戸神社に「大祓神」として降格祭祀をしている。『古社記断簡』は、この祓戸神社を「祓殿」とし、その説明は「祓戸明神、所謂瀬織(津)姫明神、或熊野証誠殿、御本地阿弥陀」である。熊野三宮の本地仏についていえば、熊野本宮は阿弥陀如来、新宮(速玉大社)は薬師如来、那智宮は十一面千手観音で、『古社記断簡』の記載は、瀬織津姫が熊野本宮(熊野証誠殿)の神でもあることを告げている。瀬織津姫という神は、かつては熊野大神でもあった。(『円空と瀬織津姫』下巻)

 室根神社の上記「記録」から読み取れることの一つは、当時、朝廷サイドには、タケミカヅチ=鹿島神を異敵征服の最重要・最強力な神とする記紀の発想がまったくなかったということであろう。これは『常陸国風土記』においてもそうだったが、養老二年(七一八)の時点を考えると、『日本書紀』はまだ編纂・創作の途中で、書紀の思想が各地の神社祭祀あるいは社史・誌の表記に影響を及ぼす前だということをよく表している。書紀の異族(王化を拒む勢力)に対する平定神話に記される、最後のまつろわぬ異敵神・星神=香々背男などの討伐に狩り出される鹿島神=タケミカヅチやタケハヅチなどは、書紀完成後において、神社の祭祀歴史の上に登場する新しい神だということを、この室根神社の古記録は証言している。
 鹿島神の話はおくにしても、室根神社の「記録」は、瀬織津姫は熊野本宮神として、さらにエミシ降伏の祈願神として東北=唐桑半島へやってきたとされる。また、瀬織津姫神のこの長い航海への付き添い人(警護団)は「数百人」とされ、とすると、これは、まるで天皇の行幸なみかそれ以上というべきで、この大規模な随行の様を事実とみると、ここには瀬織津姫の神威に対する朝廷サイドのただならぬ認識がよく表れているというべきだろう。
 しかし、このようにエミシの国へやってきた瀬織津姫神だったが、室根山へまつられると、いつのまにか消え、この熊野本宮神はイザナミという神に変更される。ちなみに、イザナミは熊野では熊野夫須美神の異名とされ、現在は那智大社の主神と表示されている。
 なお、東北側における、瀬織津姫神勧請の明確な記録としては、この養老二年(七一八)九月九日という因縁の日付をもつ時間は最古のものかとおもう(ここでいう「因縁の日付」とは、かつて伊勢祭祀に最初に手を加えていた天武天皇の命日が九月九日であることと、大津皇子謀殺の持統女帝に利用された川嶋皇子が謎の死を遂げていた日付が、ともに九月九日であることを指す)。
 明治二十二年の大洪水で流されるまでは、熊野本宮は、熊野川・音無川の合流部の中州にまつられていた。まさに熊野川の川神・水神としての祭祀がなされていたことは、その鎮座地形が雄弁に物語っていることである。ここに、川神・水神としての瀬織津姫がまつられていたことは、その立地をみてもまったく不思議はなかった。
 ところで、この室根神社の伝承にあるように、瀬織津姫=熊野本宮神がエミシ征服の祈願神とみなされていたとするならば、その神の名がイザナミに変更される必要はないようにおもう。朝廷サイドからすれば、エミシ征服の祈願とその成就がかなえば、瀬織津姫神は敬してまつりつづけてしかるべきであろう。しかし、穂積重義たちとともに唐桑半島に上陸し、室根山にまつられると、なぜか、瀬織津姫神の名は消える。
 これは、エミシ征服の祈願神としてその神威を利用されたあと、瀬織津姫神は、役割を終えたものとして、その名を消去されたということか。瀬織津姫の名がいつ室根山から消去されたのか、そこのところがはっきりしない。くりかえすが、熊野から長い航海をしてきて唐桑半島へ着いたとき、そこには瀬織津姫神社が現在も存在している。この上陸時点までは、少なくとも瀬織津姫神の祭祀足跡を確認できるとはいえる。
 瀬織津姫神を、蝦夷征服の祈願神という、中央サイドからみた「ご利益神」の側面だけでとらえられるならば、瀬織津姫神は熊野本宮神としてそのまま室根山にまつられつづけてしかるべきで、しかし、山上に至ると瀬織津姫の名は消えるという事実をどう考えるべきであろうか。瀬織津姫神を、「エミシ征服の祈願神」と単純にみなすには無理があるのかもしれない。
 熊野から、この東北・唐桑半島の地への遠征航海には、そこには瀬織津姫神の流罪=配流のイメージも喚起されてくる。なぜなら、熊野本宮も那智も、その後、祭祀の表面から、この熊野の本源神を消去しているからである。
 瀬織津姫神が熊野からの長い航海を行うこの養老二年の前年の養老元年(七一七)には、白山地主神としての瀬織津姫神の祭祀消去がすでに具体化されていたことも想起されるところである(『円空と瀬織津姫』下巻)。こういった、かつての柿本人麻呂とも重なる流罪=配流刑となった瀬織津姫神のイメージもありうるのではなかろうか。では、だれがこの遠流刑を指示したのか──。室根神社側の伝承は、そこに最高位の人物として、元正天皇の名を刻んでいた。
 この時代の朝廷内の事情も概観しておこう。
 白山と室根山の祭祀に共通して関わる女帝として元正(草壁皇子と元明女帝の娘、文武の姉)がいる。白山祭祀の改竄の勅命を出したのも元正、室根山にエミシ降伏の祈願神として熊野本宮神を送り込んできたのも元正女帝である。しかし、この女帝の一存で、これらの「勅」が出されていたとは考えにくい。この養老時代初期、元正は事実上、名目的な天皇であったこと(首皇子=聖武へ天皇位を引き渡す中継ぎの役目をもった仮の天皇であったこと)を考えてみる必要があろう。つまり、元正の背後には、実権を手放さない前天皇=元明が太上天皇として存在していたし、さらには、右大臣の藤原不比等の存在を考えてみる必要がありそうである。
 不比等は元明よりも二歳上だったが、持統女帝から、天皇を中心とした律令国家構想・実現の全権を引き受けたのが不比等であり、その「天皇」を天智系の皇統として、次代へ引き渡す役目を引き受けたのが元明でもあった。この不比等・元明の強力コンビが、元正の背後に厳然とあるというのは重要なこととおもう。大和からははるか西、壱岐の香椎宮であった聖母宮に対する祭祀干渉や、宇佐祭祀の神仏混淆化に法蓮を登用するなど、また東では泰澄をつかって白山祭祀を改竄したりと、神々の祭祀改竄に真に関わっていた人物は、「勅命」を出した名目上の天皇=元正というよりも、実態は、不比等および元明太上天皇であった。その他、藤原不比等が各地の神社祭祀に干渉した事例はまだ多い(『円空と瀬織津姫』上巻)。瀬織津姫神が唐桑半島に上陸した時点=養老二年(七一八)九月九日には、不比等たちはまだ健在であった(不比等が亡くなるのは養老四年(七二〇)八月、元明が亡くなるのは養老五年(七二一)十二月のこと)。
『続日本紀』によれば、養老六年(七二二)一月、佐渡への流罪刑となった重臣に穂積朝臣老がいるという。室根神社の伝承においても、この穂積氏の名があった(瀬織津姫=熊野本宮神を奉祭して共にやってきた「紀伊国名草藤原の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義」)。
 穂積氏は物部氏と同族とされるが(宇麻志麻遅を同祖とする…古事記)、中央側の記録として印象深い穂積氏として、天皇を名指しで「非難」したため、あわや斬刑に処せられそうになったとされる、この穂積朝臣老がいる。老は、首皇子(後の聖武)の「助言」によって罪一等を減じられ、彼は佐渡島へ流刑処分にされたとされる(佐渡島への流刑人第一号でもある)。『続日本紀』の該当記事を読んでみる。

(養老六年)正月二十日 正四位上の多治比真人三宅麻呂は、謀反の誣告(いつわりを告げる)をした罪により、また正五位上の穂積朝臣老は、天皇を名指しで非難した罪により、それぞれ斬刑に処せられることになった。しかし皇太子(首皇子)の助言により、死一等を減じて、三宅麻呂は伊豆の島に、老は佐渡の島に流された。(『続日本紀』宇治谷孟訳)

 穂積朝臣老は、「天皇を名指しで非難した」と書かれているが、その「非難」の内容は明かされていない。老が「死一等を減じ」られて佐渡へ配流となった養老六年には、すでに不比等はなく、また影の天皇であった元明も前年に亡くなっていて、この斬刑処分を命じた者は「名指しで非難」された天皇=元正が一応考えられるが、後年(聖武時代)、老が佐渡から帰京すると(天平十二年(七四〇)六月十五日)、元正太上天皇の中宮西院の雪かきをする老があり(梅原猛『さまよえる歌集』)、こういった関係が成立することを考えると、老の「斬刑」命令を出した者は、ここでも元正ではない可能性がある。不比等も元明もすでに亡くなっていて、では、元正の背後にはだれがいたのかということになる。
『続日本紀』は、この穂積事件の前年、つまり養老五年十月二十四日の項に、元明太上天皇の遺勅あるいは遺言ともいうべき記事を載せている。

(養老五年)十月二十四日 (太上天皇=元明が)次のように勅をした。
「およそ家の中に久しく癒らない病気があるときは、何かと平安でなく、不意に悪い出来ごとが起こるものである。汝(藤原)房前はまさに内臣[うちのおみ]となって、内外に渉ってよく計り考え、勅に従って施行し、天皇の仕事を助けて、永く国家を安寧にするように」と。

 元正が天皇位を継いだのは霊亀元年(七一五)九月だったが、それから六年たっても、元明太上天皇の力が隠然と働いている「勅」であろう。元明はこの遺勅のあと、十二月七日に亡くなる。不比等の亡きあと、元明は自らの死に臨んで、国家安寧の大任を不比等の次男=房前に託したということがみえる。この遺言の時点の右大臣は長屋王であったから、元明は右大臣を無視して、あえて藤原房前一人に「内臣となって、内外に渉ってよく計り考え、勅に従って施行し、天皇の仕事を助けて、永く国家を安寧にするように」と命じたのだった。これは、のちの天平元年(七二九)に長屋王に「死」が与えられる伏線の話として記憶してよい記事かともおもうが、ここでは脇道となるので深入りしない。
 ここで、特権的職掌のように語られている「内臣」についてだが、これは孝謙時代には藤原仲麻呂にもみられるもので、あるいは、遡って、天智時代の「内臣」として中臣=藤原鎌足の名がすでにあった。律令制度下における官僚機構に「内臣」という職掌がないことから、影の権力機構としての「内臣」について、梅原猛氏は、同記事の引用のあと、次のような鋭い指摘をしていた。

 房前は内臣となって、勅に准じて、内外に命令する大権を付与されたのである。内臣は祖父鎌足がついたという官であるが、律令にはそのような官はない。それは一種の秘書役である。天皇のそばにいて、天皇の名において政治を支配する。私は、元明上皇は房前に、元正帝を助けて政治の大権をとることを命ぜられたのであると思う。とすれば、妙なことになる。太政官という正式の権力機構以外にもう一つの権力があることになる。(『さまよえる歌集』)

 房前は、その父・不比等および元明が健在のときはあからさまに表に出てこないが、元明のあと「天皇の名において政治を支配する」「内外に命令する大権を付与された」わけで、この房前が握っている「大権」「もう一つの権力」こそが、藤原氏の政治支配の要にある権力思想の実態であろう。穂積朝臣老の「斬刑」の命は元正の名において出されたものの、その命の実質的発令者は、内臣=藤原房前であったとみなすことができる。
 元正時代における一連の神々の祭祀の改竄についても、これは不比等→房前へと受け継がれた「もう一つの権力」「大権」のなせるものとみるべきであろう。
 穂積氏は、本貫は山辺郡穂積邑(現在の天理市)とされるが、熊野国(のち紀伊国に吸収される)においては、熊野神祭祀に深く関わる一族でもあった。熊野那智大社編『熊野三山とその信仰』(名著出版)に、興味深い記述がある。
 松井美幸那智神社宮司は同書で、戦前のことだが、「奇異なる経路を経て熊野縁起一巻を入手した」とし、その内容には信憑性があることを論じていた。その「熊野縁起」には、那智の大滝(滝神祭祀)だけは手放さなかった尊勝院の開基者として伝えられる裸行上人の実像(本名は「重慶」と明かされている)と、その関係者による祭祀伝承が書かれていた。

(裸行弟の曾孫の)嫡子真俊忝先奉観[ママ]請(熊野)権現於榎本〔依之賜榎本姓〕二男基成進猪子二白円餅〔依之賜丸子姓〕三男基行為御馬草進稲〔依之賜穂積姓〕 此三人於如次号榎本宇井党鈴木党三人令給仕

 読み下せば「(裸行弟の曾孫の)嫡子真俊はまず(熊野)権現を榎の本に勧請奉った〔これによって榎本の姓を賜る〕、二男基成は猪子に二つの白円餅を進ぜた〔これによって丸子の姓を賜る〕、三男基行は御馬草となすために稲を進ぜた〔これによって穂積の姓を賜る〕。この三人を次の如く榎本宇井党鈴木党と名づけ、三人を(熊野神に)給仕せしめた」とでもなろうか。熊野権現は「榎」のもとにまつられたとされる伝承も興味深いが(これは出雲大神の祭祀と関わってくる)、ここには熊野三党(榎本・宇井・鈴木党)のルーツが書かれていて、鈴木党の前に「穂積」の名があったことがわかる。熊野本宮神を唐桑半島へ奉斎してきたのが「鈴木左衛門尉穂積重義」であったこともリアルになろう。穂積氏(=鈴木党)による熊野神祭祀は、養老二年以前にまで遡ってみることができるようだ。
 ちなみに、この「熊野縁起」には、熊野本宮の本殿(証誠殿)祭祀については「裸行上人、証誠殿ヲ建立」ともあり、那智大滝の祭祀初源者とされる裸行上人が熊野本宮の祭祀にも深く関わっていた記載もみられる。また、『熊野三山とその信仰』(昭和十七年初版)は、全国への熊野神社の分祀社が三〇七八社あるとし、その大半に祭神等の確認をして一覧表をつくっている。そのなかに、この室根神社も記載され、祭神はやはり「伊邪那美命」で、その由緒の欄には「養老二年紀伊穂積重義熊野神社を勧請 牟婁峯神社ト称ス 明治初年現社名ニ改ム」と、短いが同内容の由緒記載がある。なお、本資料において、瀬織津姫命を熊野神として勧請明記している神社が一社、一覧表では「熊野神」だが神社側は「瀬織津姫命」と現在も表示している神社が一社確認できる。前社は槻神社(愛知県北設楽郡東栄町大字月)、後社は富士山麓の白糸滝神をまつる熊野神社である(富士宮市上井出、『熊野三山とその信仰』は「富士郡白糸村」と表記)。わずか二例だが、熊野側の資料においても瀬織津姫神祭祀の分社が確認できることの意味は大きいといえよう。
 ところで、裸行開基を伝える那智の尊勝院は、その系譜にニギハヤヒの子・高倉下[たかくらじ]命の「遠裔」をうたっている。大和盆地の穂積氏のルーツは熊野にあったのかもしれない。
 いずれにしても、穂積氏は瀬織津姫という神をよくよく認識していたことはまちがいなさそうである。元正の勅命によって、「船団」を組んで、熊野から唐桑半島へ瀬織津姫を奉祭してやってくる「数百人」の責任者として、穂積氏の名があることは重要である。そういった穂積氏の一人、中央の要職にあった一人が、穂積朝臣老であった。その老が、天皇批判(理由不載)による配流刑のときに詠んだ歌が残されている(『万葉集』歌番三二四〇、三二四一)。

大君の 命[みこと]かしこみ 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木積む 泉の川の 速き瀬を さをさし渡り ちはやぶる 宇治の渡[わたり]の たぎつ瀬を 見つつ渡りて 近江路の 相坂[あふさか]山に 手向けして わが越えゆけば さざなみの 志賀の辛崎 幸[さき]くあらば また還り見む 道のくま 八十くまごとに なげきつつ わが過ぎ往けば いや遠に 里離[さか]り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ 劔刀[つるぎたち] 鞘ゆ抜き出でて 伊香胡[いかご]山 いかにかわが為[せ]む 行方知らずて
  反歌
天地を嘆き乞ひのみ幸[さき]くあらばまた還り見む志賀の辛崎
右二首。但、この短歌は、或書に云はく、穂積朝臣老の佐渡に配[なが]さえし時作れる歌なりといへり。

 老は、この配流時の歌のほかにも、「わが命し真幸[まさき]くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白波」(歌番二八八)を残してもいる。天皇=大君の命令で自分は流罪となって配地へ向かうが、それにしても「見れど飽かぬ」ものとして、「泉の川の速き瀬」「ちはやぶる宇治の渡[わたり]のたぎつ瀬」「さざなみの志賀の辛崎」などを挙げている。
 歌中「泉の川」は現在の木津川のことだが、「宇治の渡[わたり]のたぎつ瀬」の神は明らかに瀬織津姫神であろう。また「志賀の辛崎」とは琵琶湖の唐崎のことで、ここは巨松と月の景勝地として知られるが、天智時代からの祓所でもあり、当然ながら瀬織津姫神ゆかりの地でもある(湖北の唐崎神社や下鴨神社摂社井上社の異名も唐崎社だが、複数の唐崎神として瀬織津姫神の名が確認できる)。老は、これらの地を記憶に刻み、「幸[さき]くあらばまた還り見む」、つまり、運がよければ、いつか還ってきてまた見るだろうと詠っていたのである。
 穂積朝臣老は配流先の佐渡で物部神社を創建してい るが、この佐渡にもまた瀬織津姫神がまつられている。老と瀬織津姫神の祭祀関係は未探査だが、これは偶然ではないものとおもっている。
 老が「天皇を名指しで非難した」理由だが、これは仮定としていうしかないけれども、考えられることは、藤原房前の言いなりとなっている元正女帝の無力への苦言だろうということが想像される。こういった苦言・非難を「内臣」房前が知れば、これは藤原の支配思想の根幹にふれる苦言ともなるはずで、当然、房前の逆鱗にふれたものとおもう。皇太子=首皇子(後の聖武)の「助言」によって「斬刑」を免れた穂積朝臣老だったが、しかし彼は佐渡島で十八年もの間、流人生活を余儀なくされる。老が聖武の大赦によって帰京することになる天平十二年(七四〇)六月十五日の時点は、すでに房前ら藤原四兄弟は天平九年(七三七)の天然痘の猛威のなかで亡くなったあとで、つまりは、藤原権力の衰弱時代における帰京ということになる。
 老が帰京した三ヶ月後の天平十二年九月には、この藤原権力の衰弱の焦りから、藤原広嗣(宇合の子)が九州で反乱を起こす。歴史の皮肉かどうか、この広嗣の乱を平定したのは、朝廷にエミシ降伏の祈願神の招請依頼を行った、あの大野東人であった。もっとも、このときの広嗣鎮定の祈願神は熊野神ではなく、伊勢大神と宇佐八幡神だったが、伊勢の元つ神、そして宇佐八幡神の比売大神が、もともとは瀬織津姫神であったことも添えておこう。
 瀬織津姫神の名は出さないものの、その神威だけはいただこうとする朝廷祭祀=中臣祭祀の姿・本質がここにはあるといってよかろう。
 室根神社の特別大祭は東北有数の荒祭りとして知られる。この大祭は、熊野神が室根山に鎮座する過程を模したものとされるが、一方、謎の「奥の院」の神への鎮魂の意味も込められているのかもしれない。
 この大祭のなかで、奇異とも不思議ともいえる話があるので、次に紹介しておこう。「御袋神社背負騎馬」とされる神事である。

 烏帽子、直垂の装束で神輿を背負う騎馬の神役で、養老2年神社勧請のとき供奉して紀州より来た湯浅権太夫が勅諚によりこの地に住んでいましたが、その母堂高齢でありながら深く熊野権現を信仰し、南海を同行の途中病死しました(当時87才)。その遺言によって、一夜のうちに布を織り、11面観音の御尊像に御鏡を添えて流しました。ところが折壁の湊に止まって流れません。神霊に伺ったらこの地に留まって郷民を利益するようにとあり、よって養老4年9月17日勧請して御袋大権現と崇められることとなりました。以後、別当が背負って祭りに加わりますが、山には昇らない古例を伝えています。(室根村HP)

 この御袋大権現には、湯浅権太夫の母堂(の霊)と、十一面観音としての熊野権現が一体化されている。熊野権現を主とみれば、そこに十一面観音に習合する神、つまり熊野那智神が透けてみえるが、しかしこの「御袋大権現」は、大祭当日、室根「山には昇らない古例」だとされる。これは湯浅権太夫の母堂の死穢を室根神=熊野神が嫌うとみることもできるが、しかし、むしろ、瀬織津姫神とは異質な熊野神が「山」に鎮座しているゆえに、そこに熊野の「本地」神が出向くことを忌避していることが、「山には昇らない」ことの理由だと考えられよう。熊野神(那智滝神)=瀬織津姫神は、もとより「和光同塵」の神であり、死穢塵埃を厭わないことに、その神の本質も魅力もある。室根山の新しい熊野神=イザナミとは似て非なるもう一つの熊野神があること、それが瀬織津姫神といってよかろう。白山の改竄祭祀においても、その地主神=白山瀬織津=瀬織津姫を隠祭するときに登場させられていた神も、またイザナミだったが(のちに菊理媛の名も加わる)、このイザナミの共通性は偶然の一致ではないようだ。
 現在、紀州の本家の熊野本宮神は、「家都美御子大神」とされ、素盞嗚尊の異名としている。室根神社は熊野本宮神を勧請したことを、長く、その特別大祭とともに伝えてきているわけだが、室根神=熊野神はイザナミに変更されるも、その本家がイザナミを熊野本宮神の脇神としていて、しかも、熊野本宮神ではなく那智神としている。こういった奇妙な祭祀現実をもたらした淵源に、中臣=藤原祭祀の方法・思想が横たわっている。
 瀬織津姫神が唐桑半島に上陸した地=鮪立[しびたて]には、これも瀬織津姫を本来の祭神としていた可能性が濃厚である「業除[ごうのけ]神社」がある。祭神はどうなっているかというと、ここは「神」ではなく大聖不動明王をまつっている。瀬織津姫神が不動尊と習合するのは、熊野那智をルーツとするも、早池峰・遠野郷の特色でもある。社名の「業除[ごうのけ]」自体に、瀬織津姫がもっている罪穢れ=「業」を祓う=「除」けるといった意をみることができる。
 瀬織津姫神は唐桑半島に上陸後、その後どうなったのか。
 ここで想起されるのが、室根山から約六〇キロ真北に聳える早池峰山である。遠野郷は、室根山と早池峰山のちょうど中間に位置しているが、早池峰信仰圏の沿岸部の南限が唐桑半島の付け根あたりになる。室根山(八九五㍍)は航海の目印の山として沿岸の海の民の信奉がことのほか厚い山だが、同等あるいはそれ以上に海の民の信奉を一身に引き受けているのが早池峰山(一九一七㍍)である。
 養老二年(七一八)の時点を考えると、室根山以北の、たとえば現在の遠野盆地あたりは、中央=ヤマトからはまったくの認識外・化外の地であったことはまちがいない。ただし、『続日本紀』の霊亀元年(七一五)十月二十九日には、昆布の貢物を国府に届けるには遠いので、「閇村[へのむら]」に郡家を建ててほしいと「言上」する蝦夷・須賀君古麻比留[こまひる]の記事があり、沿岸部のヤマト化はかなり北上してきていることがうかがえる。この「閇村[へのむら]」をどのあたりと比定するかは定説がないが、わたしは唐桑半島以北のそう遠いところではない地域、いわゆる延喜式神名帳陸奥国に出てくる気仙[けせん]郡あたりを指しているのだろうとみている。
 瀬織津姫神が早池峰山にまつられる経緯は複雑で、遠野郷にこの神がまつられる最古の記録・伝承は、桓武あとの平城天皇時代の大同年間(八〇六~八〇九年)とされる。早池峰山の開山者は四角藤蔵とされ、彼は瀬織津姫を伊豆権現としてまず奉祭した。しかし、この藤蔵の本姓はもともと「鈴木」だった。藤蔵のルーツもまた伊豆から熊野につながっているのである。
 坂上田村麻呂による北上川流域=内陸部平定の戦いはアテルイの降伏→死によって一つの区切りを迎える。田村麻呂(たち)=ヤマト軍の遠野郷への平定経路は、北上川の支流・猿ヶ石川を遡行するようにして遠野盆地へと至る経路が主路かとはおもうが、しかしもう一つ、海岸部からもあったのではなかろうか。これは、田村麻呂の「鬼」討伐伝承が、室根山と遠野郷の中間にあたる海岸部の気仙地域に色濃く残っていることから、そう想像するのだが、その気仙地域に鎮座する氷上神社(陸前高田市)にはかつて瀬織津姫神がまつられていたことをも傍証とすべきかもしれない(本社からは消去されたが、奥州市江刺区にある分社・氷上神社の祭神は、現在も「瀬織津姫命」である)。
 遠野郷あるいは早池峰信仰圏においては、瀬織津姫が滝神として認知されるとき、そこに熊野神(那智滝神)の姿は浮かんでくるが、室根神社の伝承にみられる熊野本宮神という要素は消える。ましてや、当時のヤマトの思惑であった「エミシ降伏の祈願神」といった姿も消える。瀬織津姫=早池峰大神は、航海の守護神かつ水神・滝神であり、また養蚕神でもあるといった、いわば「生活」に密着した神以上でも以下でもない。これらは、そのまま白山(地主)神の性格でもあるが、遠野郷にとっては、さらに、早池峰山は祖霊が住む山、あるいは亡くなった者の霊が「帰る」山とみなされている(山への入口・通路にあたるのが又一の滝…阿部ヤヱ)。白山・早池峰、そして熊野那智の三山の神に付与された「本地仏」が、ともに十一面観音であることは重要な指標である。また、熊野本宮神の習合仏が阿弥陀如来であったことについても、白山三山が主尊・十一面観音の脇に阿弥陀如来を配していたことも偶然ではなかろう。
 時代は下るが、室根神は、鎮守府将軍・藤原秀衡の手に、その朝廷祭祀=勅祭の全権が移されたとされる。秀衡は、この室根神を特別に厚遇しつづけることになる。秀衡は、天平元年(七二九)からはじまったとされる室根神社の祭りを「前例」を廃して改めたとされるが、その改変の経緯・理由は残念ながら不明である。室根神社は、祭祀当初における、その大規模な遷祀過程にみられるように、勅祭の対象社、重要社だったはずだが、しかし奇異なことに、延喜式においては、室根神社は「式内社」としては除外されていた。
 白山神を深く理解・認識していた秀衡にとって、室根神=熊野神を特別に厚遇するのは、それなりの理由を認めていたからだとおもわれる。秀衡は熊野詣でのとき、那智大社にわざわざ桜(山桜)を植樹している(秀衡は那智の本源神が本社では消えていることへの鎮魂の意を込めて桜植樹をしたことが考えられるが、現在も、この「秀衡桜」は那智大社境内地に花を咲かせている)。つまり、秀衡は、白山神ばかりでなく熊野神についてもよく認識していたことが想像されるのである。室根神=熊野神がイザナミかどうかといった問題というよりも、室根神=熊野神=白山神という異称等式の背後の神を見据えることができた人物こそ、藤原秀衡であったとおもう。秀衡が瀬織津姫神をよく認識していたことのさらなる傍証を挙げておくなら、秀衡によって奥州一ノ宮、つまり奥州総鎮守と位置づけされた荒雄川神社(宮城県大崎市)の存在がある。この荒雄川神社の主神は、これも瀬織津姫神であった。
 なお、荒雄岳山麓の鳴子町には鬼首[おにこうべ]という地名がある(鬼首温泉や鬼首峠)。この地名は、鳥海山の神(荒雄岳の神と同神。三本足の霊鳥=烏を使いとして人々の苦しみを救った伝承から、これも熊野神とみられ、鳥海山神を「大物忌命」とする神名表示は仮称にすぎない)の使いの霊鳥が平安期には「鬼」とされ、その首が飛んだところが「鬼首」という地名譚さえある(地元古老談)。室根山(前名は熊野・牟婁郡にちなむ牟婁峯山)の異名も「鬼首山」であった。また、太平洋側の気仙地域には「脚岬」「首岬」「死骨岬」と、まつろわぬ「鬼」(鬼神)の切り刻まれた遺骸にちなむ岬名もみられる。朝廷軍=官軍と「鬼」と呼ばれた蝦夷軍、その累代の戦いの死者双方の鎮魂のために再興されたのが平泉中尊寺だった。その鎮守神が白山神であることを考えると、やはり「エミシ降伏の祈願神」としての瀬織津姫といった単純な把握・認識は、認めることがむずかしかろうとなる。神は、もともと中立的な存在である。祭る側(人間)の意によって、神は敵対する双方いずれにも加護を与えるものと信じられていたのが古代だった。


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